江戸時代が長く続いた理由はなんとなくまとめられたんですけど




今が続かない理由がぜんぜんまとめられません・・・




だれか助けてくださいーーーーーー><

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A 回答 (6件)

こんにちは。

 徳川幕府は三つの時代に分けることが出来ると思います。

(1) 初代家康から七代家継まで (1603~1716)
(2) 八代吉宗から十一代家斉まで (1716~1837)
(3) それ以降十五代慶喜による大政奉還まで (1837~1867)

何故長年続いたのかは初代将軍家康が幕藩体制の基礎固めをしたことであり、その辺は既にしっかり頭に入っているようです。 そこでこの辺は割愛します。 鎖国をして外部からの情報を遮断した体制も頭打ちになります。 そこで八代将軍吉宗以降、三度にわたる改革が行われます。 享保の改革、寛政の改革、天保の改革です。 これも既に頭に入っているでしょう。 

何故19世紀の中ごろになると幕藩体制が脆弱になったのか。 それは欧米列強による植民地支配が全世界におよび、日本はもう鎖国を維持出来なくなったからです。 

徳川幕府の田沼意次の時代に長崎を中心とした貿易を拡張して財政再建を果たそうとしました。 しかし、失敗します。 そして元の重農主義に逆戻り。 この間に長州は明との密貿易、薩摩は琉球を介しての三角貿易で財をなします。 

1853年の黒船来襲の時には重商主義に舵取りしていた薩摩と長州の力は幕府を大きく凌駕していたのです。 咸臨丸で進んだ欧米文化に触れた幕府も近代化を図ろうと画策しますが、時遅し。 薩長連合の前には抗するべきもなく。 大政奉還となったものです。 

19世紀の重商主義の波の乗れなかった徳川幕府の識見の甘さが滅亡の直接の原因です。 
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江戸時代が長く続いた理由はなんとなくまとめられたんですけど




続かなかった理由は、上記の理由(背景)が成立しなくなったから。
長く続いた理由が書けるなら、続けられなくなった理由もわかるはずです。
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最近、僕が発見したんですが、日本は、江戸時代まで、シルクロードの文化と、一緒に発展して。



その後に、インド、アラビア、トルコ、ヨーロッパへ、文化の中心が移動してしまい、それから、軍艦(船)で、ヨーロッパの人たちが、1周してやってきたので。

ヨーロッパの文化は、地球1周ぶん速かったみたいです。 だから、日本人は、みんなびっくりしてしまったみたいです。

今から、時代を インターネット、テレビ、飛行機、車、船、馬車、レンガの道、シルクロードまで、つなぎ合わせて、考えてみると、世界中の人は、仲良くして、物々交換をして、助け合って生きてきたことに気づきませんか?

だから、世界中の人と、できるだけ仲良くして、物々交換を、うまく続けないと、今がもう、続かなくなってしまうんじゃないですか?

大変かもしれませんが、お互いに、自慢とかしないで、行いを良くすれば、見放されることはないと、信じて生きるしかないと、僕は思います。
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今はまだ、戦後から続いている短い時期です。



現在進行形で終わっているわけではない。
終っていると考えられる要因がわからないから続かない理由もわからない。
ただそれだけのことですよ。
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それだけ民衆の意見が反映されているということです。



外国人の友人が言ってました。
私達の国では国民の意見が伝わらない。
だから独裁なんだと。
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今が続かないって何が?



政権について?
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Q江戸時代はなぜ260年も続いたの?

社会の宿題でこの答えを明日朝までに出さないといけませんが、厳しい決まりが多くて、辛い人も多かったはずなのになぜ長続きしたのか、納得できません。意見を聞かせて下さい。

Aベストアンサー

1圧倒的な軍事力
対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗じての侵略意図はありましたが本国の遥か彼方の日本への遠征軍を派遣する力がありませんでした。
国内では関ヶ原に勝利した徳川家に対する反感はあったようですが、多くの大名は領国を移動させられています。この状態で戦争を起しても足元の農民と敵の徳川家に挟み打ちの形になっていしまい勝負にさえなりません。当時の農民は大名の統治が気に食わなければ平気で他国へ逃げ出して税収を悪化させたり一揆の形で武力行使する油断のならない人々です。

2相互監視制度と諜報活動の発達
この二つは関連しています。まずは前者なんですが、これは地域行政と幕府・諸藩の政治体制に深く入り込んでいます。集落では数世帯で一つの班を作り相互扶助(災害・冠婚葬祭等)と犯罪取締りに役立てています。相互扶助はまだしも犯罪の方は連帯責任なので周囲で監視することで相当に抑えられます。政治体制では目付け(公認のスパイ)を常時放つ事で反乱等を事前に潰す事と幕府が諸藩に密偵を放つことで二重に管理しています。今でも御庭番といえば単なる園芸管理の職ではない事は知れ渡っていますし、薩摩飛脚は特に幕府が薩摩に放ったスパイとして知られています。もっとも方言やその他の理由で薩摩飛脚は成功例が少なかった様ですが・・・

3国内貿易・農業の発達。
これは幕府が主導したと必ずしも言えませんが、北陸や三陸沖などの航路の開拓により国内貿易が盛んになっています。それからこれも意図したわけではありませんが幕府が諸藩の財政を圧迫するために江戸城などの建設や諸国の水利事業などの土木作業によって水害が減り農地が豊かになった事。それから諸藩が干拓事業を盛んに行い財政再建の努力もあります。例えば倒幕勢力となった長州藩は一応は三十数万石の収入だったのが幕末までに実質百万石に達したという説もあります。人間は生活が安定すれば力ではなく秩序や言論で問題解決を図る傾向にあるためこれらの施策は有効だったのでしょう。勿論国内貿易での商品開発も見逃せません。やはり外貨獲得の為とは言え現在の日本各地の名産物(伝統工芸・農産物等)の多くはこの時代に育成された物が多くを占めている事実はその証拠です。

4身分制度
ここでは士農工商での差別は取り扱いません。ここではそのしたの身分であるエタ・非人についてや身分間の流動性についてです。
まず下の二つは身分制度の負の方向でのガス抜き効果です。人は悲しい生き物で、自分が恵まれなくても自分より下の立場の人間を見つけて優越感に浸ったり差別する事で現在の境遇の不遇を紛らわせる性質があります。次に身分間の流動性です。百姓(本来は英語でピープルの意味ですがここでは農民とします)や町民でも学問や武術に秀でれば武士に取り立てられる事は実例は少なくてもままありました。人は実現するかはさて置き希望さえ持てればその立場でベストを尽くそうとするものです。それこそが現在の不遇な境遇を打開する手段ならば尚更の事。実際に医者や学者に剣術家で著名人は武士出身以外の身分の人は多いのです。他には俗な事ですが遊郭の存在です。ここでは金さえあれば一晩は大名並みの扱いがなされます。元々の大名でも無一文からの出世人でもここでの基準は金次第です。ここでも不満と言う名のガス抜きがなされた様です。

以上の飴と鞭が260年の理由の一つだと個人的に思います。

1圧倒的な軍事力
対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗...続きを読む

Q徳川家が250年続いた理由

徳川家は江戸幕府を開いて、実に250年間もの間、権力の頂点に君臨し続けました。その以上に驚くことは、250年もの間、内戦が起きず平和状態を保ったことです。

よく、徳川繁栄の理由は「徳川家に害為すものは、どんな小さなものでも処理してきた。」と言われていまが本当なのですか? 具体的に徳川家は何をしてきたのでしょうか? 黒船が来るまで、敵対勢力がいなかったからでは無いでしょうか?

Aベストアンサー

体制が継続したということなら、世界には他にももっと長く続いたところがあります。
ヴェネツィア共和国 1000年間も続いています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
他にも、スコットランド王国、デンマーク王国、トルコ帝国、ロシア帝国、李氏朝鮮、明国なども長いです。
 
日本の平安時代も江戸時代より長いし、奈良時代は同じ政権と考えればさらに少し長くなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8C%BA%E5%88%86%E8%A1%A8
徳川幕府だけが長いのではないでしょう。
 
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
鎌倉時代に北条家、平安時代に藤原家が、事実上政権運営し、トップは形式化したように、江戸時代中期には老中などが政権運営の中心になり、徳川将軍の親政ではなくなります。幼くして将軍になったり、病弱だったり、政治には関心がない人もいますから。
http://chie.yakudachidata.com/cpdata/cpi/irekisi/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%80%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%89%B9%E5%BE%B4/
http://biofantasy.fc2web.com/kikaku/shougun.html
こうした体制は、共和国的な面があります。 
さらに江戸時代は、一つの中央集権国家というよりは、幕藩体制と云われるように封建連合国家で、いわば小国分立の状態です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html
http://homepage1.nifty.com/saga-t/kappa/daimyou/daimyou-main.html
全国が10国に分かれている程度なら、1つの藩が勢力を蓄えて大望を懐いたり、幕政にクレームを出すこともあるでしょう。 しかし、藩は、ほとんどが狭く、経済力も小さなものに分けられています。その上、政略結婚による連合を阻止する禁制や城郭改修の自由なども奪っています。 他の回答者が指摘されているように、幕府は藩に参勤交代や大工事の負担も命じます。 各地方勢力は、地域内で生きるのが精一杯になります。 表向きでは幕閣が幕政を取り仕切っていますので、不満は、徳川家に向うではなくて、老中などの幕閣に向かってしまいます。
現代では、国家とは離れた位置にある行政府が政治をし、政党政治や議会制政治がされるので、不満は国家体制に向かうよりも、政権や政権政党や政党、議員や官僚などに向かっていきます。 江戸時代も少し似ていて、不満があったとしても、不満を向ける攻撃対象が拡散するような状態でもあったのです。 現将軍を倒す、徳川家を滅ぼす、徳川幕府を倒す、朝廷や天皇家を倒すというようなことは、発想面からも、考えにくいことだったと思います。 隣接した藩相互で利害対立はあっても武力攻撃すれば、取り潰しの憂き目に遭うことは必至なので、武力衝突ではなく幕閣の裁定に訴えるようになってしまいます。
現代世界で、領土拡大欲求から隣国に攻め入る、食糧危機を乗り越えるために隣国に攻め入るというようなことはおきにくいです。それをしたら、国際制裁とか第三国やアメリカなどが介入して目的を果たせないどころか、やられてしまうことがわかるからです。 江戸時代も似ていて、藩は他国を攻撃できない状態です。 
江戸時代でも、天草の乱、飢饉などで暴動、世直し一揆、打ち壊し、大塩平八郎の乱などは起きるのですが、一藩の力で静圧できそうもない危険があれば、近隣各藩や幕閣派遣の兵が鎮圧します。

天皇家、朝廷・摂政関白、将軍、幕府の老中
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.AE.E6.91.82.E9.96.A2
は形式化します。
 
一血統の縦の流れで家系を長期間維持することは現実には難しいので、徳川も天皇家もバトンタッチはします。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F#.E5.BE.B3.E5.B7.9D.E5.AE.97.E5.AE.B6
 
日本がアジアの東端で西側にしか隣国がないこと、隣国との間に海があることなど、大陸と近い九州北部には防衛体制を7世紀から固めていて、実戦歴も4回あり、開戦しても労多く損失も多く、実益が期待できる可能性と考え合わせざるを得ないことなども、日本が他国と戦闘状態にならなかった理由だと思われます。
19世紀以降ならば、火力、艦船、兵站など軍事力が著しく発達しますから、九州北部の防衛線だけでなんとかなる状態ではなくなりました。(現実に、日本各地に異国の艦船が来て騒ぎになります)明治にならなくても、徳川代の続きでも、対外戦争は始まったでしょう。(薩英戦争はおきました)
 
日本が他国と比較的長期に戦闘にならなかったのは、地理的環境(隣国関係、航海や貿易の広がりがまだ極東まで及んでいない)と軍事力の発達過程が中途半端だったという時代の問題でしょう。 
国内で内戦が激しくならなかったのは、明確で不動の元首が存在しない政治機構であったこと、幕藩体制で小藩分立させ、地域での勢力連合結成を妨げたる施策をとったことが基本で、各藩の経済力を削がせる施策がさらに効果を高めたためだと思います。

体制が継続したということなら、世界には他にももっと長く続いたところがあります。
ヴェネツィア共和国 1000年間も続いています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
他にも、スコットランド王国、デンマーク王国、トルコ帝国、ロシア帝国、李氏朝鮮、明国なども長いです。
 
日本の平安時代も江戸時代より長いし、奈良時代は同じ政権と考えればさらに少し長くなります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8...続きを読む

Q江戸幕府が260年という

長い年月において政権が続いた理由について
ご存知の方がいらっしゃいましたら御投稿お願いします。

Aベストアンサー

政権が長続きする理由として、二つの面
から考える必要があります。

第一は、支配する側の力の強さです。
第二は、支配される側の納得の強さです。

力が強ければ強いほど長続きするように思えますが
北朝鮮を観ても判るように、力だけでは不安定に
なります。
反対に、納得の力が強ければ強いほど、支配する
力は弱くても長続きする訳です。

こういう処から、徳川支配を考えてみます。

1,支配する力の強さ。
 (1)軍事力
  旗本八万騎と言われるように、幕府には強大な軍事力があった。
  もっとも、八万というのは誇張だ、という説もありますが、
  旗本の子弟や、御家人を入れればその位になったと言われています。
 (2)経済力
  当時の日本は、全国で2400万石でしたが、徳川家は
  400万石も占めていました。1/6です。
  さらに、貿易を独占し、金銀山を開発しました。
 (3)大名の力を削ぐ
  参勤交代や普役を課しして、大名の経済力を削ぎました。
 (4)厳格な身分制度による、社会の固定化。
 (5)幕府内部においては、権力の分散を図った。
  例えば、老中に成れるのは、石高の小さな領主だけ。
 (6)鎖国。

2,納得する力の強さ。
 (1)永く続いた戦乱に対する反動。
 (2)改易などの処置が公平適切であったことが
  近年の研究で判って来ました。
 (3)百姓、商人などの意見を良く聞いた政治を行った。
  文献には、百姓を説得するのに苦労したとか、
  百姓の賛同が得られなかったので、ダメだったという
  記述が発見されています。
  又、近年の研究では、百姓ほど気楽な商売は無い、という
  文献さえ発見されています。
 (4)生産性が上がり、税金が、5公5民が実質上4公6民、さらには
  3公7民にまでなって、庶民に暮らしが楽になっていた。
  現代よりも低い。

政権が長続きする理由として、二つの面
から考える必要があります。

第一は、支配する側の力の強さです。
第二は、支配される側の納得の強さです。

力が強ければ強いほど長続きするように思えますが
北朝鮮を観ても判るように、力だけでは不安定に
なります。
反対に、納得の力が強ければ強いほど、支配する
力は弱くても長続きする訳です。

こういう処から、徳川支配を考えてみます。

1,支配する力の強さ。
 (1)軍事力
  旗本八万騎と言われるように、幕府には強大な軍事力があった。
  もっとも、八...続きを読む

Q戦国時代に乗っていた馬

戦国時代に武将たちが乗っていた馬はテレビとかでみて知っている 大きなものではなく
ずっと体の小さな馬だったと聞いたことがあるのですが 本当ですか?

だとしたら 迫力なくてしょぼい気がしますが…

Aベストアンサー

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできません。実際問題、当時の宣教師が残したものには「ヨーロッパの騎士は戦闘になると馬に乗るが、日本の武士は戦闘になると馬から降りる」と書かれてあります。馬ってのは基本的にかなり「高級な乗り物」なんです。皮膚が弱いので衛生状態をよくして世話してやらないとすぐ皮膚病になるし、水をちゃんと飲ませてやらないと便秘になってフン詰まりで死んじゃう。はっきりいえば、人間より手間がかかるんです。

さて、その日本の馬のしょぼさが明治近代陸軍の最大の問題になります。馬が小さすぎて物資や大砲を引っ張る駄馬はもちろん、騎兵馬がどうにもならない。しかも日本の馬というのは当時去勢されてなかったそうで、優秀な軍馬を集めようと明治陸軍が馬を一堂に集めたら、牡馬が一斉に盛ってしまって収拾がつかない大混乱になったと記録に残っています。
そのため、日本の内国産馬の育成の奨励のため競馬が行われるようになりました。JRAは元々は優秀な軍馬を育てるために発足したのです。
日露戦争でも、コサック騎兵で有名なロシアの軍馬に比べると日本の馬はかなり見劣りしたそうです。そのせいか日露戦争では騎兵同士の会戦というのはほとんど行われていません。日本軍があえて回避したようです。遡って日清戦争のときは「騎兵がしょぼい」のが悩みだったようです。
なにしろ、幕末の日本馬でもポニークラスなのに、それよりやや時代が古いナポレオンの軍隊の騎兵馬ときたひにゃ体重が800キロくらい(ちなみに今のサラブレッドが500キロくらいです)、こんなに大きな馬は日本ではばんえい競馬くらいです。重さ800キロが時速40キロくらいで突っ込んでくるんですから、ほとんど軽自動車が突っ込んでくるようなもんですわ。それを肉体で受け止めるスコットランド歩兵もどうかと思います。ワーテルローのネイ将軍の突撃は、さぞや迫力があったと思いますよ。

毎度どうもね。

諏訪湖の辺りだったかな、場所はちょっとうろ覚えですが、あの武田家の領地から戦国時代の馬の骨が出土したそうです。かなり丁寧に埋葬されていたそうで、馬といえども大切に扱われていたことがうかがえるそうです。
その大きさは、ほぼポニーと同じ。幕末の写真を見ても平均身長150センチの時代にまたがったら足がつきそうなほどだったので本当に小さかったようですね。
また、戦国時代当時は蹄鉄がありませんでした。だから、ワラで作った沓を履かせていたようです。ゆえにあまり無茶はできませ...続きを読む


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