和宮の大奥での生活が描かれている文献。ジャンルは問いませんのでお心当たりのある方教えてください。お願します

A 回答 (2件)

和宮本人が書いた『静寛院宮御日記』、若しくは和宮のお付の女官(庭田嗣子)が書いた『静寛院宮御側日記』はいかがでしょうか。

和宮の大奥での生活が詳しく書かれているのは、後者の『静寛院宮御側日記』だと思います。
両方とも活字に起こされているので読むことは比較的容易いと思います。
大きな図書館、または大学図書館には所蔵されていると思うので、興味がお有りでしたら、是非一度御覧になってください。
人の手が入っていない一次資料ですので、お薦めです☆
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和宮の大奥の生活が書かれているかどうかはちょっと分かりませんが、和宮についてなら、吉川弘文館から出ている「人物叢書」に「和宮」というのがあります。

価格は税込みで1837円。図書館などにいけばあると思います。詳しくは下の吉川弘文館の出版図書分野別検索のHPで見てみてください。

参考URL:http://www2.books.or.jp/asp/cat/cat.asp?sc=8713
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Qイマドキの学生さんに質問です。私が学生だった数十年前は、友達と交換日記をするのが流行っていました。L

イマドキの学生さんに質問です。私が学生だった数十年前は、友達と交換日記をするのが流行っていました。LINEやFacebookなどの便利なアイテムが普及しているイマドキの学生さんは、交換日記をしていますか?教えてください。

Aベストアンサー

高校生です。
私は中学生の時使わなくなったノートに友達と1日1ページで交換日記みたいなものをしていましたが、1週間位でやめてしまいましたね(・・;)

Q和宮降嫁のルート

和宮降嫁のルートですが、大河によると中仙道を通ったらしいですね。

これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?
一番楽なのは船ですが、公武合体を喧伝するなら大名行列のように陸路を選ぶこともあるでしょう。
それにしても中仙道とは奇異です。
普通は東海道でしょうし、中仙道上に薩摩や水戸があるわけでもありません。いったいどういう意図があったのでしょうか?
途中に見せ付けてやりたい藩でもあったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?

(1)最大の要因は「警護」のしやすさ、からでした。わざわざ山の中を通るわけですが、「公武合体」に反対する者が襲撃してきても、東海道のように広い路では、刀が振りやすいし、一気に集団で襲って来ることも考えられます。
(2)そこで、中山道を通ったのは、集団で襲って来たとしても、狭い山道ですので、一気に押し寄せてくることができない。刀も十分に振り回せない。などなど、で「わざと」道幅の狭い中山道と決定したのです。
(3)また、海路を使用しなかったのは、当時は、すでに諸外国の船が日本の沿岸まで何隻も集まっており、「攘夷」を唱える朝廷としては、外国船の襲撃も恐れました。
(4)さらに、和宮が京都を出立したのは、文久元年(1861)10月20日ですが、現代の太陽歴になおすと、11月の下旬になります。当然、「しけ」なども多かったので、これは「却下」。
(5)そして、東海道を通らなかったわけは、NO2.の方も言われているように、河川が多く、大風(台風)のシーズンではありませんでしたが、やはり、大雨で川の増水による「川止め」なども予測されました。
(6)「前例」が大きくかかわった。
和宮以前に公家の姫君が江戸へ下った「例」があり、「警護」が行き届いている・・・との「評判?」が存在しました。
享保16年(1731)に、比宮(なみのみや)が9代将軍家重へ嫁す。
寛延2年(1748)・・・五十宮(いそのみや)が10代将軍家治へ嫁す。
文化元年(1804)・・・楽宮(ささのみや)が11代将軍家慶へ嫁す。
天保2年(1831)・・・有宮(ありのみや)が13代将軍家定へ嫁す。
嘉永2年(1849)・・・寿明宮(すめのみや)が13代将軍家定の後妻に嫁す。
(7)和宮の一行は、京都方(京都近辺の諸藩から集められた)1万人、江戸よりの派遣1万6千人。その他に持参した品物を運搬する人足等を入れると3万人余りにもなり、延べ12の藩が輿を守った。行列の長さは約12里(50~60Km)にもおよび、通り過ぎるまでに4日もかかった、と言われています。
そして、街道筋では、「伝馬役以外は一切の外出禁止令が出され」「女は姿を見せないこと」「通行を上から(2階などから)見ないこと」「商家の看板は全て取り外すこと」「2階は雨戸を閉じること」「犬や猫はたまた赤子も泣かせてはならないこと」などなど、幾つもの「禁止令」が出され、それを可能にできるのは人口も少ない中山道だけであった。
(8)不吉な「語呂合わせ」。
東海道で富士山の眺望がもっとも素晴らしいと言われたのが「さった峠」(現:静岡県由比町)。当時で言えば、多くの見物人が押し寄せました。そして、この「峠」を絶対的に越さなければ江戸へは行けない。「さった」=「去った」で縁起が悪かった。
ごめんなさい、「さった峠」を漢字で入力しましたが、なぜか「文字化け」をしますので、平かなで書きました。

>>途中に見せ付けてやりたい藩でもあったのでしょうか?

この回答は「ありません」でした。それよりも、通過する諸藩では、逆に、沿道の整備(橋の修復や道路を掃き清める)などで、大きな出費でした。

(よもやま話)
(1)宿場も大混乱。
和宮が宿泊する宿では、壁を新しく塗り替える。襖(ふすま)や戸棚も全て「京風」に取り替える。畳表を取り替える。さらに、その上に「真綿」を敷き詰めて、縁の下から槍などで突かれるのを防いだ、と言われています。
(2)小さな宿場町は、もっともっと、大大混乱。
美濃太田宿(現:岐阜県)は小さな宿場町でしたので、記録では、人足7,800人、馬280頭、寝具類7,400枚、枕1,400個、飯椀8,000個、汁椀5,200個、膳1,000人分、皿2,000人分を新調したり、近隣の豪農の家々から集めた、という記録が残されています。
(3)2つの宿が協力。
和宮が通過した頃、中津川宿は、人口928人、家数228軒、旅籠29軒。そして、次の宿場の落合宿は、人口370人、家数75軒、旅籠14軒、と、それぞれが小さかったためと、約1里しか離れていなかったので、この2つの宿場は共同で行列を受け入れました。なにせ、行列は約12里もありましたから・・・。そして、一行が1泊しただけで252両もかかった、と、記録では伝えています。
(4)紅葉の一枝。
美濃の呂久川付近を一行が通過中、道端にひれ伏していた土豪が、一枝の紅葉を差し出すように頭の上に持ち上げていた。和宮にも輿の御簾(みす)から見えたらしく、ただ輿に揺られるだけで何の楽しみも無かったためか、輿を止めて、土豪から一枝の紅葉を受け取った。そして、
「落ちて行く 身と知りながら 紅葉(もみじ)ばの 人なつかしく こがれこそすれ」
と和歌を詠んだ、と言われています。
(5)10月20日、京都を発ち、江戸へ入ったのは、11月15日。約25日の行程であった。

あなたの「お役に」たてたでしょうか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>これが疑問なのですがなぜに中仙道なのでしょうか?

(1)最大の要因は「警護」のしやすさ、からでした。わざわざ山の中を通るわけですが、「公武合体」に反対する者が襲撃してきても、東海道のように広い路では、刀が振りやすいし、一気に集団で襲って来ることも考えられます。
(2)そこで、中山道を通ったのは、集団で襲って来たとしても、狭い山道ですので、一気に押し寄せてくることができない。刀も十分に振り回せない。などなど、で「わざと」道幅...続きを読む

Q外国の日記でも天気の記述は多いですか?

江戸時代や明治時代の日記を見ると
天気の記述が非常に詳細に書かれています。
農民ではなく武士や蘭学者、学生の日記でもそうです。
なかには全体の1/3が天気のことという日記もあります。
日本人には、日記=天気のことをまず書くという固定観念があったようですが、
外国でもそのようなことがありますか?
外国の日記で天気の記述は重要でしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本は四季、お天気に富んだ国なので、よくお天気のことが話題にされます。挨拶でも、「今日はいいお天気ですね」「あたたかくなってきましたね」「お寒うございます」などというようなことをよくいいますよね。これは四季に富んでる風土のせいなのです。
そんなところで育った日本人には知らず知らずのうちにお天気に注意がいってしまうのです。季節の言葉でも、春夏秋冬のほかに、春先、梅雨、初夏、残暑、秋口、真冬など、ほかの言語には見られないものがたくさんあります。お天気に関しては、たとえば「雨」でも,日向雨、長雨、霧雨、時雨、一雨、雨雲、雨脚、雨宿り、雨合羽、雨傘、雨漏り、通り雨、など、たくさんありますよね。こういった言葉は季節やお天気が年中おなじ風土の言語にはみられないことなのです。

日本人からみたら、一年中おなじ季節に見えるエスキモー民族が生活しているところでは、季節の言葉こそほとんどありませんが、雪の呼び方でも最低9種類あります。そして、「白」になると、何十種類もの「白」があります。モンゴル語では、何十もの羊や山羊の呼び方があります。

例えば中国語では「ご飯もう食べた?」というのが挨拶代わりにつかわれます。これは中国人が食に興味があるということなのです。 

「サピア=ウォーフの仮説」を耳にされたことありますか?http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%94%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%81%AE%E4%BB%AE%E8%AA%AC
日本語のWIKIPEDIAにはあまり詳しく書かれていませんが、つまり、社会、風土によって、言語が異なり、その言語はその言語を話す人の考え、認識が反映されているということなのです。生活に密着していればしているほど、その単語が多くなるということなのです。

日本語は季節、お天気のほかに、魚の種類(出生魚の名前)、味(こく、甘酸っぱい)などの言葉に富んでいますが、英語は色の言葉に富んでいます。日本人にはどうみても青というものをTEALと読んだりします。もっと身近なところでは、フランスはチーズの種類が何十とありますよね。日本ではいくつですか?プロセスチーズ、クリームチーズ、パルメザンチーズ、、、最近こそいろいろなチーズが紹介されていますが、それでも両手でたりてしまいますよね。

話題からかなり外れてしまいましたが、ということで、外国のもので、お天気について書かれているものは日本のものほどありません。

日本は四季、お天気に富んだ国なので、よくお天気のことが話題にされます。挨拶でも、「今日はいいお天気ですね」「あたたかくなってきましたね」「お寒うございます」などというようなことをよくいいますよね。これは四季に富んでる風土のせいなのです。
そんなところで育った日本人には知らず知らずのうちにお天気に注意がいってしまうのです。季節の言葉でも、春夏秋冬のほかに、春先、梅雨、初夏、残暑、秋口、真冬など、ほかの言語には見られないものがたくさんあります。お天気に関しては、たとえば「雨」...続きを読む

Q皇女 和宮が詠んだ和歌を教えてください。

和宮の歌は、どこかやさしく切ない感じがして、自分としてはとても好きです。
自分は、

・惜しましな君 と民とのためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも

・空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ

・落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ

・哀れぞと 見ませすべ神 ませし世の 御影をだにも 知らぬうき身を

・住み慣れし 都路出でて けふいく日 いそぐもつらき 東路の旅 

・三瀬川 世にしがらみの なかりせば 君諸共に 渡たらしものを

・着るとても 今は甲斐なき 唐ごろも 綾も錦も 君ありてこそ

の和宮が詠んだ歌を知っていますが、このほかにも
知っている方はいませんか。教えてください。

Aベストアンサー

全く詳しくはありませんが、興味深いので探してみました。
こちらのサイトが参考になると思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/kazunomiya.html


『静寛院宮御詠草』 より

・袖に置く涙のつゆにうつしませ逢ふがまほしと恋ふる御影(みかげ)を

・ことしこそのどけさおぼゆ去年(こぞ)までは春を春とも知らざりし身の

通釈と補記が載っていますので、詳しくはリンク先でお読み下さい。


ご質問に挙げられていた「惜しましな~」と、「空蝉の~」については、上記の歌集から漏れていますが、和宮の歌として伝わる作なのだそうです。
歌が詠まれた背景もリンク先に解説があります。

ちなみに、最初にご紹介させていただきました、静寛院宮(和宮)はこちらの
【千人万首】http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin.html
        の、《2.江戸時代二》からのリンクです。 

リンク先、ホームページのトップページはこちらです。
【やまとうた】http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/index.htm

全く詳しくはありませんが、興味深いので探してみました。
こちらのサイトが参考になると思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/kazunomiya.html


『静寛院宮御詠草』 より

・袖に置く涙のつゆにうつしませ逢ふがまほしと恋ふる御影(みかげ)を

・ことしこそのどけさおぼゆ去年(こぞ)までは春を春とも知らざりし身の

通釈と補記が載っていますので、詳しくはリンク先でお読み下さい。


ご質問に挙げられていた「惜しましな~」と、「空蝉の~」については、上記...続きを読む

Q今度こそ真面目に日記!

今度こそ真面目に日記を続けようと思います。
ブログではなく、紙にペンでしたためる日記です。
日記は短いものでは「今日も何もなし、特記事項なし」のようなものから、長いものでは数ページに渡るものもあるようですが、
適当な長さで続けるために書き方などを知りたいと思っています。

朝○時に起きて…朝ごはんは何だったか、仕事でこういうことがあった、帰りに何をした、
帰って来てからお風呂に入って、寝るまでの間何をした…という単調なものですか?
学生時代に冷静になるために書いていた日記は、要するに暴露本みたいになっていました。
感情的で全然日記らしくなくて、長~い日と何も書かない日とにキッカリ分かれていました。

長い日短い日の差はあっても、冷静に日記を続けられるコツなどありましたら、教えてください。
私は今度こそは本気で日記を書き綴ろうと思っています。

Aベストアンサー

こんにちは。
私自身の場合についてお話しします。

日記を続けるコツについてですが、私は「とにかくページを埋める」「ほかの日に書いたページには一切手を加えない」いうことだけ決めています。

日記帳は、3年日記で1ページに3年分書けるようになっているものを使用しています。日記の○○年と書くところの隣に細いスペースがあるので、そこにはその日にあったことを箇条書きにしています。

時間があって普通に日記が書ける日は、日頃から考えていることや、その日にあった印象的なことを書くようにしています。普段は直接日記帳に書いていますが、どうしてもたくさん書きたい日は別の紙に書いて後から貼り付けるようにしています。
日記が書けないで寝てしまった日は、後から、好きな言葉や、記録(私は高校生なので、模試や体力測定の結果など)を書きます。

冷静に日記を続けるためには、「愚痴を書かない」と決めてはどうでしょうか。
また、私は鉛筆で書くと自分の文章が気に入らずに直したくなって時間ばかり掛かってしまうので、ペンで書くことがほとんどですが、冷静に書くために、鉛筆で書いて、感情的だと思うところは直しても良いと思います。
ただ、人に見せるつもりでないのなら、初めは上手くいかなくても、だんだん自分の思うような日記が書けるようになってくると思うので、そこまでする必要もないかと思います。

諦めずにのんびり頑張ってください。

こんにちは。
私自身の場合についてお話しします。

日記を続けるコツについてですが、私は「とにかくページを埋める」「ほかの日に書いたページには一切手を加えない」いうことだけ決めています。

日記帳は、3年日記で1ページに3年分書けるようになっているものを使用しています。日記の○○年と書くところの隣に細いスペースがあるので、そこにはその日にあったことを箇条書きにしています。

時間があって普通に日記が書ける日は、日頃から考えていることや、その日にあった印象的なことを書くように...続きを読む

Q和宮の降嫁行列が50Kmにもなったのはなぜ?

和宮の降嫁するさいの行列が50Kmにもなったといわれえいます。
これは事実なのでしょうか?
50Kmは半端な距離がありません。
宿に泊るにして、とうてい一箇所ではすまないでしょう。
行列のに人数はどれくらいだったでしょうか?
1万人いたとしても、数Kmもあればよい気がします。
またそんな人数は必要ないのではないでしょうか?
お供が千人いたとして、それの警護が3千人で事足りるのではないかと思いました。
50kmは話が大きくなってしまっただけでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 yoshinobu_09 さん こんばんは、参考までにご覧ください。

 皇女和宮の降嫁は、舟による渡河がない中山道を使いました。ただし、諸荷物
道具の類は、出立に先立ち、東海道を経由して別途輸送されました。

 従って、行列はある程度の荷物は軽減されていました。とは言え、舟を使わず
といえども、中山道は、中部山岳地帯を貫く街道で難所も多く、例えば、当時の
和田峠など、人のすれ違いがやっとというような険阻な山道もありました。
 そもそも、五街道が制定された当時、道幅も決められたのですが、宿場内はと
もかく、山中では馬のすれ違いが出来ない箇所までありました。
 そういう所を、とんでもない人数の行列が通ったのです。

 加賀前田家(初めの頃は木曽路を通っていた。)など、大人数の大名行列も同
様でしたが、行列の先頭から最後尾までが数珠繋ぎに列を組んでいたわけでは
ありません。

 先ず、宿泊場所の確認・手配に始まり、先触れ、警護、本隊などに分かれ、そ
れぞれに人足・荷駄が加わるわけですから相当の人数・行列になりました。
 このような人数を受け入れられる宿泊施設といいますと、「大概帳」によります
と、当時、木曽路で比較的規模が大きかった妻後宿であっても、旅籠の数は大
小あわせても31軒しかなく、相当手際よく各宿場に手配できたとしても、行列の
大半は野宿をせざるを得なかったと思われます。

 では、どれくらいの人数であったかといいますと。文久元年(1861年)10月20日に京を出立し、草津から中山道経由で江戸に向かったとき、その行列
の規模は、朝廷方数千人、幕府方1万5千人、人馬の継立て1日平均2万5千人
が動員されたといいます。

 実際の行列の長さを正確には存じませんが、こう書いてまいりますと、50キロ
という規模は、あながち誇張ではないであろうと思いますが、如何でしょう。

 yoshinobu_09 さん こんばんは、参考までにご覧ください。

 皇女和宮の降嫁は、舟による渡河がない中山道を使いました。ただし、諸荷物
道具の類は、出立に先立ち、東海道を経由して別途輸送されました。

 従って、行列はある程度の荷物は軽減されていました。とは言え、舟を使わず
といえども、中山道は、中部山岳地帯を貫く街道で難所も多く、例えば、当時の
和田峠など、人のすれ違いがやっとというような険阻な山道もありました。
 そもそも、五街道が制定された当時、道幅も決められたのです...続きを読む

Q昔の日記について。

日記を捨てるか悩んでいます。
学生時代から、ほぼ毎日書いていたものです。

日記を捨てて後悔された方はいますか?

捨てたい理由は一つで、万が一の事があった時、自分の思いが赤裸々に書かれ過ぎていて、死んでも死に切れないこと。

迷う理由は、些細なことも思い出せる、忘れたくない。日付まで覚えていない事柄が多いのでそれも分かる。
いつでも捨てられる、後で後悔しそう、小説を書いているので役立つなどです。

後悔したか、しなかったか、体験談教えて下さい。

Aベストアンサー

私も長く日記のようなものを書いて保管してありました。理由はやはり、覚えていたいとか忘れたくないという気持ちからでした。いつか役に立つかも何て気持ちもありましたが、ある時からあまり物を溜め込まない生活がしたくなり、大掃除した際に思い切って全て捨てました。

結果からいうと、捨てて良かったです。捨てて何年もたちますが、日記が無くて困ったことは1度もありませんし、日記を書かなければいけないという事もなくなってスッキリしました。

自然と忘れていくことは自分にそんなに必要ではないのだと割り切って、無理に覚えていようとすることもやめました。
自分としては、その日記があったことすら忘れかけている今の生活を気に入っています。

性格上の事もあると思いますので、ご自分の思うようにされてみてくださいね。

Q桶狭間の戦いについて詳しく述べてある参考文献を教えて下さい。

桶狭間の戦いについて詳しく述べてある参考文献を教えて下さい。


出来るだけ多く教えて頂きたいです。

最近信長に興味を持ち始めました。

もしよろしければ教えて頂く際、それぞれに述べられている桶狭間の戦いの考察の違いについても教えて頂けたら幸いです。


では回答お待ちしております。

Aベストアンサー

藤本正行『【信長の戦い(1)】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社新書y 2008)

上記の著書が近年ではまとまった桶狭間の戦いの研究書だと思います。
『信長公記』に基づく「正面攻撃説」の論者ですが、「正面攻撃説」批判への反論や他の諸説についても言及されていますので、その中で興味のある説があれば、参考文献から参照されるとよろしいかと。
ただ、信長を天才視する従来の歴史観ではなく、過大評価ではない等身大の信長に迫ろうとする観点で著されていますので、小説などの一般的な信長像から興味を持たれたのであれば、ギャップが大きすぎるかもしれません。
なお、

谷口克広『織田信長合戦全録』(中公新書 2002)
同『信長の天下布武への道』(吉川弘文館 2006)

これらの著書も合戦の経過について詳細に記述されています。

Q枕草子と紫式部日記を読みたい

枕草子と紫式部日記を読みたいのですが、どこの出版社から出ているものが良いでしょうか?
条件としては、
・全訳がついている
・学生にも買いやすい値段
・レポートの参考文献として書ける
と言った感じです。

お願いします。

Aベストアンサー

他のと比較したわけではないのですが、講談社学術文庫のは、上記条件を満たしていると思います。

Q天璋院と和宮

和宮の旦那は篤姫が産んだ訳ではないのに、この二人は何故、姑と嫁になるのですか?

Aベストアンサー

>和宮の旦那は篤姫が産んだ訳ではないのに、

養子です。


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