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野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちくま学芸文庫)
を読んでいるのですが、どうにも理解できない部分があります。
(ちなみにいわゆる哲学は素人です。のため、『論考』を読んでも討ち死にです。)

『論考』における要素命題の独立性と野矢氏が?言うところの解説なのですが、

 『論考』ではある要素命題から他の要素命題が導かれること、
 あるいはある要素命題が他の要素命題と矛盾しあうということが説明できない。
 むしろ積極的に、要素命題はお互いにそのような論理的な関係に立たないことを主張する。
 『論考』のこの主張を「要素命題の独立性」と呼ぼう。(p.145)

とあります。そしてその「要素命題の独立性」の解説として、

 一般に、命題Aから命題Bが帰結するとき、
 命題Aの真理領域は命題Bの真理領域に含まれている。
 また、命題Aと命題Bが両立不可能なとき、
 命題Aの真理領域と命題Bの真理領域は共通部分を持たない。(p.150)

とあります。ここまでは理解できるのですが、直後の、

 それゆえ、二つの命題AとBが相互独立であることは、両者の真理領域が
 共通に重なる部分と重ならない部分とをともにもつこととして捉えられる。(p.150)

とあるのですが、
なぜこれが要素命題の独立性と言われるのかが理解できません。

ここでの解説は「一般に」とあるので、これは『論考』そのものからではなく、
p.150の引用の最初のふたつをそれぞれ「包含関係にあること」「両立不可能」とすると、
みっつめの引用はそれ以外の可能性として「重なる部分もある」しかないため、
これを「独立性」と考えているのでしょうか?
重なる部分があるのになぜ独立と捉えることができるのでしょうか?


 
 

A 回答 (4件)

原本を知らないため、的外れな回答になるかも知れません事、ご容赦願います。



命題Aが「pならばqである」といった真理を記述していたとします。
命題Bが「rならばsである」といった真理を記述していたとします。

>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86% …
論理学における「P ならば Q」は、「P でない、と Q である、の少なくとも一方が正しい」の短い言い換えなのである
<<<
ですから、

命題Aは
p q p→q
真 真 真
真 偽 偽
偽 真 真
偽 偽 真

命題Bは
r s r→s
真 真 真
真 偽 偽
偽 真 真
偽 偽 真
となります。

命題Aと命題Bが「独立している」を「互いに導き出され得ない」と定義すれば、

命題1:「命題Aならば命題B」ではない
かつ
命題2:「命題Bならば命題A」ではない
となるでしょう。

すなわち、
命題1:「命題Aが偽、と命題Bが真の少なくとも一方が正しい」を否定
かつ
命題2:「命題Bが偽、と命題Aが真の少なくとも一方が正しい」を否定

言い換えると
命題1:「命題Aが真、かつ、命題Bが偽」
かつ
命題2:「命題Bが真、かつ、命題Aが偽」

であり、命題1と命題2とは重なり合いません。

しかしながら、命題Aと命題Bとは重なり合う部分を持っていても矛盾しません。
「野矢茂樹『「論理哲学論考」を読む』(ちく」の回答画像4
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 ねぎが国産である


 にんにくが中国産である
これらは、独立した事実を示していますが、

例えば【餃子の王将が使っている】、【近所の八百屋に売っている】、【ラーメンのスープを取った】、【2009年に日本で消費された野菜の主な産出国を調べると】、
などの言辞の中では、同じ集合に入りますね。
事実と事実の関連付けを可能にする文脈が与えられたからです。
これを要素命題の独立性とよんでいるのだと思いますが。。。

「一般に....」のくだりで言われているのは、
 A  野菜はみな国産である
 B1 ねぎが国産である
 B2 にんにくが中国産である
の例ではないでしょうか。

「それゆえ....」のくだりで言われているのは、
 A ねぎが国産である
 B にんにくが中国産である
であれば、これらが、上に挙げたような項目の真理値となってYesNoの問題圏を共有する
ことにもなるという話なのでは。
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カタールで環境都市マスダールシティを作ろうという試みが進行しています


イスラム教圏より発注され
キリスト教圏の技術者や
日本の技術
世界各国からの技術の粋を集めてカタールは将来技術を売る国を目指すんだそうですが
たとえばこれを例にとると
各宗教同士の真理領域はそれぞれ独立的であるととらえられますが
それぞれのその真理領域の独立性を保持しながら
それとは別のある一つの共通認識に対して共同できる共通部分を有するということになるのではないでしょうか。
その共同作業のための共通認識もまた真理領域であるということができます

いわく
夫婦
仲良くやっていくには
お互いを見つめるのではなく
お互いがある一つの方向を見るのだ
とさ


                                              ´
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「相互独立」とは何かが鍵であるような気がします。


おそらく、互いに並んで存在しながら互いに関係しないという意味かと思います。

(1)AならばBである。
(2)CならばDである。

(1)と(2)は独立していると同時に並立(?)可能です。

(3)AならばBである。
(4)AならばBでない。

(3)と(4)は独立以前に同時に並立(?)不可能です。独立の前提条件は並列して存在可能ということですから並立(?)不可能な時点で独立も不可能(?)です。

(5)AならばBである。
(6)BならばCである。

(5)と(6)共通部分があると同時に並立(?)しています。


互いに矛盾していれば、同時に存在するということは不可能です。
逆に言えば、同時に存在するということは共通に重なる部分(同時に存在できるという共通点?)があるということです。

例えば、(1)と(2)はともに真である可能性があるので、ともに真である可能性がある共通点を持ちながら互いに干渉しないで独立している。

(3)と(4)は片方は必ず偽ですので、次元が違う。違う次元で独立しているとも無理やり言えますが・・・そんな論理学は聞いたことはありません。

間違ってたらごめんちゃい。
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