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切米 扶持米

江戸時代武士の禄についてです。

その1.禄を表わす際に、なぜ「三十俵二人扶持」というように切米と扶持を分けて表現するのでしょうか?
本給と手当てのようなものですか?

その2.知行石数で表わさず、切米の形で禄を定めているというのはつまり知行地を所有していないで、いわば固定給で勤務しているようなものでしょうか。

その3.知行の石数の形で禄を表わすほうが上位のものだと聞いたのですが、「両」で表わすのと「俵数」で表わすのに身分等の上下はありますか?

A 回答 (7件)

bungetsuです。



>>質問3の意味は知行地だと当然収穫の出来不出来によって毎年の実質収入が変化するが、蔵米取りだと固定した分の米や現金をもらえるのだろうかという意味でした。

その通りです。
知行地では災害(旱魃や冷害、風水害など)により、確実に定められた実収入は異なりました。
また、豊作だから・・・と言って、知行料より多くもらうこともできませんでした。
そこへいくと、蔵米取りは毎年定額でもらうことができ、安定収入だったと言えますね。
しかし、前回も述べましたが、時代により1俵が4斗になったり3.5斗になったりしていますので、
どちらも不安定な材料を抱えていました。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございました
多くのことが学べて嬉しいです。
深い知識に感心しました

お礼日時:2010/06/16 03:51

bungetsuです。



補足サイトの回答。

Q1.について。

同心は「並以下」の役職者です。
町奉行所では、奉行はもちろん高役職者、与力までが「並役職者」です。
面白い話としては、殿中でも当然「並以下」の役職者もいました。
将軍が式典などで装束を身に着けたときや外出時(例えば、内裏への参内とか寺院仏閣詣で)などでは、おいそれと簡単には小便もままならなかった。そこで、家康は土田孫三郎という者に「公人朝夕人」(くにんちょうじゃくにん)という肩書きを与え、尿筒(にょうづつ)と呼ばれる竹筒をくり貫いたものを装束の袴の下から差し込み放尿した。尿筒は樋(とい)なので、庭などに流れていった。ちなみに、この役職は十人扶持で脇差一本という軽い身分であったが、公方さまじきじきに仕える役目だったので、誇りを持って土田家が世襲をした。明治維新で江戸幕府が倒されるまで250年余りを土田家はこの役職一筋に生きてきた。

江戸時代、将軍のことは「将軍様」とは呼ばず、「公方さま」または「大樹さま」(たいじゅさま)「御公儀さま」と呼ばれていました。
従って、良くTVなどで「将軍さまのお成り~」などと叫びますが、単なる視聴率を稼ぐための大ウソ!!


Q2.について。

先の回答の「追加」でも述べましたが、基本的には「石」「俵」でしたが、殿中の「役職手当」に限り「両」という現金支給でした。
従って、例えば、500石30両・・・などという呼び方をしました。


Q3.について。

すみません。質問の意味が今一つ不明なのですが・・・。

蔵米取りでは、「春借米」(はるかしまい)として2月に1/4。「夏借米」として5月に1/4。「冬切米」として10月に2/4が支給されました。
一方、知行地取りは、秋の収穫が終わった10月だけの1回のみの支給でした。

「固定給」か「時間給」かと問われれば、それは当然「固定給」です。

ただ、こういう意味でしょうか?
「家禄」だけで役職もこなしたのか?
と言う意味でしたら、「家禄」+「役職手当」であって、「役職手当」は、並以下の役職では多くの場合「扶持米」がいわば「役職手当」でした。
従って、その役を罷免された時は「扶持米」だけが「減額」されました。
しかし、特に並以下の役職者は多くの場合「世襲制」でしたので、「家禄」+「役職手当」(扶持米)も世襲されました。
与力や同心などについても、「不浄役人」と言われ他の旗本や御家人などとの付き合いもなく、八丁堀に官舎住まいでした。与力は南北合わせて50騎、同心は南北合わせて240人位でしたが、世襲制で他の旗本や御家人の家との縁組ができなかったため、明治の幕府崩壊までに、与力や同心の全てが親戚であったと言われています。
なお、同心の給与は、子供が増えようと減ろうと30俵2人扶持でした。

少し話は脱線しますが・・・。

江戸幕府も安定期に入ると、戦場での武功をたてるすべがありませんでしたので、よほどのことがなければ給与の増減はありませんでした。むしろ、「減額」する方は何やかやと理由を付けてあっても、「増額」することは役職などに付かなければありませんでした。従って、無役の旗本などを中心に三味線や唄(常磐津、新内節など)が持てはやされました。

町奉行所の与力には、色々な手づるで、江戸の各藩邸の用人たちが、「我が藩の者が何かあった時は、よろしく頼む」と言う意味合いで盆暮れには付け届けがありました。幕府も初期の頃は、賄賂ですので当然「秘密裏」に行われていましたが、幕府も安定期(およそ元禄年間頃より)になると、奉行所内で堂々と受け渡しをするようになりました。与力にとっては「臨時収入」で、中には「まだ来ないのか」と催促する不届き者さえ現れました。
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この回答へのお礼

興味深いお話しを沢山お教えくださって感謝しています。
質問3の意味は知行地だと当然収穫の出来不出来によって毎年の実質収入が変化するが、蔵米取りだと固定した分の米や現金をもらえるのだろうかという意味でした。

お礼日時:2010/06/15 12:43

 ご質問により検索し、

http://homepage1.nifty.com/SEISYO/kyuryo.htmというところで簡単に知識整理をしました。
 回答になりませんでしょうが、ご参考までに。もうご訪問済みとも存じますが。
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この回答へのお礼

とても参考になりました!しっ、しっしかも!
このサイト、以前に一回閲覧したことがあったけど、どこのなんてサイトだか忘れて、ずっと再閲覧したいと思ってたサイトなんですー!!感激です!

お礼日時:2010/06/14 16:22

bungetsuです。



追加。

Q3.について。

役職者の場合、年額何両という現金支給の方法もとられましたが、勘定奉行所の事務が煩雑であったため、幕末頃には、殿中の役職者で老中以下全てが「役職給与」(役職手当)は現金で支給されました。
これには、市場経済が、もはや、米での取引の時代から現金主義に代わっていったからです。
事実、札差が蔵前の米を受け取って主人の家に届けましたが、届ける米は一家が一年間食べていく分だけで、後は、米問屋などへ持ち込み、現金などにして届けています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2010/06/14 15:56

bungetsuです。



またまた訂正!!

(誤)

30+13.5+8.1=51.6俵=2,064升=264斗=26.4石・・・ということになります。

(正)

30+13.5+8.1=51.6俵=2,064升=206.4斗=20石余りとなります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2010/06/14 15:55

bungetsuです。



訂正!

(誤)

今の例でいくと、246俵ですので、約2分5朱(2朱=7,500円とすると計48,750)円の手数料を取られました。

(正)

51.6俵ですから、約5朱(18,750円)の手数料を取られていました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2010/06/14 15:55

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

Q1.について。

三十俵は主人の「固定給」で、扶持米は、いわば「扶養手当(家族手当)」のようなものであり、家族や使用人の数の変動により増減しました。

男は1日5合の計算で女は1日3合の扶持米が支給されました。従って、

主人、妻、子供男2人女1人、使用人男女1人ずつを例にとると、

主人は30俵(固定給)

男は3人いますので、
5合×360日=1,800合×3人=5,400合=540升(1俵4斗とすると=40升)÷40升=13.5俵

ただし、1俵は、時代により35升だったり、30升の時もありました。
従って、計算上では、俵数が増える・・・かと言うと、支給される俵数は変わりませんでした。

また、1石=10斗、1斗=10升ですので、
540升÷100=5.4石とも言います。

女は3人ですので、
3合×360日=1,080合×3人=3,240合=324升÷40升=8.1俵
324升÷100=3.24石

この一家では、1年間では、
30+13.5+8.1=51.6俵=2,064升=264斗=26.4石・・・ということになります。

しかし、玄米の支給で、高職者には上米、並役職者で中米、無役には中次米。
精米すると6割くらいになりましたので、約51俵もらっても実質は約30俵(16石)にしかなりませんでした。

そして、米だけでは生きていけませんので、野菜や魚介類、はては、味噌、醤油など、また、冠婚葬祭や着物などには「銭」が必要でしたので、米を当然「銭」に換金するわけですが、これも時代により変遷していますが、おおまかに言って1石=1両(約6万円)でした。

また、札差の場合、100俵につき金1分(約15,000円)の手数料を搾取しましたので、
今の例でいくと、246俵ですので、約2分5朱(2朱=7,500円とすると計48,750)円の手数料を取られました。

扶養者が多ければ、それだけ「扶持米」はもらえましたが、家格などにより、子供は別としても使用人の数などは制限されていましたので、使用人をおおくすれば良いというわけにはいきませんでした。


Q2.について、

その通りです。
よほどの功績がない限り、代々「固定給」でした。

忠臣蔵で浅野内匠頭が殿中で人情沙汰を起こした時、そばにいた梶川与惣兵衛が、かの有名な「浅野殿、殿中でござる。殿中でござる」と、浅野を羽交い絞めにして止めた功績として、500石が加増されました。

面白いところでは、町奉行所には与力は南北合わせて50騎いましたが、1万石の知行地をもらって、200石ずつ分けていました。
なお、与力は事件で出動する時、騎馬で出動しましたので「騎」と数え、同心は「人」と数えました。

また、旗本でも上位の「旗本寄合」になると知行地がもらえ、その知行地へ移り住んだ者もいて、これらの旗本寄合は大名と同じように隔年に参勤交代をしていました。
しかし、幕末頃になると、参勤交代の費用軽減策として、2~3年おきで良いとの通達も出されています。

しかし、知行取りは、天変地異(旱魃や冷害など)により、収入はその年々で変化しましたし、4公6民と言って武士が4割、農民は6割と定められていました。

従って、与力の200石にしても、4公6民ですから、かなりの広い土地を与えられなければ200石が確保できなかったわけです。


Q3.について、

高役職者や並役職者などの場合は、通常は「石」で呼び表し、無職者などの場合は「俵」で呼びました。

町奉行の役高は南北ともに3,000石ですが、1,000石をもらっている者がその職についた時には、2,000石が加増されました。これを「足高」(たしだか)と呼びました。

この回答への補足

質問させてください
1.質問3について、お答えでは並役職も「石」で無職者が「俵」とのことですが、たとえば中村主水は同心職ですが「俵」で表わされていますよね?これはどういうことでしょう。
2.「両」で表わされるのと、「俵」で表わされるものに違いはあるのでしょうか。
3.質問2について
これは私の質問文が言葉が足らず失礼しました。
知行地を所有する者でも、扶持米を受けているものでも格別の事情が無い限りその禄が「固定」していたことは承知しています。
伺いたかったのは知行地を有している者が、その知行地での収穫を収入源にしているのに対し、扶持米を受けている者は米や現金などによる「給与」というようなものを固定給として受け取っているのだろうかということです。ちょうど銀座のホステスが本職の人は売り上げ給なのに対し、ヘルプのバイト嬢は時間給みたいなものなのだろうかという疑問です。

補足日時:2010/06/14 16:08
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この回答へのお礼

ご丁寧な訂正も含め、とても詳しくお教えいただきありがとうございます

お礼日時:2010/06/14 15:54

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