先日、友人が聖書を読んでいました。私は、宗教に頼るヤツは自分の心が弱いからその支えを求めて、ココロのよりどころとしてはまってしまうんじゃないかってずっと思っていたんです。でも友人はこう言いました。「世界の文明がある国では、必ずといっていいほど宗教が生まれる。世界の人々が信じているキリスト教の考え方を学ぶことは、きっとこれから役に立つ」
この言葉が、今僕を悩ませています。人間ってなんで宗教を生んだんでしょう。聖書を読むことは、本当にこれから生きていく上で参考になるのでしょうか?聖書を読むということが、なにか宗教へはまってしまう道への一歩のようにも感じられます。
教えてください。人間にとって宗教の意義とはなんでしょう?

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A 回答 (11件中1~10件)

私も高校時代と大学時代にいろいろと宗教について考えることが多くありました。


私自身はコンピュータやプログラムが好きであり、いわゆる、理論派だったので、
そういったことを信じる方ではなかったのですが、たまたま私の周りや親を含めた周囲の環境上、そのようなことについて、考え、本を読み、また、実際に宗教をやっているところに、一緒に入って『祈る・拝む・経典を読む』などの行為もしました。
「外」から言っているだけ、「外」から考えているだけで何か言っている人は、所詮は「空論」。見えてません。
心から彼らが何に魅力を覚え、何を考え、何をつかもうとしているのか?
「実際の現場」としてどのように宗教と言う考え方を通じて何を得ようと(あるいは与えようと)しているのか?
私は、その中に入りました。1週間や2週間ではなく、数年間と長きに渡り、
そのようなことを彼ら共に実践してみました。
実践が全て、外に出ている本や情報など、それらの行動に比べれば、「カス」です。

その結果であっても、私は「いわゆる一般の人が考える宗教」には傾倒しませんでしたが、
しかし、私の結論としては、宗教はおそらく今後も人類が滅亡するその日まで必要であろうと思います。

宗教とは、sasapinpさんがおっしゃるような、「心の弱い人が支えを求めて」やっているのではありません。たまたまそのような状態がきっかけとなって入信する人の話が多く伝えられるための錯覚です。また、彼らがなにかを鵜呑みにしているのでもありません。熱狂的な側面はありますが、彼らは自分自身と周囲の環境を冷静に分析できています。
これは数年間中に実際にはいって、彼らを見た私が断言します。彼らの精神力の平均値、自らに対する自身、知性は、無宗教の人達を上回っていると思います。
「心が弱い」「神秘的なものが好き」「誰かに救ってもらいたくて」宗教をやっているのではなく、「良い世界を作りたくて」宗教をやっている。それをまじめに実践している。
例えば、sasapinpさんは、見知らぬ人間、自分と関係のない、人のタメに、50年間まいにちまいにち「祈り」、かつ「行動」できますか? あなたはその行動をみて、「心が弱い人だ」と言えますか? 祈りに祈り、その人のために尽くしに尽くした結果、その相手に、さらに「罵倒」されて、それでもなお祈り、かつ尽くす。

あなたは、それを「弱い精神だ」と言えますか?
「この人は何かに頼っている」と言えますか?
あなたは、なにか、世界を良くするために、まじめに取り組んでますか?

頼っているのは「宗教を信じる彼ら」ではなく、
そういったことを信じない「我々こそ」が、彼らに支えられている。
弱いのは、盲目なのは、彼らではなく、我々だ。
そう、私は思いました。

私が最終的に宗教に傾倒できなかったのは、
「そこまで心が強くなれる自身が私にはなかった」
「そこまで、心を鍛える、目を開く自身がなかった」からです。
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この回答へのお礼

実際中に入って体験されたんですか!?
説得力あるなー、そういう方の考えって。
でも、他人のために何かできるってことは自分のために何かすることよりも本当に
尊いんでしょうか?他人のために何か出来る強い精神があるとしたら、
なぜわざわざ宗教に入って祈るのですか?祈ることは無宗教の人でもできます。
「良い世界を作るため」に宗教は絶対条件なんでしょうか?
結局は宗教に入信することで彼らは強くなっているということにはならないのでしょうか?
なんか、疑問ばっかですいません。
でも、kokucho81さんの意見は参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2001/04/08 03:59

私なりの所感を少々述べさせていただこうかと思います。

いろいろな宗教の始祖の人たちも、おそらくsasapinpさんと同じような疑問を抱いていたのではないでしょうか?つまり、始祖の方は、なぜ宗教が生まれたか、聖書を読むことにより宗教にはまってしまう道への一歩になるという不安は抱いていなかったかもしれませんけど、世の中の出来事、物事、人の心や考え方などについて、いろいろと疑問を抱いていたことと思います。その答えを探すために、いろいろと悩み、考え、勉強をして、最終的には結論を導き出した。それが宗教なのではないでしょうか。その結論とは、かなり強引な形で導き出されたとしても、その人自身を救ったことでしょう。なぜなら、例え強引で根拠がない仮説であっても(さらに言うと嘘でも)、それを信じることにより悩み苦しまないで済むことになりますよね。そのことにより人は心の安定を得られ、結論が出るはずのない悩みや不安から解放され、落ち着いた社会生活を営むことができるようになるのでは。昔からのことかもしれませんが、宗教を信じその教義等を勉強するのは、大抵の人にとって負担が大きいことだと思います。真面目な人であれば、真摯な態度で教義を勉強し、世の中の矛盾や物事の真理を追求していけるのでしょうけれど。そこで登場するのが、ただ経典を唱えるだけで救いが得られるといったものや、(言い過ぎかもしれませんが)仏像等にお辞儀をすればよいというもの、分かりやすい例を出すと、チベット仏教のワニ車、これはローラーのようなものを回せば、その分だけ経典を唱えたということになるというもの。つまり、儀式的なこと(?)をすることにより、より安易に救いが得られるというものです。
話がかなりそれたかもしれませんが、聖書を読むということは、数学の定理や公式を勉強するのと同じだと思うのです。公式を暗記すれば問題は解けますよね。しかしながら、なぜその公式が生まれ存在しているということに疑問を抱く人は少ないでしょう。それでもその公式があることにより救われる人は多いのだから。つまり、公式は人々の経験の積み重ねによって生まれたものだと思います。頑張って聖書の勉強をしてください。あなたが勉強したことは、いずれ他人を救うことにつながることと思います。
p.s.
本当に訳の分からない文章になってしまいました。申し訳ございません。
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宗教は「心の救い」であると思います。

「心が弱いからその支えを求めて、ココロのよりどころとしてはまってしまう」という面もあるでしょうし。「心が強いからその支えを求めて、ココロのよりどころとしてはまってしまう」こともあると思います。いくら神を信じないといっても、例えば本当に自分が病気で死にかかっているときに祈りはしませんでしょうか。私にはそんな事はないという方はないと思っています。いまは元気だ,なにも怖くないと思っていますが,本当でしょうか。モンゴルの若い子ですが,社会主義の教育を受けて,神を信じないけれど,何かで困ったときに,神に祈る事もあるなといっていました。わたしは「特定の宗教」にはいっているから,「信仰」しているとき思いませんし,信仰家でもないとおもっています。「特定の宗教」にはいっていなくても「その教え」を実践しているひとこそ「信仰」していると思います。教義がなくても毎日太陽を拝んで感謝することもひとつの信仰と思います もう一つは「こころのやすらぎ」を求めていることです。そのためにいろんな考え方があるのです。「やすらぎの山」へ登る方法はいくつもありますね。それが,キリスとであったり,イスラムであったり,仏の教えであったりすると思います。中には間違って宗教もありますね。私はどんな宗教も「人間が人間として人間がしてはいけない」ことをしても良いとする教義の宗教は信じません。あるいは,その指導者が間違っているし,解釈を間違って自己の都合の良い解釈していると思います。 
「心」なんて体を解剖しても見つかりませんが,「心」ってないと思っている人は本当にいるのでしょうか。「心」が「脳」にあるならば, 「恋」や何かに「感動」したら,「なぜ胸が熱く」なるのでしょうか。「脳」が熱くはなった事はありませんね。

さらに科学が発達すればするほど「なんでこんな仕組みになっているのか,うまくできているのか」という不思議さに感動するのではないでしょうか。「それは誰が一体どうしてつくたのか」そのときの答えはなんでしょうか。決して人間ではとは答えられませんね。どこへ答えを持っていくのでしょうか。
   どの民族も「神」の存在を否定していないでしょう。太古からいまの「占い」とは違う「神に占う」事をしてきたのですから,それは宗教ではないでしょう。 宗教は「その宗教の教え」にしたがえば「心の幸せ,こころのやすらぎが」を得られるという事ではないでしょうか。 
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ヒトというのは集団生活をする獣ですよね。

そうするとルールというものが必要になってきます。ルールの維持のためには具体的な刑罰や管理者が必要です。どうしようもない身勝手で暴力的な者が横行していたのではうまくいかないですよね。そこで、超越的な絶対的な戒律が必要とされたのではないでしょうか。死ぬのが恐い、という根源的な恐怖心を利用して禁忌を作り上げた、というのは短絡すぎるかもしれませんが、そういう哲学的な考えをする者を政治が重宝した史実は確かにあると思います。
また、ブタを食さないとする宗教は、ペストの蔓延を防止する意図があった、とする本を読んだ事があります。衛生監理に利用されたわけです。宗教に地域性があって当然ですよね。
自然現象や生死観などでの考察が原点であろうと思うのですが、自然科学などの進歩で部分的に否定されながらも宗教が存在価値を失わないのは社会規範としての有効性が絶大だからなのだと思います。貧しく辛い人々には来世や天国で報われる、とし、豊かな者には奢る勿れ、と戒めて、集団を維持するのにはとても都合が良いですから。
各個人にとってどうか、というと、やはり心酔する事ができれば救済になるでしょう。とても耐えられないような辛い目にあった人は決まり文句通りに、信じる事によって救われてきたのだと思います。先代にそういう人がいれば代々信心する、という流れなのではないでしょうか。
私自身は現在無宗教ですが、将来家族をいっぺんに事故で無くす、などの経験をすることがあれば、死んでしまうか、そうでなければやはり出逢った宗教に救われるのではないか、と考えています。
すこしピントはずれの回答になってしまいました。失礼しました。
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私の意見もabenokawamotiさんの意見と大差ないですが..。



(1)教養としての宗教:

教養や文学書としては、「聖書」、「ギリシア神話」、「古事記と日本神話」、「仏教書」は必須とも言える古典です。「聖書」と「ギリシア神話」抜きに西洋思想や西洋絵画を理解することは出来ません。マルクスの資本論ですら、聖書という背景抜きには理解不能です。

聖書自体独立したものではなく、ノアの洪水などは、周辺の地域に広く残る「洪水神話」の一環に過ぎません。

聖書の地名や貨幣単位など(シュケール、ディナール)は現在も各地に残っており、聖書を読んでいるのと読んでいないのとでは、まるで、面白さが違います。

日本神話を紐解くと、海幸山幸など南方系神話、死んだイザナミを「見てはいけない」西方系神話、ととんでもない時間的・空間的広がりを持っており、それだけで、壮大な物語になりそうです。

ギリシア神話の神々の名前を「語った」商品名、世界中でどれだけあるでしょう。おそらく数えることが出来ないくらいでしょう。例を挙げるのがバカバカしくなるほどです。

(2)心の支えとしての宗教:

少なくとも私にとっては、無意味な存在です。アメリカ人や西洋人が毎週協会に行くと言われても、「それが何なんだ?」と聞き返すだけです。別に何でもアメリカ人の真似しなくちゃいけないわけではないでしょ?イスラム教徒は毎日メッカに向ってお祈りします。こっちは真似しなくていいんでしょうか?アメリカは先進国で唯一の超大国、片や石油だけでアルコールも禁止の堅苦しいアラブの国。でもより「敬謙」なのはイスラム教徒でしょ?

(3)世界史的にみた宗教特にキリスト教の役割:

世界史的に見ても、侵略的且つ好戦的なのはキリスト教国の方でした。十字軍も一方的にキリスト教徒達がイスラム教徒達の住む地域を侵略したのです。インカ文明を滅ぼしたのもキリスト教徒。生態系に適合した伝統的生活を送る人々にパンツを穿かせ、キリスト教に改宗させ、疫病を流行らせ、西洋文明を押し付ける。それは今でも進行中なのです。
日本の時代劇では、切支丹=善玉、それを取り締まる御代官=悪玉として描かれていますが、これは笑止千万です。すでに豊富秀吉の時代から始まった禁教令は、弾圧でも何でもなく、キリスト教宣教師を尖兵にした西洋諸国の陰謀に対する適切な防衛処置でした。家康、家光等も当然のことながら、正しい政策を守りました。

(4)キリスト教に対する付言:

但し、イエスの教えそのものは、非常に示唆に富むものであり、巧みな「譬話」と共に、宗教とは無縁の普通の人達にも読んで欲しいです。それとキリスト教国の行なった大規模な伝統社会の破壊、侵略的政策と比べると皮肉と言う他ないです。

規模はまるで違いますが、マルクスの思想が、彼を看板に掲げる者達によって、彼自身のユートピア的幻想とは全く反対のおぞましき世界を作りだしてしまったのと、よく似ています。

ですから私はどちらも信じません。信ずるのは(私にとって)有害無益です。
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この回答へのお礼

聖書とは、つまり受け取り手の考え方次第で何色にも変わる万能な参考書って
ことでしょうか。蛮行も、敬謙さも、すべて聖書や宗教が主体じゃないですよね。
結局、自分自身がどう思って、どういう風に教えを受け止めて、どう行動したかってことでしょ。
だとしたら、やはり多種多様な人々の信じる宗教をカテゴライズすることの
無意味さをやはり感じてしまいます。
宗教自体とその宗教の信者とは、切り離して考えなきゃいけないって思いました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/08 04:25

僕のおじいさんは曹洞宗の僧侶でした。


現在、寺はおじさんが継いでおります。
そのような生まれである身の僕は日本人にしては
比較的、宗教に対して接する機会を多く持っていたと
思います。

僕自身のことでいえば、いろいろあった挙げ句に、ほぼ無宗教
な人間になったと思っていますが、それでも安直に宗教全般を否定
するには到りません。

現代、近代に発生した新興宗教については僕はなんとも意見しかねますが、
それ以外の、長い歴史を持つ宗教に関して言えることは、

「宗教とは、科学や、哲学、法律、倫理が未発達だった時代における、
科学や、哲学、法律、倫理の総合体である」
ということであると思うのです。確かにそこには間違った教えもあります。
(キリスト教においては天動説。仏教においては部落民に生まれたのは前世の因縁とし、
差別を容認するような僧侶がたくさんいた時代。)
しかし、部分が間違っているからといって全体を否定してしまうのは、やや幼稚。
しかし、全体を肯定するために間違った部分をも肯定するのも、やや幼稚。
間違いは誰にもでもあります。否定するのは間違いだけでいいのです。
それによって、全体を見失ってもいけないし、部分を見逃してもいけない。
そういう意味においては、単なる全面否定は、盲目的に肯定するのと大差ない幼稚なことで
あるのではないかと思っております。

世界中で、宗教を信じている人はなんと多いことか!!
そこには、理由があります。そこには信じるに足るだけのなんらかの事実があるのです。
であるからこそ、「宗教に頼るヤツは自分の心が弱いからその支えを求め」ることも
できるのでしょう。しかし、宗教を信じる人を全てそう見るのは、ちょっと冷淡ですね。
kokucho81さんが言われているような「弱いのは、盲目なのは、彼らではなく、我々だ。」
と感じさせられざるを得ないような強い意志を持つ宗教人もたくさんいます。
いや、むしろ、そういう強き心の持ち主がいるからこそ、その強き心に惹かれて、宗教を
信じる人は増えていくのではないかな?と僕は思います。

で、話がとっちらかりましたので、まとめさせて頂きます。
1)「宗教とは全て●●である」とひとくくりにするのはやや早計。
 全ての宗教は相反する要素も持っていますので、一概に語ることはできない。
2)単純に全面否定も全面肯定もできない。信じるに足るだけの正しさも持ち合わせて
 いるからこそ、間違った部分すらも信じてしまう人を発生させているのではないか?
3)答えなど簡単にはでない。聖書を読むことを恐れているということは、あなたはそれについて
 何も知らないと言い換えることも可能。知らないことを否定するのは、固定概念に端を発する
 観念的なものであるから、その地点のままで、否定も肯定もできない。まず、知ることです。
 全てはそこからしか生まれない。ただ、そこで注意すべきことは、そこに書かれていることは
 正しいことばかりではないということ。間違いもあります。批判精神は失ってはいけません。
 多くの人を魅了する正しさの本質を見極めること。これは必ずや後の人生に役立ちます。
4)長い歴史をかけて熟成されてきた信じるに足るものに対する畏敬の念だけは忘れぬこと。

これが僕の宗教に対する考え方です。参考になりましたら幸いです。
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この回答へのお礼

よくわかります。
一部のみを見て早まった判断を下し、
全面肯定することと全面否定することは同義で、
何もわかってないのと同じですよね。
一括りに出来ない宗教に、一つの定義を求めること自体ナンセンスなのかもしれません。でも、とりあえず読むことからやっぱ始まるんだな。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/08 04:12

 私は仏教徒です。

といっても葬式と法事の時だけの仏教とですが・・・。
 そして、地元神社の氏子です。といっても、初詣と祭りの時だけの氏子ですが・・・。
 そして、キリスト教徒です。といっても、クリスマスの時だけですが・・・。(←これは、キリスト教徒とは言えませんか(笑))

 自分が「人生」とはナンゾや?とか、「自分はナゼこの世に生まれてきたのだろう?」とか、いわゆる哲学的疑問を抱いていない限り『宗教の意義』とは?なんて深く考えなくても良いのではないでしょうか?

 聖書を読むことは良いと思いますよ。旧約聖書、新約聖書。ユダヤ教、キリスト教のそれぞれ元になっている経典です。でも、あれを読んで「キリスト教って素晴らしい!」って言える人はスゴイって思います。法律の専門書を読むよりも「ワケ解からん」というものです。でも、ヨーロッパ圏のほとんどの人が読んでいる物です。これからの人は、海外に仕事で行くことも多いでしょう。仕事の相手が、どういう風土・考え方を持っているのかということを知っておくことは良いことです。
ついでに言いますと、ギリシャ・ローマ神話、北欧神話も読んでおく方が良いです。欧米の人達は、日本のおとぎ話感覚で子供の頃から慣れ親しんでいるものです。
 それから、お隣中国や韓国の人達とも今後様々な所で交流が考えられますので、仏教・儒教・道教関係の考えかたの基本が解るようなもの、それと中国の神話・伝説、韓国の神話・伝説の類は最低限読んでおいた方が良いでしょう。
 もちろん、日本の神話・伝説について知っておくことは当り前のことです。海外の人達とお話をする時に、自分の国のことを説明できなければ、恥をかくのは自分です。逆に、それらの事を知っていれば、何かの時に話題には事欠きません。
 とにかく、それぞれの宗教の基本的な部分を知っておくことは、一般常識の一つです。
 あまり堅っ苦しく考えずに、暇な時に、或いは勉強の合間に、様々な知識を吸収された方がこれからの人生に大いに役に立つと思います。
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この回答へのお礼

とりあえず読むことから、始まるってわけですね。
子供用の聖書とかないんでしょうかね。人の名前覚えるのも、一苦労です。
日本の伝説すらまともに話せないのに…。がんばります。

お礼日時:2001/04/08 04:03

宗教の本来の意義とは、『人間そのものを説明したもの』であり、その中の経典は『人間の生き方を説いたもの』です。

それに対して、『目に見える物理現象を説明したもの』が自然科学ですね。それらを統合したような形のもののひとつに現代医学があげられます。

これらに共通して言える事は人間に密接な関係にある点ですね。それに、それぞれ違う観点から同じものを見ようとしています。つまり、「人間」を研究する学問。宗教もまたそのひとつだと私は考えます。

日本での「宗教」のイメージは、オウムや統一教会などによって本来とは掛け離れた印象があります。いわゆる新興宗教ですね。「宗教と言えば新興宗教」。恐らく sasapinp さんはそうイメージしておられるのでしょう。
しかし、キリスト教国家であるアメリカなどをみると実に生活に溶け込んでいて、違和感がほとんどありません。
何故なら「人間に密接な関係にある」ものだからです。
中にはそんな国でも「宗教」を毛嫌いする方も居ますが、そのほとんどは「新興宗教」の影響によるものです。
すべての「新興宗教」が悪いという意味ではありませんが、必要のない人にとってはそれが「害」となります。

「人間」を研究する学問。特に知らなくても普段の生活には何の支障もありません。が、何度も言うように「人間に密接な関係にある」ものだけに常に身にまとわり付いて来ます。機械が故障した時や扱い方が分からなくなった時にその「取扱説明書」を読む。それと同じように、人間との付き合い方が分からなくなった時は「聖書」を・・・と言った具合です。

私の知人も「聖書」をその「参考書」として読んでいます。でも「神」は信じてないんですよ(笑)
私は「聖書」は読みませんが「格言集」などは良く読みます。どちらも用途としては同じだと思いませんか?

何か、答えのような答えになってないような感じですが、少しは参考になったでしょうか。
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この回答へのお礼

確かに、宗教と一括りにしてしまうと気づきませんが、新興宗教と伝統的な世界的な宗教は全く異質のものですよね。
私も宗教は人間を研究する学問、それも内面的なメンタル的な学問だと思います。
ただ、全てが正しいとは思いませんが。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/08 03:45

「人間はなぜ生まれてきたのか(存在とはなんぞや)」という問いに対する回答を得るためには哲学的なアプローチが有効だと考えます。


「人間が次の世代に残せる確実な知識を蓄積するため」には、科学的なアプローチが有効であると考えます。(実際、科学的なアプローチしかないのですが)
「人間は幸せになるために生まれてきた(幸せになるために生きていくのが人生である)」という仮定にたった場合、その行程、実践、評価はメンタルな部分が多くを占め、さらに個人により効果が出る道程が異なるため、そのアプローチとしては宗教が有効であると考えます。
簡単に表現してしまうとこんなことではないかと思いますが、どうですか?
なお、注意しなければいけないことは、エセ科学と宗教を混同してはいけないことです。
「自分にとっての、全人類にとっての幸せとはなんぞや」を真正面から研究するには、宗教という「思考プロセス」は一種の「伝統的なプロセス」としてとらえればいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

人間が幸せになるために宗教があるって事でしょうか?
うーん、難しいな。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/04/08 03:39

間違いです (^_^;)



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