織田信長は天正元年(元亀四年、1573年)に
室町幕府将軍・足利義昭を京都から追放します。
織田信長ごときに時の将軍様を追放する権利があるのでしょうか。
それとも、この時の織田信長の官位は正四位下弾正大弼ですが、
これは将軍に命令できるほど偉い地位なのでしょうか
どうして将軍より偉いのでしょうか。どういう権限で将軍に命令したのでしょうか。

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A 回答 (7件)

簡単な事です。



官位や役職、家格で考えて信長は将軍より偉くないですし、追放できる権限はありません。

じゃあ何故追放できるのか?
誰よりも経済面、軍事面で強いからです。
ただそれだけです。

また、将軍に命令して追放した訳ではないですよ。
殺されたくないから逃げたんですよ。
京都も御所も捨てて逃げたんですよ。将軍が。

ちなみに逃げた後、毛利氏の領地に庇護されている間も足利義昭は一応将軍でしたよ。
義昭が将軍で無くなったのは、信長が官位で義昭を上回ってからです。
信長や朝廷も一応建前を守ったのでしょうし義昭も観念したんでしょう。
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>織田信長ごときに時の将軍様を追放する権利があるのでしょうか。



戦国末期の足利(室町)幕府の実力をよく調べてください。
官位と言うものは実力と比例はしません。

そうすれば「・・・ごとき」という表現もでないでしょう。
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>では、簡単に言うと、時の将軍様に権威がないということになるのでしょうか。


>もし将軍に実権があったなら一大名が「出ていけ」と言っただけで
>出ていくなんてことないですよね。逆に幕府が返り討ちにしますよね。
>徳川幕府中期の将軍が出ていけと言われて出ていかないですよね。
>「幕府」が形骸だったことになるのでしょうか

そのとおりです。
そもそも義昭は信長に反逆して城に籠もり(すいません城の名前を忘れました)、織田軍に攻め立てられて降伏しています。いうまでもなく義昭は見込みのある反信長勢力に「信長を討て」と命令を出しまくっていましたが救助に行ける軍勢はどこもありませんでした。
ですから信長は殺そうと思えば義昭を殺すことなど造作もないことでしたが、殺してアイツは将軍を殺しやがったといわれるのも居心地が悪いし、かといって追放したところで後顧の憂いになるようなこともないということで、彼にしては穏便な追放という形をとりました。
なお、義昭の兄の足利義輝は、悪名高い松永久秀と三好三人衆によって殺されています。
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他の回答者の方々も言われていますが、軍事クーデターです。


権限ではなく、自らの軍事力で追放しただけです。これは、もう少し小さな規模で考えれば、
大名が、有力な家臣によって追放されることとほとんど同じ構図です。
例:土岐頼芸を追放した齋藤道三〈長井規秀〉
  細川管領家を乗っ取った三好長慶、そして長慶の死後三好家を乗っ取った松永弾正久秀など

まあ、13代将軍足利義輝(義昭の兄)は、三好家の家臣に殺された(信長よりも下位の家臣)のです
から、織田信長が足利義昭を追放したとしても、何ら不思議はないと思います。それが、当時の世相
だったからです。
余談ですが、実は松永久秀は、義輝暗殺に関わっていなかったという説もあるみたいです。

>どういう権限で将軍に命令したのでしょうか
最初にも触れましたが、命令ではなく、武力で「追い出した」のです。「ここで死ぬか?それとも、
幕府の終わりを認めて出て行くか、それなら命を助けよう」というようなところだったのでしょう。
当時は、ほぼ「力あるものが全て」でしたから。
あと、推測ですが、朝廷が何か言ってこないように、根回しくらいはしていたかもしれません。
織田信長は、情報戦略と外交戦略にも長けていたのでそれくらいはやっていた可能性があります。
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今風に言うと軍事クーデターでしょう。


織田信長は伝統的な権威とか官位とかを認めていません。
「天下布武」とは軍事力で世の中を支配するということですので。

この回答への補足

では、簡単に言うと、時の将軍様に権威がないということになるのでしょうか。
もし将軍に実権があったなら一大名が「出ていけ」と言っただけで
出ていくなんてことないですよね。逆に幕府が返り討ちにしますよね。
徳川幕府中期の将軍が出ていけと言われて出ていかないですよね。
「幕府」が形骸だったことになるのでしょうか

補足日時:2010/07/01 10:51
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信長には、軍事的な実力があったということです。



これと同じような現象は、現在まで、実際の日本の政治の中で散々見せつけられたことではないですか。
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官位とかは関係ないです。



信長以前に、将軍の重臣である細川氏が、将軍を追放して別の将軍を擁立したり、細川氏の家臣の三好氏やまたその家臣の松永氏が将軍を殺したり、色々してます。

他にも、天皇・上皇を追放した貴族・武家や、天皇を暗殺した貴族もいますね。
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Q(天正元年1月30日)について

(天正元年1月30日)について

ウィキペディアには次のように記載されています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%883%E6%97%A5

1573年3月3日(天正元年1月30日) - 足利義昭が織田信長討伐のために挙兵する。

ところが、旧暦変換サイトでは、

1573年3月3日(天正元年1月29日)

1573年3月4日(天正元年2月1日)

となります。

いずれの日付が正しいのでしょうか。教えてください。

歴史の検証ではありません。

単なる、誤記の確認です。よろしくお願いします。

(あとで気づきましたが、旧暦では天正元年1月30日は存在しないようです。しかし、歴史上の記録にそう表記されているので、やむなくこのような変則変換が使われたのでしょうか。)

Aベストアンサー

天正に改元されたのは七月ですから正確には元亀四年ですね。
元亀四年正月は小の月ですから二十九日で終りです。三十日はなかったはずです。
西暦に変換すると
  元亀四年正月二十九日 = 1573年3月3日 です。
この西暦は当時使われていたユリウス暦です。

足利義昭の挙兵が正月三十日と当時の記録にあるのでしたら中央で使われていた暦(京都の暦)とは別の暦に拠っている可能性があります。つまり地方によってわずかに日付が異なる暦が存在したわけです。
元亀四年の暦にこのような相違があったかどうか私は知りませんが、天正十年(1582年)から翌年にかけての相違は有名です。京の暦は天正十一年正月の次に閏正月があります。しかし関東地方で使われていた暦では正月の前に閏十二月がありました。つまりこの一ヶ月間は年の数字も違うわけです。織田信長は地域によって異なる暦を統一しようとしたようですが、果たせないまま天正十年に本能寺で死にました。
お尋ねのこともこれが原因かもしれません。

Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
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Q大砲の継承

司馬遼太郎の小説で読んだんですが。
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この話は史実でしょうか

Aベストアンサー

鎖国していたころの火薬は国産ですが、作るのに時間がかかったのです。旧い畳に小便をかけ、冷暗所に放置すると、火薬につかう硝石がとれます。が、時間がかかりました。ヨモギに小便ないし家畜の小便でもいいのですが、見つかったら最大級の罰則が適応されます。幕府の許可がないと不可能で、それができたのは日本でも数えるほど(加賀藩のなか)といいます。

狩りをしている人は鉄砲持っていたのですが、くみ取り便所ちかくの地面から硝酸カリウムがとれました。が、戦争につかうほどには取れませんでした。

火薬があれば、石ころや釘でもつめて水平に散弾として発射すれば、恐ろしく効果がありますが、火薬が無ければだめなのです。砲身は先込めなら、割れない限り撃てるので、260年の伝授というのは、火薬の存在前提で成り立つものだったのではないでしょうか。

Q織田信長は

父親の遺影に灰をかけたんですか??

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No.1の方に座布団を3枚くらい差し上げたい。

こういう話は後世の作り話であることが多いのですが、
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文献に記載があります。
灰をかけたというより、焼香の抹香を投げつけたようです。
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http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho1.html

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大阪城は大阪の陣で落城していますが、その際は大砲が大きな役割を果たしたといいます。
有効射程距離が4キロから6キロあったとか。。

豊臣秀吉が1583年に築城した際(完成は何年でしょうか?調べても築城にとりかかった年しかわからないのですが。)、大砲は近畿圏など貿易の港から遠い地域にいる者がわかる程度に伝わっていたのでしょうか?
また、そうだとしたら大砲の攻撃にも備えられるように作ってあったのですか?

Aベストアンサー

 当時の大砲の威力については諸説あるので詳しく触れませんが,何十門もの大砲を連日撃ち続けて,城内に命中したのが1発だけだったと言われていますから,大砲自体が城を強襲で落とす役に立っていたとはいえません。せいぜい淀の方の戦意を低下させるのに大きな役割を果たしたといえるだけです。
 本格的な大砲の攻撃にも対処できる城(要塞)というのは,五稜郭のような星形に近い形状で造られることが多く,防壁の造り方なども根本的に変わってきますが,そのような築城技術は当時の日本にはなく,大坂城も本格的な大砲攻撃を想定して造られた城ではありません。
 織田信長も鉄甲船に大砲を積んで実戦に活用したりしていますので,秀吉が大砲の存在を知らなかったはずはありませんが,当時の大砲の威力からして,その攻撃に備えるために城の造りを抜本的に変える必要性までは感じなかったでしょう。
 小田原攻めに大砲を使わなかったのは,わざわざ大砲を持ち込むのが戦略的に有効でなかったからであり,徳川家康も大坂城の実質的な主人が淀の方でなければ,大砲は使わなかったかもしれません。なお,大坂夏の陣の約20年後に起こった島原の乱では,オランダの協力を得て大砲攻撃が行われたものの大した戦果は挙げておらず,結局は兵糧攻めと人海戦術でようやく一揆の拠点・原城を落としています。
 原城は,有馬氏によって築城され,一揆当時は廃城となっていた小城であり,そんな城を落とすのにも大砲が大した役に立たなかったということは,要するに当時の大砲では,城を物理的に破壊する役割はほとんど期待できなかったということになります。

 当時の大砲の威力については諸説あるので詳しく触れませんが,何十門もの大砲を連日撃ち続けて,城内に命中したのが1発だけだったと言われていますから,大砲自体が城を強襲で落とす役に立っていたとはいえません。せいぜい淀の方の戦意を低下させるのに大きな役割を果たしたといえるだけです。
 本格的な大砲の攻撃にも対処できる城(要塞)というのは,五稜郭のような星形に近い形状で造られることが多く,防壁の造り方なども根本的に変わってきますが,そのような築城技術は当時の日本にはなく,大坂城も本...続きを読む

Q織田信長、羽柴秀吉、徳川家康のガチシーン

ガチでヤバかった戦のベスト3を教えてください。

※当人が参戦したものに限る
タイムリーな説明あれば嬉しいです

ちなみに・・・・・・

織田信長
1位 本能寺の変 (というか死んでいる) 
2位 金ケ崎の逃げ (雑賀孫一により足に銃弾浴びたとか?)
3位 姉川の戦い (13段構えなのに恐ろしい)

羽柴秀吉
1位 金ケ崎のシンガリ、大逃げ(死を覚悟してたらしい)
2位 山崎の合戦 (戦場に着くまでのハラハラ感)
3位 小牧・長久手の戦い (家康やっぱりつおい)

徳川家康
1位 武田信玄チームと戦いクソ漏らした時のやつ (絵とか書いてもらった)
2位 関ヶ原の戦い(秀忠がまだこないと知った瞬間)
3位 大阪・夏の陣(真田が突っ込んできた時間帯)

当ってます??

回答、宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

では補足を
この辺は私の一番の得意分野でして


実は家康は大阪夏の陣で死亡していた
という説が最近は通説になりつつあります
実は大阪の南宗寺という寺に家康の墓があるのです
大阪夏の陣で決死の攻撃を仕掛けた後藤又兵衛から逃れるために
家康は葬儀の棺に入って逃げるのですが 怪しんだ又兵衛に棺を槍で突かれ
南宗寺にたどり着いて絶命したそうです

ただ 真田幸村の壮絶な戦いぶりが徳川家で語り草となったので
幸村に追い詰められた と現代に伝わっているようです

実際家康は大阪の陣後消えました
影武者が現れたんですね
小笠原秀政という人物が替え玉だと言われています

秀忠と家光も南宗寺に参拝しているし
歴代将軍が何故か後藤又兵衛の墓にも参っているのです

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陸上自衛隊が演習で大砲を撃つ日は「雨の日」と決まっているんですか?

自宅が陸自の演習場の近くなんですが、大砲の音が聞こえる日には必ず雨が降ります。
音が聞こえた時が晴れていても、その後必ず雨が降ります。
覚えている限り100%、絶対に雨が降り出します。
雨が降る日でないと大砲を撃ってはいけない、という決まりでもあるんでしょうか?

Aベストアンサー

そうでは無いと思います。
晴れの日も、演習をやると思いますし、大砲も撃つと思います。
単純に、雨が降っているor近いから、音がよく聞こえるのだと思います。

雨が降っているor間もなく振りそうということは、
上空に雲があるということで、雲による音の反射がありますし、
雨が降っているor間もなく雨と言う事は、空気中の湿度も高いので、
音の伝搬速度も、晴れの時とは違います。
これらの理由により、晴れの時には聞こえないor聞こえにくい
自衛隊の演習の音が、雨の日はよく聞こえるのだと思います。

Q【歴史・安土桃山時代】安土桃山時代の100文って現在の貨幣価値で幾らですか?織田信長は安土城を地

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織田信長は安土城を地方の大名に見せるときに見学料として100文を摂取したそうです。

Aベストアンサー

当時は、金1両は約4000文でした。
1貫文は1000文で、1貫=10万円程度なので、4000文は4貫=40万円。
したがって、100文は1万円程度だと思います。
なかなか金儲けに長けている金額ですが、当時の安土城が見られるならば、私だったら1万円でもいいかな。

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Aベストアンサー

基本的にはその通りです。

具体的には、大砲の砲身の長さを、口径の長さで割った値を
「口径」という単位で表し、この値の大小で決まります。
たとえば、10cmの口径の大砲で、標準的な砲身の長さが3m(30口径)として、
4mのものなら40口径で長砲身と呼ばれ、2.5mなら25口径で短砲身と呼ばれます。
一般的に、長砲身のほうが初速が速くなるため、威力や射程が大きくなります。

ちなみに、紛らわしいものとして拳銃や小銃でも「口径」という呼び方をしますが
これは、口径の長さをインチに換算したものを100倍した値のことです。

Q中学の歴史について質問です。 戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、

中学の歴史について質問です。
戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、足利義昭を将軍としたのに、1573年に足利義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしたのですか?

Aベストアンサー

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によって殺害され、替わりに義栄が14代将軍として擁立される、ということまで起きています。

信長が義昭を将軍に添えたのも、理由としては同じです。
世の中に色々と命令などを出したいが、自分の名前で出すと周囲の大名たちの反発を生んでしまう。義輝を殺害して、義栄を擁立した三好氏と同じように信長も、義栄を追放して、義昭を擁立することで、義昭の名前を利用しようとしたわけです。
実際、足利義昭を将軍に添えてから数年で近畿地方における勢力を確立しました。
しかし、信長の力が伸びることに反発した義昭は、周囲の大名に対して信長を討って自分を助けよ、というような書状を出すなどしました。
信長としては、近畿地方をほぼ制した上に、自分の敵ばかりを作る義昭、室町幕府はもはや用無し。なので、追放し、幕府を滅ぼした、ということになると思います。

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によ...続きを読む


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