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上杉謙信って何をやった方ですか??

学校のレポートで、年表や調べた理由を書かなきゃいけないんですが、上杉謙信の主な出来事が分かりません。

この方は、どんなことをやって有名になったのでしょうか。

どんな活躍をしたんでしょうか。

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A 回答 (8件)

初めまして。

上杉謙信の事を専門に研究している者です。
前の方々も書いていらっしゃいますが、元は長尾景虎といい、越後国(現在の新潟県域・・佐渡は除きます。)の守護代でした。まわりの越後の国人(鎌倉時代の「地頭」の子孫が多い。)の間の、主に土地をめぐるトラブルの解決する事を期待されて守護代になった、と考えます。
「神格化」したのは、後を継いだ甥の上杉景勝であった、と考えています。本格的に上杉謙信について知りたければ、山形県米沢市に国宝に指定された「上杉家文書(うえすぎけもんじょ)」他の資史料がたくさんあります。
連絡先は「伝国の杜 米沢市上杉博物館」になります。またちかくの上杉神社の「稽照殿(けいしょうでん)」も謙信が着用していた、とされる衣服や刀剣類が保存・展示されています。
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 上杉謙信という人物は最初から上杉氏の名字を名乗っていたわけではありません。

元々は長尾景虎といって越後の守護代である長尾氏の出身です。ではその長尾景虎がなぜ上杉景虎となったのかとの疑問が出されます。
 長尾氏が守護代の任にあたっていた越後の国守は上杉氏であり、その上杉氏は室町時代に幕府によって関東統治の目的で設置された鎌倉府の長官「鎌倉公方(かまくらくぼう)」を補佐するために設置された役職の「関東管領(かんとうかんれい)」を務めていました。この時点で上杉氏は守護である上野(現在の群馬県)と伊豆を支配すると同時に幕府の役職(管領)として鎌倉を押さえることになります。
 その後「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」という室町幕府の体制を巡る内紛により足利直義が失脚し同時に関東管領であった上杉憲顕も一時的に失脚しますが、鎌倉将軍の足利基氏の命により復職する形となります。 この上杉憲顕は当初北関東を支配していましたが、足利基氏の死後に起きた武蔵平一揆を鎮圧したとにより南関東にあった鎌倉公方の直轄地域をも支配下に治める形となり、相模および甲斐を除く関東一円の支配権を手に入れた形になります。
 そして長尾景虎はこの関東管領職と上杉家の家督を上杉憲政から譲られ、上杉景虎が誕生します。
あとは戦国時代のライバル対決で有名な上杉謙信と武田信玄による「川中島の合戦」などの話になっていきます。この辺は三年前の大河ドラマ『天地人』の主人公だった直江兼続(妻夫木聡)の義理の兄的な存在であり主人でもある上杉景勝(北村一輝)とその父親である上杉謙信(阿部寛)の物語を思い出せばわかりやすいかと存じます。但しこの『天地人』もオリジナルは小説でありまたそれがドラマになった段階でも幾つもの脚色が加えられていることを頭に置いて考えることが大切です。
 間違っても♯6の方の回答だけは信用してはいけません。この方は以前から根拠のない誹謗中傷を繰り返し混乱させているだけです。
 一つ具体的な事象を紹介します。越後には佐渡という島がありますが、ここからは資源として何が産出しますか?。また越後といえば米所として有名ですね?。ということは年貢との関係で考えるならばどの様なメリットがあったと考えられますか?。更に越後の現在名は新潟です。この「潟」には湿地帯の意味があり、そうした場所は通常の農作には不向きとされますが、それでも現実に農作は行われています。そうした耕作地での上がりを江戸時代などでは税収から外していました。実質上は帳簿外の扱いとして年貢のためのチェック対象から外れていたことになり、民生上からは「わしらのお殿様」として尊敬の対象となりえたわけです。
 上杉謙信の具体的な事跡に関しては図書館にいけば『國史大辞典』(吉川弘文館刊行)が架蔵されていますのでそちらでお調べ下さい、宿題は自分で調べなければ意味がありませんよ。
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戦国時代の武将。

 春日山城(福岡)に生まれて、越後(新潟)を領土にして、加賀・能登(能登)にも領土を広げる。 その領土争いの結果、武田信玄 甲斐(山梨)と衝突する。 ようなことが、(広辞苑)には書いてあります。
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捏造です。信じないように。。。。。。。。。。。。。
上杉は、越後と、越中東部の一部しか制圧していません。。。。。。。。。

手取川の合戦は、架空であり、謙信が北陸に出兵した事実はない。。。。。。。。。

加賀=金沢御坊を本拠に、一向一揆の支配。上杉領ではない。本願寺領土である。

能登=畠山氏の領土。

越中=神保氏と一向一揆でほぼ全域を支配。ただし、魚津城以東の椎名氏の領土を上杉が接収しただけ。

加賀、能登、越中を攻略したのは織田軍で、信長公記には、どこにも上杉軍は出てきません。

魚津城攻略の段階でやっと上杉軍が出てきます。

上杉家譜(謙信軍記、歴代古案)は偽書。。。。。。。。

また、上野も武田領土で、上杉ではない。織田軍が武田攻略の際に、上野も支配して、滝川一益を置いている。

上杉の大領土は、存在しない。

北陸での、所領安堵の朱印状が発給されている事実もなく、北陸上杉領はインチキ。。。。。。。。。。

一向一揆(本願寺)が、上杉に打倒されたり、家臣になったりした事実は、全くありません。

謙信本は、軍記ベースのインチキ記述多すぎ。。。。。。。。。。
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上杉謙信の年表というサイトが参考になると思います。


http://n.ashitane.net/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%9 …

「主な出来事」という欄と「ライバルや仲間」という欄も参考になると思います。
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元の名前は長尾影虎です


新潟県栃尾市に生まれてます
戦国時代親父は上杉越後の執権みたいなことをしてました

昔学研の本であったけどね
そのまま移せばレーポートかけるほど詳しい本が

図書館でも行って、探したら学研の戦国武将有名武将シリーズだったよ
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春日山城(福岡)


春日山は直江津付近です。
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宿題の丸投げとそれに対する回答は禁止なので、まるで役に立たない回答を差し上げます・笑。



上杉謙信公の活躍を一言でいえば、「戦場の鬼神」であったといえます。武将マニアの間ではしばしば「軍神」と呼ばれます。とにかく、合戦で負けたということがありませんでした。第四次川中島合戦では大きな損害を出したともいわれていますが、最近の研究では巷でいわれているほど大きな合戦だったのだろうか、実は合戦のほとんどが創作だったのではないかという説が有力になっています。

謙信公が出兵したのは関東と信濃が多かった(半分くらいは関東地方)のですが、その相手になる北条氏康と武田信玄は徹底して謙信との決戦を避けました。
謙信晩年の名采配は、織田信長軍を散々に打ち負かした手取川の合戦でしょう。このとき織田軍は織田信長の家臣で最も勇猛で知られていた柴田勝家が指揮していたので、織田軍の中でも最強の軍団だったといえるでしょう。その最強軍団をまさに鎧袖一触という感じで一蹴しました。

上杉謙信公が仏教の四天王のひとり毘沙門天を信仰していたことは有名です。毘沙門天は軍神でもあるのです。合戦に出かける前は、自分専用に作らせた毘沙門堂に籠もってひとり護摩を焚くのが習慣だったそうです。この毘沙門堂には決して家臣を入れさせなかったそうです。
かなりマニアックな性格だったようで、戦場では無敵でしたが家臣はついていくのがよほど大変だったのか謀叛を起こされることしばしばでした。もちろん、戦場の鬼神なのですぐ鎮圧されるのですが、義に篤い性格で家臣を切り捨てることはできなかったらしく、だいたい許しちゃっています。だから、また叛乱される⇒鎮圧する、の繰り返し。だいたいこういうことをする人は滅びるのですが、上杉家は謙信公が亡くなったときに大変なお金を残しています。
繊細な方だったようで、いうことを聞かない部下に嫌気がさして二回くらい「もう俺は高野山に籠もる!」と家出をしています・笑。もちろん家臣団が追っかけて「いうことを聞きますから戻ってきてください」と頼んで帰ったりしています。
またゲイだったことも有名で、「僕は結婚をしないから戦争で勝たせてください」と毘沙門天に祈ったので結婚しませんでした。でも謙信公の名誉のためにいうと、武田信玄も織田信長も男色はたしなんでいました。信玄には家臣に送ったラブレターも残っているんですよ。ただ、男色ストレートだったのは有名な戦国武将では上杉謙信公だけだったようですね。子供がいなかったので、亡くなると「御館の乱」という跡継ぎ争いが起きてしまいます。あと、酒好き。お酒の飲みすぎによる脳溢血が死因だったようです。トイレに行って倒れたそうです。
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あまり、わかりませんが、今、少し暇があるので・・・



戦国時代の武将。 春日山城(福岡)に生まれて、越後(新潟)を領土にして、加賀・能登(能登)にも領土を広げる。 その領土争いの結果、武田信玄 甲斐(山梨)と衝突する。 ようなことが、(広辞苑)には書いてあります。

詳しく知りたければ、(火の鳥文庫)の上杉謙信の伝記を買って、読んでみたらどうですか? 1日、2日ぐらいで、読んでしまえると思います。 値段も600円ぐらいで、安いです。

たぶん、アマゾンで、検索すれば、見つかると思います。 本屋さんだと、すごい大きい本屋さんじゃないとたぶん売ってないと思います。

アマゾンで (火の鳥文庫 上杉謙信)で検索してみたらすぐに買えます。

最後に、わからないことは、誰かに訪ねるよりも、わかりやすい本を見つける方が、おもしろくなりますよ。 上杉謙信もいいけど、武田信玄の方が、甲斐があるかもしれません。
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Q上杉謙信の義の心

オンデマンドで天地人みてます。
上杉謙信の義のこころに少し惹かれます。
皆さんは戦国時代の義の心をどう思われますか?
謙信は義の心があったから生涯無敗で強かったのでしょうか?
仏門にあったから普通に義の心があったと考えればいいですか?
ライバル方の武田勝頼や織田信長は義の心がなかったから身を滅ぼしたんでしょうか?
ついでに江戸時代まで上杉家に義の心が残り続けたのかも気になります。
よろしくお願いします

Aベストアンサー

「戦国時代に義の心」そんなものあるわけ無いと、我々現代の小心者は言いますが、
あっても良い様な気もします。

戦国武将は、領地を支配しそれからの収入で兵を養い隣国との争いに備え、命懸で戦いに
臨むという、現在の政治家では考えられない状況にあるスーパーマンです。

謙信は経済的には青苧(あおそ)の販売管理(後の楽市楽座の様な考え方)で経済基盤を
強めました。この時代は戦国武将も土豪や一族郎党の頭から大きな領地を支配する者まで
様々で、兵も兵農分離以前のパートタイマー的な状態でした。
経済基盤を強めると同時に必要になるのは、いざと云う時に自分の下に結集し戦う盟友を
得ることでした。その為には姻戚による繋がりや、人質、攻守同盟等が利用されました。
謙信は自分の下に結集し戦う盟友を束ねる為の「大義名分」として「義」を選んだのでは
ないでしょうか。「義」を信じれば、今日の友は明日の敵の恐れも無く、所領を掠め取られる
恐れもありません。
「大義名分としての義」を標榜しているうちに、それが謙信の「心」と一体化したものとして、
後世に美化されて伝えられているのかも知れません。

謙信は信長との戦いに勝った後で「信長も存外弱い」と言ったと伝えられています。
鉄砲で武田を打ち負かした織田を、鉄砲が有効に使えない豪雨の中で打ち負かしています。
これを豪雨も計算に入れたしたたかな作戦と解釈すれば「義」を「効果的な大義名分」として
使ったしたたかさと重なる様な気がします。

武田信玄は「いざという時は謙信を頼れ」と勝頼に遺言しています。同時代人の中で謙信の
「心」も信頼されていた例ではないでしょうか。


その「義」の心が上杉家に伝えられたかに付いての他の回答は米沢藩に対して酷でしょう。

幕末の米沢藩は、藩内に佐幕派も勤皇派も有りましたが、対立は他藩の様に先鋭なものではなく、
藩自体としてはハト派でした。経済的には鷹山公以降の改革が功を奏し、名目石高18万7千石、
実質その2倍以上でした。軍政改革は東北諸藩の中では進んでおり、軍政部と民生部に別れて
いました。装備はまだ新式旧式混合です。

列藩同盟で主な役割を演じる事になったのは、新政府に恭順の意を表している会津藩の取成しが
契機で、藩断絶を救った会津保科家に対する「恩義」からと云われています。
しかし、薩長がこれを拒否し「遺恨から会津征伐」を強行した為に、それは「侍の信義」に
反するとして奥羽列藩同盟のリーダー格となりました。
世良修三の東北諸藩に対する侮蔑的発言が火を付けた形ですが、決断の過程で「義を重んじる」が
重要な役割を果たしていることは疑いも有りません。
「義」の伝統は守られたと言えます。

米沢藩は越後方面で戦っています。降伏後、会津と庄内に対して出兵を強要されていますが、
できるだけ出兵を遅らせ、会津には新政府の依頼で投降の仲介者として動いています。

米沢藩にとっては、新発田藩の裏切りで、新式兵器と弾薬の陸揚げ港であった新潟が陥落し、
新政府軍が村上(米沢藩ご用達商人の渡辺家が在る、庄内藩の本間家に相当)に迫った段階で
降伏するのは当然の成り行きです。深い山に囲まれた以外は、会津の様に堅牢な立て篭もる城も
無い藩ですから。
本来純外様ですから、ここまで義理立てする必要が有ったかどうかも疑問です。

敗戦の責任は軍事総督の色部長門(上越戦線で既に戦死)が取らされ(米沢では後日
名誉回復が成され碑も建てられている)、賠償金3万両を支払いました。
そのお陰で14万7千石に減封で済みましたが、10年後の西南戦争で戦死者52名を出して
います(戊辰戦争戦死者280余名)。
「義」に反する戦いに敗れた恨みは大きかったのかも知れません。

ちなみに、領民の嘆願と(本間家からの?)賠償金で軽い減封処分で済んだ庄内藩からは、
西南戦争に薩軍側に参加した旧藩士が居ります。軽い処分を(金のせいではなく)西郷の
温情と考えたためです。

会津藩は、賠償金も払えず、領民からの過酷な徴収の反作用で一揆が起こり、本州の
北の外れに移らざるを得ませんでした。
侍支配とその最後を美化した様な「八重の桜」をとても疑問に感じました。
会津の人々の偉さは、その後に有り、多くの文化人と教育者を排出した事です。

米沢藩が幕末豊かな藩であった事は、藩が廃藩置県時に藩士に10万両を支給している事、
円発行時に藩札1両が1円と交換された数少ない藩の一つである事などから明らかです
(戦費の為に藩札を乱発した薩摩藩は32銭)。
戊辰戦争後に東北地方を旅した女性旅行家のイザベラバードは米沢盆地の北をかすめる様に
通り過ぎ、その際に「この南には米沢という東洋のアルカディア(桃源郷)が在る」と言って
います。まだ戦いの余韻が残っている時期です。

侍の論理で住民すべてが戦争に巻き込まれた会津、昔から領民一体となり侍の筋を通しながらも
戦い最後には戦乱を避けた米沢、興味ある歴史の事例です。

「戦国時代に義の心」そんなものあるわけ無いと、我々現代の小心者は言いますが、
あっても良い様な気もします。

戦国武将は、領地を支配しそれからの収入で兵を養い隣国との争いに備え、命懸で戦いに
臨むという、現在の政治家では考えられない状況にあるスーパーマンです。

謙信は経済的には青苧(あおそ)の販売管理(後の楽市楽座の様な考え方)で経済基盤を
強めました。この時代は戦国武将も土豪や一族郎党の頭から大きな領地を支配する者まで
様々で、兵も兵農分離以前のパートタイマー的な状態でした。
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