今、社会学の勉強をしていたのですが、
一つお聞きしたい点がありましたので、
質問させていただきました。

デュルケームの環節社会から職業的社会への変化についてです。
環節社会については理解ができたのですが(授業のプリントにも書かれていたので。)、
職業的社会とはどういうものなのかがいまいちつかめません。
もしよければ御回答宜しくお願い致します。

A 回答 (1件)

学生時代のノートを引っ張り出してきました(笑)。


うーん。ずいぶん忘れてるもんですねー。困ったもんだ。
と、個人的な感慨はさておいて。

えっとですね。
まず、ご質問の『職業的社会』というのは"groupes professionnelles"のことだと思うんですが、『職業集団』と訳されることの方が一般的です。なにしろ自分がこの用語で勉強してきたので、こちらの言葉を使わせてもらいますね。

環節社会と職業集団というのは、直接に対応する言葉ではありません。

原始社会に見られるような、同質の人々が、個性的な活動をしないことによって成り立つ社会が環節的社会でした。
その社会の規模が大きくなることによって、生存競争が激しくなってくる。
それを平和的に解決するために、社会は分化していきました。集団に属する個人は、その能力に応じて、社会の中でさまざまな役割を引き受けていきます。こうした役割分担が定着した社会を、デュルケームは『組織社会』と定義しました。
環節社会の人々が、単に機械的に連帯しているのに対して、組織社会では、人々は有機的に連帯している、と規定したわけです。
これが、デュルケームの『社会分業論』を非常に単純化したものです。

『職業集団』という用語は、後期の『自殺論』につながっていく概念です。
詳しい説明は省きますが、さまざまな局面における自殺を分析した結果、デュルケームは自殺を抑制しうる集団は、地域社会でも、家庭でもなく、職業集団しかない、という結論に達したのです。

自由な個人が、自分の持つ職能を通して連帯できるような集団を形成していく。
そういう集団の中で、個人の機能は研ぎ澄まされ、個性が育まれる。同時に社会全体の道徳律が生まれる。
経済の無秩序状態に規制を加え、社会の無秩序状態を脱却させるものとして、こうした職業集団の必要性を説いたわけです。
この『職業集団』というのは、実際にあるものではなく、
デュルケームが有機的連帯の理想像として掲げたものなんですね。

ここらへんをさらに詳しく勉強されるのでしたら、原典の『自殺論』を当たるか、“デュルケム、職業集団”で検索すると、いくつかヒットするので、読んでみてわかりやすいところを探してみてはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

とても詳しい解説を有難うございました。
「職業の集団ってどんな集団!?!?予想つかない!!」とバカみたいなことを考えておりました(^^;)

お礼日時:2003/07/13 23:56

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Qデュルケームの「社会分業論」って何?

明日、デュルケームの「社会分業論」についての試験があります。語句説明や、カッコに用語をいえれないといけなかったりするそうで、試験時間は20分ほどです。さて、ポイントはなんなのか、さっぱりわかりません。どこを重点的に理解していけばいいでしょうか?

Aベストアンサー

有斐閣の『社会学小辞典』から。

社会的分業
技術的分業や経済的分業に対置される概念。これについて説いた学者は多いが、とくにデュルケムは分業が能率や経済効率を増進させるという側面よりも、複数の個人のあいだに道徳的連帯を生み出す事実に注目して、社会的分業を体系的に明らかにした。そして、この分業の発達が社会を機械的連帯から有機的連帯へと、連帯の性質そのものの変化を伴って進むものと見た。また、とくに有機的連帯が正常な道徳的連帯を生まない場合の分業を無規制的分業、拘束的分業などの異常形態と見て、現代社会を批判した(以下略)。

キーワード:機械的連帯、有機的連帯

大学のテストはすくなくとも講義に出席していたことを前提として行なわれますので、マルクスと対置させる場合、スミスと対置させる場合もあります。その場合はご愁傷様です。
社会学史のテストなのでしょうが、講義に出ていなければ当然点数は低くて然るべきと考えましょう。点数が低くても、すべてはbinbouさんの自己責任です。

関連概念:マッキーヴァーの「コミュニティ」と「アソシエーション」など。
『社会学の基礎知識』(有斐閣)で復習しましょう。

訳書は田原音和(たわら・おとより)訳『社会分業論』(青木書店)。
井伊玄太郎訳(講談社学術文庫)はお勧めできません。

有斐閣の『社会学小辞典』から。

社会的分業
技術的分業や経済的分業に対置される概念。これについて説いた学者は多いが、とくにデュルケムは分業が能率や経済効率を増進させるという側面よりも、複数の個人のあいだに道徳的連帯を生み出す事実に注目して、社会的分業を体系的に明らかにした。そして、この分業の発達が社会を機械的連帯から有機的連帯へと、連帯の性質そのものの変化を伴って進むものと見た。また、とくに有機的連帯が正常な道徳的連帯を生まない場合の分業を無規制的分業、拘束的分業などの...続きを読む

Qデュルケーム、マルクス、ウェーバーの共通点と相違点

デュルケーム、マルクス、ウェーバーの共通点と相違点はどういうところでしょうか?できれば、文化概念や女性問題(女性の労働など)に焦点をあてて考えてみたいのですが。それともどの人か一人に絞って、考えてみてもいいですが。。。レポートを書くのですが、ポイントがわかりません。。。どなたか社会学に強い方、いらっしゃいませんか?

Aベストアンサー

お礼の文章読みました。なるほど。じゃあ、ちょっとだけ、アドバイスを。
一人に絞ってもよいのならば、マルクスの『経済学・哲学草稿』を中心に書くのは
どうでしょうか?
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一読して、考えてみてください。参考文献を挙げておきます。

上野千鶴子1986『女という快楽』剄草書房。
 この中の「6、個の解放と種の解放」を参考にしてみてください。

Qウェーバーの「支配の三類型」

テストでウェーバーのことがでるという話なんです。
授業を振り返ってみるとウェーバーの話は「支配の三類型」しか覚えていません。(情けないです)それなので、
ウェーバーの支配の三類型ですが、官僚が三類型の1つだとおもうのですが、あとはわかりません。あとの2つとその説明をしていただきたいのですが。ほんとに申し訳ないことです。あと文献も与えていただけると嬉しいです。
なにとぞお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。

ウェーバーの「支配の三類型」は、以下の3つに分類されます。

【カリスマ的支配】
カリスマとは特定の人物に宿る畏怖すべき資質のことで、この支配は人々がカリスマ的人物に畏怖の念を抱くことで服従する

キリスト・ナポレオン・レーニン
この支配の問題点は、カリスマが宿る人物は、ごく限られており、その人が死んだ場合その支配体制をどうやって維持していくか(カリスマの日常化)ということである。
<日常化の手法>
(1)世襲カリスマ
カリスマ的人物の子孫もまた、カリスマを持つと考え、代々カリスマを世襲する
例:本願寺の法主・茶道の千家
(2)官職カリスマ
組織上の地位にカリスマ性を付与して、継承していく
例:ローマ法王・ダライ=ラマ

【合法的支配】
制定された規則の正当性を自明のものとして支配する
情緒的なきずなは存在しない
行政官僚制の支配・企業
近代社会における主要な支配形態

【伝統的支配 】
伝統を神聖視し被支配者が自発的に支配者に服従している
この場合の忠誠心は恭順とよばれる男性支配・封建的主従関係・君主制

文献は参考URLを参考にされてください。

参考URL:http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~yano/weber/bib.htm

こんにちは。

ウェーバーの「支配の三類型」は、以下の3つに分類されます。

【カリスマ的支配】
カリスマとは特定の人物に宿る畏怖すべき資質のことで、この支配は人々がカリスマ的人物に畏怖の念を抱くことで服従する

キリスト・ナポレオン・レーニン
この支配の問題点は、カリスマが宿る人物は、ごく限られており、その人が死んだ場合その支配体制をどうやって維持していくか(カリスマの日常化)ということである。
<日常化の手法>
(1)世襲カリスマ
カリスマ的人物の子孫もまた、カリスマを持...続きを読む

Qデュルケム『自殺論』について:その現代的意義と批判

日本における自殺者数は、4年連続で3万人を記録しました。この現象は、デュルケムの『自殺論』的な観点からどのように読み解けるでしょうか。また、それに対して、どのような処方箋をもたらしてくれるでしょうか。

デュルケムは、近代以降の社会における[個人]と[社会]の関係が危機的状態に陥っているために、"アノミー的自殺"が急増していると主張しています。つまり資本主義社会の急激な進展的変動が、かつて人々の欲求や生活指針を規制していた社会的な諸規範を根底から動揺させ、また人々に社会的諸規範を見失わせている。その結果、人々は止めどなく乾きがたい無規制な欲望に駆られ、自由と孤立、欲求の解放と挫折という不安定な状態の中におかれる。デュルケムの言う"アノミー的自殺"(および自己本位的自殺)は、現代の日本の自殺にも少なからず当てはまると思います。

そこで疑問です。だから個人を包摂するような新たな社会集団環境が必要だとし、デュルケムは結論として、[同業組合]を挙げています。しかし私は、社会的規範としての[道徳]の重要性をもっと前面に出してもよかったのではないかと感じました。じっさい、デュルケムの思想は道徳的色彩が強く、『自殺論』もそうでした。「道徳は自殺を抑止する」、くらいに明確に論じられてもよかったのではないか?自殺と道徳の明確な接点は何だったのか?

質問をまとめます。

(1)現代病としての日本の自殺は、『自殺論』的な観点からどのように読み解けるか。どのような処方箋をもたらしてくれるか。解釈や、ご意見をお聞かせください。

(2)『自殺論』における、道徳と自殺の関係について、明確な接点は何か(あるのか)。例えば「道徳が自殺を抑止する」という観点は可能か。

(3)最後にくっつけたようで申し訳ありませんが、デュルケム批判論者、および関連の著作(特に『自殺論』についての批判)をご存知でしたら、ご案内いただけませんか。

日本における自殺者数は、4年連続で3万人を記録しました。この現象は、デュルケムの『自殺論』的な観点からどのように読み解けるでしょうか。また、それに対して、どのような処方箋をもたらしてくれるでしょうか。

デュルケムは、近代以降の社会における[個人]と[社会]の関係が危機的状態に陥っているために、"アノミー的自殺"が急増していると主張しています。つまり資本主義社会の急激な進展的変動が、かつて人々の欲求や生活指針を規制していた社会的な諸規範を根底から動揺させ、また人々に社会的諸規範を...続きを読む

Aベストアンサー

1)について。
現代の日本の自殺は、デュルケームの類型でいうと「自己本位型」が多いのではないかという印象を持っています。自己本位型の自殺は、要は献身や信頼対象の喪失に動機づけられるわけですが、これは現代社会に顕著な特徴だからです。

社会の凝集性は極めて低下していますが、同時に個人の価値観が多様を極め、またそれを是とすべきというリベラルな観念も強くあって、社会の凝集力はどこに求めたら良いのか見当もつかない時代です。
本来人間はある共同幻想の中でしか生きられないものですから、共同体による意識・無意識の紐帯が失われると、それは結果的に自己像の輪郭さえ不明確にしてしまいます。デュルケームは『社会分業論』の中で「人は社会的存在となることでその自由が実現される」という意味のことを書いていますが、現在の社会は全くその逆に、個人の自由を唱導するあまりに個人の真の自由の獲得を困難にしてしまっています。

ここから生まれる「存在の軽さ」の意識は、色々な現象や制度によって強化されていきます。それは例えば、社会の高度化や制度化の反面として感じられる「何をやっても変わらない」というどんよりとした閉塞感であったり、医療が高度化するなど死が身近でなくなった社会ゆえの「生命感の希薄化」だったり、相対思考の行く果ての「本当のものなど何もありはしない」という虚無的な感覚であったりします。私には色々な諸条件が、デュルケームの言う自己本位型の自殺を後押しする方向に働いているように思えます。

同じ背景があっても、自殺に向かう「意味への渇き」のようなエネルギーがうまく解消されるようなシステムが社会に準備されていればいいのでしょうが、清潔志向と暴力排除が行き着くところまで行ったように思える現代社会ではそれも難しいのでしょう。

もう1点、アノミーと関連づけて現代社会について感じることがあります。
自殺は、それを全うする場合であれ回避する場合であれ、往々にして「責任」というものと関連を持ちます。この「責任」に関する社会の考え方が、近年寛容性を失っているように私には思えます。これが自殺を後押ししていはしないかと感じるのです。

何かが行われる背後には必ず「責任」が伴っているもので、事故や不測の事態には必ずこれが表面化するのですが、そこに暗黙に前提されているのは「制御」という観念です。本来、制御不可能なものに対しては責任の発生しようがないわけで、例えば雨が降ろうと雪が降ろうとそれは自然の営為であって「仕方がない」こととして社会的に許容されることです。

しかし現代社会は最終的に「責任」が出てこないと物事が収束しないという、一種の硬直性を見せています。これは、社会の中に暗黙のうちに「全てが制御可能であるべき」という感覚が共有されていることを意味するでしょう。この世の多くの事柄は本質的に制御できないことであって、もともと責任が発生しないはずであるにも関わらず、です。

この不寛容性を人間の支配欲の裏返しと見れば、これも欲望を煽る一種のアノミーと論じることができるのではないでしょうか。「誰かが責任を取るべきだ」という一見正論として語られる言説は、実は社会に蔓延する制御願望や支配欲そのものが「規範」の装いをまとうことで無節操な悪循環をもたらします。あたかも「規範」の如く語られるものが、実は根本的に欲望を昂進させてしまっているのです。

実際のところ、正確に言えばアノミーとは単に規範が後退した状態ではなくて「欲望の神格化」ですから、欲望を抑えることがむしろ良くないことである、という「規範」が蔓延した状態と言うことができます。だからこそ諦めることが難しいわけです。このように欲望が言わば覆面をして内面化された状態こそがデュルケームの言うアノミーの本来の意味に近いのでしょう。

「なるようになるものだ」「自然に任せよう」といった類の、この世の硬直性に対するアンチテーゼも散発的に説かれるのですが、個人の内面宗教としての処世術の域を出ず、無意識下の二重道徳は温存されています。

アノミーは普通「無限性の病」で豊かさの中でもたらされる焦燥感です。これを拡大して、逃げ場のない閉じられたシステムとしてペシミスティックに分析するとボードリヤールの消費社会論になりますが、実は「この世の制御可能性」についての幻想が増長されていく一種のアノミー状態はなかなか息苦しいものです。この生きづらさが蔓延し自殺は増加せざるを得ない状況にあると見ることができはしないか、という気がします。

2)について。
確かに『自殺論』でも道徳が重視されているのはご指摘の通りだと思いますし、やはりその重要性はあると言えると思います。実際、デュルケームが同業組合とか職業集団を重視するのは、それが個人に対して優位に立つ存在であって、そこから「それに従わなければならない」という道徳力が生まれるからに他なりません。同じ物への愛着を共有している、という社会性が各々の個人において発揮される時、自然にそれは集団の規範や道徳となって表れるのだ、という理解です。

自殺は、従って、この集合的な力が欠如してアノミーが生み出されたところにもたらされる、というのがデュルケームの主張でしょう。

ただ、100年後の現代から言えば、そのままで道徳を持ち込むことは無理なはなしだと思えます。解体されてしまったのは道徳そのものの規範的価値ではなくて、道徳を規範として成立させる場の存在だからです。それを権力といっても慣習といっても良いのですが、単に道徳が廃れたのではなくて、道徳を社会に位置づける基盤が既に解体されてしまっているのです。

『自殺論』では自己本位:集団本位という対概念が提示され、両者のバランスが意識されていたのに対して、アノミーの対概念ははっきりとしていません。
私見になりますが、宿命主義、つまり煽りたてるアノミーに対して現状を肯定し受け入れる方向に働く言説が分析されていれば、デュルケームの分析は今日的な意義が一層増していたように思えます。言わば「鎮め」の働きは、道徳のように集団に依存することなく機能するものではないか、と感じるからです。
(しかし強制される諦めとしての宿命主義は、やはり進歩主義的なデュルケームには許せなかったのかも知れません)

※以上、私見です。長さの割に内容がなければ…どうぞご容赦ください

1)について。
現代の日本の自殺は、デュルケームの類型でいうと「自己本位型」が多いのではないかという印象を持っています。自己本位型の自殺は、要は献身や信頼対象の喪失に動機づけられるわけですが、これは現代社会に顕著な特徴だからです。

社会の凝集性は極めて低下していますが、同時に個人の価値観が多様を極め、またそれを是とすべきというリベラルな観念も強くあって、社会の凝集力はどこに求めたら良いのか見当もつかない時代です。
本来人間はある共同幻想の中でしか生きられないものですから...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q「孤独な群衆」とは

倫理社会で『現代の人間像』というところを学習したとき、アメリカの社会学者リースマンが登場した。
彼の言葉として、「孤独な群衆」,「他人指向型」
というのが出てきましたが、いまいち意味が理解できません。
どういう意味のある言葉なのでしょうか。
ご存知の方は、教えてください。
 ※出来れば9月1日までに

Aベストアンサー

リースマンの本は、全部読んだわけではありませんがですが、大学の授業で聞いたことと、その後得た情報や部分的に読んだリースマンの文章などから、僕なりに以下のようにまとめてみました。

リースマンは、アメリカ人の性格の分析を通して、「現代の人間像」の一側面を鋭く描き出した社会科学者です。彼に拠れば、アメリカ人の代表的な性格は、時代・社会の変化とともに「伝統指向型」→「内部指向型」→「他人指向型」へと変遷しているということです。

「伝統指向型」の性格とは、中世封建社会を典型とする停滞的な、つまり社会的な階級や場所の移動が少ない伝統的な社会(レヴィ=ストロース的にいえば「冷たい社会」)に支配的な性格類型です。伝統的な社会で人々は、土地に縛られ、階級に縛られ、社会・地理的な移動はほとんどなく、個人の生まれつきの性別や身分などに由来する特定の社会的役割に限定された生活だった、と一般的に考えることができます。たとえば村祭りの役の担い手に規則的な順番が決められていたり、ある家に習慣的に役割が決まっていたりするのは、社会・地理的な移動が例外的な出来事だからだということができます。そのような社会においては、個人の主体的な意識よりも、家長や首長等、権威への恭順などが重要な価値を持ち、従って性格もそのようなものとして社会的に共有されるようになるわけです。伝統指向型が代表的な性格として機能する社会とは、そのような同調性がしっかりと確保された社会であるといえます。

しかし、時代がルネサンスから宗教改革期に至ると、産業の分化が進み、社会が流動的になってきます。そんな流動化する社会の中で、次の「内部指向型」の性格が登場を促されることになったのです。流動的な社会は、既に「伝統指向型」の性格を育んだ社会とは異なって、人々は容易に土地を離れることができるようになったことで、共同体の権威への恭順が最大の価値とされるような状況が崩れ始めました。それに代わって、登場した価値が個人の内面性だったのです。個人の内面的な価値は、たとえばお金であったり、名誉であったり、善であったりするわけですが、それは個人の生活の目標として掲げられます。つまり、「内部指向型」の性格が支配的な社会にあっては、人々の生は、目的・目標を指向するものであって、その方向を決めるのは「内なる声」であるわけです。このような「内部指向型」の性格は、「近代人」の性格と言っても良いでしょう。この性格の発生論的な言説は20世紀の思想家ジクムント・フロイトによって提起されます。有名なエディプス・コンプレックスがそれです。子どもは親の規範を内面化する、というのがその骨子ですが、このようなフロイトの親子関係の捉え方は優れて近代的な人間のあり方を語ったものということができるでしょう。

要するに伝統という安定が得られない中で、人々は新たに自らの内面の主体性に安定を求めることで、この時代精神を形成してきたと言えます。近代哲学は、まさにその中で産声をあげたわけです。近代哲学の父と呼ばれるルネ・デカルトの有名な言葉、「われ思う ゆえにわれ在り」もこの時代精神を体現したものと言えるでしょう。

そうそう、マルティン・ルターが、「人間が救われるためには教会を媒介とした神の恩恵に浴しなければならない」とするカトリック教会の「権威への恭順」を求める態度を拒否して、「一人ひとりの人間がただその信仰によってのみ、神との精神的合一が果たされ、その恩恵を蒙ることができる」と宣言したことに端を発する宗教改革も、伝統指向から内部指向へという人々の社会的性格の変遷を反映した事件として興味深いですね。そしてそのプロテスタンティズムの考えかたが後の資本主義を用意する精神的基盤になったという、有名なウェーバーの資本主義起源論へと繋がっていくわけです。

そして、現代にいたり、通信や交通が目覚しい発展を遂げ、社会の変動はますます急激になります。その中で、内面への指向すら立ち行かなったとき、発ち現れる性格類型が「他人指向型」の性格です。この他人指向型の人がもつ同調性は、フロイトが指摘したような大人(親)の権威を受け入れることより、むしろ同時代の人たちが抱く期待に敏感に反応するようになります。内部指向型の人は生涯の目的に向かって進みますが、他人指向型の人はその代わりに手近にある目標――同時代の人たちが抱く期待――に従います。

他人指向型の人にとって常に他者との関係が気になることであり、他者との関係が良いか、悪いかが、彼の行動の基準になります。ここに分類される性格の人にとって、最も重要なことは、他者の視線です。他者にどのように見られているか、他者に自分をどのように見せるか、それは言い換えれば、他者をいかに上手に操ることができるか、そして他者によっていかに上手に操られることができるか、ということです。つまり、他者の意図をいかに上手く読み取って、いかに上手く自分に好意を抱かせるか、あるいは自分を高く評価させるかということが重要だということです。昨今の心理ゲームや心理本の流行は、この「他人志向型」性格が呼んだものかも知れませんね。あるいは「共依存」という病理現象もこの性格類型の帰結なのかも知れません。

いずれにせよ、リースマンは「豊かな社会」の分析によって、このような性格類型を導き出しました。まとめると社会は豊かになったけれど、僕らは自分のことについて常に他者の目が気になるという状況に置かれるようになった、というわけです。他者はかつての伝統指向段階の社会のように協働の相手ではありません。また内部指向段階の社会であったように自分の目標を追及するだけでいいというわけにも行かなくなりました。他者は常に監視する他者であり、僕らは群衆の中にあっても、周りを意識しつつ、ひとりなのです。これって「孤独」ですよね。

リースマンの本は、全部読んだわけではありませんがですが、大学の授業で聞いたことと、その後得た情報や部分的に読んだリースマンの文章などから、僕なりに以下のようにまとめてみました。

リースマンは、アメリカ人の性格の分析を通して、「現代の人間像」の一側面を鋭く描き出した社会科学者です。彼に拠れば、アメリカ人の代表的な性格は、時代・社会の変化とともに「伝統指向型」→「内部指向型」→「他人指向型」へと変遷しているということです。

「伝統指向型」の性格とは、中世封建社会を典型とする...続きを読む

QGDPの計算方法

 GDPを求める際に出てくる数値ってたくさんありますよね。民間では最終消費支出や住宅投資、企業設備投資、在庫品増加などとありますし。他にも、政府最終消費支出や、公的固定資本形成、公的在庫品増加。さらに、財・サービスの輸出入。GDPを計算する際に、これらの数値のどれをどうすれば良いのか混乱してしまい、わからなくなってしまいました。
 それから、例えば企業が在庫から商品を売ったり、海外に工場を拡張することや、道路公団が道路を補修することはGDPのどの項目に影響を与えるのでしょうか?
 加えて、GNPや国民純生産(NNP)の求め方も教えていただけると助かります。
 よろしくお願いします。  

Aベストアンサー

GDPとは、簡単にいえば「期間内に作られた財・サービスの価値の総和」です。

例として次のようなものを考えましょう。
 製粉所とパン屋がある経済を考えます。製粉所では小麦を買って小麦粉を作り、パン屋では小麦粉を買ってパンを作っています。機械屋では製粉所とパン屋に製造機械を作っています。
 この場合の「作り出された価値」は、製粉所で(小麦粉-小麦)、パン屋で(パン-小麦粉)ですので、トータルでみれば(パン-小麦)になります。ところでパンは誰かが買って食べているわけですから、最終消費支出になります。一般家庭が普通に買う分は民間最終消費支出、互助会のようなものを考えて、働けない人にパンを与える、などを考えれば、政府最終消費支出になるでしょう。この場合、政府か民間かは問題ではありません。この事情は投資(住宅投資、設備投資、公的固定資本形成)にも言えることです。
 さらにパンの一部が輸出されていたとしましょう。すると(パン=民間最終消費支出+政府最終消費支出+輸出)になることが分かります。また、小麦は輸入していたとしましょう。すると「作り出された価値」は(パン-小麦)でしたので、輸入分は引かなければなりません。
 次に生産設備を作る機械屋がいると考えましょう。話を簡単にするために、この生産設備は壊れないものとします。すると、パン屋や製粉所がこの生産設備を買うとその分新たな価値が増えます。これが設備投資です。生産設備が壊れないので、パンから引く必要もありません。
 最後に、製粉所で手違いがあり、小麦粉を作りすぎてパン屋に売り切れなかったとしましょう。そうすると在庫として計上されます。つまり、在庫品が増えた分も「作り出された価値」になります。
 以上をまとめると、次のようになります。
GDP=最終消費支出+投資+在庫増加+輸出-輸入

> 企業が在庫から商品を売った
上の例でいえば作りすぎた小麦粉が売れたので、在庫が減って消費が増えます。
> 海外に工場を拡張する
設備を日本から輸出する場合、輸出が増える、などありますが、基本的に影響ないです。
> 道路公団が道路を補修する
道路公団が政府かどうかが微妙ですね。今はどっちになっているんだか知りませんが、政府だとして、小さなものを別にすれば、補修費も設備投資に入ります。したがって公的固定資本形成になります。

GNPとGDPは、上の例では全く同じものです。なにが違うかといえば、外国人の扱いです。GNPは例えば日本人なら日本人が作り出した価値なのですが、GDPは日本内部で作り出された価値です。ですので、例えば国内にアメリカ人が働いていたとすれば、GDPから彼らの給料を引いた分がGNPになります。一般には、GDPから海外からの要素所得を加え海外への要素所得を引いたものがGNPになります。

NNPは、上の例では生産設備は壊れませんでしたが、年に5%が壊れるとしましょう。するとその分だけパンの製造に使われたのだと考えれば、パンから引かなければなりません。この考え方にたったのがNNPです。したがって、GNPから固定資産減耗を引いたものになります。

GDPとは、簡単にいえば「期間内に作られた財・サービスの価値の総和」です。

例として次のようなものを考えましょう。
 製粉所とパン屋がある経済を考えます。製粉所では小麦を買って小麦粉を作り、パン屋では小麦粉を買ってパンを作っています。機械屋では製粉所とパン屋に製造機械を作っています。
 この場合の「作り出された価値」は、製粉所で(小麦粉-小麦)、パン屋で(パン-小麦粉)ですので、トータルでみれば(パン-小麦)になります。ところでパンは誰かが買って食べているわけですから、...続きを読む

Q国民の三大義務と三大権利について

むかしむかし中学で習ったのですが忘れてしまいました。三大義務と三大権利教えて下さい。ちなみに選挙権が入っているのはどちらでしたか?

Aベストアンサー

三大義務は勤労、納税、子供に教育を受けさせることで、三大権利は生存権、教育を受ける権利、参政権です。
選挙権は「権利」になります。(義務だったら、投票率があそこまで低くなることはないかと…)。

参考アドレスも掲載しておきます。

参考URL:http://www.city.miura.kanagawa.jp/index/download/007385;000001.pdf

Qルソーの一般意思ってなんですか

ルソーが言った一般意思っていうのはなんですか?
全体意思との違いなども簡単に教えていただけるとうれしいです。
ウィキペディアなどで見たのですが、どうも私には難しすぎてさっぱりわかりませんでした。
なんか高校の政経の授業で一般意思は代表しない、とか
なんかそんなようなことを先生が言っていたような言わなかったような、、、でもうろ覚えなので意味はわかっていません。
素人なのですがわかりやすくおしえていただけないでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

なるべく簡単に書きます。
簡単すぎて、不十分な点はあると思いますので、ここらへんをもっとくわしく知りたい、という問題意識がおありでしたら、補足要求してください。

国家というものはどうつくられるべきか、ということをルソーは考えます。
単独で、孤立した個人が集まって作る国家はどういうものが望ましいか。
それは、ひとりひとりが自己の利益を脇に置いて、共同体全体の利益を考えるような、そういう意識をよりどころに結びついたような共同体である。

ひとりひとりの利益を追求するのが「特殊意志」
「特殊意志」を単純に加算していったのが「全体意志」
「一般意志」というのは、社会契約のもとに集まった、共同体の意志です。

そこでは、各個人の意志は「一般意志」にすっぽりと呑みこまれていきます。
ルソーは『社会契約論』でこう言っています。(引用は.「社会契約論」 『世界の名著 36 ルソー』所収)

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この社会契約のあらゆる条項は、よく理解されるならば、ただ一つの条項に帰着する。すなわち、各構成員は、自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡すということである。それはなぜかというと、まず第一に各人はいっさいを譲り渡すので、万人にとって条件は平等となるからであり、条件が万人に平等であるなら、だれも他人の条件の負担を重くすることに関心をいだかないからである。
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重要なのは、「自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」という点。
個人は社会契約を結ぶ時点で「特殊意志」を捨て、「一般意志」に委ねるのです。

つまり、個人は個人の自由を手放し、共同体の一員となることによって初めて真に自由になれる、とルソーは考えたんです。「特殊意志」を捨てて「一般意志」のもとにみずからを従属させることで。そうすることで、人間は自己のもつ最高の可能性が発揮され、最高の自由を手に入れることができる、と。

なるべく簡単に書きます。
簡単すぎて、不十分な点はあると思いますので、ここらへんをもっとくわしく知りたい、という問題意識がおありでしたら、補足要求してください。

国家というものはどうつくられるべきか、ということをルソーは考えます。
単独で、孤立した個人が集まって作る国家はどういうものが望ましいか。
それは、ひとりひとりが自己の利益を脇に置いて、共同体全体の利益を考えるような、そういう意識をよりどころに結びついたような共同体である。

ひとりひとりの利益を追求するのが「特...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む


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