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世界史ーイスラム史

(1)7世紀イスラム勢力の急速な拡大の要因
1貧富の差に悩むアラブ人が貧富の差を解消しようとするイスラム教の思想に同調した。
2イスラム教はジハードを勧めたので周辺地域への侵略が進んだ。
 1→2の流れはあっていますか?

(2)ジハードについて
なぜ、イスラム教はジハードをすすめたのですか?

(3)キリスト教とイスラム教の布教のやり方の違いは何ですか?


※wikiの引用は避けていただけると助かります。

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A 回答 (7件)

◎初期の強制改宗の例


アラブ人が大量に入植したメソポタミアと違い、イラン高原中南部や東部ではイスラム化が進展しなかった(8世紀中頃でもイラン高原のイスラム教徒人口比率は一割も満たなかったという)

・644年アブー・ムーサー・アシュアリーはイラン中部のエーラーン・ヴィナルド・カヴァード市に対しイスラムへの改宗を求めた
ゾロアスター教のアナーヒター女神信仰にあつい市民たちは拒否した
するとアシュアリーは市の指導層を全て虐殺、市民の財産を強奪し追放
代わりに多数のアラブ人イスラム教徒を入植させ市名をゴムと改名した(後のシーア派の聖地)

◎イスラム初期の著名な将軍クタイバの発したジハードは防衛的なものか
705年メルヴにいたクタイバはアラブ人を召集しコーランの文を引用し(おそらくスーラ九の二十九だろう)ソグディアナなど中央アジアに対する“ジハード”を宣言した
勿論、中央アジアの勢力がイスラムに対し攻めてきたわけでもなんでもない
目的は中央アジアへの“侵略とイスラム化”である

◎クタイバによるイスラム化とは
占領したブハラでクタイバが行ったのは
「住民(異教徒)の家の半分をアラブ(イスラム教徒)に与えよ・・
彼(クタイバ)は(異教徒の宗教施設の上に)大きなモスクを建て、不信仰の痕跡や拝火教徒の教えを根絶した・・
住民(異教徒)にモスクへ出かけ金曜日に礼拝するように命じた
出席したものには2ディルハムを与えると言った」
(Narshakhi 『History of Bukhara』)
つまり
・異教徒の家(*居住区でなく異教徒個々の家であることに注意)に強制的にイスラム教徒を住まわせる
・異教徒の宗教施設を破壊しそこにモスクを建て強制的に異教徒に礼拝させるかわりに小金を恵んでやる
ということである

◎異教徒の地ホラズムはイスラム軍の侵攻でどうなったか
ホラズム語で書かれた文献は全て失われ、ホラズムの歴史・文化を伝承する者は(イスラム軍に)皆殺しにされた
(アル・ビールーニー 『古代民族年代記』)
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質問者様、お礼有難うございます



私は通常、御質問者から補足質問されない限り、複数回答致しませんが
今回私に対する名指しでのイスラム原理論者など予想だにしない批判を受けましたので
御質問者にご迷惑かかるのを承知でこの場をお借りし反論させていただきます
申し訳ございません

◎ズィンミーのジスヤ支払いの一場面
「ズィンミーは定められた日にジスヤを受け取るアミールのもとに本人が出頭する
アミールは高い玉座に座り、ズィンミーはその前に行き手を開いてジスヤを差し出す・・
アミールが彼の首を打ち、アミールの従者が荒々しく彼を追い払う・・
公衆(イスラム教徒)はこの様子を見ることが許される」
(Tritton 『The Caliphs and their Non-Muslim Subjects』)

◎イスラムの征服は防衛的行動か
イスラムとササン朝の直接的戦闘は633年ハリード・イブン・アル・ワリード率いるイスラム軍がササン朝のヒーラを一方的侵略により攻撃して始まる(翌年ササン朝が反撃奪回する)
それ以降イスラム側は綿密な侵略計画のもと軍を二手に分け侵攻する

ササン朝もビザンツもイスラムに対し挑発を含め攻撃的行為を行っていない

またムハンマドのクライザ族虐殺について抵抗したから虐殺してもいいなどという発言は
イスラム教徒ならば相手が抵抗すれば殺してもいいという趣旨の暴言であり
十字軍同様の暴徒と同じである
私は単に例えば東南アジアにおけるような“伝道者による”イスラム、ヒンドゥー、上座部仏教の平和的布教は許されるものと考えるが
十字軍も含み力(政治権力、軍事力)が介在する布教に関しては批判的立場を取る

◎イスラム軍は異教徒女性に対してレイプ等の性行為の強要を行わなかったか
洋の東西を問わず侵略軍の戦地で獲得されたものは女性を含め戦利品は下々の兵の目的である
イスラム軍も例外ではない
侵略を受けたササン朝のメヘル・バーヌーという女性はイスラム兵に犯されるのは断固拒否し殺された
同名の名のついた殺された地であるメヘル・バーヌーはゾロアスター(パルーシー)教徒にとり聖地である
性行為を強要する兵が多かったにも関わらずアッラーの神が罰を下さないのは何故だろうか
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zep19氏の発言には、かなりの誇張があり、勘違いが多く含まれて射ます。


>コーランか貢納か剣
これは、キリスト教徒が言い出した言葉であり、そのような事は、ありませんでした。
>異教徒がジスヤを支払う場では大勢のイスラム教徒の面前で官憲に暴行を受けたり、辱めを受け、時には烙印すら体に押されたりしました
そのような話は聞いたことがありませんが、それが本当であれば、なぜ現在でもイスラム諸国の中でキリスト教やサービ教、ゾロアスター教などが残っているのでしょうか?
ただ、非イスラムが支払わなければならない人頭税(ジズヤ)は、当初かなり過酷なもので、人頭税から逃れるためにイスラムに改宗する者が多かったのは事実です。
2代目カリフのウマルは、従者のゾロアスター教徒のペルシャ人に暗殺されています。
人頭税が厳しく支払えない報復を恐れてという理由と聞いています。
zep19氏の言われる「大勢のイスラム教徒の面前で官憲に暴行を受けたり、辱めを受け、時には烙印すら体に押されたりしました」は、ジズヤが支払えなかった場合のことを、ジズヤを支払う時と勘違いしているのではないでしょうか?
これは、当初イスラムの人には、全ての課税が免除されている外、老後の年金を受け取る権利があり、その負担を全て非イスラムが負担することになっていたためです。
しかし、ウマイア朝時代に、イスラム教徒からも徴税するようになり、年金なども廃止されたため、法外なジズヤは無くなってゆきます。
しかしジズヤは残ります。
後のオスマン・トルコなどは、非イスラムがイスラムに改宗することを実質的に禁止します。
そのため、トルコの支配したバルカン諸国では、キリスト教徒が多数派を占めるのです。

>異教徒男性とイスラム教女性は結婚どころか性行為自体禁止
性行為が禁止されるのは、結婚していないイスラム教徒同士にも適用されます。
結婚していないイスラム教徒同士の性交渉は、男性は罰金、女性は死刑または無期監禁です。(コーランによる)
また、イスラム男性とキリスト教徒やゾロアスター教徒との女性との結婚は認められていました。

>居住区も制限され、嫌がらせや差別は日常茶飯事でキリスト教徒は豚、ユダヤ教徒は猿と侮蔑されました
一例ではキリスト教徒は木の十字架をユダヤ教徒は鈴を常に身につけ、黒いターバンを巻くよう目立つ身なりも強制
うそは書かないように。
居住区が分かれていたのは、生活習慣の違いからで、強制的に分けられたものではありません。

>開祖ムハンマドのメッカ攻略後の改宗を拒否したユダヤ教徒のクライザ族の大量虐殺
これは、改宗を拒否したからではないでしょ。
ムハンマド達に非協力的、敵対的だったからです。

>ジハードが“防衛的でなければならない”という解釈を出したのは“近現代”のイスラム法学者によるものです
ジハードをイスラムが主張するのは、防衛的なものだけで、それを攻撃的とするのは、キリスト教徒側によるものです。
ジハードが攻撃的に使われるようになるのは、19世紀のマフディー派やワッハーブ派によるものですが、マフディ派は、イギリスとエジプトに対して使われ、ワッハーブ派は、トルコに対して使いました。ジハードが声高らかに叫ばれるのは、19世紀からです。
16世紀以前イスラムのほうが有利な情勢では、ジハードはほとんど叫ばれていません。

>イスラム教徒に破壊されたエルサレムの聖墳墓教会、玄奘も訪れたインドのナーランダ僧院、そしてバーミアンの仏像
これが防衛的行動であるのかどうか疑問です
エルサレムの聖墳墓教会が、長いイスラムの支配下で残ってきたのはなんなのでしょう。
バーミアンの遺跡が、1000年近いイスラムの歴史の中で残ってきたのはなんなのでしようか?
ボロブドール遺跡が現在残っているのはなんなのでしょうか?
エジプトのファラオの遺跡が現在も残っているのは何なのか考えてみてください。

zep19氏は、イスラム原理主義者の考え方が、イスラム一般の考え方だと勘違いしています。
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(1)について・・・あっています。


ただ1.については精神面も無視できないと思います。
神の前では豊かな者も、貧しい者も、男も女も、美しい者も醜い者も一切が平等であるという事。その一種の社会主義に奴隷や下層の者は喜び、従い、イスラム教は急速に拡大したと、第三書館から1993年に発行された「中東軍事紛争史1」著者・鳥井順さんの本にあります。
また、この本では精神面だけでなく、物質面についても、富める者が貧しき者に分かち与えるという原則についての言及もあり、イスラム教の歴史的発展の原動力は、この精神面と物質面の両方が影響を与えたと読み取れます。
物質面でもう少し触れれば、マホメット以前のアラブの族長は戦いで得た戦利品の25%をとり、残りの75%が戦士達の取り分でした。マホメットの場合は戦利品の20%で、残り80%が戦士の取り分でした。欲得から言えば、貧しい戦士などはマホメットに従いたくなると思います。
(2)について・・・
まだアラビア半島がイスラム教に統一されていなかった頃は多神教との争いでした。他の勢力からイスラム教を守り、また勢力を広げるための戦いでした。
その後は信仰と物欲が結合した戦いとなりました。
アラビア半島は豊かな土地とは言えません。そのため豊かな土地と富を欲していました。特に豊かな農耕地帯である「肥沃な三日月地帯」(現在のイラクやシリア等の古代オリエントの中心地)をジハードの名のもとに手に入れようと対外戦争を始めました。
この豊かな農耕地帯を手に入れるためにジハードを行ったというのは、同成社から1986年に発行された「世界軍事史」と、自由国民社から1984年に発行された「世界を変えた戦争・革命・反乱」に書かれています。
ただ、「世界を変えた戦争・革命・反乱」にはもう一つの動機として、とかく好戦的な遊牧勢力にハケ口を与える事でイスラムの統一を保つという事も書かれています。
ちなみにジハードには「異教徒との戦い」という意味もあります。だから7世紀のイスラム教の対外的な拡大は、色々な本で「ジハード」とされています。これまでに上げた「中東軍事紛争史1」「世界軍事史」「世界を変えた戦争・革命・反乱」の3冊でもジハードとされています。
(3)について・・・
イスラム教もキリスト教も長い歴史があるので一概には言えませんが・・・
布教について、イスラム教の成立初期と、キリスト教の成立初期で一番の違いは、「軍事力の行使」です。
イスラム教の創始者マホメットは自らが軍を率い、異教徒と戦い降し改宗させたりしています。後継者達も同様です。ただイスラム教の場合、それなりの税を支払い身分も下でよければ改宗しなくてもよい制度がありました。
また、異教徒の地を攻めその都市を降伏させた場合、都市単位での改宗を求めていますが、これも都市がそれなりの税を支払えば、市民の生命・財産と他の宗教の信仰も許されました。
それに比べればキリスト教の創始者イエスとその弟子達は軍隊を持たず、布教に軍事力を使う事はありませんでした。
イエスは戦う事なくゴルゴダの丘で処刑されます。弟子達は各地に散り伝道によってキリスト教を世界に広めます。
少なくとも初期のキリスト教の布教において軍事力は使われず、そこがイスラム教との大きな違いとなっています。
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この回答へのお礼

詳しい説明ありがとうございます。
時代によって布教の仕方が変わる、という点見過ごしていました。
なるほど。

お礼日時:2010/08/24 21:09

はじめまして




イスラムは富める者が貧しき者に富を恵むこと、救貧税は良いことされますが
実際には貧富の差が解消されたとは思えません

イスラムは絶対的に異教徒に寛容であるというのはかなりイスラム側にバイアスがかかった考え方です

コーランか貢納か剣
寛容政策であるはずの異教徒に対する貢納、ジスヤは本当に寛容だったのでしょうか
異教徒がジスヤを支払う場では大勢のイスラム教徒の面前で官憲に暴行を受けたり、辱めを受け、時には烙印すら体に押されたりしました
また異教徒の身分であるズィンミーは信仰の自由を受けるものの
布教は勿論、宗教施設の修理、新築も禁止
異教徒男性とイスラム教女性は結婚どころか性行為自体禁止
刑法上も異教徒がイスラム教徒に犯罪を行うとはるかに重い罰を受けました
居住区も制限され、嫌がらせや差別は日常茶飯事でキリスト教徒は豚、ユダヤ教徒は猿と侮蔑されました
一例ではキリスト教徒は木の十字架をユダヤ教徒は鈴を常に身につけ、黒いターバンを巻くよう目立つ身なりも強制

これでは“強制でなくても改宗せざるを得ない”ですね

強制改宗も為政者によりますが、あったことも事実です
開祖ムハンマドのメッカ攻略後の改宗を拒否したユダヤ教徒のクライザ族の大量虐殺
他にも7世紀のアシュアリーによるイラン中部エーラーンでの指導層虐殺と市民に対する改宗か追放かの強制
エデッサ市民虐殺、ムワッヒド朝によるイベリア半島での強制改宗、ゴール朝、ムガール朝のアウラングゼーブ等など

対外征服も「外へのジハード」と認められました
ジハードが“防衛的でなければならない”という解釈を出したのは“近現代”のイスラム法学者によるものです
しかしイランのホメイニ師はムハンマドのクライザ族虐殺を称賛しています

イスラム教徒に破壊されたエルサレムの聖墳墓教会、玄奘も訪れたインドのナーランダ僧院、そしてバーミアンの仏像
これが防衛的行動であるのかどうか疑問です


長文失礼致しました
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
侵略した、とのいくつか本に書いてあったので、納得できていかなかったのですが
すっきりしました!

お礼日時:2010/08/23 00:17

>イスラム教はジハードを勧めたので周辺地域への侵略が進んだ。


間違いです。
イスラム教では、布教活動を行いません。
ジハードは、イスラムに敵対してくる者に対して行われる行為であり、布教のために行われる事はありえません。

どこから、こんなとんでもない間違いを聞いたのでしょうか?
アルカイダなどの主張を読んでみましょう。
イスラムを広めるなど一言も言っていません。
イスラムが攻撃を受けているので、反撃しているだけなのです。

>イスラム教はジハードをすすめたのですか?
防衛のために行われたものです。
攻撃されれば、防御活動を行うことは、当然の事です。
イスラムは、「来るものは拒まず、去る者は許さず」が基本です。

>キリスト教とイスラム教の布教のやり方の違いは何ですか?
キリスト教では布教が行われますが、イスラムでは布教がありません。

7世紀イスラム勢力の急速な拡大の要因としては、いくつかの理由があります。
宗教的に非常に自由であったことも、理由のひとつです。
イスラムでは、イスラムへの改宗を強制しません。
当時ビザンツ帝国では、シリアのヤコブ派やエジプトのコプト教に対して弾圧を加えていました。
そこに、信教の自由を掲げるイスラムが進出してくると、ヤコブ派やコプト教の信者たちがイスラムを歓迎し、城門を開けたり、ビザンツ軍の情報を流したりしたため、ビザンツ帝国は、短期間でシリアとエジプトを失う事になります。
イスラムのペルシャ支配を見ていたため、イスラムの信教の自由が実際に行われている事を知っていたからです。
そのため、イスラムは、宗教が原因となる反乱とは無縁であったため、国力を高めることができました。

この回答への補足

とんだ勘違い失礼しました。

宗教の寛容以外の理由、御存じでしたら教えていただけませんか?

補足日時:2010/08/22 12:57
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前提


キリスト教文化圏の解釈によると思われる理解だと思います。
つまり、よいキリスト教徒と悪いイスラム教徒という前提です。

1)-1
部族社会が、貧富の差を解消できなくなった。ローマVSササン朝による交易の切断により、南回りつまり非ジャーす地方経由の交易が盛んになり、ヒジャース地方が豊かになった。それによる貧富の差の拡大を部族社会が解決できなかった。あるいは部族間競合の上位概念として抗争を止める社会システムがイスラム。

1)-2
ジハードとは努力すること。よい宗教であると自覚している宗教は(まぁ、悪い宗教と自己定義する宗教はないが)外部に布教します。

アラブ人が内部抗争に使っていた力を外部に出せるようになったので、アラブ人支配領域が広がった。


2)
1)-2の通り、宗教であればどこでもそうです。

3)
キリスト教徒の布教よりはずっと平和的です。
時代が離れすぎるとなんですが
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9% …

北方十字軍は、ストレートに支配領域の拡大のための名目です。
南米の植民地化なんて分かりやすいですね。

スペインですと、イスラムによるキリスト教徒迫害は聞かないが、逆はよく聞く話。
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この回答へのお礼

Thank you.

お礼日時:2010/08/22 11:44

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