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生きる とは 何ぞや、

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A 回答 (11件中1~10件)

現在進行形になるので、生きている になるのかなと思いつつ。



もはや、意思の介入すら不可能に近い深い意識層での選択と決定、ではないでしょうか。
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To be or not to be, that is the question.


シェークスピアが400年前に書いた、あまりにも有名な一文です。

ご質問への答は、「生きる」とは「The question」です。
単なる「A question」じゃなくて、「The question」ですよ。この差は重要。
一つの問い、ではなく、世界最大の大問題、ということ。

No.1の回答者さんが言っているように、生きるとは「将来1回だけ、死ぬ権利がある」ってことでもあるよね。
それとも「将来必ず1回、死ぬ義務がある」のほうかな?
もし「権利」なら、放棄できるはずだよね? だからやっぱり「義務」なんだろうな。

つまり我々は、この地球上に永住権を持っていない。
あくまで一時訪問者として「旅行」してるだけで、ビザが切れたら三途の川の向こうへ強制送還されるわけだね。
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哲学の永遠のテーマ?文学のテーマでもあります。


しかし、今の日本では、生存の自由がおびやかされています。
生きるとは、今、自分のいるところで、精一杯生きること。
生き抜くこと。闘うこと。自分の存在を認めてくれる、家族、友人、仲間と共に生きること。
夢、希望を語ること。歌うこと。
死んだら、おいしいものも食べられません。日々、極楽を実感して、生きてください。
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ご質問の趣旨を二通りに分けて考えました。


「生きることに目的が必要か?」 これには背理法で回答できます。仮に「ある目的が必要」であるとしましょう。そうすると「その目的に違反した生活」が禁じられることになります。誰によって?どんな方法で禁じられるの?実際にはどんな生き方であってたとしても直ちに「天の火に焼かれる」「雷に打たれる」「八つ裂きに遭う」ことはないようです。「目的が必要である生き方があるはず」とは「違反が許されるきまり(意味のないきまり)」であることが示されました。どのような目的で生きても直ちに非難されることはありません。その生き方が近所迷惑である場合にはお互いが少しずつ排除する場合(社会的制裁)がありますがこれは質問者様のご趣旨には含まれない場合でしょう。
「生きることに価値があるか」あるいは「価値があるように生きることが可能か?」を考えましょう。後者の方が適用範囲が広いので後者を考えます。「価値」を与えるのが「誰かさん」だけである場合には「誰かさん」の言うとおりに生きることが大切になります。価値を与えるのが「お互いの認証たとえば日銀券あるいは尊敬」である場合には日銀券の多寡や尊敬(人気)で私の価値が定まります。価値の一部を与えるのが「私」である場合には「私」への信頼度・敬意に依存した価値が加えられることになります。質問者様のご趣旨はこの最後の場合に関連しているのでしょうか?「私」への信頼度・敬意が高く感じられるといいですね。
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 こんにちは。



 生きるとは 自由 です。
 自由に生きるというよりは 生きる即自由です。
 自由が 生きるということです。
 
 ただ 一人ひとり実際の生活のあり方は違ってくることをまぬかれないように思います。 
 あるいは 時代や情況によっても 自由が 生活のあり方としては違ってくるように思います。

 それぞれ自分が置かれた情況にあって 自由だということにもなります。
 自由です。掛け値無しの自由。


 それには ものごとを知らねばならないようです。知識のほかに ものの見えたるというような《間(ま)》の知覚と把握が大事であるように思います。

 あとは――と言っても みなぶっきらぼうな言いっぱなしになっていますが―― この自由に対抗する勢力がいる場合があるということも 実際だと思われます。
 対抗勢力をどう扱うかが 自由を構成することにもなると考えます。つまり 情況によって 生活のあり方は違ってくる。
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本当に何なんでしょうね。



私は神でも仏でもないのでわかりません。

ただ思うのは喜んだり苦しんだり悲しんだりで精いっぱいって事はわかったふうです。
私も知りたいので誰か教えてください。
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でもないかな。

脳死の方でも生きてるんだから。
自分の細胞に刻印すること、それから、他者の細胞に刻印すること、
場を占め、存在に刻印すること、
たとえきわめて消極的であっても能動的な刻印となること、

宇宙の情報の書き換えをおこなうこと、

たとえつとめて積極的であっても受動的な刻印となること、

不可思議に晒されています。
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他者・他者たち の死に、取り残されること。

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プロテスタントのクリスチャンです。



聖書によればイエスは生きるという事について以下のように述べています。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」少しばかり解説をさせていただきます。

誰でも私についてきたいと思うならば:
この人生において神の子供のように自分の存在理由がわかり、目的を持って生きるようになりたいならば、またキリストのように歓喜にあふれた生活を送りたいのであればという意味になります。

自分をすて、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい:
十字架は死刑の執行と同じです、命を失う覚悟でイエスの言葉に従ってきなさい。

自分の命を救おうと思う者はそれを失い:
現在の死に至るその人生を自分で救おうとするとそれをかえって失うのである。と述べています。

わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう:
イエスキリストの言葉に従って、自分の命を投げ出す者はまことの命を得るのである。

至る所に聖書のエッセンスが語られておりますが、ここで私どもが平安のうちに何のために生きるのだと自問自答する必要もなく歓喜にあふれた生活を始めることができると述べています。その方法はイエスキリストが教える生き方にあなたの人生をかける事によって見いだせると述べているのです。

>>生きるとは何ぞや

というご質問に対する答えは聖書の中にあります。本屋さんでお求めいただきお読みいただければ確実に回答が得られます。また教会の牧師に話を聞いてみてください。
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「生きる」というのには、生物として生きるという意味と、


意識として存在するという意味の、二面性があります。

量子論的世界像において、有限な存在性(=宇宙)は、
認識されることによって派生しています。
換言すれば、「自我仮説(心)と時空仮説(存在)が、
(不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化して
いる=全てのものは、あなたが存在するための(物理的
根源にまで遡った)補完である」という事なのです。

認識する事と存在する事が同根である時、生きる事は存在する
事だけではなく認識を深める事を包含し、生きる目的に於いて
物質的繁栄は部分的要素であって、真の生きる目的は「人生を
通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを
「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度
×それを把握する認識力)」となります。
まとめると、下記のようになります;

        存在すること
          ↓
生きること    +   認識を深めること
   ↓               ↓
組織化(助け合い)の追求:精神的充足量の追及
   ↓               ↓
自律的社会行動(生産)× 社会生命的自覚化(愛)
(エントロピー増大の反力としての反エントロピー)
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