痔になりやすい生活習慣とは?

今キリスト教の勉強をしており、
善いサマリア人の話を通してイエスが何を伝えたいのか知りたいです。
お願いします。

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A 回答 (6件)

「遠い親戚より近くの友人」という事です。


日本で言えばアメリカと仲良くするより中国と親しくなれという意味です。
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質問者は「わたしの隣人とは誰ですか?」と聞き、


イエス様は「(その隣人に)あなたも同じようにしなさい」と話しました。

質問と答えがズレているような気がしませんか?
つまり、イエス様の言いたいことは、「隣人は誰か知りなさい、その人によくしなさい」ということです。

イエス様のたとえ話は幾層にも肉的、霊的な意味が含まれています。
もちろん、道徳的な親切だったり、隣人愛というのも間違いではないでしょう。
しかし核心はそれではありません。

強盗に遭い、祭司やレビ人に冷たくあしらわれた人、すなわちそれはイエス様ご自身なのです。しかしそのイエス様を受け入れたのはサマリア人のような賤民たちだった、ということを悟らせようとした話です。

世の中を救うために労苦してもがいたイエス様、本来はユダヤ教をよく理解してメシアを待ち望む上層階級の人たちが一番に受け入れるべきでした。しかし人々は神様が直接降臨するとばかり思い込み、人間として来られたイエス様を認めず、迫害しました。その傷ついたイエス様の心情を慰めたのは、学もなくメシアが来ることも良く知らない、ペテロさんら庶民や卑下された下層階級の人々だったのです。

つまり、このたとえ話を通して「私によくしなさい」ということなのです。
この質問者は永遠の生命を求めていると言いました、ならば律法を守るだけでなく、救い主であるイエス様に会うべきでしょう。しかしこの人は目の前にいるイエス様がキリストとはわかっていませんでした。

祭司長たちは神様を信じたけれど、偏見に囚われ隣人であるイエス様を受け入れませんでした。神様は愛しても、隣人は愛さなかったのです。あなたはそんな祭司たちのような形式だけの信仰にならずに、迫害されている私を愛し受け入れてみなさい、すなわち隣人に良くする心があれば、人々の中に来ているキリスト、すなわちイエス様を見つけ出すことができる、ということなのです。

聖書の中でイエス様の話された説教の多くは、「私イエスが来ていることを悟ってほしい」という主旨のものでした。
迫害を受け、殺される可能性もあったイエス様としては、直接自分からキリストだとは言い難い状況でした。だから「耳のある者は聞くがよい」と、たとえ話を通して、ご自身の存在を「求める人は見つけ出せる」ようにしたのです。

「隣人とは私イエスだ。そしてあなたが私イエスの隣人となり、愛し仕えて救いを得なさい」というのが、このサマリア人の話のイエス様の主張です。

過去の話ではなく、今の時代でもどうなのか、ということも考えてみれば、あなたにとって生きた話になると思います。

(キリスト教福音宣教会の者より)
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そうですね。

ルカ10章25節から37節に書いてあります。これは譬え話で、これをもってイエスが意味していることがあります。読んでみれば分かりますが、ある人がまあ強盗に襲われて、半殺しになっちゃったんですね。それでその人は道端で倒れていた。そこに祭司が来ます。イエスが言うんだから、ユダヤ教の祭司です。この人、無視して行っちゃったんです。ひどいね。それで、レビ人が来て(この部族は祭司職を担うよう指定されています)、この人も無視します。つまりこの二人とは、助けるべき人なんですね。なぜかというと、彼らが助けなければ、ほかに助ける人はいません。そこにサマリヤ人が来ます。サマリヤ人とは、北イスラエル(BC722年に滅ぼされる)に残ったイスラエル人と異邦人の相の子です。その子孫。ユダヤ人から見れば、二級の人間みたいな感じ。だから、ある意味で助けるはずのない人たち。ところが、この人が助けてあげて、なんと介抱し宿屋のお金も払ってあげる。つまりイエスの言う意味は、人間の役職とか、身分ではなく、実際に事と行った人、その人が本当の善人、困っている人の友なんだと言っているんです。たとえ、やくざだろうが、売春婦だろうが、助けた人のほうが偉いと言っているんです。
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あらゆる苦労の中でイスラエルの人々に彼らを救う王様が来られるとの約束がありました(サムエル下7:8~16)。

だから、マタイ福音はイエス キリストの血筋を書いてイエス キリストが彼らの王様であうことを証明してから始まります。                                                                                                  しかしながら、イスラエルの人々はイエス キリストを王様として受け入れず、殺してしまいます。だから、マタイ11:12は天国は暴力を振るう人々によって奪われると言われたのです。                                                                                                 天国はマタイ福音だけにある用語で、天から来られた方が王様としていらっしゃる国の意味で王国とも言います。大勢の人々だけでなく、牧師や神学教授さえも天国を人が死んでから行く所と言っています。それは、彼らがいかに聖経に無知なのか物語っています。                                                                                                         この天国が暴力によって奪われ、天国はヨハネ啓示録20:4まで延期されました。啓示録20:4で1000年王国が成立します。                                                                                               マタイ福音がイエス キリストを王様として描いたならば、ルカ福音は人としてのイエス キリストを描いています。マタイ福音がイエス キリストを王様として描いているので天国福音をサマリア人に伝えるのが禁止されます(10:5)。ルカ福音はイエス キリストを王様ではなく、ただの人として処刑されることを予想し、十字架以後のことを予言します。善いサマリア人の比喩がそれです。                                                                                                ルカ福音10:30である人がエルサレムからヨリコに下って行きながら強盗に会いました。祭司長とレビ人は知らないぶりをしながら通りましたが、サマリア人は彼を助けます。                                                                                             この比喩の中で、ある人はイエス キリスト、強盗は天国を暴力によって奪ったレビ人や祭司長、サマリア人は異邦人です。即ち、イスラエルの人々が強盗になって十字架で殺したイエス キリストを異邦人達が信じるようになることを比喩として予言していらっしゃるのです。だから、十字架事件から今までイエス キリストを救い主として受け入れ、生まれ変わった人々はサマリア人です。                                                                                                      34節の油は聖霊、ぶどう酒は十字架で流されたイエス キリストの血を意味します。37節の隣人の意味は、旧約ではイスラエル人同士、新約では救われた人々同士です。全ての人々は罪を犯すことによって神様の似姿を失ったアダムに象って生まれます。即ち、全ての人々は悪魔の支配下にいるのです。                                                                                                  隣人を全ての人々だと言う偽善者たちは、このような全ての人々を自分の体のように愛しなければなりません(マタイ福音22:39)。ヨハネ福音3章は人が生まれ変わらなければ神様の国を見る事が出来ないと言われました。聖経は聖霊によって書かれた霊の字です。アダムの罪によって神様の似姿を失った全ての人は霊が死んでいます。霊が死んでいるから聖霊の字である聖経を読めないのです。ぺらぺら気狂った猛獣のように喋って、地獄まで引き込むのです。彼らはもっと強く悪魔に仕えているだけです。悪魔の僕で無いならどうしてこのような返事がありえるでしょうか?
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「隣人を愛しなさい」という教えに対し「わたしの隣人とは誰ですか?」という質問をした人がいました。

それに対する答えとしてのたとえ話です。

質問者は「わたしにとって誰が隣人なのか?」と自分を中心とした質問をしたのですが、イエスは「襲われた人の隣人になったのは誰か?」と苦しんでいる人を中心とした答えを示します。

そして、サマリア人と同じようにしなさいと教えます。旅をするサマリア人は、自分のゆく道で苦しんでいる人の隣人になります。だから、わたしたちも人生で出会う、苦しんでいる人、困っている人の隣人になれるように努めます。人はそれぞれ何かしら苦しんでいます。わたしたちはすべての人の隣人であるべきです。

また、このたとえに出てくるサマリア人はイエスのことだとも解釈ができます。苦しんでいる人を救いだし、癒し、宿屋に費用を払いました。たりない分は帰りにまた支払うといいます。イエスが再臨するときに支払ってくださるという意味でもあるのでしょう。

・・・というような解釈があります。わかりにくかったらすみません。
神父様が書いた本を読むといろいろなことがわかると思いますよ。
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<イスラエルの子ら>とはヤコブ系の子孫のこと。


ヘロデ大王はイスラエル人では無いのにユデアの王となったために、イスラエル人に支持されるため、神殿を建築するなどした。
ヘロデ大王は、確かにイスラエルの子らには属しません。
しかしイスラエル(ヤコブ)のお兄さんのエサウの子孫です。
でもイスラエル(ヤコブ)の子孫のみをイスラエル人と呼ぶので、定義でいけばヘロデ大王はイスラエルの子じゃあない。

キリスト教は血がつながっていなくても兄弟・姉妹・家族としますが、ユダヤ人とサマリア人はキリスト教徒同士の作る偽家族じゃなくて、本当に血縁関係がある。
ユダヤ人もサマリア人もイスラエルの子孫だから、真性のファミリー。
同じイスラエル民族なので、建国されたとき一つの国で仲良く暮らしていた。
首都の名前は女神の名前をとってサマリアでした。

そのうち宗教的指導権の争いを聖職者がして、ユダ族とベニアミン族を率いて独立したんです。
便宜上 元のイスラエル王国を北、分離した王国を南とします。

そのうち北はアッシリアに攻め込まれ陥落し、アッシリアは北の土地に自分たちの民族を移住させた。
しかし、サマリア教団は宗教を守り、彼らと交わらず純血を守った。

南は北の宗教が間違いだから神が怒ってアッシリアに攻め込ませたのだろうと中傷をし、自分たちの宗教のみが正しいとしていた。
ところが、南もバビロニアによって王族やら聖職者など指導者層3000人あまりを連れていってしまい、指導者を失ってしまった。
今度は「自分たちの宗教が間違えていたので神が怒った」ではなく、「自分たちの宗教は間違えていなかったが、他の神を崇拝していたので神が怒ったのだろう」とした。
ちなみに他の神を神殿に設置していたソロモンの時代が最も繁栄を極め、彼が没した後に捕囚が起こったことから、外交政策がソロモンがうまかったので繁栄を極め平和を維持できてたわけですね。


ま そんなかんなで、南の国に住むユダ族やベニアミン族もサマリア人も血のつながりのある兄弟姉妹なんです。
律法は本来人が過ちを犯さないように儲けられたのにそういう風には使わず、人を監視して罰することに使うようになった。
お互い律法を持って監視して、「発見 律法違反だ」と力技で律法違反者を作り上げて、罰することで自分の優位性を示し自己満足する輩だらけになった。
ギスギスした不信まみれの共同体になったわけです。 いつ隣人から寝首かかれるかわからない状態。


イエスの良き隣人のたとえ話。
隣人が強盗かなにかにあって道に倒れている。
息があるか確かめて介抱してやる人が1人もいないで放置されている。
聖職者もわざわざ遠回りして避けて通過。(死んでいたら穢れに触れることになるので)

誰も何もせずほったらかし。

そこに日頃自分たちが軽蔑しているサマリア人が通りかかり、助け起こし、宿に運び介抱し、「自分は用があるから一旦旅立つが、いない間も看病してやってください」と賃金を払った。

サマリア人は家族である南の人を当然のように心配したのに、南の人は何もしなかった。
家族が倒れているのに、なんにもしなかった南の人。
かたや倒れている家族を助けた北の人。
北の人は律法に沿った行動をしたまで。
南の人は律法を守ったつもりが律法違反をしていた。
家族愛・同胞愛などどこにも無い。


聖書に異邦人とか敵とか書いてあるが、それをイスラエル人からみた日本人みたいなものと勘違いして解釈されている。
聖書に書いてある異邦人とか敵とは、同胞の中にいる自分が気に入らない同じイスラエル人の隣人のこと。
旧約聖書をよく読めば、あなたの気に入らないイスラエル人の隣人(敵)を、イスラエル人は助けなければならないと書いてある。
同胞同士のお約束内容が書いてあるわけで、外国人のことを書いてあるのではない。
書いてある箇所もあるが、レベルが違う。
なのに、キリスト教は異邦人とはイスラエル人以外のことだろうと勘違いしていて、神は自分が選んだイスラエル人以外の全人類にも愛を説いたと嘘を教えている。

新約聖書はあくまでイスラエル人向けの内容。

「日頃自分のことを軽蔑しているユダヤ人に対して同胞愛を示したサマリア人は正しい 神の心にかなった人である。今あなたたちは自分の同胞を省みず、私利私欲まみれで神の心から離れていますよ」と、イエス作家はイスラエル人向けに説いたわけです。

我々日本人のほとんどはイスラエル人ではないので、新約聖書のこの箇所を読むときは、諸外国にばかり目を向け自分の家族(日本人)が困っていることに目を向けないでいるのではないかと考えればいいわけです。
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