伊達政宗について教えて下さい。
慶長の役に出兵はしていたのでしょうか?
出兵していたら何人の兵と家臣は誰が行ったのか?
陣を何処に張ったのか?
分かる範囲で結構です。よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (1件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家です。

>>慶長の役に出兵はしていたのでしょうか?出兵していたら何人の兵と家臣は誰が行ったのか?
陣を何処に張ったのか?

回答から先に述べますと、
「慶長の役」には、正宗は出陣していません。

それ以前の「文禄の役」には出陣しています。
すでにお調べとは思いますが、「文禄の役」について述べてみます。

(1)文禄元年(1592)1月5日、伊達政宗に朝鮮出兵の命が下さた。秀吉からは500の兵で良い、と言われていたが3000人の軍勢を従えて陸奥の居城岩出山城を出立し、まずは、京都の伊達屋敷に入る。

(2)同年3月、京都の伊達屋敷を出立。この時、自らの馬には豹の毛皮の鞍を付け、兵士たちには具足の前後には、金の星といういでたちで、濃い紫の地に金の日の丸をあしらった幟を30本を掲げていた。続く鉄砲隊、弓隊、槍隊の足軽は全員朱塗りの太刀に銀箔の脇差頭、そして、金のトンガリ笠。騎馬揃えは30騎、いずれも黒鎧で、兜は金に輝く、と派手な隊列であったため、京都の人々のド肝をぬき、一躍有名となる。肥前の名護屋城に入る。肥前名護屋に入ったのは1500人。京都の留守部隊1500人と言われている。

(3)その頃、3月12日には、第一陣が釜山浦に入港し、13日釜山鎮城を攻め落とす。伊達政宗は、後続留守部隊として名護屋城で待機する。

(4)文禄2年(1593)3月、伊達政宗、第三陣として出撃命令で名護屋城から出陣。

しかし、伊達政宗が渡海した時には、日本水軍は李舜臣の朝鮮水軍によって敗れ、制海権を奪われ、政宗自身が船に事欠く状況でした。政宗は釜山に上陸して蔚山に進み、この後、梁山に駐屯していますが、秀吉は政宗を晋州城攻撃に参加させています。釜山と漢城の間の「つなぎの城」だった梁山も、日本軍が漢城から南下せざるをえなかったために、その意味がなくなり、梁山にいた政宗も晋州城攻撃に加わらせた。それだけ、戦いが泥沼化していた証拠だというわけです。
政宗は秀吉から兵糧を支給されるはずでしたが、浅野長政の兵站がうまくいかず、結局自分で調達せざるをえませんでした。政宗が後に浅野長政と不和になった原因は、この問題も要因の一つであったと言われています。
7月から伊達政宗が取り掛かった倭城築城は、金海竹島倭城だったと推定されています。この城は鍋島直茂が普請を担当していましたが、政宗も石垣普請に参加していたと述べています。政宗が帰国したのは9月であり半年の渡海でしたが、帰国命令が下りたのは、和議の条件が秀吉側から示され、日本軍は釜山周辺の倭城に守備兵を残して後は日本に戻るようにとの指示が出たからでした。

(5)随行した重臣は、詳細は分かりかねますが、常に正宗と行動を共にし、一番の信頼のあった伊達成実
(しげざね・ 藤五郎)伊達の獅子と称される伊達軍団最強の武将 。片倉景網(小十朗)常に大局を読み取る伊達家の名参謀。原田宗時(左馬助・重実)景網と並び、伊達家の中心人物であったと考えられます。

(6)4年後の「慶長の役」(1597~1598)では、正宗は、陸奥から連れてきていた3000人と共に、京都留守部隊で京都に駐在していました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

御返事が遅くなってすみませんでした。
凄くわかりやすくて、詳しい内容でした。調べ方が悪かったのか、ここまで詳しくは分からなかったので助かりました。
ありがとうございます!

お礼日時:2010/07/19 01:24

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qなぜ伊達政宗?

五月人形になっている武将はほとんどが伊達政宗です。

なぜ他の武将ではなく伊達政宗なのでしょうか?

Aベストアンサー

端午の節句で鎧兜を飾るのは、子供に災いがふりかからず、逞しく成長するようにとの願いを込めて飾られます。
鎧兜も本来の武具としての意味ではなく、美意識をもった衣装として捉えられており、伊達政宗は「伊達男」の語源にもなった、美々しい衣装感覚で知られる上に、出世して長寿を保ちましたから、それにあやかると言うことで人気があります。
徳川家康は源義経など、他の武将のモデルもありますよ。

http://www.kougetsu.co.jp/htm/g-e/index.html

Q日本兵でもこういう人何人もいたの?日本兵の多くが特攻隊の人のような勇敢なイメージなんですが・・・

きけ わだつみの声という映画をみました。太平洋戦争時代の話の映画で織田裕二さんや緒方直人さんらがでている物です。
戦争中だからどこで何があったかすべて表ざたになるわけではないのはわかりますが疑問があります。
この映画の中にとても嫌な感じの隊長みたいな人が出てきます。看護婦の女の子を犯そうとしたり、慰安婦だったり・・フィリピンでも武器も何も持たない女、子供、老人などを 斬り殺したり、楽しそうに銃殺したり。。日本兵なのに、こういう人何人もいたんですか? いろんな人間がいるというのはわかります。ただ昔の日本人の考えやb教育などでこのような人が何人もいるとは想像ができないのですが・・・

中国の慰安婦というのも日本兵が風俗的にかっていたのは事実なんですか?
教えてください

Aベストアンサー

http://www6.atwiki.jp/army2ch/pages/56.html
これだけたくさんの人間が参加していますから、例え1%とという比率であっても、数的には相当な人数になってしまいますね。

戦闘に参加すれば、人格が変わってしまう人もいるでしょう。
特殊な環境というものは、人格を変えてしまうには十分な動機です。
ただ、90%以上の兵士はそのようなことはありません。
メディアなどが出してくるときには、その部分を強調するので、皆がそのようなことをやっていると勘違いしてしまいます。

日本軍は、業者とくっついて売春をやっていました。
皆、若くて健康な人たちばかりですから、当然抜かなきゃ危ないわけです。
現地の人たちを陵辱してしまいます。
そのために、「ここ(慰安所)では遊んで良し。ただし、それ以外の場所では禁止」となるわけです。
現在のソープランドと変わりません。
彼女らも、お金をもらってます。
現在もそうであるように、そこらのOLよりよほど高給取りです。

他の国の軍隊はそのようなことはしていません。
陵辱し放題だったんです。
勝った方は何をしてもかまわないというのが当時の常識でしたから。

http://www6.atwiki.jp/army2ch/pages/56.html
これだけたくさんの人間が参加していますから、例え1%とという比率であっても、数的には相当な人数になってしまいますね。

戦闘に参加すれば、人格が変わってしまう人もいるでしょう。
特殊な環境というものは、人格を変えてしまうには十分な動機です。
ただ、90%以上の兵士はそのようなことはありません。
メディアなどが出してくるときには、その部分を強調するので、皆がそのようなことをやっていると勘違いしてしまいます。

日本軍は、業者とくっ...続きを読む

Q伊達政宗の魅力

最近・・と言うよりも
少し前に、伊達政宗の人気が上がったと聞いたのですが

その時上がった原因は、ゲームとの事ですが

それを聞いた時に
【はて?伊達政宗の、人気は何時からなのだろう?】

・・と、思い、ここに質問します
江戸初期には、伊達政宗は、戦国を生き抜いた、少ない人物として畏怖されていた様なのですが

その後、江戸期が本格化すると、余り、人気などはない

むしろ、近年、大河ドラマで取り扱われた頃に
伊達株は急成長を見せた様にも感じます

10年・・20年早く生まれていたら、天下を取れていた!
などなど、言われる、伊達殿なのですが

秀吉あたりは、どっちかと言えば、軽視していた、風があり
・・あと、直江殿とか

まったく伊達殿の事を、勉強していない、私に
【伊達政宗】の、魅力、真実を、お教えください

Aベストアンサー

アラフォーのおっさんが歴史に興味を持ち始めた小学生のときにはもう有名でしたから、元々結構人気がある武将だったと思います。だってあの兜はインパクトあるし、カッコイイですしね。戦国武将の兜の中でぶっちぎりのセンスだと思います。400年経ってもデザインが新鮮ですもんね。
ブレイクしたのは、なんといっても大河ドラマでしょうねー。あれで不動の人気となったって感じでしょう。まあ考えてみれば、後のハリウッドスターが主演で脚本も名脚本家として数々のヒット作品を作ったジェームス三木ですしね。

中央に生まれていたら、とかあと20年早ければ、とかいわれますが、個人的には、うーん、将に将たるほどの器ではなかったのではないかなと思います。結構、ポカが多いんですよ。例えば有名な話ですが、一揆を裏で扇動していたことがあったんです。それがバレちゃった。それを金箔の十字架を背負って町をねり歩いたとか俺の花押(サイン)は針で穴を開けているよとかムチャクチャなパフォーマンスをしてその度胸が認められて一命を取り留めるけど、おかげで領地は削られましたしね。これは受け入れた秀吉の貫禄が一枚も二枚も上手ですね。
関ヶ原でも百万石になろうとしてゴチャゴチャ変なことをして結局家康に反故にされましたしね。まあここぞと思ったらリスクを恐れずにアグレッシブに行くタイプで、大人しい東北人としては異端中の異端ですね。しかも生まれは米沢だし。あのへんの人たちは大人しい人しか見かけないんですけどね。
「もし中央に生まれていれば・・・」であれば、立花宗茂のほうが上だったんじゃないかな。ただ、あまりに欠点らしい欠点がない立花宗茂に対して、派手好きで目立ちたがり屋でポカが多い政宗は欠点がある分親しみやすいですよね。長嶋茂雄さんみたいなタイプです。

アラフォーのおっさんが歴史に興味を持ち始めた小学生のときにはもう有名でしたから、元々結構人気がある武将だったと思います。だってあの兜はインパクトあるし、カッコイイですしね。戦国武将の兜の中でぶっちぎりのセンスだと思います。400年経ってもデザインが新鮮ですもんね。
ブレイクしたのは、なんといっても大河ドラマでしょうねー。あれで不動の人気となったって感じでしょう。まあ考えてみれば、後のハリウッドスターが主演で脚本も名脚本家として数々のヒット作品を作ったジェームス三木ですしね。

...続きを読む

Q伊達政宗や柳生十兵衛の眼帯について

ドラマや絵ではよく、伊達政宗や柳生十兵衛は、眼帯として刀の鍔を使用していますが、何かそういった記録があるのでしょうか。

それとも昔から刀の鍔を眼帯として用いる習慣があったのですか?

どなたか教えて下さい。

Aベストアンサー

伊達政宗の片目には謎が残っています。   片目失明の確証は見つかっていません。   伊達家で作らせた、木像や画では両眼が普通ですが、これは政宗が指示したと伝わっています。   伊達家の文書では政宗の片目について、言及したものはないようです。   1974年仙台の瑞鳳寺再建時、政宗の遺骨を調査しましたが、片目失明の証拠は得られませんでした。
これで、片目失明は否定かというと、そうでもなく幼時、天然痘にかかり片目失明(瘡のためか)の伝承は否定できません。  骨には残らないから。   
私の個人的想像的意見では、片目は完全失明では、なかったのではないかと思います。   ただ見苦しいので正式な席では眼帯をつけて出たものと思います。   それも伊達者の武士らしく、鍔を形どったものでしょう。   諸大名がさすが独眼流政宗公とほめたと思います。
政宗は老年まで、鉄砲、弓の鍛錬をしており、命中率もよかったそうで、片目完全失明ではむずかしいでしょう。 
柳生十兵衛は片目失明は確かです。  眼帯については伝わっていません。   政宗のまねをしたか、後世の画家が政宗を参考にしたか、など考えられます。

伊達政宗の片目には謎が残っています。   片目失明の確証は見つかっていません。   伊達家で作らせた、木像や画では両眼が普通ですが、これは政宗が指示したと伝わっています。   伊達家の文書では政宗の片目について、言及したものはないようです。   1974年仙台の瑞鳳寺再建時、政宗の遺骨を調査しましたが、片目失明の証拠は得られませんでした。
これで、片目失明は否定かというと、そうでもなく幼時、天然痘にかかり片目失明(瘡のためか)の伝承は否定できません。  骨には残らないから...続きを読む

Q伊達政宗

伊達政宗って、多分なまってたよね?

Aベストアンサー

江戸時代の大名は江戸住まいが長いですから、江戸弁の武士語です。
伊達政宗は若い頃は地元、江戸時代は江戸住まいが長かったから二刀流でやれたと思います。

Q日露戦争には少年兵は出兵したか

1896年生まれの祖父が日露戦争に行ったと、祖母から聞かされていますが、年齢を計算すると当時、16,7歳ということになります。

Aベストアンサー

当時、兵役は最年少で17歳からだったと思います。
成人してからの兵役が大半で割合としては少ないですが
1904~5年当時で16~7歳というと微妙な線でしたので・・・。
 (・・・当時実際に対露戦で未成年者の出兵があったかは調べておりませんが)

でも1889年生まれですと15~6歳ですね。
お祖母さんが日露戦争以降の別の戦役でのお話と思い違いなされていたのかもしれませんね。

Q伊達政宗ってどのくらい強かった?

伊達政宗ってどのくらい戦が強かったんでしょうか?

Aベストアンサー

強いっていうと
1:本人の戦場での情況判断力(部下の信頼)
2:将校団の現場の力
3:個々の兵士の戦場経験値
4:装備
なんてのが必要条件かと思います。

#2の方が書かれているように、3,4、特に装備面が同程度の東北地方においては、抜群の強さを誇ったようです。ただ、近畿地方の軍とでは、3,4において、格段の差があり、実戦をしたら勝てなかったでしょうね。四国の長宗我部や、九州の島津など、その地方最強を誇った大名が歯が立ちませんでしたから。

20年早く・・・という政宗への評価は確かにありますが、20年遅かったから、政宗は強いという評価が残ったという一面もあります。

条件で出した 1,2に関連するのですが、大阪の陣において大合戦を指揮官として経験した大名は、数少なくなっていました。世代交代で。

実際、関ヶ原体験者で、大阪の陣に参戦したのは
徳川家康
藤堂高虎
上杉景勝
立花宗茂
など数名、しかも高虎は、独立した大名というより、豊臣家の家臣としての大名だったり、宗茂も秀吉にヘッドハンティングされて大名になった・・・独立独歩で負けないで(景勝は負けているし)大名として生き残ったのは、実に家康と政宗だけですね。

実戦経験のない、半分徳川の部下から大名になった連中から見たら、歴戦の政宗は「権現様には敵わないが、つえ~~よなぁ」と 思ったし、実際 大阪の陣でも 激烈でしたね。

強いっていうと
1:本人の戦場での情況判断力(部下の信頼)
2:将校団の現場の力
3:個々の兵士の戦場経験値
4:装備
なんてのが必要条件かと思います。

#2の方が書かれているように、3,4、特に装備面が同程度の東北地方においては、抜群の強さを誇ったようです。ただ、近畿地方の軍とでは、3,4において、格段の差があり、実戦をしたら勝てなかったでしょうね。四国の長宗我部や、九州の島津など、その地方最強を誇った大名が歯が立ちませんでしたから。

20年早く・・・という政宗への...続きを読む

Q伊達政宗、または戦国時代の本でオススメのものを教えて下さい!

アホらしい話なのですが、某ゲームから歴史の勉強をしっかりしたいと思うようになりました。
元々、歴史は得意で戦国時代あたりから幕末まではそこそこだったのですが学校では
詳しく、ディープな話や一定の人物に絞るようなことはしないので自分で知識を身につけたいと思っています。

歴女の方や歴史に詳しい方、趣味などでよく、そのテの本や雑誌を読まれる方などにオススメを教えて欲しいです。

タイトルにも書いたのですが、私は特に伊達政宗が好きなので伊達政宗に関するものや(何のゲームだか、まる分かりですね)
その周りの話、または広く戦国時代について書かれているものでオススメのものを教えて下さい!

身の程知らずもいい所ですが・・12月にある歴史検定にも受けようかと思っているので、勉強方法や良いテキストなども教えていただけると嬉しいです。

少しテンパっているので文章がおかしくなっているのは、本当に申し訳ないです。

随分、タイトルとズレた話をしているようですみません!

よろしくおねがいします↓

Aベストアンサー

なにも、買なわなくても、図書館で十分ですよ。歴史は大筋しかわかりませんので、小説に書かれているものは、各小説家が想像をふくらましたものです。内容はそうかもしれませんし、そうでないかもしれません。
そういうレベルなんです歴史は。今を見てください。政権を握っているのはだれですか、自分たちはこうやって統治されて生きている、税も払っているでしょ。戦国の世もある意味おなじ、今をしっかり見て、対比する。するとよく見えてくる。
勘違いしないでね。合戦なんてほんとはしたくなかったんですよ。命はかけたくない。今と同じ。数の力で相手に圧力を掛ける、それで屈服するのを待つ、ほとんどがこれで済んじゃう。信長はほとんどこれ、相手より数を多く揃えて出かける、数の多いほうも少ないほうも戦は怖いけど味方は多いからまだいいわなんてとこですよ。平和的。田植えが終わると、日課のように他国に略奪の旅にでる。
軍という組織だったものでだよ。公認の盗人みたいなものだよね。
物から女子供まで盗む。つれて帰って下働きさせたり、売り飛ばしたりね。いまでも世界のどこかで同じことがあるでしょ。軍単位で
通れる道は、だいたい決まっているわけで、遭遇したときは、乱戦になって、後日それが何々合戦ということになる。相手より早く気がつけば
奇襲といわれるものになる。モンゴルの馬は小さいけども、草原を走れる脚をもっていますが、日本の馬は山岳に適した構造をしていまして、山の上り下りにうまくあうようになっています。ただ、走れません。
武者のシンボルなだけ。時速8Kmなら2時間ぐらいは走れるようです。
高価ですし、戦うときは後ろに非難させて、降りて戦うのが普通です。馬に乗って逃げるとき、敵は鎧兜で重くて走れませんので、こんなものでも逃げきれたみたいです。去勢は明治になって外来種が入ってくるまで方法もしらなかったようです。まあ、おとなしかったので必要がなかったみたいですね。ですから武田の騎馬軍団は存在していません。
馬の数は関が原当時東軍の総軍勢の1割程度だったといわれています。
三方ケ原の鉄砲の三段撃ちも、そんなに数はなかったようです。
近年の発掘調査でも3千丁というほど玉が出てこない。
長長書きましたが、歴史の醍醐味はね、自分でしらべることにあるんですよ。書き物は書き物。
最低ね 信長公記現代訳  三河物語現代訳 フロイスの見た日本 歴史読み物なら安倍龍太郎  それと 庶民はどう暮らしたかもね 

なにも、買なわなくても、図書館で十分ですよ。歴史は大筋しかわかりませんので、小説に書かれているものは、各小説家が想像をふくらましたものです。内容はそうかもしれませんし、そうでないかもしれません。
そういうレベルなんです歴史は。今を見てください。政権を握っているのはだれですか、自分たちはこうやって統治されて生きている、税も払っているでしょ。戦国の世もある意味おなじ、今をしっかり見て、対比する。するとよく見えてくる。
勘違いしないでね。合戦なんてほんとはしたくなかったんですよ...続きを読む

Q伊達政宗と織田信長はどちらが優秀なのでしょうか?

伊達政宗について調べたのですが、18歳の時に家督をついで23歳のときの版図は150万石あるそうです。(家督を継いだときはどのぐらいかはわかりませんが、150万石のうちの90万石は総無事令以降の3年間で拡大した領土・・だと思います。)
一方、織田信長は伊達政宗と同じく18歳の時に家督をついで31年かけて800万石もの版図を築いた人です。あと数年あれば天下統一もできたのではないでしょうか。ただ、伊達政宗と同じ23歳のときには150万石ところか唯の”うつけもの”で27歳の時の桶挟間の戦いまでは何もしていなく、天と地の差で負けていると思います。

優秀な大名NO1,NO2は間違いなくこの2人だと思うのですが、いったいどちらがすごいのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、織田信長と伊達政宗を戦国時代の優秀な大名の一、二と考えるのは贔屓でしょうね(^^ゞ

織田信長は尾張という商工業の発展した地域に生まれ、斯波氏の守護代の一族でその内の一つの家の家老を代々続けてきた家柄です。父親の信秀時代に尾張国内の津島も押え、実質上守護代と同等の力をつけていました。だから、織田信秀は美濃や三河に出兵し隣国の戦国大名と争うことができたのです。そういう土台の上に織田信長の実力が形成されます。相続の時に弟と争っていますが、事が大きくなる前に弟を降伏させていますので、信秀のときの実力をほぼ引き継いだものと思われます。
そのうえ、斉藤道三の娘との婚姻により、初期には美濃との争いはなく、道三没後は道三の勢力の一部も取り込むことができました。
また、松平元康との同盟で三河方面での戦闘も無くなり、斉藤義竜、竜興との戦闘のために力をつけることができました。

伊達政宗は曽祖父植宗、祖父晴宗の内部対立で衰退した伊達家を父輝宗が治め、これからといううちに政宗に譲りましたが、当時は伊達家の周りは親戚だらけでありながら、それぞれに名門意識があり伊達家を中心にまとまるような状態ではないです。そういう中を親戚を取り崩し討ち滅ぼしながら領地を拡大していきます。ただ最大の勢力時でも150万石にはなっていないですね。150万石は秀吉時代の蒲生氏郷と伊達政宗の勢力の足し算でしょうが、政宗は会津、米沢を手放すときに変わって、他の土地を得ていますので、単純に足し算してはいけません。
なお、政宗が伊達家を継いだのは織田信長がほぼ最大勢力を作り上げたあとであり、全国的にも戦国時代の終焉がはっきりしてきた時代でありますので、無理してでも領地を拡大しておかないと天下統一又は仙道統一はできないことになります。

なお、織田信長、伊達政宗くらいの大名ならば、徳川(松平)、毛利、島津など何人か数えることができると思います。それぞれの時代背景や父祖の実力により最大勢力は変わってきますし、子孫の実力で実際の評価も変わってきます。

まず、織田信長と伊達政宗を戦国時代の優秀な大名の一、二と考えるのは贔屓でしょうね(^^ゞ

織田信長は尾張という商工業の発展した地域に生まれ、斯波氏の守護代の一族でその内の一つの家の家老を代々続けてきた家柄です。父親の信秀時代に尾張国内の津島も押え、実質上守護代と同等の力をつけていました。だから、織田信秀は美濃や三河に出兵し隣国の戦国大名と争うことができたのです。そういう土台の上に織田信長の実力が形成されます。相続の時に弟と争っていますが、事が大きくなる前に弟を降伏させていま...続きを読む

Q伊達政宗の生地と代代の歴史

伊達といいますと、90%?の方が仙台といいますが、仙台へ移る前の話は、あまり話題になりません。
初代から16代までの苦労があればこその政宗と思います。
どうぞ、その辺を教えてください。

Aベストアンサー

割り込みます。手持ちの雑記帳をコピペします。雑多な情報ご寛恕

@ 暦仁元年(1238)大江時広 長井庄を得,長井氏と改名。主に中央で活躍
@ 天授2年(1376)北朝方9代伊達政宗は父8代伊達宗遠とともに米沢周辺を一夜で攻め取る。9代政宗(儀山政宗)に対し,17代政宗は(貞山政宗→貞山堀)
@ 天授3年(1377)8代伊達宗遠54歳で隠居。9代伊達政宗27歳で家督相続
@ 天授6年(1380)北朝方9代伊達政宗は父8代伊達宗遠とともに 南朝方長井広房の守る長井を攻め取る。長井氏滅亡  このとき,七が宿から侵入→高畠城拠点化→各地攻略(旧米沢市史?に載っていたらしい)
@ さらに,亘理・刈田,奥州探題大崎氏の2郡柴田・伊具(宮城南部),信夫(福島)攻め取る。足利に服属し,知行地として公認。
@ 川西町上小松では,長井の残将・田沢城主(現米沢市口田沢)新田氏誅殺
@ 元中3年(1386) 川西町上小松諏訪峠下(現置賜公園) 原田家(後の原田甲斐輩出)の防備館,下小松(現新山中)の長井氏の枝城跡に桑折家の防備館配置。他に,片倉家(後に小十郎輩出)も,ここの出身「嵐山」という酒は原田家の指導(「小松郷土史」小形仁兵衛著)
@ その後の儀山政宗戦
@ 明徳2年(1391) 足利幕府(義満)の命により,大崎氏の加美・黒川郡(二本松畑山国詮氏の分領)侵攻阻止。葛西陸奥守と共闘
@ 応永4年(1397) 上洛。足利幕府(義満)に謁見。妻は義満の生母と姉妹
@ 応永6年(1399) 領地問題で鎌倉公方・関東管領足利満兼の子満貞に背く。
@ 足利幕府と鎌倉公方(足利氏)の抗争の狭間で,伊達は足利幕府側で画策?
@ 応永9年(1412) 赤館城(福島県梁川町西山城)の上杉氏憲(禅秀)と闘う。
@ 春は勝利。秋は和議降伏後刈田郡湯原(七ヶ宿)か高畠城に引いた(らしい)
@ 応永12年(1415) 死去
@ 夏刈と,湯原に東光寺があり,ともに伝儀山の墓あり。法号は東光寺殿儀山円孝。3カ所墓がある。
@ 10代氏宗 湯原に東光寺を建立。夏刈りから父の墓を移したとの説あり。鎌倉より鎌倉管領足利氏満より「氏」の字を賜る。親子で北朝方の別々の勢力 に荷担?その他,あまり記録無し。応永19年(1422) 死去(在7年)
@ 11代持宗 足利方。
   応永20年(1423)福島市大仏城で挙兵鎌倉に抗す。当時 秦宗
   鎌倉方 二本松城主畠山国詮に命じ鎮圧。
   応永30年(1433)上洛。義持に拝謁 秦宗→持宗 大量に献納→安堵以後伊達家の支配
 この頃から山形の高畠を本拠地とします。彼らは現在地元の人が上杉氏が開発したと信じていらっしゃる,唐戸屋・二井宿・川樋・大洞・鳥越・萩(北条郷)・漆山・多くの鉱山(主に金)を開発していました。

割り込みます。手持ちの雑記帳をコピペします。雑多な情報ご寛恕

@ 暦仁元年(1238)大江時広 長井庄を得,長井氏と改名。主に中央で活躍
@ 天授2年(1376)北朝方9代伊達政宗は父8代伊達宗遠とともに米沢周辺を一夜で攻め取る。9代政宗(儀山政宗)に対し,17代政宗は(貞山政宗→貞山堀)
@ 天授3年(1377)8代伊達宗遠54歳で隠居。9代伊達政宗27歳で家督相続
@ 天授6年(1380)北朝方9代伊達政宗は父8代伊達宗遠とともに 南朝方長井広房の守る長井を攻め取る。...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報