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「人は死ねば消滅し無になる」という概念を信仰する人が
殺戮者に対して「殺戮をしてはいけない理由」を説き納得させることは可能でしょうか?

※このとき「人は死ねば消滅し無になる」という概念を信仰する人は、その「人は死ねば消滅し無になる」という概念は壊さないように語る。

A 回答 (17件中1~10件)

>説き納得させることは可能でしょうか?



不可能だと思います。

「死ねば無になる」という理由で人を殺すことは無いと思います。

たとえその人は殺人理由をそのように言ったとしても、本人は自分がどうして人を殺したいのかよくわかっておらず、ひとまずの理由として自分の行為の正当性を表現しているのだと思います。

人は誰しも死ぬと考え、生きていることに価値が無いと思うのなら、当の本人が自殺するはずです。
当の本人は生きながら他人を殺すってのは、生きているから快楽を感じるので、楽しみのための殺人ですよね。

騙されちゃ駄目です。

自分への破壊衝動を自分にではなく、他人に向けることで、代わりに破壊されてもらうってのは、卑怯です。
そして自分自身が終わってはいないので、何度も自分を破壊する衝動が起こったとき、身代わりを立て続ける。
それで他人を殺すわけですよね。
それで再生を果たした気になっている。
ひとまず自分を破壊したいという欲求は身代わりの他人を殺すことで収まったが、また首をもたげて自分を破壊したくなり、身代わりを立てる。
死刑になるまで続きます。

ということで、その人の言い訳は通用しません。
だって嘘だから。
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この回答へのお礼

kigurumiさん
回答ありがとうございます。

僕も不可能だと思います。

嘘もありますし、やり逃げ思考もあるでしょうね^^;

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お礼日時:2010/07/24 14:13

>死なない


有名どころでは、環状の遺伝子を持つ、大腸菌、これは、不死とされる生き物です。
勿論、加熱すれば死にますが、寿命で死ぬと言うことはありません。
科学が発展すれば、人もいずれは大腸菌のように死なない動物となる未来は来ると思います。

>その生命が死んでいるなら生きていることにはならない
その人が死んでいたとしても、他の親族の心の中では生きては居ないでしょうか?
物理的に生きている人が、生きているとはどういう事を刺すのか?
こんな疑問になりそうですが、
私自身は、人の生きているほとんど全ては、本人に属しますが、周りの人にも、私自身が居るのではと思う時があります。
例えば、長年連れ添った状態であれば、考え方まで似てくるなど、自己と他人の境界をどこに引くか?こんな意味です。
他人が痛みを感じていれば、救いたく感じる。それは、他者に自分の存在を感じるのではないか?
例えれば、犬と他人の子供、両方おぼれていたら、他人の子供を助ける。これ如何に?
他、長い年月を経ても強い復讐心を持ち続けている一族、世代間をまたでその意志や感情を繋いでいる一族。
ここまで強くその人の個性が引き継がれているのに、他人だからと行って、本人と切り離して考えられるのか?と思うのです。

>誰かを見た記憶自体がその見られた生命であるという見解を、私は知りませんし、聞いたこともありません。
人が死ぬと悲しむ。ここには、自分の中に、一種の他人が居り、その一部が失われるため痛いのだという話もあります。


>勢力が強くなければ実践的とは認めない
とらえ方が違います。そこまで完璧であるならば、結果として誰もが知る常識になっているのでは無いか?と言っているのです。
今、強くなくても、良い物は凄い速さで受け入れられていきますので、勢力は強くなると思います。
本当にヒトを深く理解出来ていれば、分かりやすく説明も出来るはずですし、また、多くの人はどこかに救いを求めている(悩みがある)わけで興味がないとも思えません。非常に素晴らしいことなのだから、自ずと誰もが知る常識になっているに違いない。こういった意味で使っています。
また、始めの教義が難しくても、多くの信者が居れば、分かりやすい解釈をできる才能のある人も居るでしょうし、加速度的に広まるのではと思っています。

良く、悪徳商法で、私の話が理解出来る選ばれた人だけに云々という話がありますが、本当に良い商品や考えであれば国を問わず、国際標準やISO、デファクトスタンダードとして、今の世の中に広く伝播するのではないでしょうか?
この伝播しない原因はいったい何でしょうか?
また、これほどの思想を伝播しなかった人は何故、広めなかったのでしょうか?


今回の質問の、死ねば無になる。これをどこまで他者を排除して信じるかですが、
その殺戮者が他者との関わりを見ることなく、その人は死んで救われた。
このように頑なに信じられるなら、反論できない同様、
その宗教が私を救うと、頑なに信じる事が出来きさえすれば、周りは悲惨でも本人にとっては救われてしまいます。
その宗教がオウムや社会的に見て可笑しいと思われるものであってでもです。
しかし、私は、こういった、信じれば救われるという宗教ではなく、誰もが検証できる言葉と概念で語られるもので救われ居たと思っています。また、本当に人を理解している者であれば可能ではないかと思いますがいかがでしょうか?
でなければ、上記のようなエセ信仰の餌食となる危険性が付きまとうと思うのです。
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この回答へのお礼

yuix_99さん回答ありがとうございます^^

<<人もいずれは大腸菌のように死なない動物となる未来は来ると思います。>>

大分憶測の情報でしょう^^;

<<その人が死んでいたとしても、他の親族の心の中では生きては居ないでしょうか?>>

それでは死という概念が、殺戮という概念が崩壊しそうです。

認識から厳密に検証すればそのような考え方には至らないように思います。

<<加速度的に広まるのではと思っています。>>

そう期待はしますが、二千年でこんな感じです。逃げ道を塞ぎかつ、巨大な勢力を敵に回さないもしくは回れない環境をつくる才能を持った方が多々現れればいいですねぇw
 
世界の壁がやや低くなってきているので、可能性は昔よりあるのかなぁ・・・

巨大な勢力はかなり押さえつけてきましたからね・・・

比丘尼(女性の出家者集団)も壊滅してしまいましたし;;

最近になって徐々に広がっていはいますが、宗教独特の思考停止や自分の煩悩を認めてくれたり、論理的か否かより、耳に気持ちよく聴きたい言葉だったり、脅しや、ご褒美てきな揺さぶりによって、洗脳に近いものが多く広がった現在ではなかなか爆発的に広がることは難しいのかもしれません。

そのような今までの宗教思想団体は勢力・力を持っていますからなおさらでしょう。

期待はしていますが^^

<<信じれば救われるという宗教ではなく、誰もが検証できる言葉と概念で語られるもので救われ居たと思っています。また、本当に人を理解している者であれば可能ではないかと思いますがいかがでしょうか?
でなければ、上記のようなエセ信仰の餌食となる危険性が付きまとうと思うのです。>>

そう私も思います。

その問題提起でした。

「来たれ見よ」「知っているから語るのだ」「信仰でなく納得(検証)しなさい」「師・経典だからとて、しんじるものではない」というような性質の教え出なければ自由がなくなりますし、検証しないと、あたりがあるか無いかもわからないサイコロを振るようなもの。危険が付きまといますね。

一つ提案しておきます。

根拠の強いもの弱いものについて情報を分別してみると何か発見があるかもしれません。

感覚器官・その対象・認識などの生命にとって門である六根の研究は生命にとって、一番身近な根拠でしょうから分析的に調べることをお勧めします。

では

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お礼日時:2010/07/25 19:59

お礼返信いただきありがとうございます。



>他者の苦しみ・自己の苦しみはいずれなくなるという信仰を元のして、
>今生で自他が悩み苦しむということよりも、自分の貪りの怒りの心の
>欲求を具現化することを選び、自分が生きることが嫌になったら死ねばいい
他者の苦しみは無くなるとの信仰ですが、これは他者が死ぬことが前提だと思いますが、他者が永遠に死なくなるor語り継がれるという話でも通用しますかね?
また、これですと、「他者の苦しみ・自己の苦しみはいずれなくなるという信仰」が無くても自己の欲求(殺戮)だけあれば信仰が無くても良いように思います。その沸き上がる衝動の理由が知りたいところです。
諭さずとも、悪質なロボトミー手術であっさりと信仰を変えてしまう可能性は無いでしょうか?(仮に、その人の信仰の根本原因が脳であるとするならこれも1つの方法になり得ないでしょうか?)


ただ、何の信仰もなく、殺戮を行っている。例えれば、死刑台の様な自動の機械装置である場合、説得できる可能性は無くなると思います。
ただ、それでも、私は、そこに疑問を持ちます。例えば、なぜ、その死刑台になった、物質(原子や分子)はそこに存在して、その様な動作(殺戮)を行うのか?
たまたまであったとして、なぜ、その物質が選ばれたのか?そこには必ず選ばれた理由があるように思っています。
偶然という言い方はありますが、例えば、たまたま、自動車事故があった。運が悪かったで済ませるか、整備不良を疑うか、さらには、もっと深い要因を疑うか?このように、例え偶然でも何らかの理由は存在していると思うのです。


様々な考えを勉強されているようで素晴らしいと思うのですが、
思いついたり、考えたりする原因が分かれば、日々の悩みや疑問など(例えば今回の問い)が発生し、それをOshieteで問いたくなったのは何故でしょうか?
様々な仏典や哲学、思想を知っていても、確信を持って納得できなかったように思うのですがいかがでしょうか?

仮に、この疑問を思いつく根本的な理由が分かれば、その理由を分析することで結論も出るのではないかと思っています。
もしくは、それ(殺戮)を行っている人を仮定して、その人の思考が生まれた理由を理解できれば結論もでるのではないかと思います。

確かに、半端ではない、様々な蓄積はあると思いますが、45億年の歴史から見るとほんの僅かな期間です。宇宙誕生からみれば、さらにほんの僅かな思考期間です。
宗教や論理を聞いても、結局はその人に悩みを解決させるだけの力はなく、信仰している本人や教典を見ても矛盾が多く、私は、まだまだ絶対的に思考の時間が足りていないと感じています。

例えば、今となっては常識である地動説。これも多くの人が疑いなく思えるのは、実際に衛星を飛ばしたり、人が月に行ったり、様々な分かりやすい形で示されたからだと思います。難解であった相対性理論も原爆や原発があり体感的にも分かりる様に思います。

>世間の概念と真逆かつシンプルに見えるので、表面的にさらっと観て、拒否反応・つまらない・当たり前のこと・と検証する前に通り過ぎていく人が多いでしょう;;
そうであればとても残念ですが、本当にヒトを深く理解出来ていれば、ここまで考慮して、分かりやすく実践的or単純に面白く興味をひき読みやすい、小説、マンガ、テレビ、ネット、道徳・倫理の教科書、戦争回避の虎の巻などでもっと広く世に出ていても良いと思うのですが難しいものでしょうかね?
私は、実践的であるということは、このようなことまで考慮にいれて考えたく思っています。
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この回答へのお礼

<<他者の苦しみは無くなるとの信仰ですが、これは他者が死ぬことが前提だと思いますが、他者が永遠に死なくなるor語り継がれるという話でも通用しますかね?>>

死ぬことが前提です。
死なないという道理を私は知りませんし、聞いたこともありません。

その人が語り継がれても、その生命が死んでいるなら生きていることにはならないと私は考えます。
誰かを見た記憶自体がその見られた生命であるという見解を、私は知りませんし、聞いたこともありません。

<<諭さずとも、悪質なロボトミー手術であっさりと信仰を変えてしまう可能性は無いでしょうか?(仮に、その人の信仰の根本原因が脳であるとするならこれも1つの方法になり得ないでしょうか?)>>

そのように質問してはいません。

・・・

世間は自分の煩悩による希求を欲し、支援しますから、なかなか受け入れ難い教えだと思います。
単に見聞きしていないだけという可能性が大きいとは思います。頭では納得できるものばかりでしょうし。

世間で支持されるのは力でしょう。今は勢力が大きな力になっていますね。
政治的・思想関連団体・商売関連いろいろありますね・・・
内容はともあれ、勢力が強くなければ実践的とは認めないということは残念なことです。

最近はスマナサーラ長老などの活躍で徐々にですが広まってきてはいますが・・・

~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~

お礼日時:2010/07/25 15:38

補足ありがとうございます。



「生きているうちは、仕方が無いこと(ニーズ)」の中に「殺戮」というのは含まれないのではないかと思います。
そこで、「私はしない、ゆえにアナタも止めましょう」とは言えるのではないでしょうか。


「死ねば」というのは、おそらく一般的には「自然死」ということを想定しているのであって、そこに誰かの意図ということを予想しているものではないというようにも思われます。
「なるべく心穏やかで居よう」という人でも、「殺戮」ということにあっては、平然としているのは(かなり)難しいかもしれませんし、仮に平然として居られた場合であっても、殺戮した人に対して「罪」というものを残してしまうのではないでしょうか。

そもそも、殺戮とは、穏やかではありませんね。
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この回答へのお礼

kurinalさん回答ありがとう^^

「一般的」「多数の意見」の抱くであろう想定するであろう概念の想定についてここで問うているわけではありません。あくまで「人は死ねば消滅し無になる」という概念について問うています。

<<「仕方が無いこと(ニーズ)」>>

がいまいちわからなかったので「多分」といいました^^;

「生きているうちは、仕方が無いこと」=「生きていくうえで希望・絶望・・・起こる全ての現象」とするとわかりやすいでしょうか。

ちなみに死して完全に消滅するなら、罪は残りませんよ。残ったら消滅でなく新たな生まれ、来世があることになると思います。

ゆえに、個人的には、「死んだら無になる」「来世は無い」「死後は無い」という決め付け論理には非道徳・悪行為に入ることが期待できるものとして、危険な穴がある論理としてみています。



~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お礼日時:2010/07/25 11:18

(補足要求)


maggaさん、今晩は。

「「人は死ねば消滅し無になる」という概念」というのは、
「生きているうちは、仕方が無いこと(ニーズ)もあるが、死者であれば「完全なる涅槃」ということが可能(であるはず)だ」ということですよね?

この回答への補足

多分ですが、そのような理解であるとおもいます。

補足日時:2010/07/25 08:02
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ご返信いただきありがとうございます。



>死んだら終わりだからと「やり逃げ思考」に陥る人たちを説得
>することは不可能であろうと感じています
他者との関わりを一切無視したとしても、殺そうにもその道具(移動手段や武器)を使うだけでも他者が必要ですよね。そういった意味でも、完全に他者との関係を無視した状態でこの思想を実行できるものでしょうか?まだ、説得の余地はあるように思います。


>皆、「生きる意味がある」「生きることに価値はある」と
>無根拠に信じている場合が多いと思いますので、思索の参考になれば幸いです。
以前、その根拠について何人かに質問したことがあるのですが、大切な人がいたり、そのつながりで仕方が無く生きていたり、意味もなく生物的な(死にたくない)惰性で生きている人が多いような気がします。
故にその目標が失われた時もろく自殺する人が後を絶たない。何かこの世に強く引き留める何かがあれば自殺は少ない様に思っています。

>生きる意味とは?
生きる事に意味があるかどうかは分からないと思っています。リンク先でもあるとまでは断言されていないと思います。ただ、今日(7/24)現在生きている以上、生きている意味というか、理由はあると思います。言い換えれば、なぜ、今日、自殺せず生き続けているのか?ということです。
また、長く生きる事で何か見つかるかもとは思っているのでこの考えにとても共感できます。

実際、ここ数千年、多くの哲人や科学者が頑張ったが、結果として、誰もが納得できるような答えは見つかっていない。教科書を見ても書いてありませんし、考える人の多くは疑問を持っているように思います。
そのため、恐らく私が80年くらい考えたり研究しただけで答えが見つかる性質のものではないでしょう。
ただ、様々な事が分かる未来(実際ヒトが得らた知識や情報は、人類の歴史ともに指数級数的に増えています)には、何か見つかっているかもしれない。このように考えています。レイカーツワイル氏の未来展望などに希望を持っています。

また、書籍等の紹介ありがとうございます。
一応当方仏教系の学校をトータルで4年ほどいた(専門ではなく、ただ、学習に宗教の時間があった程度です)、正直どれも表面的な話に聞こえてしまい、もう少し、誰もが納得するような答えを求めています。
倫理などで習う感覚や自分を感じるという事についても、その感覚ななぜ起こるのか、そのなぜを何度も繰り返した果てに検証可能な形で何が示されるのか?このように考えています。
例えば、脳を手術をすれば考え方が変わる事もあるようで、感覚よりも、脳の構造や仕組みの方に本当の答えがある可能性があるかもと思っています。
もしくは、脳を形作る物質そのものやその組み合わせにヒントがあるかもと・・・・
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この回答へのお礼

yuix_99さん回答ありがとうございます^^

<<『死んだら終わりだからと「やり逃げ思考」に陥る人たちを説得することは不可能であろうと感じています』・・他者との関わりを一切無視したとしても、殺そうにもその道具(移動手段や武器)を使うだけでも他者が必要ですよね。そういった意味でも、完全に他者との関係を無視した状態でこの思想を実行できるものでしょうか?まだ、説得の余地はあるように思います。>>

前の「善意のつもりの殺戮者」と「やり逃げ思考の殺戮者」は切り離して後者の方で考えてみてください。

他者の苦しみ・自己の苦しみはいずれなくなるという信仰を元のして、今生で自他が悩み苦しむということよりも、自分の貪りの怒りの心の欲求を具現化することを選び、自分が生きることが嫌になったら死ねばいいという者に対し、元の信仰の穴を指摘し壊す以外にその余地を見つけることが出来ません^^;

もしあるなら教えていただきたいです。


<<今日(7/24)現在生きている以上、生きている意味というか、理由はあると思います。言い換えれば、なぜ、今日、自殺せず生き続けているのか?ということです。>>

まずいろいろな概念を考える上で根本的に必要と思われる『「生きる」とは何か?』を分析研究する必要があるように感じます。初期仏教のテーマかつ最終結論はそこにあると思います。パーリ語の仏典は、その研修検証方法検証結果ののった参考書のような感じです。

<<実際、ここ数千年、多くの哲人や科学者が頑張ったが、結果として、誰もが納得できるような答えは見つかっていない。正直どれも表面的な話に聞こえてしまい、もう少し、誰もが納得するような答えを求めています。>>

初期仏教で説かれる御釈迦様はハンパナイですよ^^;
論理的に実証的に理性的に大胆に語りますからね。今まで抱いていた御釈迦様象とは違い、かなり大胆に力強く語られていることに驚くかもしれません。もう頭では納得しか出来ない・・・が心が受け入れようとしない、踏ん張る。その理由と対処法まで説かれる。

「無常の見方」などを読めば、我々の「認識」の甘さに気付くことがあると思いますよ。

世間の概念と真逆かつシンプルに見えるので、表面的にさらっと観て、拒否反応・つまらない・当たり前のこと・と検証する前に通り過ぎていく人が多いでしょう;;

<<倫理などで習う感覚や自分を感じるという事についても、その感覚ななぜ起こるのか、そのなぜを何度も繰り返した果てに検証可能な形で何が示されるのか?このように考えています。>>

パーリ語の仏法がドンピッシャだと思います。

興味が湧いたら仏典側も「知ったからこそ説くのだ、知らないのに説くのではない」「来たれ見よといえる教えだ」と世間を挑発していますからw
検証者として本当にそのようなものか研究することは有意義なことだと思いますよ^^

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お礼日時:2010/07/25 08:43

>「他者の死を喜ぶものもいる。

他者の生に苦しむものもいる。」
トータルで見ると苦しむ者を多く作るのは間違い無いでしょう。仮に逆だと恐らく人類はもう消滅していると思います。

>「親族の友の救いを喜ばないなんて何てことだ!!」
この信仰は、 死=無 になることであり。 無になる事=救われる という思想ではないと思います。例えば、今、幸福であれば、その状態をマイナスの方向に追いやる訳で、不幸にしていると思う。

>「要は方法があればいいってこと?」
救われる方法があれば良いって事ですね。生き仏など死を伴う者もありますが、彼らやそれを信奉する集団の中では死で救われたのかもしれませんが、死に限らず人が救われる方法は様々ありそうです。

当初の質問、
>「人は死ねば消滅し無になる」という概念を信仰する人が
>殺戮者に対して「殺戮をしてはいけない理由」を説き納得させることは可能でしょうか?
この質問の論点は、この信仰者が殺戮者に説教を行う事が出来るか?そういった意味だと思っていたのですが、殺戮者の殺戮を止めるよう説き伏せるまでの必要があれば、この殺戮者が、なぜ、殺戮をしているかその理由を問いただしてみないと、考えることが広くなりすぎ難しくなりそうです。仮に、信仰者と同じく、死=無で考えるのであれば、全体的には、苦しみが増えるわけで説得できそうです。

>カーラーマ経
ちょっと気になって調べてみたのですが、最終的には、自分で実証して、それが正しいと思えるなら実行せよ。こんな感じでしょうか?犯罪者でも、それが正しいと、自分の中で確信が持てれば行えそうな・・・
恐らくもっと深い意味があると思いますが、私自身今信じていることは、全ての事はまだ信じるに値しない。もっと根本から分かった時こそ信じるべきだ。そのためには、長生きが必須である。こんな考えを信じています。疑問や悩みの発生する根本理由が分かっていないにも関わらず、これに完璧に正しい答えを出し、それを検証することは早計だと思っています。逆に、この悩みが起きる脳の働き、さらにはなぜ物質が存在したかの理由まで分かれば自ずと正しい答えに近づくのではと思っています。生きる意味とは?http://pia.skr.jp/hp/what_do_you_live_for/あたりの考え方は結構気に入っています。
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この回答へのお礼

yuix_99さん再びの回答ありがとうございます^^

説得できる例もあるかもしれませんが、この信仰では、死んだら終わりだからと「やり逃げ思考」に陥る人たちを説得することは不可能であろうと感じています。

カーラーマ経ですが、多分なのですが最初十項目のくだりを読んだのでしょうね^^
無碍経も来世の有無に対する理性的な分析法を書いているようにかんじます。

共に、パユットー師の「仏法」に抜粋して載ってますのでお勧めしておきますね。
(247p~)スマナサーラ長老の書籍や無料のポッドキャストもお勧め。

あとちょっと気になったことを。

「生きる意味とは?」ここで、「生きる意味がある」という決め付けが入っていないかチェックするのも有意義だと思いますよ^^b

皆、「生きる意味がある」「生きることに価値はある」と無根拠に信じている場合が多いと思いますので、思索の参考になれば幸いです。

感覚器官と対象物質の接触によって生まれる認識・・・・・

という視点で語る、初期仏教。お勧めですよ^^

疑問や悩みの発生する根本理由が頭の理解だけもできるかもしれません^^

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お礼日時:2010/07/24 14:40

そもそも、「殺戮はいけない」などという本質的必然性はなく、それは、


組織性(=分業による助け合い)が発達した社会の内での組織原理であって、
自然の中の食物連鎖においても、中世以前の人類の生存単位(血族>地域
>国)間の淘汰においても、戦い、生き残ることが善=進化の原動力であり、
それを否定しようとしても、そうした動き自体が淘汰されて、全体としては
抗争状況が持続することは、歴史が証明しています。
(彼らは「人は死ねば消滅し無になるという信仰」をしていた訳ではありません)

一方、組織化の発達による相互依存の強化において、特段の宗教的モラルは
なくても、自己の生存の社会性への拡張の自覚において、他我化(愛)は可能
になるのであり、「殺戮を許容する」のは「死ねば無になる」という認識に
よってではなく、「自己」が肉体に従属した短絡的感情に留まる“自己チュー”
によってです。
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この回答へのお礼

回答?ありがとうございます^^

そもそも

対象が生命であると知っていて。
殺意を持って。
対象を殺そうと行為に移し。
実際に対象の生命が絶命する。

という殺戮は生命の行為として、誰にも当てはまるような善悪は無いという概念をもっているのですね。

そうであるなら、不可能と感じるでしょうね。


※ちなみに「殺戮は死ねば無になるという認識によってなる」とはいってませんよ^^


~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お礼日時:2010/07/24 14:04

No.8では、背景の仮定のみ記述したため、ご質問への回答になっていなかったので、こちらに別記させていただきます。



その前に私の立場を明記しておきます。
1.物質として捉えられ得るものも精神として捉えられ得るものも、関連しあっていて切り離すことは不可能。
2.そういった意味での一元論。
3.個人レベルでは世間一般で言われるような死後の魂の存在は(知的に)否定。
  ただし、個人レベルで死後の魂の存在を信じる人には、その思いが生じる根本部分に共感する。
4.故人の思い(情)が後世に伝わって影響していくことこそが、本質。
  死後の魂が現実世界に影響するといった世迷い言を信じるよりも、自身の死後の現世の未来に積極的に働きかけようとすることの方が重要であり、そこにおいてこそ、「死後の魂」を希求する人々の思いの本質が隠されていると考えるからです。

上記の立場では、「人は死ねば消滅し無になる」とまではいかないまでも「人は死ねば、意識主体は完全に機能を停止し、如何なる世界に対しても、何の作用・影響も為し得ない」と考えています。

さて、ご質問の前提条件
> ※このとき「人は死ねば消滅し無になる」という概念を信仰する人は、その「人は死ねば消滅し無になる」という概念は壊さないように語る。
ですが、No.8で述べたように、背景には「自他の関連性の絶対的な切断」を信じるということがあると思っています。したがって、私の場合、その部分の認識を改めうるように説得することになるでしょう。
ただし、もし、説得に成功した場合には、おそらく、私の上述の立場での概念変化に相当することが生じるものと思います。

すなわち、「人は死ねば消滅し無になる」とまではいかないまでも「人は死ねば、意識主体は完全に機能を停止し、如何なる世界に対しても、何の作用・影響も為し得ない」かつ「生前の言動こそが重要であり、故人の思い(情)が後世に伝わって影響していくことこそが、本質。」ということです。

そのような変化が生じさえすれば、殺戮相手が「もし死ななかったら」といった仮定の下で、築き上げ、紡ぎ出して行くであろう様々な可能性の与奪に強く関連していることに気づくことでしょうし、一人を殺戮することは、関連している全ての人々を殺戮していくことに繋がり、最終的に自身をも殺戮しなければならないということに気づくことでしょう。


この概念変化そのものを、ご質問の前提条件が許容するかどうかで、回答に相当する「可能である・ない」の判定も変わるものと思います。
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この回答へのお礼

k_jinenさん再びの回答ありがとうございます。

<<すなわち、「人は死ねば消滅し無になる」とまではいかないまでも「人は死ねば、意識主体は完全に機能を停止し、如何なる世界に対しても、何の作用・影響も為し得ない」かつ「生前の言動こそが重要であり、故人の思い(情)が後世に伝わって影響していくことこそが、本質。」ということです。>>

「死ねば意識主体である機能を停止し、いかなる世界にも作用影響することもされることもなしえない。生きる苦しみが完全になくなる。」

という概念下、「どうせ最後は死ぬのだ。苦しいのは嫌だし、悩むのも嫌だけど、どうせ苦しいのもそれまでのこと。自分が苦しもうが他人が苦しもうが関係ない。それまで好き勝手やればいい。最後は死んで逃げればいいのだから・・・」という思いを抱く人には同じ概念下での説得は無理に感じますね^^;

「善き戒を捨て悪戒に入ることが期待できる。」ですかね^^;

個人的には死後について「決め付けの無い派」より「決め付けの有る派」「有無はわからない派」の方が安全に感じます。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お礼日時:2010/07/24 13:42

これまでの回答と応答との間でも触れられているようですが、



>>>
「人は死ねば消滅し無になる」という概念を信仰する
<<<
ということの背景に必須の(いや暗黙裏の)条件設定が隠れていると思います。

別の質問に対する回答でも少し記述したのですが、「死ねば無になる」といった概念の背景には
「自他は絶対的に切り離されうる」という概念が潜んでいると思います。

生まれる前、生きている間、死後・・・これらが連綿として関連し合い、紡ぎ出される世界・・・
そこにおいては、「生まれて欲しい」という希望、「生きていく」という意志、「あの人が生きていたならこう言ったかも知れない。あの人はこういった言動を残した」という想い。。。
それらは、生死を越えて連なっていくことでしょう。

そういった諸関係の紡がれていく様は、「(生きている間、そうして死後に想定されうるかもしれない)同一の魂」という概念の有無に関わらず、「絶対的に切り離されることなどありえない、どんなに切り離されたと幻想を抱いても、決して切り離されることのない関連性」といった概念にて捉えられ得るものだと思っています。

そういったことが背景にあるからこそ、「な ぜ 人 を 殺 し て は い け な い の で す か ?」 といった問に対しても、反論の心情を持って答えようとする思いを、人々に抱かせ得るのだと思います。

したがって、もし、「人は他者と完全に切り離されうる」といった概念を(幻想的にでも)抱きうる人がいたならば、「殺戮をしてはいけない」理由は理解され得ないでしょう。いや、受け入れるだけの素地がもともと欠落しているのだと言えるのでしょう。

そういった人々は「知的な思索」こそが、他の心の働き(情・意等)よりも絶対的に優位だと信じて疑うことのないインテリジェンスの持ち主だろうと、個人的に思っています。
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この回答へのお礼

k_jinenさん

回答してくれてありがとうございます。

「人は死ねば消滅し無になる」という考えには
「多因多果の無常なる現象世界からの離別」
「自他は絶対的に切り離されうる」という概念があるように私も感じます。

<<生まれる前、生きている間、死後・・・これらが連綿として関連し合い、紡ぎ出される世界・・・そこにおいては、「生まれて欲しい」という希望、「生きていく」という意志、「あの人が生きていたならこう言ったかも知れない。あの人はこういった言動を残した」という想い。。。それらは、生死を越えて連なっていくことでしょう。>>

それらは、個人個人の認識側の概念を抱くきっかけがあったという意味でのつながりで、生命というシステムの連帯という意味合いとはちょっと違う気がしますが、多因多果の現象世界においては間接的にでも「今」という瞬間には無始かも知れぬほどの遠い過去の現象もかかわっているとはいえると考えます。

<<もし、「人は他者と完全に切り離されうる」といった概念を(幻想的にでも)抱きうる人がいたならば、「殺戮をしてはいけない」理由は理解され得ないでしょう。いや、受け入れるだけの素地がもともと欠落しているのだと言えるのでしょう。>>

もし、「人は他者と完全に切り離されうる」といった概念を抱きうる人がいても、「殺戮をしてはいけない理由」を受け入れることができる素地が十二分に備わっている考え方もあると思いますよ。

お釈迦様(私が知るのはパーリ語仏典のお釈迦様ですが)の考え方は「涅槃」を語られるわけで、「人は他者と完全に切り離されうる」ともいえると感じますが、そのためには、道徳と智慧の開発をし、完全にしなければいけないようです。

そのように、同じ「人は他者と完全に切り離されうる」という概念を持っていても、条件によっては殺戮をしてはいけない理由とその理解をなすものもあると私は思いますよ。



~生きとし生けるものが幸せでありますように~

お礼日時:2010/07/24 13:10

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