大岡昇平さんの『野火』と言う本を読もうと思っています。この本の感想や主題など『野火』についてなんでも良いので教えてください。

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A 回答 (1件)

以前教科書で読んだ気がしますが、あまり覚えていません。


でもなんか強烈だったのは覚えています。
もう調べたかな、感想載ってるみたいです。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101065 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
参考にしてみます。

お礼日時:2003/07/28 19:53

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Q「野火」で、何故、主人公は最後、人肉を食してしまったのでしょうか?

「野火(大岡昇平/新潮社)」で
主人公の田村は、最初は人肉を食べることを拒否していましたが、最後には永松に「猿の肉」だと言われて、食してしまいました。

田村には「猿の肉」の正体が分かっていた筈なのに、何故、食してしまったのでしょうか?

生存本能が道徳心に勝った、と言うことかとも考えましたが、それにしても、何故、最後には勝ってしまったのかが分かりません。

「野火」と言う作品の複雑さ故に、簡単に言うことは困難だと思いますが、お教え願えないでしょうか?
よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

ひきつづき『野火』、核心にはいってきましたね^^
前回は書いてあることをそのままたどればよかったのですが、今回はそうもいきません。
まず、「三十三 肉」の章の該当個所で主人公に起こったことを確認しておくと、

その食物が何であるかを直感しながら、拒むことをせず、喰べてしまった。
そのとき「いいようのない悲しみが、私の心を貫いた」
「何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった」
けれども「私の左右の半身は、飽満して合わさった」

ここにあるのは、倫理観が、生きようとする本能に負けた瞬間です。
質問者さんのおっしゃるとおり、これ以外に読みようがないように思います。
悲痛な満足感を、いやおうなく覚え、味わってしまった。

なぜなのか。
たぶん、それは、人間だから。

なんだ、当たり前じゃないか。

ええ、そうなんです。
そしてそれが人間の「罪」なんです。

この小説には、あちこち聖書(旧約聖書)からの引用があることにお気づきと思います。
前回のご質問にからむ De profundis もそうでしたし、そもそも小説のトビラに掲げられた、
「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも/ ダビデ」も有名な詩編の一節です。(詩編23)
作者から読者への、つよい示唆が喚起されています。

聖書の標準的解釈によれば、(以下《 》内は日本聖書協会発行の新共同訳から引用)
人間は全知全能につくられたのではなく、自由意志を持つものとして創られた。
エデンの《園の中央に生えている》《善悪の知識の木の果実》を、
神の言いつけどおり食べないでいるか、食べてしまうかは、アダムの自由意志です。
そうして人間は神のように完全ではないので、必ずどこかでまちがえる。つまり原罪を負う。
《女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた》そして楽園を追放される。
『野火』の主人公も、まさにそうなったのです。

急いでつけ加えなければならないのは、この主人公はキリスト教徒ではないということです。
当時言うインテリで、旧約聖書にも少年のころから親しんでいた、という設定になっていますけれども、
知識はともあれ、まずは日本人一般の信仰心、もしくは無宗教性から遠く離れていないと思われます。

なぜなら信徒であるなら、十字架のかかる会堂のなかで、怒りにまかせて人を殺したりはしないでしょう。
(教会に閉じこめられた信徒が、生理現象による排泄物で堂内を汚すことができないという、
ただそれだけの理由で外に出ようとしてもがき暴れ、銃殺された悲劇は現実に多くあったことです。)
しかもいくら戦時下の突発の事態とはいえ、相手は女性、無辜の非戦闘員。
主人公はここでも大罪を犯しています。

そうしてもうひとつの殺人、永松を撃つときには、「私はもう人間ではない。天使である」
神の怒りの代行者だとまでうそぶくのです。(第三十六章)
この驚くべき自己正当化。都合の悪い記憶はすべてぬぐい去りながら。
「この時私が彼を撃ったかどうか、記憶が欠けている。しかし肉はたしかに喰べなかった。喰べたなら、憶えているはずである」


もちろん、小説が、それも世にすぐれていると認められた小説が、ただひとつのキーワードによってすべて開いてしまうわけがありません。
「愛は愛よりはるかに豊か」とシャルドンヌは言いました。
もしフロイトの精神分析学ですべての謎が解けてしまう小説があったとしたら、
その瞬間には驚いて膝を打つかもしれませんが、次の瞬間にはあほらしい詰まらなさに襲われるでしょう。
人間の神秘は、精神分析の一学説よりは、もう少し広く深いであろうと文学を読む者は信じているからです。

長くなったので他の事には触れませんが、この点から見て、この『野火』という小説は、
神なき国への痛烈な批判となっていると思います。
狂人となった主人公が「男がみな人喰い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよい」(第三十八章)と言い放ちながら、一方で、
「しかしもし私が天使なら、何故私はこう悲しいのであろう」(第三十九章)と、いぶかっています。

小説が発表された当時の読者は、それは昭和20年代の後半のことですが、まだなまなましかった戦時中の記憶を省み、今ある戦後の状況を眺めわたして、心安らかではなかったでしょう。
「今=ここ」という時間および空間概念しか持たない日本人の特性(加藤周一『日本文化における時間と空間』での指摘。結論。)は、21世紀に入った現在でも、あまり変化しているように思いません。
つまり、この小説『野火』は、すぐれて今日的な課題を失っていないのです。

最後に、私はいささかもキリスト教徒ではないし、それ以上に、一神教が良いとも思っていません。
あれはあれで大変困難な課題を山積しているのはご存知のとおりです。
ただ、異文化に触れることは、自分たちの足元を照らし出してみることでもあり、この点において有益です。
作者、大岡昇平氏も、日本人、ひいては「人間」を追究するためにキリスト教を用いたのだと思います。

以上、あくまで文学の素人の私見、感想文の一つです。含んで参考としてくださいますように。
長々と失礼しました。

ひきつづき『野火』、核心にはいってきましたね^^
前回は書いてあることをそのままたどればよかったのですが、今回はそうもいきません。
まず、「三十三 肉」の章の該当個所で主人公に起こったことを確認しておくと、

その食物が何であるかを直感しながら、拒むことをせず、喰べてしまった。
そのとき「いいようのない悲しみが、私の心を貫いた」
「何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった」
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そのまま、「みずむしだましい」です。

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チャイコフスキーの作品の中でもちょっと地味な曲ですが、そのせいであまり参考となる資料もありませんでしたが、参考URLは少し参考になるでしょうか。

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Q「羅生門」と「野火」

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この2つの作品のテーマを考え、その共通点・相違点について考察せよ、という事なのですが、どなたか詳しく説明していただけないでしょうか?
もちろん作品は2つとも読んで一応自分なりに考えてみたのですが、どうにも考えが浮かばないので・・・。
かなり分かりにくい質問ですが、回答の方宜しくお願いします。

Aベストアンサー

極限状態での人間の本質とはなにか、ということがテーマとしての共通点かと思います。
「羅生門」では生きることをすべてに優先してたとえ生前主人であった女の髪であっても売ろうと考えて死体から髪を抜く老女と、その日の糧を得るためにならば人殺しも辞さない男、という
生きるためならば何をしてもかまわないという姿勢の人間の生きる話だと思います(決して芥川は人の獣性を支持している訳では無いのですが)
対して、「野火」では、人肉を喰らわなければ生きていけないような凄惨な戦場であるにもかかわらず、死んだ兵士の肉を食べようと銃剣で虫を払いのけようとした主人公は「その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである」となり、最後の行動ができないのです。
自分の手が、自分の意思にかかわりなく、人を殺めることを止めてしまうという不思議。
……信仰の有無が、二つの作品を分けたのではないかと思います。
芥川と大岡のキリスト教信仰の観点から論を進めてみてはいかがでしょうか?ご参考になれば幸いです。

Q教員が読むべき本はどんな本?

私は高校の国語の教員になりたいと思っているのですが、教員としての力をつけるためにどのような本を読んだらいいでしょうか?
教員としての基礎的な知識を身につけるものから、読んでおいた方がいい小説など、これはお薦め!!という本をぜひ教えて下さい。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

お返事ありがとうございます。

私に謝る必要はありません。気分は害してません。感じたことをフィードバックしただけですから。このサイトは文章のみでやり取りしているので感情が伝わりにくいですね。

今回は良い教訓かもしれません。

教員になって、実際に学校という組織に属し、生徒という未熟な生身の人間や保護者を相手に仕事をしだしたら、今以上に「がっくるとうなだれる」ことが多くなると思います。

しかし、貴方が立ち止まっていても時間はどんどん過ぎていってしまいます。
落ち込もうが不完全な答えしかなかろうが、何か変化を起こすためには意思表示をして行動しなければなりません。その度合いは、一般の社会人よりも教員の方がより求められると私は思いますので、挫けず頑張って教員になってください。
完璧を求めるよりも、8割の出来でも良いからすぐに行動する方が良い場合が多いですね。

「あきらめず、挑戦し続ける限り、失敗とは言わない」そうです。

Q「野火」で主人公の聞いた声

「野火(大岡昇平/新潮社)」の
p132で主人公が聞いた「汝の右手…勿れ」の声を、
直後に「村の会堂で私を呼んだ、あの上ずった巨大な声」
と書いていますが、それは作中のどこに出てきた「声」のことなのでしょうか?
出来ましたら、ページ・行とともに、お教えください。

Aベストアンサー

よい機会なので読み返してみました。

ご質問の箇所は「二九 手」の終りのところですね。
「村の会堂で」と本文にあるのですから、主人公が十字架を目指して村に下りてきたところ、
つまり、会堂のところを思い起こし、ページをさかのぼってみましょう。
すると「一八 デ・プロフィンデス」の章に、

 「デ・プロフィンデス」
 昨夜夢で私自身の口から聞いた言葉が響き渡った。

とあるのが見つかると思います。これが答えです。
ついでにいえばこの言葉は、「一三 夢」の章で、棺に横たわる自分の口から発される、

 「デ・プロフィンデス」
 「われ深き淵より汝を呼べり」 De profundis clamavi

から来ていることは明瞭と思います。
三段階を踏んで強調されているので、たいへん重要な節目のところです。よいご質問です。

この小説は、ちょっとしたこと、なんでもなさそうなところも複眼的な意図をもって貫かれた「高度」な小説。
「野火」のもつイメージも重層的、象徴的です。
誰かに見られている、あるいは自分が自分を見つめている、といった箇所が何度も出てきます。
作者にとって関心があるのは、極限状況における人間の意識なんでしょうね。

よい機会なので読み返してみました。

ご質問の箇所は「二九 手」の終りのところですね。
「村の会堂で」と本文にあるのですから、主人公が十字架を目指して村に下りてきたところ、
つまり、会堂のところを思い起こし、ページをさかのぼってみましょう。
すると「一八 デ・プロフィンデス」の章に、

 「デ・プロフィンデス」
 昨夜夢で私自身の口から聞いた言葉が響き渡った。

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Q本を読んでもすぐ内容を忘れてしまう

本を読んでもすぐ内容を忘れてしまう

小説は苦手ですが新書は色々読むのは嫌いではなく、月に何冊か読むようにしています。
仕事を辞め、学ぶ環境が与えられなくなってから、理解力というか記憶力が乏しくなってしまいました。
読んでも読んでも身につかないというか、忘れていってしまう。
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生活や人生に役立てたいと思って読むのですが、吸収していきません。歳ですか?因みに30代です。
読んだものの内容を理解し、日々に生かしていこうとするためにはどうしたら良いと思いますでしょうか?

Aベストアンサー

 
 拾読のすすめ ~ 積読・乱読・流読・黙読・通読・熟読・精読 ~
 
── ブラウザ(英:browser)は、コンピュータ上の情報を一定の目的
に沿って表示し閲覧に供するソフトウェア一般を指す語。ブラウザを利
用し情報を閲覧することをブラウジング (browsing) 、ブラウズ (browse)
する、のように言う。原義は興味のあるものを流し読みすること、草食
動物が植物の特定の部分を選択的に食べること。ブラウジングのことを
「拾い読み調査」と言ったりすることもある。
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B6
 
 わたしは約3000冊の蔵書を管理していますが、ほとんど通読して
いません。しかし、何度も手にとって拾い読むうちに、座右の書となり、
パソコン用の目次や索引を作って、結果的に精読した本もあります。
 
 わたしがたどりついた究極の読書法は、書かれた順に読むのではなく、
各々の疑問回路にしたがって読み進みます。わたしは、第一ページから
最終ページまで順を追うのではなく、つぎのように繰っています。
 
1.奥付(発行年月日、改版履歴、著者略歴)に目を通す。
2.あとがき・序文が面白くなければ、たいがい本文も面白くない。
3.目次を眺める(見出しに整合性のないものは、内容が貧しい)。
http://q.hatena.ne.jp/1112290743#a281695
 
── 《風と共に去りぬ》の作者は、最終章から書きはじめ、飛び飛び
に書きすすめるという不思議な手法で完成しましたが、不思議なことに
最後まで第一章を書かなかったそうです。
http://q.hatena.ne.jp/1155305870#a586558
 
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4724737.html (No.3)
 本の本 ~ いつどこで、誰々が、いかに書いたか? ~
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4711612.html (No.1)
 

 
 拾読のすすめ ~ 積読・乱読・流読・黙読・通読・熟読・精読 ~
 
── ブラウザ(英:browser)は、コンピュータ上の情報を一定の目的
に沿って表示し閲覧に供するソフトウェア一般を指す語。ブラウザを利
用し情報を閲覧することをブラウジング (browsing) 、ブラウズ (browse)
する、のように言う。原義は興味のあるものを流し読みすること、草食
動物が植物の特定の部分を選択的に食べること。ブラウジングのことを
「拾い読み調査」と言ったりすることもある。
http://wkp.fresheye.com/wikip...続きを読む

QWikiの名前の由来について

お世話になります。
最近(2002.9.21)ですが、
Wikiという便利なツールの存在を知りました。

■What Is Wiki
 http://wiki.org/wiki.cgi?WhatIsWiki
■WikiWay - Wikiの生みの親が書いたWikiの本。
 http://www.hyuki.com/yukiwiki/wiki.cgi?WikiWay

上記のページを参考にWikiの名前の由来について
調べたのですが結局よくわかりませんでした。
もしご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。

Aベストアンサー

参考ページによると、次のようです。

「ハワイ語で quick (素早い) を意味する wiki wiki に由来。」

参考URL:http://c2.com/cgi/wiki?WikiWikiWebFaq

Q『「○○」を読む会』の活動について

たまに新聞などで「中島敦を読む会」とか「山本有三を読む会」など色々な「読む会」の存在を知ることがあるのですが、どのような活動をしているのでしょう? 会員募集とかネットでしてるのでしょうか? 暇なので参加してみたいとも思っているのですが実態がわかりません。近現代の日本文学を対象とする会のこと、何でもいいのでおしえてください。

Aベストアンサー

ネットなら、ニフティの一連の文学フォーラムが割合簡単に入会できるでしょう。
ただ、ニフティのフォーラムは裁判ざたが絶えないなど、粗暴な振る舞いをする人が少なくないので、フォーラムを選ぶことは大事です。


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