西郷隆盛について教えてください。

そのまま書いてくれてもよろしいですが、
参考になる資料とかURLをUPしてくれるとうれしいです。


沢山のコメントまってます

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A 回答 (3件)

(2)の者ですが西郷の逸話について1,2、つ書いておきます。

西郷はかなり貧乏しておりました明治維新後かなりの給料をもらてましたが自分の為に使いませんでした、奥さんが(家の雨漏りがあまりひどいので、西郷に雨漏りを直して欲しい。)と訴えたのですが西郷は、金の無駄!お前はまだわからんのか!と怒鳴ったそうです。西郷は給料を殆ど若者たちの教育のために使いました。
又、政堂に向かうのに、握り飯だけ腰に下げ歩いてかよったそうです。ほかの役人は馬車などで向かう中、やはり薩摩隼人の血ですね。。とにかく逸話の多い人で私利私欲の無い人は西郷が一番でしょう。
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ん~、西郷隆盛についての質問、海音寺潮五郎の(大西郷伝)が良いと思いますよ。

海音寺潮五郎は鹿児島県大口市の郷士の出身、この人が一番西郷について良く調べ多く書いています客観的に見ていますし、薩摩隼人の性格についても面白いですね、オススメデス。
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ウィキのURLを貼り付けておきます。

かなり詳しく書かれているので、OKかと。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7% …
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Q西南戦争と西郷隆盛

西郷隆盛は西南戦争を勝とうとおもっていたのでしょうか?戦をするのに負ける気でやる人はいないと思いますが、勝とうと思えば桐野とかに固執せずに人材登用を図ればよかったのでは? 東京を目指さずに熊本あたりで結果としてうろついているのをみると、西郷は太政官や日本の為にあえて薩摩の不平将校などと自滅する道を初めから狙ったのではと思ってしまいますが。いかがでしょうか? よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。

西郷は蜂起したかったわけではありません。
地元で起こった騒動を、地元の名士として代表する立場に就き、いつのまにやら
西郷の叛乱とされただけです。
勝ち負けどころか、戦う気すらもってませんでした。

発端は薩摩で政府が旧薩摩藩の所有する武器類を接収するという話が出てきた
ことなどから、薩摩に残っている旧薩摩藩士が接収にきた政府役人とのあいだで
武力衝突を起こして騒動が発端しました。

この騒動を、西郷を亡くすことに利用しようとした動きがあったという噂が出た
ことも、騒動を大きくすることにつながりました。
西郷は当時の士族の象徴でしたので、徴兵制などで武士のアイデンティティを
奪う政策が続く当時の士族としては許せなかったのでしょう。
また、鹿児島に残された者と、東京に出て鹿児島を忘れたかのような振る舞いを
する政府要職に就いた者たちとの間でのわだかまりもあったことなどから、
どんどんと話が大きくなったとも言えます。
今はわかりませんが、少なくとも30年前は戦役から100年も経っているにも関わ
らず、西郷を愛し、西郷を殺す動きをとった大久保のことを憎む風が残って
いました。敬天愛人の言葉は、今も愛されています。

ただ、その30年前ぐらいは、薩摩藩士の無念を思って田原坂で自決した人の
ニュースが1年に1回はあったと記憶しているので、西南の役はそう昔の
話ではなかったのだと思います。
田原坂の戦いを地図上で見ればわかるのですが、かなり広範囲での戦闘です。
また、お互いが撃った弾丸同士がぶつかって圧着したかたちで残っているものが
たくさん残っています。また、民家の土塀や林の中に弾丸や小刀の錆びたものが
よく落ちていました。(地元なので、よく知っています。)
弾丸同士がぶつかるくらいの激闘だった・・・想像つきませんよね。
私の曽祖母が「薩摩も政府軍も関係なく、弾丸が貫通した穴に藁の紐を通して
薩摩藩の兵器類を接収する寒風摩擦の要領で亜鉛のついた傷口の肉をシゴき
取って介護した。」という経験談を語っていたそうです。

話が逸れてしまいましたが、元々は薩摩で起こった騒動を政府に問い質しに行くぞという旧薩摩藩士の動きが、14,000名もいたために蜂起軍の北上と見做されて
乱ではなくて役という扱いとなり、不幸にも早々に熊本での戦いを呼んでしまった
というかたちでしょうか。
熊本城は行けばわかりますが、14,000名程度で簡単に抜ける城ではありません。
加藤清正の築城の謂れもあったものですから、薩摩は熊本城を抜くことに固執して
しまったのが戦略上の大きなミスだったのかも知れません。
結果的に、清正が野戦をすることを想定して整備していた田原坂で決戦を行い、
その戦いの最中に背後を政府軍に衝かれることを許してしまいます。

薩軍は士族というよりも侍の集まりでしかなかったため、戦術的にはさておき
戦略的には大きく見劣りしていました。そもそも、道中のトラブルは力押しして
東京に歩いて辿り着くことが彼らの目標だったので、戦略を問われたとしても
関係なかったのかも知れません。
明治天皇は「西郷のことを殺すつもりはなかった。」と漏らしていますから、
14,000人規模のデモであった可能性もありますね。

こんにちは。

西郷は蜂起したかったわけではありません。
地元で起こった騒動を、地元の名士として代表する立場に就き、いつのまにやら
西郷の叛乱とされただけです。
勝ち負けどころか、戦う気すらもってませんでした。

発端は薩摩で政府が旧薩摩藩の所有する武器類を接収するという話が出てきた
ことなどから、薩摩に残っている旧薩摩藩士が接収にきた政府役人とのあいだで
武力衝突を起こして騒動が発端しました。

この騒動を、西郷を亡くすことに利用しようとした動きがあったという噂が出た
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Q西郷隆盛の銅像

上野の西郷隆盛の銅像についてお聞きします。
テレビなんかでもよく言われていますが、あの銅像って、できた当時、西郷の奥さんが「うちの人と全然似てません」みたいなことを言ったそうです。
そこで疑問なんですが、奥さんが「全然似てない」と言った時に、
「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
聞いておけば良かったんじゃないんですか?

Aベストアンサー

>「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
>聞いておけば良かったんじゃないんですか?

 一説によると あの像を見た奥さんは、
かなり、「取り乱した」という話もあります。

 アナタは、そんな取り乱した女性に対して
「どんな顔だったんですか?」と平然と聞けますか?
http://pleasure-bit.com/1048.html

 仮に取り乱していなくても
<除幕式>の祭典の際中に「どんな顔だったんですか?」なんて
まともな、人間なら聞かないわな~

 聞いたところで どうするの?
似顔絵でも書いて銅像を作り直すの?

 あの銅像が作られた経緯を考えたら
作り直しなんて余程バカか、責任感のある奴しかやらんだろ

 大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって
西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、
吉井友実ら薩摩出身者が中心となって建設計画が立てられ

・宮内省より500円を下賜
・全国2万5千人余の有志の寄付金で建立

 この金額と善意が無駄になりますがな~

Q日本で、担がれた人物は、関東の武士に担がれた、源頼朝・郷土の若者に担がれた、西郷隆盛でしょうか?

司馬遼太郎を読んで触発されました。
一部省略しますが、
“韓は、劉邦という現在の江蘇省の農家のうまれの人物をかつぐことによって興された。”
という部分です。
かつぐというところが、気になりました。
日本で、担がれた人物は誰だろう、と考え、次の二人を思いつきました。
1.源頼朝;北條氏などの関東の武士に担がれて、蜂起した。
2.西郷隆盛;郷土の若者に担がれて、西南戦争に乗った。
質問は、①二人は、担がれたに該当しますか?
②他に該当する人物は何方ですか?

Aベストアンサー

秀頼に関しては、担がれた悲劇。他の織田や今川の関係者たちは、欲を捨てたゆえに、生涯をちゃんと終えることができました。

徳川家康に関しては、信長失脚あたりまで。それ以後は新規召抱えの家臣が増えて、御輿の役割は急激に減ってます。

幕末の薩摩藩では、土佐の個々が脱藩して活動の限界を反面教師にして、藩主を御輿に担ぐ方向に進んでいます。当の藩主が不慮の死を遂げて、次の藩主にも接近という形は、節操がないようにも見える。

Q朝鮮出兵に対しての太閤秀吉と西郷隆盛

あまり自信があるわけでなくこじつけかも知れません。
秀吉の朝鮮出兵と西郷が唱えた征韓論は何か共通点があり、それは直前の戦乱の時代の残り火を消すという作業であったのでは。
秀吉の国内統一には、内乱を収める必要があり、そのためには危険勢力を国外に向け海外利権を獲得させるというひとつの目的に収束させる事。
西郷は特に、薩摩の戊辰戦争でくすぶりが残る武士団の功名エネルギーを上手に有効利用する方便として、征韓論を唱えたのではないか。理想としては富国強兵と信じていながらも、現実的な武士の働き場所や、内乱の予防のために(この予防が失敗したので西南の役その他が起きる)出兵を主張したのではないだろうか。

2つに共通性はあったのでしょうか。それとも違った観点で考えたほうがよいのでしょうか。

Aベストアンサー

西郷隆盛の征韓論についてのみ、述べます。
西郷が征韓論を主張したことは史実です。
鹿児島県発行の『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っています。それによると、西郷と参議の板垣退助、副島種臣、左院副議長の伊地知正治が軍隊派遣の戦略について協議しています。西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成しました。しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながら、南北挟み撃ちの戦略を主張し、西郷は同意しました。
司法省出仕だった有馬純雄(薩摩出身)は、自伝『維新史の片鱗』で、西郷に朝鮮占領後の民政官に任命するといわれ、関係地図を探したと述べています。
西郷が征韓論を唱えなかったというのは、西郷びいきの人びとのたんなる願望です。

参考URL:http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/seikanron2.html

Q西南戦争と征韓論と薩摩士族

西南戦争の原因の一つに、江華島事件とそれに続く日鮮修好条規締結は入らないのでしょうか?
西南戦争の大きな原因の一つに、西郷隆盛らの遣韓論が大久保利通らの謀略によって否決され西郷らが下野したことが挙げられますよね。
明治8年、大久保らによって行われた江華島事件とそれに続く日鮮修好条規締結は、日本国内の問題としても、欧米列強や中国の動向としても、まさに西郷らの遣韓論が正しかった、もしくは間違いではなかったことを証明してみせ、西郷派の士族たちを憤慨させました。

ところで、ある人気小説家が書いた西郷と大久保を中心にした長編の歴史小説は、明治4年頃から西南戦争終結時までを書いているのですが、江華島事件とそれに続く日鮮修好条規締結のことが一言も書かれていませんでした。
もちろん、それは小説であって歴史書ではなく、さらにその作家は歴史学者ではないので、歴史を何もかも知っている必要はなく、さらに何もかも歴史に沿って史実を書く必要はないことは分かっています。

Aベストアンサー

口実にはなっても、原因にはならないんじゃないかなと思いますね。というか、あくまで個人的見解ですが征韓論云々も単なる口実に過ぎないと思います。

明治維新が革命であったかどうかは議論の余地が大いにありですが、その内容が革命的であったことは間違いはないです。そのひとつが「武士階級の廃止」でした。
武士が特権階級だったかどうかその実態は別にして、ある種の既得権益階級ではありました。多分に精神的なところが大きかったですけどね。明治政府は「もうそういう武士なんていうのは辞めますよ」と言い出したのです。
これは、西洋的な価値観の影響と近代国家建設のためというのも大きかったでしょうが、理由の半分くらいは「近代軍隊創設のため」だったと思います。明治政府としては、ゆくゆくは徴兵制による国民皆兵にしたかったのです。理由は、そっちのほうが安上がりだからです。数年で兵役を終えれば現役兵はいつでもフレッシュな若者ですし、兵役を終えた人たちを予備役兵にすればいざ戦争になったときに大量動員が可能です。つまり普段は兵員を抑えて軍事費も少なくし、いざ戦争のときに兵員を動員するのです。
実際に明治政府はそうしようとしたのですが、これがもう大反発を招いたのです。町民・農民階級からは当然「面倒くせえ」といわれます。一方、武士階級からも軍人になれば一生給料が貰えるのに徴兵制度になると一生お給料が貰えないわけです。
「だったら将校になればいいじゃない?」と思うかもしれませんが、近代軍隊の将校は高等教育を受けた者の一代限りで、「世襲」はできませんよね。「師団長の息子だから師団長になる」わけではありません。だけど、江戸時代の武士階級の常識からすると世襲が当たり前だし、町人農民の子が一軍の長になるなんてありえないわけです。
現代のサラリーマンに例えると、「正社員をやめて全部アルバイトにします。指揮官だけは契約社員ね」みたいなもんだったんですよ。

だから、各地で不平士族の反乱が起きます。反乱は不平士族だけじゃなくて、実は農民も「徴兵反対」で強訴つまり暴動騒ぎを各地で起こしたんですね。そういう「明治維新で不平・不満を持つ人の大物リーダー」としてお御輿に担がれたのが西郷隆盛だったんです。
西郷派の士族からすれば、島津の殿様や薩摩のために戦ったという人も大勢いたと思います。というか、薩摩の教育というのはそういうものでしたからね。ところが大久保利通らは「薩摩より天下国家だ」と言い始めたわけで、そりゃ失礼ながら田舎侍からすれば「裏切られた感」はハンパなかったと思います。そして情の人西郷隆盛はそういう人たちの悔しさを無視することはできなかったんですよ。
だから今でも鹿児島では西郷隆盛は英雄で、大久保利通は裏切者なのだと思います。

征韓論がどうであったとしても、西南戦争のような不平士族の大規模反乱は避けられなかったと思います。だいたい、西郷どんがいう「俺が朝鮮に乗りこんで殺されれば開戦の口実が立つ」ってちょっと情すぎますよね。「殺されなかったらどうする」という問題もありますが、「戦費はどうやって調達するのか」「勝つことはできるかもしれないけど、国内もまとまらない状態で外国を占領したら維持兵力はどこから調達するのか」っていうことを全無視なんですよ、征韓論って。乱暴にいやあ「占領すりゃあなんとかなるだろう」なんです。それにネット右翼がよくいいますけど、当時の朝鮮はすごく貧しかったので、占領したところでうまみなんかなかったんです。金山とかがあるわけじゃないですからね。破たん寸前の赤字会社と合併しても意味ないでしょ?後に日本が朝鮮に進出したのは、南下するロシアに対するけん制です。

ちなみに、江戸幕府も豊臣家を滅亡させて実質的な天下統一を果たした後に島原の乱という大規模な反乱に苦しめられました。島原の乱は名目としては天草四郎を首領とするキリシタンの反乱ということになっていますが、実際に中心になって戦ったのは天下統一により失業したフリーター武士だったんです。当時は合戦になるときだけ雇われていたフリーター武士ってのが結構いたんです。平和になると彼らは失業しまして、そんな彼らは島原に集まったんですね。んで、幕府側もこの際一網打尽にやっちまおうと考えたようで、あえてそういう浪人が島原に集まるのを止めようとしなかったのです。
それで戦いが始まると、もう幕府側はほとんど合戦を知らない官僚型武士ばかりで、一方反乱軍は実戦経験豊富な浪人が多かったので大苦戦することになったのです。

西南戦争も、戊辰戦争で実戦経験豊富な西郷軍に政府軍は大苦戦し、警察官という名目で雇った元武士も投入したのですね。かつての敵であった元新撰組の斉藤一も政府軍として参戦してるのはご存じだと思います。もう、なりふり構ってないですよね・笑。
結局勝敗を分けたのは、政府軍側が近代装備特に砲兵を持っていたことと、薩摩の兵器工場が海軍による攻撃で破壊され特に大量の弾薬を失ったことでした。谷干城の奮戦は白眉だけど、弾薬がなければどのみち戦争は継続できませんからね。

口実にはなっても、原因にはならないんじゃないかなと思いますね。というか、あくまで個人的見解ですが征韓論云々も単なる口実に過ぎないと思います。

明治維新が革命であったかどうかは議論の余地が大いにありですが、その内容が革命的であったことは間違いはないです。そのひとつが「武士階級の廃止」でした。
武士が特権階級だったかどうかその実態は別にして、ある種の既得権益階級ではありました。多分に精神的なところが大きかったですけどね。明治政府は「もうそういう武士なんていうのは辞めますよ」と言...続きを読む

Q西郷隆盛の名言

西郷隆盛の名言で、一番有名なものってどんなものですか?
私が見つけたのは
「世上の毀誉軽きこと塵に似たり。」
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/kodawari/senjin/meigen/05-2.html
なのですが、
一番有名?というか、ご存知なものを意味、解説などをしていただけるとうれしいです
おねがいします

Aベストアンサー

西郷の言葉でもっとも有名なものは、次の二つでしょう。

「敬天愛人」「天を敬い人を愛する」
http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/data/ke.htm

「児孫のために美田を買わず」
http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/data/si.htm

岩波文庫に『西郷南洲遺訓』(¥483)があるのでご参照ください。

参考URL:http://www.geocities.jp/sidoukansonjyuku/jyuku/saigou19.html

Q坂本龍馬や西郷隆盛は見方を変えればテロリスト?

坂本龍馬は当時の政府を倒し国家体制を変え、西郷隆盛もまた当時の政府を倒そうと内戦を起こした。

これらの人物は革命家といえば聞こえが良いが見方を変えればテロリストなのでしょうか?

勝てば官軍、負ければ賊軍ということなのですか?

でも西郷隆盛は西南戦争で負けていますよね?

アフガニスタンにおけるタリバンのようにも見えますがどうなのでしょう。

もちろん歴史というのはいろんな見方があって絶対的な正義など存在しないのはわかっているつもりです。

Aベストアンサー

武力行為をもって、政治的目的を達成することをテロリストと
呼びます。ですので、坂本や西郷率いる倒幕派(坂本は
倒幕派ではないですが)はテロリストと総称しても間違っては
いないでしょう。
ただ、彼らがテロを起こしたきっかけも、民衆のための政治的
見解なので、革命とも呼ばれます。

ちなみに、薩長が江戸に乗り込んだ際には、江戸の市民に
対して狼藉を働き、町民から大変嫌われていました。
その治安部隊として結成された幕府の治安部隊、彰義隊は
江戸町民のヒーローでした。

ちなみに、西南戦争は全く別の内戦です。
簡単に説明すると。。。
明治維新が樹立し、四民平等がうたわれたために、武士と
いう存在がなくなり、武士は職をなくしました。
この武士の中に、維新のために命をかけて戦った多くの志士
がいました。新政府になったとたんに、お払い箱かいっ!
ってな具合に、怒りが沸騰し、様々な乱が各地で起こります。
征韓論で政治の表舞台から姿を消して、鹿児島にひきこもって
た西郷に、不平武士が各地から集まり、西郷は動かざるをえなく
致し方なく、乱を起こした次第です。

タリバンの目的は、イスラム教に基づいて統治される世界で
最も純粋なイスラーム国家の樹立し、アフガニスタンに平和をもたらす
ことなので、彼らなりの正義が実在します。
やりかたが極めて無差別で暴力的なころがクローズアップされますが、
それはアメリカなどもタリバンに向けて行ってることで、報道されない
だけです。

倒幕派たちが、徳川政権ではない、四民平等の平和な社会を築こうと
したのと同じく、アメリカ主導の資本主義社会ではなく、アッラーの教えを
忠実に守る理想郷を築こうとしているだけです。
どこまでが本音で、どこまでが建前かは分かりませんけどねw

武力行為をもって、政治的目的を達成することをテロリストと
呼びます。ですので、坂本や西郷率いる倒幕派(坂本は
倒幕派ではないですが)はテロリストと総称しても間違っては
いないでしょう。
ただ、彼らがテロを起こしたきっかけも、民衆のための政治的
見解なので、革命とも呼ばれます。

ちなみに、薩長が江戸に乗り込んだ際には、江戸の市民に
対して狼藉を働き、町民から大変嫌われていました。
その治安部隊として結成された幕府の治安部隊、彰義隊は
江戸町民のヒーローでした。

ちなみに...続きを読む

Q西郷隆盛が江戸へ入れた理由

我ながら幼稚な質問と思いますが、よろしく。

西郷と勝海舟が江戸無血開城について会談をしましたが、敵軍が満ちている江戸へ西郷が単身?入ることができたのはどうしてでしょうか。状況がよく分かりません。

Aベストアンサー

推論の域はでませんが、

そもそも戊辰戦争というもの自体、はじめから片方が負けを認めている稀有な戦争です。徳川方はすでに大政奉還して統治権を委譲しているのです。鳥羽伏見の戦いは罠に嵌められたようなもので開戦原因を作らせたようなものです。これが唯一の幕府軍の戦いであり、それ以外の戦いは正規な幕府軍ではありません。確かに奥羽列藩同盟との戦いや、脱走軍との戦いなど大規模な戦いはありますが、どれも幕府を挙げての戦争ではないのです。

江戸城下は殿様の直轄ですから、停戦命令を受け入れるしかないのでしょう。江戸唯一の戦いである上野の山の戦いも、いわば命令系統を外れた部隊であり、今のイラクのサダム派のようなものです。

江戸で幕府軍が応戦すれば朝敵であることを自ら認めるようなものです。サダムが大量破壊兵器をもっていないと主張しつつ毒ガスを使うようなものですよ。

まあ初めから幕府は降伏していたんですよ。しかしここが対外戦と違うところです。内戦というのは敵は敵ではなく、犯罪者にしてしまうのです。正対正ではなく正対悪なんですね。戦時国際法の世界ではこれを正戦論といいます。ということは完全に相手を抹殺しないとすまないわけです。徳川慶喜だって処刑されていてもおかしくないと思いますよ。しかし大政奉還をしたことや、駿府に蟄居したことが受け入れられたのでしょう。

この後の内戦を見ると首謀者はすべて処刑か、自決となっています。

推論の域はでませんが、

そもそも戊辰戦争というもの自体、はじめから片方が負けを認めている稀有な戦争です。徳川方はすでに大政奉還して統治権を委譲しているのです。鳥羽伏見の戦いは罠に嵌められたようなもので開戦原因を作らせたようなものです。これが唯一の幕府軍の戦いであり、それ以外の戦いは正規な幕府軍ではありません。確かに奥羽列藩同盟との戦いや、脱走軍との戦いなど大規模な戦いはありますが、どれも幕府を挙げての戦争ではないのです。

江戸城下は殿様の直轄ですから、停戦命令を受け入...続きを読む

Q西郷隆盛の側近について

西南戦争の時の、西郷隆盛の側近で、映画やテレビ番組で描かれている人物で、いつでも、戦場でも、戦闘時でも、山高帽をかぶり、高級スーツにネクタイ・革靴を着用している人物は、どういう人なんでしょうか?

Aベストアンサー

 桐野利秋の可能性も有りませんか?

 洒落者として有名だったみたいですし…。

 陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、城山で戦死した際にも遺体からはフランス製の香水の香りがしていたとか…。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E9%87%8E%E5%88%A9%E7%A7%8B

Q西郷隆盛と従道、大山巌の関係

西郷隆盛が太政官と決別して薩摩に帰った際に従道と大山巌は同行しませんでした。私はそのことが後の日本の歴史に幸いであったと思っておりますが、薩摩の人の多くが隆盛についていったわけですが、なぜ幕末にあれだけ隆盛と近い関係にあった2人がついていかなかったのでしょうか?隆盛の深謀遠慮なのでしょうか?
ぜひともよろしくお願いします。

Aベストアンサー

西郷隆盛という人は情の強い人でした。
理論で物事を判断するより情念に流される人で、自分の考えが採用されないと地位も身分も弊履のように棄てて引退する位です。
自分の命も征韓のためなら投げ出す覚悟でした。

少し冷静に事態を分析するような人は付いていけないと思うのは無理ありません。
冷徹な大久保が西郷と訣別したのも、それほどでなくても西郷従道や大山が離れていったのもみな同様であったと思います。

明治もこの頃はカリスマより理論的分析家を必要とするようになって来ていたのです。
西郷従道の台湾総督としての采配、大山のその後の陸軍指揮振りを見ても良くわかります。

そして西郷自身それを良しとする恬淡とした所があったと思います。 
彼には薩摩の下級武士階級に対する特別な感情がありすぎました。
それは大久保などには理解出来なかったでしょう。
惜しむらくは戊申戦争で戦死しなかったことです。


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