
これは絶対善と言えないでしょうか。
私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。
商品の購入、進路の選択、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。
この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。
・絶対とは逆らえないという意味です。
・善とは最善を選択しようとする性質です。
道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。
しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。
この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。
この性質、原理は絶対善と呼べるのではないでしょうか。
No.11ベストアンサー
- 回答日時:
shift-2007 さんだったけかな、神を求める旅路に出発されたのは。
一読してなんだろうと思って、もう一度読みました
要するに、“最善を選択した結果”ではないんですね。
しかも “使用とする努力、性質、本性”なんですね。
そういう読解が正解だとすれば、これを絶対善としないと人間って救われないですよね。
神は正にひどいということになりますよね。
何とか向上したいと思う気持ちはとことん人間を問い詰めていくとみんなにあると存じます。
結果だけであぁだのことだのとなると、つらいばかりか人間には救いがありません。
禅宗でも、精進することがもう解脱、そこに仏がいるというのだそうです。優しいと存じます。
宗教なら、哲学ならそう考えるべきです。
善人なおもて往生を遂ぐ。況や悪人をや。も同じかな。
この性格は人間に基本的で、捨てることもできないと存じます。
本性が仏、神だからだと存じます。
ともかく最善かどうかという結果ではなく、選択しようとする本性のことですから。
ヒンドゥでは蛙を使った比喩が良く使われます。
二匹の蛙がいた。
一匹が流れに面して、彼岸に渡る努力をしよう、彼岸に渡ろうという。
もう一匹は、無用だ。言って何になる。無意味かも知れない。あっちにもこっちとおんなじだろう。
第一この流れでは溺れ死ぬか、大きな魚に食われるか、とんでもない方に言っちゃうぞ。という。
先の一匹は、いやそれでもいく。と流れに身を入れる。つまり、生きる。人生をする。
最善の選択をしようとすることは、生きることである。
生命を与えられて(しょわされて)、此岸で漫然と死ぬまで生きるのが人生であろうか?
高校二年、転校した高校に同じように転校してきた、年長の民衆の哲学者がそんな話をして、「おい、どう考える?」なんてことを話しかけてきた。
そいつまだ彷徨、訪歴しているとのこと。
人生、さまざまだが、最後の呼息を吐ききるまでは、意気をもって生きたい。
これが私の答えでした。
勝手な解釈を基礎に勝手をほざきました。
人間に結果が分るか! 結果を期待し、結果を自分に帰しうるか! 結果のために生きられるか!
これは私達、Self-Realization Fellowshipの基本の一つです。
マルチ・ポストでしょうかね。全く意味の違うご質問だと私は考えますが。
ご回答ありがとうございます。
いやー、一発で理解したのはkrya1998さんが初めてですね。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4762028.html
ではあまり良い印象を持ってもらえなかったみたいなのでどうかなと思いましたが。
>shift-2007 さんだったけかな、神を求める旅路に出発されたのは
結構宗教的な質問でしょう?
No.29
- 回答日時:
ANo.28のお礼欄のコメントにお応えして:
コメントでのご疑問については、私などが直接に説明や講述するよう性格のものではないような気がします。
せいぜい間接に所信を出すくらいが関の山だと存じます。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6180625.htmlの#16に拙い思いを書きました。
できればそちらをご参照頂くとありがたいのですが。
shift-2007さんが、現時点でのありのままの自分が本性だと思うことに私が口出しはできません。
未来に向かって変化していく存在であるるならば確かなものは今しかないように思うということについてもです。
人それぞれそう思っても状況や内容など、そして具体的な指し示すことがらは一様ではありません。
私の場合は、自分の思うようにしていって、行き詰まったし、追究ということができませんでした。
人生において追究ができないという情況は、自分では認められませんでした。
そういう意味で、自己という存在の性格を(知的認識ではないのですが、)生きる必要があると思い、自分なりにそのことを追究したのです。
それで、繰り返しますが、試行錯誤し、痛い思いをしてから、今のSelf-Realization Fellowshipの勉強と精進に自分を見つけている状態です。
これ以上は私に問い詰めても、お応えできないということです。
どうも私は哲学的な事よりも心理的な部分にひかれる癖があり、人がどんな思考プロセスを持っているのかに興味をひかれてしまうのです。
さて、またわが道を行くとしましょう。
ご回答ありがとうございました。
No.28
- 回答日時:
ANo.27
【この追求とはどんな意味なのでしょうか。】
はぃ、欲望や執着、情緒や心理の波に翻弄されていない、自分の本然という意味です。
【それと納得した末の選択であれば自分の選択と言え】ると自分の本性存在が大事だと存じます。
ご回答ありがとうございます。
>自分の本然という意味です。
欲望や執着、情緒や心理の波に翻弄されていない状態が本然であるとするのですね。
では欲望のままに生きることが本然ではないとする理由はなんでしょうか。
何を持って自分の本性とするのかなんですが、私なんかは現時点でのありのままの自分が本性だと思うんです。
もちろん、今のままでいいという意味ではないのですが、未来に向かって変化していく存在であるるならば確かなものは今しかないように思うのです。
No.27
- 回答日時:
#25です。
私も道学者でもないし、道徳って言葉もきらいです。
私自身はいつもか、なかなかなのか。
人の普通のやり方ができないできたような感じもします。
小学校5年のとき、尊敬する担任に、“お前はな単なる奇人なんだ。
世の中に変人奇人っていうことばがあるとすれば、お前は奇人だ。
奇人は奇行の人だ。変人や孔子や釈迦のように普通を理解しできる人でしかも、個性で自己を生きることのできる人だ。
お前はそういう普通が分らない、できないんだ。”といわれました。
そのときは普通にやる必要がないと思っているから、先生の忠告もすっ飛ばしてしまいました。
でも暫くして、白鳥入蘆花、ということばや鼓腹撃壌などをよんで、普通が必要だと、普通や希薄の向こうに真実在があると思うように為りました。
それで普通を志向しましたが、難しいものです。
でも世の中の道徳は私には無用で、納得したことしかやりません。ですから後悔が多いという愚か者です。
そしてだから、shift-2007 さんの
【欲望におぼれるのも立派な人の意志だと思いますよ。】仰せをこの古希を大分過ぎてしまっても、地でいっています。
そしてshift-2007 さんの
【自分を律することのできる人はそうでない人より自由意思による選択肢が多いでしょう。】かも知れなくてもそうはできない、やらない。という頑固を未だにそつぎょうできません。
だから、shift-2007 の
【どなたも結局は自分で選択しているのではないでしょうか。】ということに納得しておりますし、【私にとって欲望におぼれるという選択はしょっちゅうです。】は理解できます。
でも私のいうことは、それが自由や意志、自分というものでの思考や判断、意志だという開き直りはしないで、自分を追及する過程だと思っています。
でも、でも道学者や世間様になんでも従うことで済ますなんてもったいない人生を送るつもりはありません。
そして自分が自分の中の先入的なことで翻弄されることも是認はしておりません、それが自分だというハンコを押すつもりはありません。
そういう投稿のつもりでした。
ご回答ありがとうございます。
>でも私のいうことは、それが自由や意志、自分というものでの思考や判断、意志だという開き直りはし
>ないで、自分を追及する過程だと思っています。
この追求とはどんな意味なのでしょうか。
自分自身の理解という事でしょうか。
それとも自分を操っている見えない糸をほどくというような事でしょうか。
それと納得した末の選択であれば自分の(一般論ではなくkrya1998さんのという意味)選択と言えますか?
No.26
- 回答日時:
#23です。
>人は絶対善は無いと思っているくせに絶対悪はあると思っているようです。人はある意味悪は信じるが善は信じないのです。
:
言われてみれば、そうかもしれませんね。
(シフトさんの意図するところとは別の形態の)「一般論としての善」をそのまま敷衍した形での「絶対善」を認めてしまうと、たとえば、生きるか死ぬかという瀬戸際で自らの生存条件を死守することができなくなるかもしれない、という無意識的な怖れを感じるのかもしれません。
たとえば、(終戦直後だったと思いますが)法律を遵守して闇米を買わずに餓死した裁判官がいましたよね。
彼は、ある意味、(一般論としての善を敷衍した形での)絶対善を貫いたと言えるように思うのですが、それは(良否を別にして)誰にでもできることではないはずです。
これに対して、「一般論としての悪」をそのまま敷衍した形での「絶対悪」は、他者を犠牲にしても最低限、自らの生存は確保されるわけで、あえて否定する必要性は感じない。
ということではないか、と思います。
まだまだ色々な切り口がありそうですが、今回のご質問に関連して述べるとすれば、とりあえずこんなところでしょうか。
なるほど、この自己中心性(保存性)が道徳的善悪の相対性を解くカギになるかもしれません。
善行には自己との本質的な矛盾或いは葛藤が含まれているのかもしれません。
良いヒントをいただきました。
ご回答ありがとうございました。
No.25
- 回答日時:
shift-2007さん、ANo.11、そしてANo.16です。
私達がつい看過してしまうのが、shift-2007さんのいう選択ってことばです。
選択って判断と意志で行うんですよね。
判断と意志の発揮が、自分で行っていても自分という存在になっていないとしたら、それは選択っていえましょうか(定義的へ理屈みたいですが。)。
それに一定の知見だって必要ではないですか?
自分を害することになるって、知見がないとそれって自分のいる判断と意志の選択っていえましょうか?
自分があれしたい、これしたいって、何か誘惑や欲望、または何かに押される感情や執着見たいのに支配されていたら、そこでの選択って、自分の選択だといえるでしょうかね?
そんなことも考えていました。
ご回答ありがとございます。
私の言う絶対善的立場からみればその選択が自由意思によるものかどうかは関係ありません。
お腹がすいていたからと言って賞味期限がとっくに切れたサンドイッチを食べたら嘔吐するでしょう。
嘔吐がその人の意志ではなかったとしても、毒を体外に排泄するという生体が選んだ絶対善と言えるのではないでしょうか。彼らは実にシンプルな動きをします。
人の意志に全ての決定権があるとは思えません。
欲望におぼれるのも立派な人の意志だと思いますよ。
もちろん、自分を律することのできる人はそうでない人より自由意思による選択肢が多いでしょう。
でもどんな人もそのレベルにおいて結局は自分で選択しているのではないでしょうか。
私にとって欲望におぼれるという選択はしょっちゅうです。
No.24
- 回答日時:
絶対善もしくは絶対悪とぃう言葉が
どういうときに使われるか考えてみると、
質問者さんがおっしゃるような
「性質や原理」を呼ぶものではないはず。
いま日常にある言葉を
自分だけにしかわからない言葉に、
置き換えても、
それは言葉としては使えないと思います。
「最善を選択しようとする人の性質」
とおっしゃるときの
「最善」とは「自分にとっての最善」ですよね。
それは、善と呼ぶよりも、
欲望とか私欲という言葉のほうがぴったり来ます。
善悪という言葉を使うときは、
道徳っていう自分だけじゃなく
多くの人にとっての価値判断を含むので。
シャンプーのことを
ゴシゴシヘッドと呼べないでしょうか。
という問いと同じような問いに
わたしには感じられます。
呼べないことはないだろうけど、
浸透はしないと思います。
ご回答ありがとうございます。
逆説的な意味も込めて”絶対善”という言葉を使っています。
それを了解していただくとこの質問の内容を楽しめるのではないかと思います。
哲学のカテゴリで一般論を言っても面白くないですからね。
No.23
- 回答日時:
#21です。
>やっぱりネーミングが悪いですか?
:そうですね。
やや牽強付会というか、新興宗教的ネーミングという感なきにしもあらず、です。(新興宗教というだけで否定しようという意図はなく、「いわゆる新興宗教」という意味ですが)
しかし、ネーミングは別として、視点としては非常に面白いんじゃないでしょうかね。
この回答への補足
hakobuluさん分かりましたよ、人は絶対善は無いと思っているくせに絶対悪はあると思っているようです。人はある意味悪は信じるが善は信じないのです。
補足日時:2010/09/16 14:56ご回答ありがとうございます。
人間のこの性質と善悪という概念はどんな関係にあるのかもう少し考察してみます。
それにしても完全な善など無いと思っている人が多いのに、絶対善という名前に皆さんこれほど拒絶するのは何ででしょうね。一人くらい喜ぶ人が居てもいいのにと思いました。
No.21
- 回答日時:
#10です。
補足要求に丁寧にお答えいただきありがとうございます。
「善くあろうとする心自体が(結果としての善悪という評価を問わず)すでに善ではないか。そして、そういった指向性は誰にでも備わっているものではないだろうか」
ということですね。
おっしゃりたいことはわかるような気がします。
たしかにそういった指向性が、人間精神にアプリオリ(先験的)に備わっている、ということは言えるかもしれません。
狼が「善くあろう」と指向することはないでしょうしね。
ただ、これは絶対善というよりは、精神的生命力というほうが適しているような気がします。
善であろうが悪であろうが(善と評価されようが悪と評価されようが)、必然的にその人自身を(その人自身が)肯定し続けている普遍的エネルギーです。
その普遍的エネルギーが、まさに備わっているのだ、と(その人自身が)確信できれば、善であるとか悪であるかという(他者からの)評価は、本人が生きていく上では無用の長物になります。
(好むと好まざるとに拘わらずとはいえ)生まれてきて、現在も、とりあえず鼓動を打ち続けている、そのエネルギーそのものとしての我(これをあえて自我と呼んでみますが)を肯定的に、そして積極的に認識することが、おそらく必要な方は多いと思われます。
(むろん、逆のケースもありますが、真実も多面的に表現できるはずです)
様々な理由、原因でそれができないための苦悩なわけですが、そういった自己肯定のツールとしては、絶対善というよりは「善くなくても善いのだ」という切り口のほうが受容されやすいような気がします。
絶対善ほど格好よくはありませんが、「有即可」という感じですかね。
善悪という概念は置いといて、ともかく「有れば可なのだ」という。
善悪の概念については触れないでおきます。
ご回答ありがとうございます。
やっぱりネーミングが悪いですか?
この質問を立てる前に別のサイトでスレッドを立てたのですが、誤解を招く名前だと散々指摘されました。
【愛の志向性】とでもしたら皆さん納得するのかしら。
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