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今川義元4万五千(2万五千説もあり)
織田信長3千
なんて言われて、あらまぁ10倍の勢力と戦って、よく勝ったわね。なんて言われていますが、ちょっと待ってね、後年になりますが、太閤検地によれば

http://daiiti-web.hp.infoseek.co.jp/zatu001.htm

今川:駿河、遠江、三河で、約70万石
織田:尾張、57万石

だいたい、100万石で3万程度の動員力ですから、今川の2万五千は、いっぱいいっぱい、甲駿相三国同盟 万々歳の動員力です。
この時点で、信長の尾張統一戦は半ば(確か)上四郡の統一は終わっていたので30万石で一万くらいの動員力はあったはずです。

10,000ー3,000 七千はどこに行ったんだろう?

あるいは、後世にいかに信長がすごいかと、語るために少々少なめに伝えたのだろうか?

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A 回答 (8件)

たまたま今日、頼んでいた「愛知県史 資料編11 織豊1」が届きました(参考URL参照)。

高いのでボーナス時期でしか購入できません…。この中に「特集 桶狭間の戦い」と題する史料集がありましたので、数字を拾ってみます。

「信長公記」
 ・織田:二千に不足(中島砦を出るとき)
 ・今川:四万五千
「三河物語」
 ・織田:三千
「道家祖看記」
 ・織田:二千あまり
 ・今川:六万余
「定光寺年代記」
 ・今川:一万人被打(討たれた人数)
「享禄以来年代記」
 ・織田:七百余
 ・今川:二万余
「甫庵信長記」
 ・織田:三千(善照寺の東に集結したとき)
 ・今川:四万五千
「足利季世記」
 ・今川:一万余
「家忠日記増補追加」
 ・織田:三千余
 ・今川:四万余

出典によって結構バラツキが大きいです。

織田/今川の大きな格差は、そもそも数字の比較対照が違っていると思います。

今川は総勢。大高城救援に向かった松平元康勢など各地に散らばった全ての兵数。

一方で織田は義元本陣に突入した一部の兵数。鳴海城・大高城を囲んだ丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根の砦に陣する兵数は完全に除外されています。

私が思うに、二千・三千といった兵数は信長直轄の精鋭のみの兵数です。弟信勝と争った稲生の戦い(弘治二年・1556)のとき七百だった直轄軍を、永禄三年(1560)には二~三千にまで増強したのだと思います。

参考URL:http://www.pref.aichi.jp/kenshi/information/inde …
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この回答へのお礼

歴史物好きでして、歴史研究家ではないので、原典というか、元素材がそんなにあるとは知りませんでした。

お礼日時:2003/07/24 23:35

織田の奇襲が成功したのは、1)地の利すなわち地形を熟知していて、今川本隊の休息場所を予想していたこと、2)人の利すなわち今川軍の移動情報を収集していた。

さらに、信長の親衛隊(馬廻り組)の勇猛さでしょう。該親衛隊は、信長の親族討伐戦で戦場経験を積み、前田利家などの有力幹部を輩出しています。(下記ウエブ)3)最後に、天の利すなわち信長は稀に見る強運です。勝負に必勝はありえません。

参考URL:http://webcatplus.nii.ac.jp/tosho.cgi?mode=tosho …
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この回答へのお礼

3)に関しては、新田次郎の 梅雨将軍信長 なんて本を前に読みました。ここぞと言うときに 雨が降るそうですね、信長。
新田次郎さん元々気象庁ご勤務だったので「ほほぉぉ」と思いつつ読んだことがありました。

お礼日時:2003/07/24 23:39

私は実際の地形から考察してみます


桶狭間に実際に行くとなるほど解るのですが、
岡崎方面から進軍してくると、平坦で見通しが利くのは、桶狭間までです。知立方面は沼地で大軍は通れませんので、進軍してくるのは桶狭間方面に間違いなく、桶狭間からは急に、高さの無いでこぼこの丘が続きます、木々が茂り見通しが利かず、道も細いので、輿に乗って来る今川は進軍速度が遅い事もあり、この丘陵地帯の手前で夜営する事は容易に予想されたでしょう、織田軍がこれを急襲する為には、前哨部隊に接触した際に、本体に連絡をされて平地にいる本陣に防御を固められては、勝ち目はありません、よって見通しの利かない低い丘を騎馬で一気に駆け抜け本陣のみを突く作戦をとったのでしょう、この作戦には、たとえ1万の動員力があったとしても、使えるのは騎馬兵のみですから、輜重兵まで引き連れて大移動している大軍とは人数の差は大きかったと思われます。間者や斥候などからの連絡で本陣の位置をかなり正確に把握したいたようですから、この作戦はその夜、急に思いついたとかでは無く、前々から用意周到に準備された一撃必殺の急襲で騎馬兵も信長候自身も士気が高かったと想像できるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

ただ、騎馬兵でうんうんかんぬんは、当時の日本の馬の体格を考えると、あり得ないのではないかと思います。

お礼日時:2003/07/25 13:59

説により多少の変化はあるようですが、人数にはそれほど変わりは無いようです。


今川の軍が多いのは、天下取りへ向けてのセレモニーの意味もあり、行軍する事自体にもある程度の目的があったようです。
織田の軍が少ないのは、戦術的な意味が違うからです。
今川軍の数万人を全滅させる事が目的ではなくて、今川義元だけをねらったからです。
また、当時の戦術的な常識として、数万人の軍では数キロの範囲に広がって野営をします。
そのために、今川義元の本陣だけを攻めるにはそれだけの人数で十分だったという理由もあると思います。
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こんにちは。


色々なことが言われてるようですが、「つれて行かなかった」ってのもあるかも。

この戦いは所説あっても奇襲戦であったことは間違いなさそうです。
となると、仮に1万人出動できたにしても、そんな多勢でいったらたちまち発見されてしまって袋のねずみになっちゃうでしょう。

しかも奇襲戦では機動力が大変重要ですから、もしかしたら騎馬隊だったかもしれません。

騎馬隊といえば日本一の異名をとる武田信玄の甲州騎馬軍団だって、全部馬じゃないですね。
馬に乗ってるのは特別組織した場合じゃなければ半分から1/3程度でしょう。

さらにおまけに、いくら攻めるからといっても、自分の領地のあちこちににある城や砦をからっぽにはできないでしょう。

実際、信長が清洲城を出陣して桶狭間で戦果を挙げるまでの間に、丸根、鷲津の二つの城?砦?が攻め落とされてます。
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手元にある津本陽氏の著書によれば、当時の戦国大名の領国支配の形態は、後年の徳川幕府のような封土を全て統治するという形態ではなく、領民中の実力者=地侍と大名間の実力(武力)による主従契約のようなものであった、となっています。


つまり武力でボス(大名)に守ってもらうかわりに、年貢を納め戦の時は兵を出すが、ボスの実力が衰えるとすぐに他の(隣国の)大名との主従関係に切り替える現実的なものであったということです。

質問の通り、桶狭間当時信長は尾張全土の支配、つまり尾張の地侍(土豪)全ての信頼を得ていなかった、尾張内には今川義元、斎藤道三を主人に選んだ地侍も多かったとしており、動員兵力は2500~3000人程度と推定しています。(数字の根拠に関しては、記述無し)

対する今川義元側ですが、甲斐の武田と姻戚関係を結び同盟を強固にし、また東の北条氏とも姻戚関係を結んで三国同盟を成立させました。(お互いの利害関係が一致したことによる)
それによって35000人(とこの書物ではなっています)の兵力を動員可能にし、更に北条氏康からは援軍も出ています。

信長の桶狭間の勝因は、忍者による情報収集や調略による信長の作戦勝ちであるとなっています。更に普段は冷静な信長が、死に物狂いになったことによる織田軍勢の士気の向上、急遽編成された不慣れな混成軍である今川側の油断(大軍による慢心)などが重なったものであると書いています。

実際この説が全て正しいかは、よくわかりません。
一般に聞く歴史が本当に真実かは不明ですし、桶狭間の戦いは、上洛を目指す途中の今川義元軍を破ったのではなく、通常の国境紛争であり義元を討ったのは、予想外の戦果であった。義元上洛の件は「信長記」著者の小瀬甫庵が、桶狭間の勝利をよりドラマチックにするために偽ったという説を、聞いたことがあります。小瀬甫庵は「太閤記」の著者でもあります。(参考URLをどうぞ)

いろいろな説があって、おもしろいですね。

参考URL:http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon09.h …
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おっしゃる通り、当時の信長の領土は尾張半国程度。


ただ、江戸時代の資料で読んだ記憶があるのですが
動員能力は一万石当たり250人程度だと思います。
(これが、当てはまるかどうかは判りませんが・・・)

そうしますと、今川は一万七千五百。
織田は、七千五百ということになりましょうか。

しかし今川は、これを確実に上回ったでありましょう。
なぜかと言いますと、今川は駿遠三の大領主である上に
源氏の名門。当時、既に権威は地に落ちましたが、足利
将軍家に嫡子なき時は、今川が跡を継ぐという伝説を
持った家柄でありました。
かたや、織田と言えば「たわけ殿」と呼ばれ、織田家も
信長の代で終わるだろうと言われておりました。

よって、今川には「ちょうちん動員」が多数ついたもの
と思われます。あるいは「勝ち馬に乗りたい」という
近在の中小領主も多数かけつけたでありましょう。
負ければ悲惨です。勝つほうに味方して、自分の身分の
保全を図ろうとしたことは間違いありません。

したがって、二万五千以上は確実におりましたでしょう。
三万とか四万だったかもしれません。

織田は、確かに少ないですね。この理由は、当時の信長は
尾張半国を統一するのに精一杯。しかも、それに至る迄に
親族間(叔父や実弟)との争いを余儀なくされておりました。
それらの対応に、兵力を損耗していたものと思われます。
また、隣国美濃とは休戦状態とは言え、警戒する必要も
ありましたでしょう。
それで、それ位の人数だったのではないでしょうか・・・。

桶狭間で、大将義元が討たれた後は、ご存知の通り。
今川本体というのは意外に少なく、保身の為、あるいは
勝ち馬に乗りたい為に従った人々は、愕然としたであり
ましょう。そして、もう用はないとも思ったでありましょう。
もともと、利によって集まってきた人々です。負け戦に
つきあう馬鹿はおりません。
蜘蛛の子を散らすように逃げ散り、今川家は滅亡への道を
辿ったのでありました。

以上、つたない講釈でした。
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単なる推測ですが、戦争をしていた織田の田畑は荒れていたのではないでしょうか。


それに比べて、近隣諸国から人質をとって、平和を保っていた今川は豊かだったのだと思います。

一方で、実戦経験の豊富な織田の兵は強かったと思いますし、豊かな今川の兵は弱卒だったように思えます。
勝利の原因は実はこちらではないでしょうか。
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Q桶狭間の戦いにおける今川と織田軍の兵力差について

一般に今川勢2万5千対する織田勢は3千だったといいますが
後の石高では今川は駿遠三で約75万石、織田は尾張約56万石と
聞きましたがこれだと今川は全軍でも1万8千マイナス領地守備隊、
織田は1万超ぐらいは動員できたと思われるのですが実際の所どう
なんでしょうか?これぐらいなら地の利のある織田勢が少しがんばって
勝利した、後に信長の天才ぶりをアピールする為に誇張した…
という事なんでしょうか??

Aベストアンサー

慶長の太閤検地の数字は政治的配慮もあったと思われ、あまり正確ではありません。    信頼できる最初のものは、吉宗がおこなった享保6年のものです。(1721)それでは駿遠三あわせて94.8万石、人口100.5万人、尾張は57.2万石、人口55.5万人、160年後のものですが、仮にそのまま使うと、今川2.4万人、信長は半国として、7千人になります。     40石で一人の計算ですが、慶長、文禄の役では秀吉は25石で一人の軍役(含人夫)を命じているので変動はあります。   さらに信長は交易港を握っていたので、財力はかなり大きかった筈です。軍勢の多くが専従兵士とおもわれます。他方今川軍の多くは急徴集の農民兵といわれており、私は俗にいわれている程戦力は開いていなかったと考えています。  また勝者は少数で大軍を破ったと誇張するのは、木曾義仲の横田川原の合戦、毛利元就の厳島の合戦でもあきらかです。桶狭間の義元本隊と信長の合戦では兵力の差は小さく、精兵の多かった信長が当然の勝利をおさめたとゆう事ではないですか。

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q桶狭間合戦でなぜ今川義元は信長に敗れたのですか?

僕は歴史が苦手(というか全くのど素人)です。ところで、桶狭間合戦は今川勢2万5千、織田勢2千5百の兵力で、なぜ今川義元が敗れたのか理由が分かりません。

そもそも、

(1)織田方は迂回奇襲をしたのですか?それとも正面攻撃をしたのですか?

(2)大将たる今川義元は、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよかったのに、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

(3)織田信長は、義元の首を取った毛利新助よりも、簗田政綱を功第一としたそうですが、これでは毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

Aベストアンサー

> 織田方は迂回奇襲をしたのですか? それとも正面攻撃をしたのですか?

物語を面白くするために『迂回奇襲説』がこれまで有力でした。 しかし、信長の戦い方は終始一貫正面攻撃です。 彼の性格からして、徹底的に情報を収集し、一気に正面攻撃をかけたと思われます。

> 今川義元は、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

今川義元の尾張・三河遠征は旧領を回復するための布石としてのものであった。 既に前哨戦で丸根、鷲津砦を攻略し、当日も織田軍の佐々政次、千秋四朗ら300を短時間で一蹴し終っていた。 目的は半ば達成できた。 義元は戦果に満足し、同時に織田軍を甘く見ていたのかも知れない。 

そこへ昼過ぎから急に豪雨に見舞われ、急遽休憩に入る。 二万五千と言われる部隊も休憩であり、いくつかに分かれて休憩に入り、本体は五千人だった。 しかも、総大将義元の休憩場所を織田軍の梁田政綱に知られてしまう。 この情報を元に信長は作戦を義元の首に絞る。 篠突く雨に乗じて義元本陣に急接近、雨の上がった瞬間正面から撃って出た。 

信長の武将としての先進性を示すもので、近代戦を戦う武将としての高い資質が伺われます。 

> 毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

従来の戦であれば、敵の対象の首が最高の論功行賞とされた。 しかし、ここに信長の卓越した人間観察と近代武将としての資質の高さが見て取れる。 情報を齎した梁田を最高に評価。 しかし毛利にも応分の褒章は与えています。 彼も信長の類い稀な指導性に信頼しており、評価に不満はなかったと思います。

貴重な情報こそ最高の富である。 これは21世紀の我々にも妥当する超近代的な考え方です。  伝来したばかりの鉄砲採用への先進性と言い、彼の資質の高さには目を見張ります。 まさに天才としか思えません。 

> 織田方は迂回奇襲をしたのですか? それとも正面攻撃をしたのですか?

物語を面白くするために『迂回奇襲説』がこれまで有力でした。 しかし、信長の戦い方は終始一貫正面攻撃です。 彼の性格からして、徹底的に情報を収集し、一気に正面攻撃をかけたと思われます。

> 今川義元は、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

今川義元の尾張・三河遠征は旧領を回復するための布石としてのものであった。 既に前哨戦で丸根、鷲津砦を攻略し、当日も織田軍の佐々政次、千秋四朗ら...続きを読む

Q戦国大名の国力(石高)について

江戸時代の大名については、例えば加賀百万石というふうに石高(表高・実高)によって国力の目安がわかりますよね。ですが、これが太閤検地以前の戦国大名のとなると、全然わかりません。
戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイトをご存知の方がおりましたら、どうかお教え下さい。m(_ _)m

Aベストアンサー

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。

「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」
とすれば、太閤検地のデータが掲載されている
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
か、その元になった本を見るしかありません。

なお、戦国大名の財力を見る場合に、

「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」

「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」

「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」

「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」

「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」

など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。

また、
「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」
などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

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 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q明智光秀はどうして信長を殺したんでしょか?

こんにちは
日本史に詳しくないのですが、
明智光秀はどうして信長を殺したいと思ったんでしょうか?

また信長というのは攻撃的な性格という印象がありますが
いろんな人間から恨みを買ったため、そのうちこういう目にあうのも
自然な成り行きだったという事なんでしょうか?
それとも…???

Aベストアンサー

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではないでしょう。ご紹介したサイトには7つもの推測が記載されていますが、これだけの背景があれば、謀反を起こすには十分すぎるたのではなかったかと思います。

 光秀は、今で言うインテリで、大変まじめな性格でした。逆に、プライドが高く、融通の利かない面があったと推察されます。このことから、信長の過酷な性格と相容れない部分が多く、最後には追い詰められて限界に達したのでしょう。

 彼は信長に見出され、一気に出世階段を駆け上がっていきますが、人使いの面では、他の織田家の武将同様、酷使されていました。信長は、今まで評価してきた幹部でさえも、働きが少し鈍るだけで首にしたりしたのですが、こうした面が、彼を追い詰めることになったのでしょう。

 余談ですが、現代を見ても、急成長している企業で、社長の腹心が唐突に辞職するケースは大変多いのです。社長からすれば、部下に十分すぎる給料をやって、相応のポストを与えて、一体何の不満があるんだ?と言うことなのでしょうが、それに応える部下の心労は、人並みではないと言うことでしょう。こうした企業では総じて、頭脳だけでなく、図太い神経をも持ち合わせていなければ、勤まらないことが多いようです。

 ご参考まで。

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではな...続きを読む

Q長篠の戦いについて。

長篠の戦いについて、簡単かつ詳しく、中学生にもわかるように説明してください!!

 お願いします

Aベストアンサー

長篠の戦いとは・・・
1575年5月21日、三河の設楽原(したらがはら)で行われた「織田信長・徳川家康」連合軍と「武田勝頼」軍の戦いのことです。
織田側の『鉄砲隊』が、めざましく活躍したことでも有名です。

戦いは、織田・徳川の連合軍が、設楽原へと進出。「馬防柵」を設け「鉄砲
3000挺」を配備しました。それに対し、武田軍は、無敵といわれた騎馬隊に
よる波状攻撃を繰り返しましたが、馬防柵にはばまれて敵陣に突入できず、
そこへ鉄砲隊の一斉射撃をあび、壊滅的な打撃をうけました。

この戦いで、武田方は信玄以来の有力部将をほとんど失い、勝頼も敗走し、
織田・徳川・武田3氏の勢力関係は一変しました。また、この戦いを機に戦
闘の形態も、騎馬による個人戦から鉄砲隊を組織した集団戦法へと移行して
いくことになります。

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q初めて鉄砲を使った戦国武将は?

戦で初めて鉄砲を取り入れた戦国武将を教えて下さい。

私は織田信長だとてっきり思い込んでいたんですが、友達は上杉謙信だとか言っています。
一番かどうかはわからんが、上杉の方が信長よりかは先だったはずだとか。
やたら自身満々な言い様でした。。

Aベストアンサー

日本初めての使用は、薩摩にあった島津家の武将、伊集院忠朗が薩摩統一戦の間に起こった「大隈加治木城攻め」で使用したのが実戦で初めてです。これが1549年(天文18年)です。
伝わったのは歴史でも有名なとおり1543年ですので、それから改良を加えて、ようやく形になりました。
1の人が言っている雑賀が行ったのは斉射ですね。信長が長篠の戦で行ったことで有名な鉄砲三段とほとんど同じ手法です。

なお、上杉家についてなのですが、これは玉薬の調合について絡んできます。当時鉄砲玉の最重要部分である火薬の調合は、種子島氏内部で秘術とされていたのですが、それを近衛前久を通じて教えてほしいと頼んだ足利将軍家、時の足利将軍義輝に種子島当主時堯は教えます。しかし、秘術であるはずのこの調合方法が上杉家に流れていたという資料が、上杉側の上杉家文書に記されているのです。
そこから上杉が最初という説がでたと考えられますね。

なお、1543年以前に鉄砲が伝来していたという説は前々からあります。武田家には火薬を使って玉を打ち出す兵器があったとも言われています。ただしこれらは資料上でのみ(おぼろげながら)確認できて、実際に存在が不明ですので、通史では扱われません。
ただし、火薬を使う兵器については倭寇がすでに明よりもたらしていたとされています。

なお、大陸で初めて火薬を使った兵器を開発したのは13世紀初頭、中国北部を領していた金国が初といわれています。

参考URL:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tanega_k.html

日本初めての使用は、薩摩にあった島津家の武将、伊集院忠朗が薩摩統一戦の間に起こった「大隈加治木城攻め」で使用したのが実戦で初めてです。これが1549年(天文18年)です。
伝わったのは歴史でも有名なとおり1543年ですので、それから改良を加えて、ようやく形になりました。
1の人が言っている雑賀が行ったのは斉射ですね。信長が長篠の戦で行ったことで有名な鉄砲三段とほとんど同じ手法です。

なお、上杉家についてなのですが、これは玉薬の調合について絡んできます。当時鉄砲玉の最重要部分である...続きを読む


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