さきほど放送されていた「トリビアの泉」で、武田信玄が愛人の男性に浮気を謝った手紙があるというのをやってました。
専門家の方が武田信玄に限らず、そのころの武将は少年をはべらせていた・・・というコメントがあったのですが、武将達は男の子と関係を持っていたということなのですか?
ちょっと気になったので・・・。

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A 回答 (5件)

こんばんは。



織田信長、上杉謙信、武田信玄、戦国の武将たちの多くは
いわゆる「少年愛」を普通のことのようにしていたそうです。

参考サイトをどうぞ。



参考URL:http://www.geocities.co.jp/Berkeley/9559/gayhist …
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この回答へのお礼

とても参考になりました。
現代の私には到底理解できそうもありません・・・。

お礼日時:2003/07/23 22:43

 戦国武将が若い少年をかっこっているのは、よくある話です。



 もちろん、体の関係もあったでしょうね。

 日本に限らず、世界的に見ても、男の権力者が若い少年を好きなのは珍しい例では、ありません。
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この回答へのお礼

日本に限らず、世界レベルの話なのですか?
自分の無知が情けない・・・。もしかしたら、現代でもそういうことがあるのかな。今だったら、もちろん犯罪ですけどね。

お礼日時:2003/07/23 22:48

戦国武将の少年愛については、歴史まんがや小説、ドラマなど見ると、そういう記述や設定がよく出てきます。


さすがに全国放送の大河ドラマあたりだと、ハッキリとは表現されてませんけど。

多分、戦国時代にかぎらず、女性が外出できない時代には、男性だけで外出することがほとんどだったので、女性の代わりをする対象が必要だったんだと思います。
合戦などあればなおさらですよね。

有名なのは、下の方が言っておられるように織田信長と森蘭丸、後の時代の徳川綱吉と柳沢吉保など。
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この回答へのお礼

そうですよね~。大河ドラマじゃ取り上げられませんよね。
女性の地位が低いから、仕方なかったのかな。

お礼日時:2003/07/23 22:46

昔は、そういった男性が少年と関係を持つことは


珍しいことではなく、稚児趣味と言って、別段禁忌とされもいませんでした。
ちなみに男色の歴史は古く、日本書紀にも小竹の祝と天野の祝という
二人の男性の心中の模様が描かれています。
また、ご質問の時代に関しては、
「梧窓漫筆」と言う随筆に、
「戦国の時には男色盛んに行なはれ、寵童の中より大剛の勇士多く出づ」
と書かれてあります。
早い話が、囲われていた少年の中から名称となった人たちも多い
と言うことです。
直江兼続、明智左馬介等が有名です。
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この回答へのお礼

日本書紀の時代まで・・・!?
正直、驚いた反面、嫌悪感まで出てきました・・・。

お礼日時:2003/07/23 22:41

普通のことだったはずです。

織田信長だって森蘭丸という少年をそばに置いていましたから。
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この回答へのお礼

普通・・・?驚きです!
日本史は勉強していなかったので、全く知識がなかったもので・・・。
えげつないかもしれませんが、武将はバイセクシャルということなのですね・・・。

お礼日時:2003/07/23 22:38

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Q武田二十四将のように武将でなるべく多い武将陣を教えてください

武田信玄には24の名武将がいた。
このように他の武将でも数多い名武将を抱えていた名君がいたと思うのですが、なるべく多くの名武将陣を教えてください。
上杉○○将とか。

詳しいサイトをご紹介いただくのもありがたく存じます。

何卒よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

Wikipediaで「武田二十四将」を調べたら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B0%86
関連項目のところに出ていました。

徳川二十八神将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%A5%9E%E5%B0%86

上杉二十五将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B0%86#.E4.B8.8A.E6.9D.89.E4.BA.8C.E5.8D.81.E4.BA.94.E5.B0.86

毛利十八将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B0%86

西園寺十五将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B0%86


ある程度有名なところのなかでは、やはり天下を取った徳川の二十八が最多なのかもしれません。

ちなみに中国まで範囲を広げると、雲台二十八将というのがあり、これが徳川二十八神将のモデルとなったということです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E5%8F%B0%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B0%86


そのあと少しググってみたところ、
丹後八十五将
http://www.google.com/search?source=ig&hl=ja&rlz=1G1GGLQ_ENAE281&q=%E5%85%AB%E5%8D%81*%E5%B0%86&meta=

和田九十三将
http://www.google.com/search?hl=ja&rlz=1G1GGLQ_ENAE281&q=%E4%B9%9D%E5%8D%81*%E5%B0%86&lr=

なんていうのもあるようですが、どの程度一般的な言い方なのかは分かりません。

Wikipediaで「武田二十四将」を調べたら、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B0%86
関連項目のところに出ていました。

徳川二十八神将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%A5%9E%E5%B0%86

上杉二十五将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%B0%86#.E4.B8.8A.E6.9D.89.E4.BA.8C.E5.8D.81.E4.BA.94.E5.B0.86

毛利十八将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%...続きを読む

Q三国志演技に出てくる諸葛孔明が南蛮行中遭遇した4つの毒泉(唖泉、滅泉、黒泉、柔泉)は実在したの?

こんにちは、お世話になります。

三国志演技を読んでいて、とんでもなくスゴイ毒泉が出てきて気になったのですが、本当に実在したのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E7%AF%80

唖泉:飲むと、口きけなくなり、10日以内に死ぬ。
滅泉:浴すると、皮膚がただれ、肉が腐る。
黒泉:手足を漬けると、手足をつければ黒くなり激痛が襲い動かなくなる。
柔泉:飲むと、喉をおかされて骨がばらばらになる。

フィクションな気がしてしょうがないです。

教えてください、よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

 『三国志演技』自体がフィクションです。『三国志演技』は元末明初の時代に羅貫中が書いたとされる時代小説であまりに出来がいいため、作り話であっても史実と混同されています。中国人ですら混同していると言う話を聞いたこともあります。日本に出回っている三国志のほとんどは『三国志演技』です。
 『三国志演技』のもととなっているのは晋の時代に陳寿が書いた『三国志』です。陳寿は元々、蜀の人間で劉禅に降伏を勧めた譙周が彼の先生です。さらに陳寿が書いた『三国志』に南朝宋の裴松之が異説や挿話を列記して史実を補充した注をつけました。『三国志正史』と言われています。「魏志」倭人伝も陳寿が書いた『三国志』の中にあります。

 『演技』と『正史』の内容の違いを大雑把に抜き出すと
・「桃園の誓い」の話が無い。
・『演技』では張飛が督郵を木に縛りつけ鞭打って劉備がそれを止めているが、『正史』では劉備が鞭打っている。
・美女・貂蝉はいない。呂布が董卓の侍女と密通していたとはかいてある。
・「赤壁の戦い」の記述がほとんどない。
・黄忠が夷陵の戦いの二年前に死んでいるので参加していない。
・関興や張苞が活躍している話は無い。
・魏の武将で『正史』では戦が元で死んでいる訳ではないのに『演技』だと戦死や傷が元で死んでいる事にされている人が多い。
・陳寿は孔明を政治家としては評価しているが軍事で臨機応変に長じていなかったと評価している。

 孔明の南征ですが大雑把に調べましたが『正史』のなかには毒泉の話はちょっと見つかりませんでした。『正史』では李恢・馬忠が南征で活躍しています。馬忠が東路軍を率い、孔明と李恢が西路の本軍をひきいたとあります。
 『演技』の記述で孔明の南征の戦術を云々する本があるが、それは全く無意味だと『正史』の解説本に書いてありました

 『三国志演技』自体がフィクションです。『三国志演技』は元末明初の時代に羅貫中が書いたとされる時代小説であまりに出来がいいため、作り話であっても史実と混同されています。中国人ですら混同していると言う話を聞いたこともあります。日本に出回っている三国志のほとんどは『三国志演技』です。
 『三国志演技』のもととなっているのは晋の時代に陳寿が書いた『三国志』です。陳寿は元々、蜀の人間で劉禅に降伏を勧めた譙周が彼の先生です。さらに陳寿が書いた『三国志』に南朝宋の裴松之が異説や挿話を...続きを読む

Q信玄の家来の数

武田信玄は何人家来がいたのでしょう?

Aベストアンサー

 落城で城が焼け滅びた武将については、資料が
少なく武田氏も同じです。

 信憑性は低いようですが、「甲陽軍鑑」が頼りで

 「武田法性院信玄公御代惣人数之事」
一、 「騎馬数合わせ」 9121騎 とあるそうです。
 これが家来数というところですか。

 但し騎とは騎馬武者の数ではなくて、人数と
解すべきで、9121人ということです。

 家来の武士1人が仮に従者3人を連れたとすると
総兵力、約3万6千というところです。

 従者とは徴発農民兵が大部分でしょう。

 城が残った、後北条や上杉には信頼すべき資料が
あるようです。
 
 謙信の天正3年の「軍役帳」が有名で 5514 人と
あります。

 家来(家臣)をどう捉えるべきかですが、徴発農民兵
を除いた準常備兵のこの数字でどうでしょう。

Qチャーチルは信玄ではない

動かざる事山のごとくない気がしました。
1945年のバルジ攻勢で怖気づいて?ソ連に攻勢を促進しました。
これは後に連合国側につけとなってしまったのではないでしょうか。
この経緯についての評価は一般にどうなのでしょうか。

Aベストアンサー

もともとソ連軍の攻勢を要望したのはアイゼンハワーで、チャーチルはそれに応えてソ連に電文を出したと思いましたが・・・ちなみにアイゼンハワーは、米本国にもソ連軍の攻勢を望む電報を出しています。
ソ連軍が攻勢に出たから後の外交的取引で不利に働いたという事はないと思います。
そもそも貸し借りで言えば、ソ連の借りの方も大きなものでした。米・英のソ連に対する軍事援助は莫大なもので、戦車1万両以上、航空機1万6000機以上、トラック40万両以上、その他の物資も莫大な数量が援助されています。
こうした援助がなければ、ソ連は勝てなかったでしょう。それを考えれば、ソ連軍の攻勢・・・、それも米軍の反撃が始まって10日も経ってからの攻勢では、大きな借りになったとは考え難いです。

そもそも、ソ連は米・英の軍事援助に感謝はしますが、それを外交上の事で配慮するという事はしない国です。
1944年8月のワルシャワ蜂起の時、英国は抵抗組織へのソ連軍による救援、または弾薬・対戦車砲の援助、もしくは救援物資を運ぶ飛行機の着陸許可を、ソ連に求めますが、ソ連はこれを拒否します。
ソ連は自国の都合が第一にあり、他国の都合は第二です。そのような国が一方的にバルジでの借りを返せと言っても妥当性はないでしょう。

ヤルタ会談では確かにスターリンのペースで事が運んだと言えるでしょうが、未だドイツが健在であり仲違いをしている時ではない事と、対日参戦を取り付ける必要があった事から米英が譲歩したいうのが一般的な見解です。バルジはそれほどつけにはなっていないと思います。

もともとソ連軍の攻勢を要望したのはアイゼンハワーで、チャーチルはそれに応えてソ連に電文を出したと思いましたが・・・ちなみにアイゼンハワーは、米本国にもソ連軍の攻勢を望む電報を出しています。
ソ連軍が攻勢に出たから後の外交的取引で不利に働いたという事はないと思います。
そもそも貸し借りで言えば、ソ連の借りの方も大きなものでした。米・英のソ連に対する軍事援助は莫大なもので、戦車1万両以上、航空機1万6000機以上、トラック40万両以上、その他の物資も莫大な数量が援助されています。
こ...続きを読む

Q【謙信VS信玄・山本勘助】 川中島の合戦に関する質問

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して位と兵を与え、自分の子飼いの武将を育成するための格好の利用場にしていた。
ただ上杉と戦争する気はなく、お互い、ある程度、馴れ合いの部分があった。
それだけに、川中島の霧の中で敵軍に遭遇したとき、
「やる気が無いように見せかけて、実はそれは罠で、本当は本気で、こちらを殲滅する気だったんだ!」
とお互いの将兵が思い込み、死に物狂いの乱戦になり、互いに多数の死者を出した。

疑問に思ったことを質問します。

1)川中島の合戦は5回もなかったという学者もいます。本当に5回も戦ったのでしょうか?

2)川中島の合戦のように5回も同じ場所で戦った合戦はありますか?

3)織田軍は略奪行為をしなかったのに、なぜ武田軍と上杉軍は敵地で略奪行為をしたのでしょうか?

4)上杉謙信が単騎で信玄の陣地に乗り込んで、信玄に斬りつけて軍配で受けたという話は事実でしょうか?

5)両軍が急接近して多数の死傷者が出たのは、“霧”の影響だというのは事実ですか?

6)軍師・山本勘助の「啄木鳥戦法」は事実ですか?

7)あの当時に軍師という役割は確立されていたのですか?

8)山本勘助は実在したのですか?

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して...続きを読む

Aベストアンサー

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。つまり構成の作り話ではなかったか、ということです。啄木鳥の戦法を始め現実的ではない話が多く、また最も疑問視されるのがあれだけ両軍に大損害が出たといわれていながら、その半年後には上杉、武田両軍とも何事もなかったかのように出兵をしているからです。

2)記録に残っているものはないでしょう。しかし、そもそも川中島の合戦そのものが合戦と呼ぶにふさわしいものかどうかが疑問なので、ふたつの軍勢が同じところで何度もにらみ合った(あるいは小競り合いをした)というのはあったかもしれません(それが資料に残っていないというだけで)。

3)織田軍は永禄11年に足利義昭を奉じて上洛したときに、確かに略奪はしませんでした。ただ、それは略奪の禁止を信長が厳命したからです。それ以外の時には織田軍といえどもいつも品行方正というわけではありませんでした。比叡山は焼き討ちにしていますし(当時の常識からすると略奪より罪深い)、一向一揆に対しても全く容赦していません。虐殺や強姦など茶飯事だったでしょう。また、戦国時代には相手の領土に攻め入って田畑を刈り取ったり、農村を焼き討ちにしたりするのは「戦法のひとつ」でした。信長は兵農分離を進めたことをご存知ですよね?これのメリットは農業が忙しい時期に攻め込んで田畑を刈り取ってしまうという嫌がらせが出来ることです。信長は美濃攻略でこの戦法をひんぱんに使い美濃衆を追い込んでいきました。

4)ウソです。SF映画インディペンデンス・デイではアメリカの大統領が自ら戦闘機に乗って戦いましたが、そのくらい荒唐無稽な話です。でも、そういう話があると面白いからそうなりました。

5)わかりません。あなたが示した説もあくまで「新説」にすぎないからです。あくまで個人的印象ですが、多くの人の賛同は得られないだろうな、という印象です。

6)これもウソといっていいでしょう。啄木鳥の戦法の最大の問題は、「甲陽軍鑑にあるだけの軍勢が妻女山に回ったとしたら、計算上先頭が妻女山に到着したときには最後尾はまだ海津城を出発していないことになる」からです。
余談ですが、謙信が陣取ったという妻女山ですが、川中島の北に「西条山」というのがあるそうです。この西条山と妻女山を間違えていたのではないかという説があります。この説に従うと、謙信の配置を見て信玄がまず海津城に入った動きは極めて合理的になりますが、その後の合戦の展開がどうなったかが全く不明という欠点があります。

7)軍師という役割はありましたが、#1さんも書かれているように占い師的な役割が大きかったようです。

8)いたことはいたみたいですよ。ただその実態については不明です。

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。...続きを読む


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