江戸時代が長く続いた理由はなんとなくまとめられたんですけど




今が続かない理由がぜんぜんまとめられません・・・




だれか助けてくださいーーーーーー><

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A 回答 (6件)

こんにちは。

 徳川幕府は三つの時代に分けることが出来ると思います。

(1) 初代家康から七代家継まで (1603~1716)
(2) 八代吉宗から十一代家斉まで (1716~1837)
(3) それ以降十五代慶喜による大政奉還まで (1837~1867)

何故長年続いたのかは初代将軍家康が幕藩体制の基礎固めをしたことであり、その辺は既にしっかり頭に入っているようです。 そこでこの辺は割愛します。 鎖国をして外部からの情報を遮断した体制も頭打ちになります。 そこで八代将軍吉宗以降、三度にわたる改革が行われます。 享保の改革、寛政の改革、天保の改革です。 これも既に頭に入っているでしょう。 

何故19世紀の中ごろになると幕藩体制が脆弱になったのか。 それは欧米列強による植民地支配が全世界におよび、日本はもう鎖国を維持出来なくなったからです。 

徳川幕府の田沼意次の時代に長崎を中心とした貿易を拡張して財政再建を果たそうとしました。 しかし、失敗します。 そして元の重農主義に逆戻り。 この間に長州は明との密貿易、薩摩は琉球を介しての三角貿易で財をなします。 

1853年の黒船来襲の時には重商主義に舵取りしていた薩摩と長州の力は幕府を大きく凌駕していたのです。 咸臨丸で進んだ欧米文化に触れた幕府も近代化を図ろうと画策しますが、時遅し。 薩長連合の前には抗するべきもなく。 大政奉還となったものです。 

19世紀の重商主義の波の乗れなかった徳川幕府の識見の甘さが滅亡の直接の原因です。 
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江戸時代が長く続いた理由はなんとなくまとめられたんですけど




続かなかった理由は、上記の理由(背景)が成立しなくなったから。
長く続いた理由が書けるなら、続けられなくなった理由もわかるはずです。
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最近、僕が発見したんですが、日本は、江戸時代まで、シルクロードの文化と、一緒に発展して。



その後に、インド、アラビア、トルコ、ヨーロッパへ、文化の中心が移動してしまい、それから、軍艦(船)で、ヨーロッパの人たちが、1周してやってきたので。

ヨーロッパの文化は、地球1周ぶん速かったみたいです。 だから、日本人は、みんなびっくりしてしまったみたいです。

今から、時代を インターネット、テレビ、飛行機、車、船、馬車、レンガの道、シルクロードまで、つなぎ合わせて、考えてみると、世界中の人は、仲良くして、物々交換をして、助け合って生きてきたことに気づきませんか?

だから、世界中の人と、できるだけ仲良くして、物々交換を、うまく続けないと、今がもう、続かなくなってしまうんじゃないですか?

大変かもしれませんが、お互いに、自慢とかしないで、行いを良くすれば、見放されることはないと、信じて生きるしかないと、僕は思います。
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今はまだ、戦後から続いている短い時期です。



現在進行形で終わっているわけではない。
終っていると考えられる要因がわからないから続かない理由もわからない。
ただそれだけのことですよ。
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それだけ民衆の意見が反映されているということです。



外国人の友人が言ってました。
私達の国では国民の意見が伝わらない。
だから独裁なんだと。
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今が続かないって何が?



政権について?
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Q一般的にTBSテレビ系列の地方局はラテ兼営局が多い理由は?

日本では東京にある日本テレビ、TBSテレビ、フジテレビ、テレビ朝日が、キー局となって地方の道府県のテレビ局、ラジオ局を系列化しております。このうち、東京のTBSテレビはラジオ・テレビ兼営局であり、アナウンサーやニュースソース、放送設備、局舎などをラジオとテレビで共有しています。またTBSテレビの系列局となっている地方の民間放送局もTBSテレビラジオと同様に、ラテ兼営局が多く、同様にアナウンサーやニュースソース、放送設備、局舎などをラジオとテレビで共有しています。

東京の他のキー局では資本関係が在ってもラテ兼営とはせずに表向きは全く別の局として経営することが多いようです。
フジテレビとニッポン放送、文化放送、お台場時代はフジテレビとニッポン放送は局舎が一緒だったが、ニッポン放送が有楽町に戻ってからは離れ離れになりました。文化放送は一見フジサンケイグループとは何の関係もないように見えますが、人事交流があるようです。(ただしニッポン放送とフジテレビとの交流ほどではないようです)

日本テレビとラジオ日本は一見全く別の放送局に見えますが、時折、放送中に「ラジオ日本は日本テレビ系列のラジオ局です」ということを言ったりしています。また日本テレビ所属のアナウンサーが出向扱いでラジオ日本のアナウンサーとして異動したりしています。

TBSテレビが、ラテ兼営の地方局を(優先的に?)系列化している理由、歴史的背景は何でしょうか?

日本では東京にある日本テレビ、TBSテレビ、フジテレビ、テレビ朝日が、キー局となって地方の道府県のテレビ局、ラジオ局を系列化しております。このうち、東京のTBSテレビはラジオ・テレビ兼営局であり、アナウンサーやニュースソース、放送設備、局舎などをラジオとテレビで共有しています。またTBSテレビの系列局となっている地方の民間放送局もTBSテレビラジオと同様に、ラテ兼営局が多く、同様にアナウンサーやニュースソース、放送設備、局舎などをラジオとテレビで共有しています。

東京の他のキー局で...続きを読む

Aベストアンサー

我が国の民放TVは、1953年8月28日に開局した「日本テレビ放送網」(NTV 日テレ)を皮切りに、1959年頃までには、各地に民放が開局し、在京キー局、(日テレ、TBSの前身KRTラジオ東京テレビ、テレ朝の前身NET日本教育テレビ、フジテレビ、なお、テレ東の前身東京12チャンネルは、この時点では未開局でした)が、自局の系列局を増やすことに、躍起になっていました。
 そのうち、TBSの前身KRTは、現在はラジオ、テレビを分社化しましたが、もともと、1つの民放で、ラジオ、テレビ両部門を持つ兼営社で、これが地方のネットワーク展開において、強みになりました。
 例えば、SBS静岡放送、BSN新潟放送などは、ラジオ時代から、KRTの支援を受け、テレビもその系列となり、現在に至っています。
 このように、KRT(TBS)は、兼営社である強みを活かし、ラジオ時代に、地方局に対して、積極的な支援を行い、近い将来、テレビを開局の際は、ぜひともうちの系列局になってくださいと、根回しを行い、これが、少なくとも70年代前半までは、JNNと呼ばれた、最強のネットワークを形成出来たということです。
 また、ラテ兼営局は、そのエリアで最も早く開局した局が大半で、また大半のエリアでは、民放TVは1局だけでしたから、大体、地方の兼営局は、TBS系列と、日テレ系列に2分されています。
これには、地方の中継用マイクロ回線の事情も絡んでおり、例えば、愛媛のRNB南海放送も、ラジオ時代の繋がりから、テレビもTBS系列になることを望んだのですが、当時、四国地方には、マイクロ回線が1系統しかなかったため、四国4県の、先発のラテ兼営局は、全て日テレ系となり、また、九州地方も、1系統だけだったため、ここでは、先発の兼営局は、全てTBS系列となっています。
 また、地方局には、大抵、地元地方紙の資本が入っているため、日テレのように、読売色が強いキー局は敬遠され、新聞色が薄かったTBS系列を選択したという経緯もありました。
 これら日本のTVネットワーク形成の経緯については、ちょっと古い本ですが、猪瀬直樹著「欲望のメディア」(小学館発行)に、詳しく記載されています。

 http://www.amazon.co.jp/%E6%AC%B2%E6%9C%9B%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2-%E7%8C%AA%E7%80%AC-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4093941637

 これは、1990年頃「週刊ポスト」の連載記事を、単行本化したもので、私も持っています。

我が国の民放TVは、1953年8月28日に開局した「日本テレビ放送網」(NTV 日テレ)を皮切りに、1959年頃までには、各地に民放が開局し、在京キー局、(日テレ、TBSの前身KRTラジオ東京テレビ、テレ朝の前身NET日本教育テレビ、フジテレビ、なお、テレ東の前身東京12チャンネルは、この時点では未開局でした)が、自局の系列局を増やすことに、躍起になっていました。
 そのうち、TBSの前身KRTは、現在はラジオ、テレビを分社化しましたが、もともと、1つの民放で、ラジオ、テレビ両部門を持つ兼営社で...続きを読む

Q江戸時代で「太平の世」が200年以上続いた理由

はじめまして。

江戸時代は「太平の世」と呼ばれる戦乱の無い時代(由井正雪やら大塩平八郎やらはありましたが・・・)が200年以上も続いているのは、一体どういう背景が原因だったのでしょうか?
平安時代も400年近く続いていますが、それとは全く別種の200年だと思うのです。

ろくに勉強もしていない私の個人的な意見ですが、
列強さえ来なければ、あと100年以上続いていてもおかしくないのでは?と思っています・・・


以下、私がいくつか推測したものです
・儒教理念の援用による封建的身分秩序の確立から、反乱因子を減らした
・鎖国政策のため情報が寡占化され、愚民化が推し進められた
・参勤交代などで、軍事動員権の周知・更新を図っていた

的外れの予想かもしれません、どなたかご教授いただけると嬉しいです。

Aベストアンサー

質問者さんは国内の要因だけに目を向けているし、他の回答者も同様のようですね。
しかし、外的要因も見落としてはいけません。
つまり、日本が島国で外国からの侵略を受けにくいという点と極東と呼ばれていたように欧米列強国から遠くに位置していたという、地理的な条件が、200年間の太平をもたらしたと言えると思います。
また、大した資源もない国なので列強の関心を買わなかったという点も挙げておきましょう。
17~18世紀というのは西、葡、英、仏等の列強が植民地政策を繰り広げ、激しい戦争を繰り広げておりました。
日本も、列強に狙われていたら国内で英、仏等が争奪戦を繰り広げ、諸藩も英派、仏派に分かれて戦争していたでしょう。

Qペット(主に犬・猫)が捨てられる理由

ペット(犬・猫)が捨てられる理由はどのようなものが考えられるでしょうか。
CMやドラマで可愛いペットが登場すると、それに便乗して
知識も何もない人がただ可愛いというだけで飼い、飼えなくなると
すぐに捨てるという問題が増えていると聞きます。
私は以前から捨て犬・捨て猫について考えているのですが、
恥ずかしい話、今までは「なぜ捨てるのか」を考えず、ただひたすらに
捨てられるペットが減ればいいと考えていました。
これからは、捨てられるペットを減らすためにも、その根源を絶つために
どういった理由で捨てるのか、少しでも知りたいと思い質問しました。
分かりづらい質問とは思いますが、何卒よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

ひとえに人間の勝手ですよね…。

たとえば流行りのミニチュアダックス。
猟犬なので吠えます。
当たり前です。人間がそうゆー役割の犬に作ったんですから。
だけど身勝手な人間は、犬の習性も理解せず、流行りや見た目の可愛さだけで購入し、手に負えなくなって処分するのです。

他にもハスキーやレトリバーやダルメシアンなど、流行りがあった犬種はたくさん売れて、たくさん保健所へ連れて行かれました。
全くおかしなはなしです。

サンフランシスコは犬をお店で売らず、センターに保護されているコらを、犬が欲しい人に適正だと審査された上で譲っていくみたいです。
日本もそうすれば良いのにとホンマに思います。
でもお金儲けのためにバンバン流行りの犬種の子供を増やし、お母さん犬は一年中妊娠、子犬は売れなかったら処分…みたいな恐ろしいことを繰り返してるんですよね…。

金儲け主義で動物を道具だと思ってる人のことも憎いけど、家族になった生き物をそんな簡単に手放せる人もあたしには理解できません。

犬猫に愛情を注げない人を冷たいと感じるのは、それはあたしの自己中な思い込みかもしれませんが、いらなくなった犬や猫がどうなろうと知らないって思ってる人種が身近に大勢いる、そして普通の顔して暮らしてる、と思うとほんと怖いです。

ひとえに人間の勝手ですよね…。

たとえば流行りのミニチュアダックス。
猟犬なので吠えます。
当たり前です。人間がそうゆー役割の犬に作ったんですから。
だけど身勝手な人間は、犬の習性も理解せず、流行りや見た目の可愛さだけで購入し、手に負えなくなって処分するのです。

他にもハスキーやレトリバーやダルメシアンなど、流行りがあった犬種はたくさん売れて、たくさん保健所へ連れて行かれました。
全くおかしなはなしです。

サンフランシスコは犬をお店で売らず、センターに保護されているコ...続きを読む

Q日本の全ての時代で江戸時代が最も栄養状態が悪い理由

平和で、しかも国民の8割が農業または漁業に従事していたのに「日本のすべての時代の中で最も小柄だった」と書かれている。江戸時代の日本人の栄養状態が戦国時代や平安時代より悪かったのはなぜでしょうか。
過去質問によると江戸時代は国防上の理由で馬車など車輪を使った乗り物の製造や利用は制限され、船も大きなものは作れなかったようですが、農業・魚業には何か制限や制約はありましたか。
何割までと定めたルールは現実には守られず、武士・支配階級が収穫された農作物を好きなだけ年貢として搾取していた実態などが実はあるのでしょうか?
教えてください。

Aベストアンサー

江戸時代の平均身長が低かったということは言えそうですが、それが栄養状態が悪かったためだと、いう理由づけは寡聞にして知りません。

日本人の平均身長が時代によって伸びたり縮んだりしていたことは推定されています。
人骨や鎧の寸法から、鎌倉時代は全般に大柄だったと言われています。
平安時代は比較的小柄だったようです。(何分にもサンプル数が少な過ぎます)
鎌倉時代よりも江戸時代のほうが栄養状態が悪かったという史実は確認されていません。
戦国時代末期から江戸時代前期にかけて人口が増大しています。
栄養状態が悪い状況下で長期間に渡って人口が増加するということは考えにくいのではないのでしょうか。

頭蓋骨の形も上から見て丸くなったり楕円型に長くなっているそうです。
人骨や烏帽子などから鎌倉時代の人達は、楕円型に長かったようです。
このようなことからすると、鎌倉時代の人達は欧米人に近い体型だったようです。
江戸時代は丸かったそうです。
小柄で丸顔で鼻ぺちゃが江戸っ子の平均的な人相だったようです。
面長な花魁がもてるわけです。

このように時代によってサイクル的に変化する理由については未だに定説がありません。

江戸時代の農村は決して貧しくはありませんでした。
貧農史観というのは、明治政府が自己の正当化のために江戸時代を卑下中傷した結果です。
さらに、第二次世界大戦後の左翼系思想家が自虐的史観のなかで喧伝しました。
明治時代の方が農村は疲弊していました。
江戸時代の年貢の税率が一見高かったのは、帳簿上の数値の上でだけの話で、実行税率は低下しています。
困窮していたのは武家層です。
武家の財政は幕府、大名のみならず御家人にいたるまで破綻していました。
貧農史観のように農村が貧しかったというのは、郷土芸能が盛んになり伝承されてきた事実と辻褄があいません。
食うや食わずの人達が踊りや民謡にせいを出すとお考えでしょうか。
祭りの行事などを金をかけて200年も300年も伝承できたとお考えでしょうか。
武家が盆踊りをしたり村芝居をしたなどという話は寡聞にして知りません。
下記サイトをご参照ください。

石高 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/石高

江戸時代の百姓は本当に貧しかったか?
www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub226.htm

百姓の年貢負担は重くはなかった
www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-19.htm

下記のような書籍も出版されています。

貧農史観を見直す  佐藤常雄/大石慎三郎    講談社現代新書

農民一揆も左翼思想家がいう階級闘争ではありませんでした。
農村の内部というのはピラミッド構造をしていて農民どうしで経済力に著しい差がありました。
年貢徴収の実務は、富裕層の農民からなる名主(庄屋)を頂点とした自治組織が担っていました。
年貢も個人単位ではなく、村落単位で課税されていました。
低所得者層は年貢納入の義務からは外されていました。
むしろ富裕層の農民に対する低所得者層の農民の不満が蓄積された結果のものの方が多数を占めています。
なかには、なれあい一揆もありました。
下記サイトをご参照下さい

本百姓 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/本百姓

水呑百姓 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/水呑百姓

一揆の実態については下記のような書籍があります。

一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで 呉座勇一 洋泉社

こんなコメントがある書籍です。
一揆からイメージされる、権力(悪代官)に立ち向かう民衆(正義)という単純な勧善懲悪的なものではなくけん制、戦略、取引、なれ合い、デモンストレーション、平等性の演出とか、一揆の中にそういう生身の人間の様子が感じられたのは興味深かったです。

>江戸時代は国防上の理由で馬車など車輪を使った乗り物の製造や利用は制限され、船も大きなものは作れなかったようですが、農業・魚業には何か制限や制約はありましたか

馬車
車輪を使った移動手段は平安時代までは牛車がありました。市中専用でした。
車輪を使った移動方法というのは、大陸のように固い平坦地が続く地形では有効です。
山岳と起伏に富み、急峻な河川と沼沢地に囲まれた日本列島の地形では恐ろしく効率の悪い移動手段です。
日本中に隣の村落へ行くのに川を渡らずに行ける地域がどの程度あるとお考えでしょうか。
橋は台風などで年中行事のように流されます。水量の増減が激しいのが日本の河川の特徴です。
コンクリートのダムなど無い時代です。
同じように峠を越えることなく隣国へ行ける地域がどの程度あるとお考えでしょうか。
石の無い砂地だけの河原を持った河川がどれだけありますか。
馬車をひかせるよりも、背中に乗せた方がはるかに移動が自由です。
アスファルト道路も高速道路もない時代です。


軍船以外には特に規制はありませんでした。
下記に述べる理由により、交易船の難破沈没が多かったことから、リスク分散の観点と経済効率から700石~800石程度が主流で最大でも3000石のものが数隻あっただけです。
理由
(1)日本の沿岸海域は潮流が複雑であることは世界的にも有数のものです。
詳しくは下記サイトをご覧下さい

黒潮の組織的渦構造と沿岸水域環境との間の乱流論的プロセス
library.jsce.or.jp/jsce/open/00008/1996/43-0411.pdf

海洋スケールの渦現象
www.nagare.or.jp/download/noauth.html?dd=assets/files/downlo...

一たび黒潮の外へ流されればあとは太平洋があるだけです。
生きて帰れる保証はありません。まして積荷の保証は不可能です。

夏季には南方海上で発生した台風が来襲します。
季節の変わり目には長期間にわたって前線が停滞します。(梅雨前線、秋雨前線)
天気予報技術が未発達な状態で、天候の急変、風向きの急変、突風などの予測は人間の勘以外に頼るものがありません。

(2)海外への渡航が制限されていた結果、大型外洋船の需要がありませんでした。
(3)港湾設備が未発達であったことから、喫水の深い船は接岸できませんでした。
これらの理由により下記のような独特の構造の船が発達しました。
洋式帆船と和船の違いは下記のサイトをご覧下さい

洋船と和船のちがい - 日本財団 図書館
nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01046/contents/003.htm

大きな船を作る技術が無かったわけではありません。作れなかったのではなく作る必要がなかったためです。
伊達政宗が1613年に派遣した慶長遣欧使節団が太平洋を渡るのに使った洋式帆船サン・フアン・バウティスタ号は日本人の船大工が作ったものです。伊達藩での使用が終了した後はヨーロッパへ回航されて長く現地で使われていました。

車両にせよ船にせよ国防上の理由などというものは何処にもありません。

>農業・魚業には何か制限や制約はありましたか
特別なものはありません。
当時の海も川も池も沼も清潔でした。農薬だのなんだのと化学薬品が混じることはありませんでえした。
江戸だろうが大阪だろうが街の傍の海へ入れば魚介類はいくらでもとれました。
時には江戸湾(現東京湾)でクジラが採れることもありました。
潮干狩りは子女の季節の楽しみの一つでした。
内陸の池や川にはどじょうもたにしも潤沢にいました。子供でも採れます。
ただし、クール宅急便がありませんし、家に冷蔵庫もなかったので、内陸部で海の魚の刺身を食べるのは難しかったです。
ただし、干物は潤沢に出回っていました。
川魚はどこでもいくらでも採れました。

大阪と松前を往復していた北前船の主要な荷物は身欠きにしんでした。
食べるだけではなく綿の肥料にも使われていました。
現在でも関西ではぼうだら(干だら)は正月には欠かせない食材です。
関西料理の出汁は昆布です。昆布も鱈も鰊も大阪湾では取れません。
物流の発達した江戸時代が、それ以前の時代よりも食材が不足していたなどという史実は寡聞にして知りません。

>武士・支配階級が収穫された農作物を好きなだけ年貢として搾取していた実態などが実はあるのでしょうか?
このようなバカ侍は希少価値がありました。
武家というのは米がすべての生活の基本です。
武家は米を金に換えて生活していました。
自分の生活を支えている農民を虐待する意味はどこにもありません。
農民が自領から逃散(逃亡)されてしまえば、翌日から飢え死にするのを待つだけになります。
この逃散という手段は結構つかわれました。
逃げ込んだ隣の大名は労働力が増加して新田の開発が促進できることから喜んで迎え入れました。
下記書籍に詳し書かれています。

逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦  宮崎 克則  (中公新書) [新書]

以上がざっとした説明です。
なにかご質問があれば、補足をお願いします。、

江戸時代の平均身長が低かったということは言えそうですが、それが栄養状態が悪かったためだと、いう理由づけは寡聞にして知りません。

日本人の平均身長が時代によって伸びたり縮んだりしていたことは推定されています。
人骨や鎧の寸法から、鎌倉時代は全般に大柄だったと言われています。
平安時代は比較的小柄だったようです。(何分にもサンプル数が少な過ぎます)
鎌倉時代よりも江戸時代のほうが栄養状態が悪かったという史実は確認されていません。
戦国時代末期から江戸時代前期にかけて人口が増大して...続きを読む

Qペットボトルの水が落ちたり落ちなかったりする理由

ペットボトルの水が落ちたり落ちなかったりする理由

子どもとお風呂で遊んでいてわからなかったことがあるので教えてください。
添付の図で説明します。

図の(1)の状態
ペットボトルに空気と水を入れて、口を下にして水面につけると、ペットボトルの中の水は図の状態のまま落ちません。

図の(2)の状態
(1)の状態からペットボトルを少しずつ持ち上げていくと、口と水面の間に隙間ができた瞬間に、空気がボコボコとペットボトルの中に入っていき、水は抜けていきます。

質問:
ペットボトルの中にあった水に注目した場合、

(1)ではどういう力が釣り合って落ちないのでしょうか。
(2)では何が変わって落ちてくるのでしょうか。

について教えていただけませんでしょうか。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

図1
>・上方向の力:お風呂のお湯の表面付近の水圧(A)
これを
上方向の力:大気圧マイナスボトル内気圧の差による力

>・下方向の力:水の重力 + ペットボトル内の空気の圧力(<大気圧)
これを
水に働く重力

図2
>・上方向の力:大気圧(B)
>・下方向の力:図1と同じ

これはこのまま

と書き換えた方がすっきりします。

そこで

>図2でもしもペットボトルの口に質量ゼロ、摩擦ゼロのピストンがついていたとしたら、ピストンは静止しているのでしょうか?それとも水と一緒に落ちてしまうのでしょうか?

理想的なピストンの場合【水の重さ>大気圧マイナスボトル内気圧】の関係になればこれがイコールになる位置まで下がるでしょうし【水の重さ<大気圧マイナスボトル内気圧】の関係ならばピストンは上に上がりやはりイコールの位置で止まります。
【水の重さ=大気圧マイナスボトル内気圧】で止まるという事です。
勿論この場合ピストンが下がってボトルから抜け落ちるという事は考えない事が前提です。


>どうして図2の場合だけ落ちてしまうのかがわからないのです。

これはボトルの口が大きい事と水の粘性が非常に小さい為に口周辺の水の状態にばらつきが起き落ちようとする水の力と吸い込まれようとする空気が簡単にすれ違え結果空気がどんどん入っていき【水の重さ≦大気圧マイナスボトル内気圧】の関係が崩れてしまう為と思われます。
ですから口の大きさがたとえばストロー程の細さなら表面張力で水が粒状になる為すれ違う事が出来ずにそのままの状態を保つでしょう。

図1
>・上方向の力:お風呂のお湯の表面付近の水圧(A)
これを
上方向の力:大気圧マイナスボトル内気圧の差による力

>・下方向の力:水の重力 + ペットボトル内の空気の圧力(<大気圧)
これを
水に働く重力

図2
>・上方向の力:大気圧(B)
>・下方向の力:図1と同じ

これはこのまま

と書き換えた方がすっきりします。

そこで

>図2でもしもペットボトルの口に質量ゼロ、摩擦ゼロのピストンがついていたとしたら、ピストンは静止しているのでしょうか?それとも水と一緒に落ちてしまうのでしょうか?

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Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Qペットの気持ち、行動の理由

今度学校でプレゼンテーションを行うのですが、題材をペットの気持ちにしたいと思っています。

そこで、ペットの気持ちや行動の理由、意味についてネットで調べていたのですがあまり自分では良いサイトが見つけれなくて(´・ω・`)

例えば、犬が尻尾を振るのは嬉しいときや楽しいときですが猫は機嫌の悪いとき…こんな風にペット(特に犬猫鳥など)のよく取る行動の意味やそのときのペットの気持ちなどが載っているサイトでオススメはありませんか?

無料で観覧できたり、確かな情報の記載されたサイトだと尚嬉しいです。

また図書館で皆様が読まれた書籍等でも良いものがあればお教え頂けるとありがたいです!

Aベストアンサー

サイトは、色々ありすぎて紹介しきれません。

http://www.nekoroman.com/kimochi/shippo/index_a1.html
たとえば↑↑↑
猫のしっぽの動きで、気持ちを読み取ろうというサイトです。

猫は、しっぽの動きを見ましょう。
というサイトや本が多いですね。

「猫 しっぽ」とかで検索すれば、色々出てきますよ。
(上のURLは、検索して最初に出てきたサイト)
アメリカのサイトで、猫のしっぽの動きと体勢の組み合わせで、30種以上の気持ちを表現しているのがありましたけど、URLを忘れちゃいました。

Q江戸時代はなぜ260年も続いたの?

社会の宿題でこの答えを明日朝までに出さないといけませんが、厳しい決まりが多くて、辛い人も多かったはずなのになぜ長続きしたのか、納得できません。意見を聞かせて下さい。

Aベストアンサー

1圧倒的な軍事力
対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗じての侵略意図はありましたが本国の遥か彼方の日本への遠征軍を派遣する力がありませんでした。
国内では関ヶ原に勝利した徳川家に対する反感はあったようですが、多くの大名は領国を移動させられています。この状態で戦争を起しても足元の農民と敵の徳川家に挟み打ちの形になっていしまい勝負にさえなりません。当時の農民は大名の統治が気に食わなければ平気で他国へ逃げ出して税収を悪化させたり一揆の形で武力行使する油断のならない人々です。

2相互監視制度と諜報活動の発達
この二つは関連しています。まずは前者なんですが、これは地域行政と幕府・諸藩の政治体制に深く入り込んでいます。集落では数世帯で一つの班を作り相互扶助(災害・冠婚葬祭等)と犯罪取締りに役立てています。相互扶助はまだしも犯罪の方は連帯責任なので周囲で監視することで相当に抑えられます。政治体制では目付け(公認のスパイ)を常時放つ事で反乱等を事前に潰す事と幕府が諸藩に密偵を放つことで二重に管理しています。今でも御庭番といえば単なる園芸管理の職ではない事は知れ渡っていますし、薩摩飛脚は特に幕府が薩摩に放ったスパイとして知られています。もっとも方言やその他の理由で薩摩飛脚は成功例が少なかった様ですが・・・

3国内貿易・農業の発達。
これは幕府が主導したと必ずしも言えませんが、北陸や三陸沖などの航路の開拓により国内貿易が盛んになっています。それからこれも意図したわけではありませんが幕府が諸藩の財政を圧迫するために江戸城などの建設や諸国の水利事業などの土木作業によって水害が減り農地が豊かになった事。それから諸藩が干拓事業を盛んに行い財政再建の努力もあります。例えば倒幕勢力となった長州藩は一応は三十数万石の収入だったのが幕末までに実質百万石に達したという説もあります。人間は生活が安定すれば力ではなく秩序や言論で問題解決を図る傾向にあるためこれらの施策は有効だったのでしょう。勿論国内貿易での商品開発も見逃せません。やはり外貨獲得の為とは言え現在の日本各地の名産物(伝統工芸・農産物等)の多くはこの時代に育成された物が多くを占めている事実はその証拠です。

4身分制度
ここでは士農工商での差別は取り扱いません。ここではそのしたの身分であるエタ・非人についてや身分間の流動性についてです。
まず下の二つは身分制度の負の方向でのガス抜き効果です。人は悲しい生き物で、自分が恵まれなくても自分より下の立場の人間を見つけて優越感に浸ったり差別する事で現在の境遇の不遇を紛らわせる性質があります。次に身分間の流動性です。百姓(本来は英語でピープルの意味ですがここでは農民とします)や町民でも学問や武術に秀でれば武士に取り立てられる事は実例は少なくてもままありました。人は実現するかはさて置き希望さえ持てればその立場でベストを尽くそうとするものです。それこそが現在の不遇な境遇を打開する手段ならば尚更の事。実際に医者や学者に剣術家で著名人は武士出身以外の身分の人は多いのです。他には俗な事ですが遊郭の存在です。ここでは金さえあれば一晩は大名並みの扱いがなされます。元々の大名でも無一文からの出世人でもここでの基準は金次第です。ここでも不満と言う名のガス抜きがなされた様です。

以上の飴と鞭が260年の理由の一つだと個人的に思います。

1圧倒的な軍事力
対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗...続きを読む

Qクラフトボスというペットボトルに入ったコーヒーが販売されていますが、なぜこれまでは缶に入っていたのか

クラフトボスというペットボトルに入ったコーヒーが販売されていますが、なぜこれまでは缶に入っていたのかご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。

日に当たると酸化しやすく味が落ちやすいためです。
淹れかたなどが進化してペットボトルでも味が保てるようになったんでしょうね。

Q江戸時代のお姫様やお嬢様の爪は長かったのか

 テレビの時代劇を見ていましたら、お姫様やお嬢様クラスの女性の爪がチョッと長かったので気になりました。
 長いといっても少しだけです。手のひら側から見て、先が少し覗く程度です。今のOLさんくらいかな。色はついていませんでした。
 江戸期の働かなくてもよい女性に、爪のおしゃれというか、形状による美醜の感覚というものはあったんでしょうか。
 

Aベストアンサー

「大江戸ものしり図鑑」という本に錦絵や、浮世絵がたくさん出ていまして、残らず見ましたが、爪の長い女性、染めている女性は、いませんでした。
ただ、指先のしぐさというのは、かなり、重要なファクターだと思いました。
江戸時代は、指先の器用さを要求される作業が職業、立場に関わらず、大変多いので、伸ばせなかったのだと思います。
爪みがきは、当時あったアイテムで、できますので、やっていた可能性もあると、思います。
今ごろ・・・ですが、深川の辰巳芸者の羽織は、男装だそうです。


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