トロツキーは看守の名前から筆名を作ったと聞いてますがレーニンはどうでしょうか?筆名の由来やロシア語ではどんな感じ(厳しそうとか真面目そうとか)かを教えてください。よろしくお願いします。

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ロシア語 名前」に関するQ&A: ロシア語で名前

A 回答 (1件)

レーニンの本名は、


【ウラジーミル・イリイチ・ウリアノフ(Vladimir Ilyich Ulyanov)】
ですね。
シベリア流刑された時、シベリアの大河レナからペンネームを作ったということです。

参考URL:http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/re/len …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。シベリアの大河レナですか・・・。厳格な革命家レーニンに合いますね。参照URLもありがとうございました。

お礼日時:2003/07/13 08:45

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Qレーニンは、日露戦争をどのように見ましたか?

レーニンは、日露戦争をどのように見ましたか?

1905年に日露戦争はロシア帝国の敗北により終結しました。
これ以降、ロシア帝国は弱体化に拍車がかかり、ロシア革命の遠因に
なったとされています。
さて、革命の父と言えばレーニンですが、レーニンはこの日露戦争を
どのように評価しているのでしょうか?
日露戦争に対して、レーニンはどんなコメントをしていますか?

Aベストアンサー

レーニンは日露戦争が開戦した直後からその戦争期間中はもちろん、終戦後に亘り多くの論文や演説を残しています。その量は相当なものでほとんどはレーニン全集に納められてはいますが、まともに研究するなら独立した一冊の本が出来るほどです。

 ということでレーニンの詳細なコメントを含めた回答は不可能ですので、ざくっとした回答でお茶を濁らさせてもらいます。

 レーニンの日露戦争観は当時の日本を取り巻く諸国の知識人とはかなり違ったもので、中国や朝鮮のように小国が列強大国を見事に打ち破ったことに対して、無邪気に喜ぶというものではありませんでした。同時に反政府的思想を持っていたにもかかわらず、敗北という現実の前に止めようのないナショナリズムが湧いてきた、トルストイのような複雑な感情も持ち合わせてはいませんでした。

 レーニンは日露戦争開戦直後からこの戦争の本質と推移、そして戦後の変革を冷静に見つめ、これをいかに自己の思想闘争に活かし、なおかつ利用しようかということを分析し研究していたといってもよいでしょう。

 日露戦争は当時のヨーロッパやアメリカのインテリゲンチャと同じく、弱小国対強大国の戦いといった単純な見方ではなく、帝国主義的的植民地主義者たちの闘争であって、アメリカやヨーロッパ諸国の反動的ブルジョアジーたちの間に将来起こりうるであろう、新しい形の戦争の初期段階的なものであるとみなしていました。

 日露戦争開戦直後の小規模な戦闘でロシア軍が敗北を続けたとき、ロシア社会主義民主労働党中央委員会での労働者への呼びかけの中の一節です。
「戦争が始まった。日本人はすでにロシア軍に一連の敗北をもたらし、いまやツァー政府はこれらの敗北復讐を果たすために全力を注いでいる」とし、これらの結果がロシア人労働者、農民たちに新たな苦難を招き、人民やその家族に大きな惨禍をもたらし、さらなる税の過大なる負担を強いるであろう、と続けています。

 そしてレーニンはそこにツァー政府の将来的な破滅と崩壊を予想し、革命の実現という現実的な姿を見たのです。

 レーニンは前述したように戦争中、各戦闘の経過と結果について詳細に分析・研究を行っています。そしてその結果の原因の主なものに必ずツァー政府における官僚や軍人の腐敗性と、農民大衆の無教養や無気力などを挙げて、「露日戦争の仮借ない教訓によって、惰眠をむさぼるだけの広範な農民大衆を目覚めさせる」と結んで、巧妙にアジテートしています。

 さらにレーニンは機に乗じて日本をたくみに利用しており、あるときは帝国主義者、あるときは進歩的勢力と呼び、自身のイデオローグに効果的に組み込んでいる点でもしたたかな人物でした。

 日露戦争に関してのコメントしての集大成というなら、「新しい大戦争、専制制度に立ち向かう人民の戦い、自由を求めるプロレタリアートの戦争が近づいていることを意味していることに、この戦争の全世界的・歴史的意味がある」というのが、最もふさわしいかもしれません。

レーニンは日露戦争が開戦した直後からその戦争期間中はもちろん、終戦後に亘り多くの論文や演説を残しています。その量は相当なものでほとんどはレーニン全集に納められてはいますが、まともに研究するなら独立した一冊の本が出来るほどです。

 ということでレーニンの詳細なコメントを含めた回答は不可能ですので、ざくっとした回答でお茶を濁らさせてもらいます。

 レーニンの日露戦争観は当時の日本を取り巻く諸国の知識人とはかなり違ったもので、中国や朝鮮のように小国が列強大国を見事に打ち破ったこ...続きを読む

Qレーニン、トロツキー、スターリンはペンネームだけど、公式文書では本名なのか

レーニン、トロツキー、スターリンはペンネームですが、
これは公式な書類や外交文書でも本名ではなく
ペンネームになってるのでしょうか?
(書記長就任やヤルタ会談の署名など)

Aベストアンサー

http://www.galleryofhistory.com/archive/7_2005/world-leaders-royalty/32792-CHAIRMAN-JOSEPH-STALIN.htm

上記では Сталин とサインしてますね。スターリン。
とりあえず stalin signature で画像検索してたら見つかった。

Q平民宰相原敬

 よろしくお願いします。
 歴代総理大臣の中で原敬という方は私は歴史の授業で聞いたくらいでどんな人かはほとんど知りませんでした。しかし、国本武春さんの浪曲「原敬の友情」というものを最近聞く機会があって、「平民宰相」というあだ名があることをはじめて知りました。

 ここで、質問なのですが「平民宰相」というのは、本人が名乗ったわけではなく当時の人々がつけたあだ名なんだと思うんですが、原敬氏自身も「自分は平民である」という意思を持っておられたように思います。武士の家に生まれ、明治では士族という身分の方が、自分は平民であるという自覚を持って総理大臣にまでなったわけですが、ご本人はどのようにこの「平民」というものを考えておられたのでしょうか??

 どうぞ教えてください。

Aベストアンサー

平民宰相は当然のことですが、総理大臣になってから言われたことで、それ以前は「平民政治家」と言われています。
原敬の家は南部藩の家老職を務めた家で、上級武士の家柄でした。また、本人もそれが誇りであったと言われています。しかし、戊辰戦争では南部藩は奥羽越同盟に加盟し、朝敵とされ降伏しています。そのために薩長藩閥政権には敵愾心を持っていたと思います。ですから、原敬にとっての平民とは、第一に薩長藩閥に対する平民であったと思います。原敬以前の総理は、薩長肥及び公卿の維新の元勲及びその亜流で占められ、藩閥以外の総理は原敬が最初でありましたから。そのように考えると原にとっての平民は、第2に一つの政治的なスタイルで、心の内から平民と思っていたのではないと思います。上級武士でありながら朝敵の汚名を蒙ったことからくる複雑な心情。一時爵位を内々に求めたのは、それが実現することにより、朝敵の汚名からの脱却を考えたとも思います。(詳しくはウィッキーの原敬の項を)
その複雑な思いは、1917年に盛岡で行われた戊辰戦争殉難者50年祭の祭文の「顧(かえりみ)るに昔日も亦(また)今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、其真相を語るものなり、今や国民聖明の沢に浴し此(この)事実天下に明らかなり、諸子以て瞑(めい)すべし、余偶々郷に在り此祭典に列するの栄を荷ふ、乃(の)ち赤誠を披瀝(ひれき)して諸子の霊に告ぐ」に余すところなく述べられていると思います。
ただ、そのような思いは平民政治家との世評が政治的なプレゼンス・力となっていくと、「平民」という政治スタイルが自分にとって有利であるとの意識が働いたと思いますし、そのように意識し、行動したとも思います。
さて、原敬が大をなす過程で、伊藤博文の創立した政友会に参加し、ここで力をつけていきます。桂園時代には政友会の最大の実力者として藩閥勢力との妥協しながらも政友会の勢力伸長を図ります。この過程で、山県有朋との関係は両者の史料から見ても何とも微妙な関係で、原敬にとっては藩閥勢力を利用しつつ、その力を徐々に削いでいく過程でもあったと思います。そこが原敬の政治家として最も優れている点であり、漸進的な変化の人であったと思いますが、逆にそれが大正政変以来の大正デモクラシー下の民衆の求める改革のスピード感との乖離につながり、平民宰相が平民によって暗殺されるという東京駅の悲劇に行きついたのではと思います。
原敬自身は清廉な政治家で、力量のある政治家でしたが、長らく政友会の幹事長・総裁として、政友会の勢力伸長を図る過程で、政官業の癒着に至る財閥・政商と結びつく金権体質、利益誘導と選挙の集票のリンク、自己に有利な選挙制度の強行など現在の政治の問題点の源流となっていきます。
どのような政治家にも功罪はありますが、藩閥政治から政党政治に移行する過程で、妥協と協調をしながらも新たな時代を拓いて行った政治家としての手腕は、評価されるべきものだと思います。その過程の中で、藩閥政治的なものへのアンチテーゼとして爵位を持たない「平民」の称を原敬(悪く言えば)は意識して利用し、行動したのだと思います。(否定的に書いているのではなく、優れた政治感覚としてのスローガンの意味で。)

原敬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
戊辰戦争殉難者50年祭
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/7e25c71edafb33d22bce0ceb1f5c0b72


以上、参考まで。

平民宰相は当然のことですが、総理大臣になってから言われたことで、それ以前は「平民政治家」と言われています。
原敬の家は南部藩の家老職を務めた家で、上級武士の家柄でした。また、本人もそれが誇りであったと言われています。しかし、戊辰戦争では南部藩は奥羽越同盟に加盟し、朝敵とされ降伏しています。そのために薩長藩閥政権には敵愾心を持っていたと思います。ですから、原敬にとっての平民とは、第一に薩長藩閥に対する平民であったと思います。原敬以前の総理は、薩長肥及び公卿の維新の元勲及びその...続きを読む

Qトロツキーの「ロシア革命史」の現代的意義?

トロツキーの「ロシア革命史」をはじめとして主要著作が岩波文庫に納められましたが、ソ連が崩壊した今日、これらの著作を出版する現代的意義はなんでしょうか?

Aベストアンサー

ロシア系列のマルクス主義は、レーニン→スターリンと継承されるものと、レーニン→トロツキーと継承されるものの2系統に分かれます。ソ連が崩壊した今日、前者を出版する意義は、歴史的研究以外にないでしょう。(従って、文庫に収録する意味はありません)しかし、後者、つまり、マルクス→レーニン→トロツキーという路線は、歴史的には実現される事のなかった、ロシア的マルクス主義の正統路線なのです。そういう意味で、一つの社会思想、あるいは哲学体系としても、トロツキーの作品は意味を持つことになります。ただし、訳が難解過ぎると考えるのは、わたしだけでしょうかね。

Q「グッバイ、レーニン!」のダニエル・ブリュールさんにファンレター出したいです・・。

タイトルのとおりです↑。主役やってた俳優さんです。先日テレビで「グッバイ、レーニン!」をみて、一目ぼれしました。でもあて先もわかりません!だれかしっている方いませんか?それとドイツ語で書かなくてはいけないのでしょうか?英語でもいいでしょうか?お願いします!

Aベストアンサー

下記URLによると、スペインとドイツに送り先があるようで以下が住所です。

Daniel Bruhl
c/o Kuranda management
Santo Angel, 84
28043 Madrid
SPAIN

Daniel Bruhl
c/o Players Agentur Management GmbH
Sophienstrasse 21
D 10178 Berlin - Mitte
GERMANY

オンライン百科事典「ウィキピディア」によるとスペイン語とドイツ語が流暢に話せるようです。英語についてはわかりませんでしたが、簡単な教科書英語で書いてみてはいかがでしょう。また、国際郵便切手などを同封すると返事をもらう際などに親切かもしれませんね。返事をもらえるかはさておき。

尚、映画の配給元であるギャガへ再確認するという手もあると思います。
http://www.gaga.co.jp/

参考URL:http://www.fanmail.biz/48438.html

Qかつてのロシア貴族は、何故フランス語を公用語としていたのか

 先日、図書館から借りてきた小悦の中に、

『さすがはロシア貴族だけあって、貴族の中で公用語となっているフランス語の発音は完璧だった』

 という記述を見つけました。

 ロシア貴族がフランス語を半ば公用語としていたのは前から知っていましたから、普通に読み飛ばしかけたのですが、ふと何故フランス語名のだろう、という疑問が湧いてきました。
 自分の稚拙な知識の中では、ロシアとフランスの関係など、ナポレオンが攻め入ったぐらいしかなく、その理由がまったくわかりません。
 きちんと自国の言葉もあり、負けてその国の属国となったわけでもないのに、攻め入ってきた国の言葉など使いたがるものなのでしょうか(もっとも、その前からなのかもしれませんが)。

 一応調べてみましたが、そのことについて書いてある本でも、ただフランス語を使用していたという事実のみの記述で、どういった経緯で、いつ頃から、ということについて書いた資料はありませんでした。

 そこで質問です。なぜ、ロシア貴族はいつ頃から、いかなる理由でフランス語を使うようになったのか?
 素朴な疑問なので急いではいませんが、詳しい人がいたら教えてください。
 

 先日、図書館から借りてきた小悦の中に、

『さすがはロシア貴族だけあって、貴族の中で公用語となっているフランス語の発音は完璧だった』

 という記述を見つけました。

 ロシア貴族がフランス語を半ば公用語としていたのは前から知っていましたから、普通に読み飛ばしかけたのですが、ふと何故フランス語名のだろう、という疑問が湧いてきました。
 自分の稚拙な知識の中では、ロシアとフランスの関係など、ナポレオンが攻め入ったぐらいしかなく、その理由がまったくわかりません。
 きちんと...続きを読む

Aベストアンサー

帝政ロシアでフランス語が宮廷語とされたのは、ピュートル大帝(1689即位)の西欧化政策以来のことです。
当時のロシアは「文明から外れた野蛮な国」であり、たかだか「新興国」に過ぎません。それに対しフランスは「ヨーロッパ文明の中心」であり、「ヨーロッパ最強国」だったのです。
いわば、日本の文明開化に相当する行為として、「ヨーロッパ」の文物を取り入れていたのです。

ところで、18世紀はちょうどターニングポイントです。
18世紀までのフランスは先述のようにヨーロッパ最強国であり、ヨーロッパ外交の公用語はフランス語でしたし、ロシアに限らずヨーロッパ各国の貴族にとってフランス語はひとつの教養でした。それがこの世紀の、第二次英仏百年戦争の敗北、フランス革命による疲弊と、19世紀にはイギリスにその地位を奪われていくのです。
一方のロシアは、18世紀初頭の北方戦争で当時の大国スウェーデンに勝利し、ようやく北方の覇者として名乗りをあげたばかりです。そして18世紀のヨーロッパの勢力均衡をめぐる戦争に介入することにより、この世紀にようやく列強としての地位を固めるのです。

なお、19世紀初頭のナポレオン戦争もこの関連で重要です。
というのも「国民国家」「国語」といったナショナリズムを定着させたのがナポレオン戦争だからです。それまでの伝統的なヨーロッパ貴族にとっては「フランス」とか「ロシア」という国家より「ハプスブルク」とか「ホーエンツォレルン」とかの一族のほうが重要だったのです。したがって、他国の言語を受け入れることにはそれほど抵抗はなかったのです。
トルストイの「戦争と平和」でも、ナポレオン戦争の中、実際よくフランス語で話しているロシア貴族たちが、国家というものを意識するようになるさまが描かれています。

帝政ロシアでフランス語が宮廷語とされたのは、ピュートル大帝(1689即位)の西欧化政策以来のことです。
当時のロシアは「文明から外れた野蛮な国」であり、たかだか「新興国」に過ぎません。それに対しフランスは「ヨーロッパ文明の中心」であり、「ヨーロッパ最強国」だったのです。
いわば、日本の文明開化に相当する行為として、「ヨーロッパ」の文物を取り入れていたのです。

ところで、18世紀はちょうどターニングポイントです。
18世紀までのフランスは先述のようにヨーロッパ最強国であり、ヨーロッ...続きを読む

Q生徒会演説の場所によって…

私は、生徒副会長に立候補する中2です。
私の学校は、みんなの前での演説をするときが3つあり、昼放送のとき、終礼時、立会演説会のときに演説をしなければいけません。

一番日にちが早いのは、給食を食べているときにある昼放送演説です。立会演説の原稿をほとんど考えたのですが、そのままの内容を言わないほうがいいですか?公約を3つ考えたのですが、それをすべての演説のときに同じようなことをいっても、(またかよっ)って思われそうで…

立会演説会ではみんなの心をつかむような演説がしたいと思っているのであとの2つの演説の内容をどうすればいいか、回答をお願いします!!

Aベストアンサー

こんにちは

>それをすべての演説のときに同じようなことをいっても
>(またかよっ)って思われそうで…
思うね~思うだろうね~しかも飯食ってる時だし
同じと思った瞬間もうあとは聞かないね

昼に面倒くさい話しても、うざいので
笑いを取りにいく、軽いノリも狙いに行く
ただし知的なウィットな感じも忘れずに
(間違っても流行の芸人のマネとかしないように100%引きます)
そしてピリッと公約を織り交ぜる

そんな感じでしょうかね

Qレーニンの帝国主義に関して質問です

レーニンによると独占がひとたび形成されると社会の全てに浸透すると述べています。

独占における銀行の役割を教えて下さい。

それから、

帝国主義においては国家の経済にもたらす影響が増えると思いますが、これと株式会社の台頭の関係について教えて下さい。

Aベストアンサー

マルクス主義的経済学では、
『帝国主義は、資本主義の最高の発達段階』と定義しています。
帝国主義と『金融寡頭制』は、深く結びついています。
『金融寡頭制』とは、数少ない金融機関が多くの産業資本を支配し、国家の政策にも影響を与える状態です。
金融機関の大規模合併や事業提携が、国際的規模で行われている現実があります。
金融資本と無関係な企業は全くなく、多くの企業が事実上、金融の支配下にあります。
帝国主義の段階では、金融が産業の全てを支配するだけで無く、国家の政策にも決定力を及ぼし、軍事産業でボロ儲けを図ります。軍・産・学の共同体と政権が癒着する構造です。
ご質問の株式会社の台頭という意味、俄には理解出来ませんが、今流行の持ち株会社制、いわゆる「ホールディングス」は、金融寡頭制の産物です。産業企業の上に、金融が君臨しています。
マルクスもレーニンも、「帝国主義」までは触れて居ますが、今日のような政治と経済の状態は予測していませんでした。
日本は今、どんな段階とお考えでしょうか?

Qインドにレーニン??

インドのカルカッタにレーニン通りやレーニンの銅像があると聞いたのですが、なぜ、インドに??僕の記憶だと一度も社会主義化したことはなかったと思うのですが。。。。

どなたかご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

こちらが参考になると思います。

http://www.odamakoto.com/jp/Asia/001126.shtml

参考URL:http://www.odamakoto.com/jp/Asia/001126.shtml

Q日本の名前の由来

日本という名前はいつ、どのようにつけられたのか教えてください。

Aベストアンサー

もともと、日本には名前がありませんでした。弥生時代の日本列島には
いくつかの勢力が存在しており、中国はこれらの勢力をひっくるめて倭と
呼んでいました。日本の勢力もこれに対応し、自分たちの国を倭と呼んでいました。

7世紀初頭の遣隋使において、「日出ずる処の天子が書を日没する処の天子に致す」
という書き出しで始まる親書を送っています。「日出ずる処の天子」とは
単純に「東」を意味するものとするのが一般的ですが、倭という呼び名を
嫌がって作った呼び方とも言われています。というのは、倭という漢字には
「従順」「矮小」といった意味が含まれていて、見下された呼び方だからです。
結果として、自分たちを「日出ずる処」、隋を「日没する処」と表現して
しまったために、倭国は「無礼者」と怒られ、その時の使者(小野妹子)は
処罰されそうになったようです。

その後しばらくは倭国と呼ばれ続ける日々が続いていましたが、701年の
大宝律令によって正式に「日本」という国名を名乗る事になりました。
ここで何故「日本」と名乗ったか、という問題が起こるのですが、残念ながら
それを明らかにする文献は存在しないようです。日本の歴史書として有名な
日本書紀も8世紀に成立しており、既に国名が日本に変わった後なので、
そのあたりの記述が存在しません。ただ、「日出ずる処の天子」が
「日本」に変わったのだろう、という見方は一致しているようです。

もともと、日本には名前がありませんでした。弥生時代の日本列島には
いくつかの勢力が存在しており、中国はこれらの勢力をひっくるめて倭と
呼んでいました。日本の勢力もこれに対応し、自分たちの国を倭と呼んでいました。

7世紀初頭の遣隋使において、「日出ずる処の天子が書を日没する処の天子に致す」
という書き出しで始まる親書を送っています。「日出ずる処の天子」とは
単純に「東」を意味するものとするのが一般的ですが、倭という呼び名を
嫌がって作った呼び方とも言われています。というの...続きを読む


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