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こんにちは。

唐突な質問ですが、「考える」とはどういう事を言うのでしょうか?例えば、何かを「考えて」いると自分で思っていても実際の問題は何も解決の方向に向かっていなかったり(政治を考える大衆の例)、何年も心の中にあって特に「考え」ていると意識していなかった問題が、数年後に突然解答を持って心の中に現れてくることがあります。


僕は、中学高校のころ自分は物事をとても深く考えていると錯覚していました。しかし、その当時考えていたことはといえば、井の中の蛙のようなもので、まったく幻想に基づいていました。物事を考えるのに必要な「材料」に決定的にかけていたのだと思います。


質問文も少しまとまっていないところがあると思います。僕の心の中もまとまりをつけるのが困難な状況なのです。誰か妥当な回答を下さい。よろしくお願いします。

A 回答 (9件)

まず初めに、一冊の本をご紹介しておきたいと思います。

東大で哲学を教えてらっしゃる野矢茂樹さんの『はじめて考えるときのように』(PHPエディターズ・グループ、2001年)という本です。中学生でも読めるようなやさしい文体で書かれた哲学の本ですが(植田真さんの絵もすてきです)、そこで書かれていることは、哲学や心理学の学際的な研究領域である「認知科学」の入門書にもなっていると思います。「認知科学」というのは、人間の認知行為(たとえば記憶・想起・学習・検索・計算など)を対象にする学問で、AI(人工知能)の開発などにかかわっています。とまぁ、「認知科学」というのは、人間の思考を研究する学問なわけです。

野矢さんの本は、できれば図書館などで借りてご自分で読んでいただくとして、僕は認知科学的な知見、とりわけ状況論というパラダイムを紹介してみようと思います。状況論という見方は、人間は頭でものを考えるのではない、と言います。目でものを見るのでも、耳で音を聴くのでもない、とも言います。目や耳や脳は、見たり聴いたり考えたりすることの一つの契機でしかない、というのが認知科学おける譲許運の立場です。

では、僕らは、どのようにして「考える」のか?ということですが、先にも「人間は頭でものを考えるのではない」と述べたように、単にそれは自分の脳の内部で起きている事件ではありません。状況論は、「外側のリソース」ということを強調します。そもそも「考える」とは、自己の外側に「考える対象」を必要とします。事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ、ってことですね。

そのように考えると、Evianusさんがおっしゃるようなこと、たとえば「何年も心の中にあって特に考えていると意識していなかった問題が、数年後に突然解答を持って心の中に現れてくる」というようなことは、外側のリソースとの関係で、理解できると思います。つまり、新しいリソース(「刺激」と言い換えてもいいかと思いますが)を感知したとき、そこから改めて思考が始まるのだと言うことでしょう。脳との関係で言えば、あらかじめできていた回路を繋ぐ新しいニューロンの繋がりが生まれたということです。

僕は、Evianusさんが「物事をとても深く考えていると錯覚」しているとは思いません。僕らは、そのとき、その場所で、利用可能なリソースを可能な限り用いて思考しているわけです。そこに深いも浅いもないのではないでしょうか。ある刺激について、それをなんでもないものと捉えるか、リソースと捉えるかは人それぞれなのですから。ただ、Evianusさんが比較的、外部の刺激に対して敏感な人であるということは言えるだろうと思います。

そして最後にぜひお読みいただきたいのは、講談社から2002年に刊行されている『辞典 哲学の木』の「考える」だったかな「思考」だったかな、そのあたりの項目を、読んでください。項目執筆者は、上でもご紹介した野矢さんです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
わかりやすく説明していただきありがとうございました。

『初めて考えるときのように』
『辞典 哲学の木』

記憶しておこうと思います。(今日帰りに書店で見つけたら買います。)

お礼日時:2003/11/07 20:32

「考える」は難しいですね・・



最近感じるようになったことですが、「考える」人になるためには「考える」人のマネをするのが一番の近道のような気がします。
画家も最初は模写から入る、っていうし、人のマネってバカに出来ないものがあります。(ピカソだって最初は模写してたし)

いろんな考えてる人の考えをマネしてみてはどうでしょう?特に、歴史的に有名な作家や哲学者はバカみたいな事を言ってますがカナリ深いです。何でこんな時代にこんな本質的なことが考えられたんだろう?って私はキョーガクしてしまいます。

もちろん、中には「考えるとは何だ?」と考えている人もたくさんいます。(というより、これって哲学の命題なので記録に残らずとも哲学者と言われている人は必ず考えていると思います。関係ない哲学書にもそういう考えが十分反映されてます)
有名なのはデカルトかなあ・・?でもこの人数学者だからなあ。ギリシャ哲学(ソクラテスとか、いいですね)もいろいろ深いのでいろいろな問への参考になるかと思います。少し読み辛いのが難点。

『旧約聖書』だったかな?「世界はまず言葉から始まる」みたいな事が書いてあった。世界の始まりは意識の始まりと同じだから、昔の人は「考える」とは「言葉」・・意識が言語化されることだと思っていたのでしょう。
思えば私も言葉に出来ない意識がたくさんあります。まだまだ修行が足りないな・・(^-^;)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

考える人になるには考える人の真似をするのが一番の近道。僕も同じように考えています。やはり、ある程度認められている哲学なり考え方は、その道である程度洗練されているのです。これは哲学に限らず少林寺でもサッカーでも同じだと思います。
僕は小説を読んで思うのですが、小説を読むと個人では経験できないような思考の道筋を疑似体験でですが経験することができる。つまり、未知の世界と触れることができる。これは、確実にその人の精神世界を広げると思います。たとえば、「赤いりんご」としか認識できなかった人が、その赤いりんごには「それぞれの種類があり、また新種改良の歴史があり、さまざまな産地がある」というよう詳細に認識できるようになる。こういう事を繰り返すことにより、個人の世界認識の仕方が少しずつ深くなっていくのだと思います。

お礼日時:2003/08/15 20:49

いま思いついたのは、考えるとは「独りコミュニケーション」ではないか?です。



アリとかは一匹でなにかを考えちゃーいないでしょうが、コロニー全体をみわたすと、その仲間内での情報交換は神経のように複雑だし、たいへん臨機応変で、賢い生きのものように見えます。
考えてるみたいです。

人間はその神経系が発達した脳を持っているのが特徴です。脳は[単体で]多くの情報を同時処理できるようです。
外からインプットしては中でこね回してます。
そこから、たまに新しい発想が生まれて問題が解決したり、謎が解けたり、、不思議です。
これが「考える」だろうと考えます。


そして考えが進まない、解決しない一番の原因は、やはり「情報入力不足」と「間違った思い込み」でしょう。

僕も、昔自分が持っていた考えには顔から火がで出ます。
そして今の自分の考えを、未来の自分がみたら顔から火が出ます。
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初めまして。


実は私も「考える」とはどういう事を言うのか?と最近思い始めていた所でした。
私は、自分は物事をとても深く考えていると言うか...同級生や同年代のみんなより長い時間をかけて考えている自信だけは満々でしたが、近頃、何のために考えていたのかわからなくなりつつありました。なぜなら現実に変わっていない事の方が明らかに多かったからです。これが幻想に基づくって事なんだったら、凄く私にも当てはまるしうなずけるんですけど...。
でも、私は思ったんです。人間と言う生き物にとっての、人間である為に必要な事...それが考えるってことなんじゃないかな?と。
自分でも整理がついていないのに投稿してしまって申し訳ありません。私はただ、自分と少しでも似た疑問とたたかっている人がいた事に安心というか、早く答えが見つかるといいなと思って頑張って欲しいと言いたかったんです。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
たくさん考えて、たくさん前に進めるといいですね*頑張ってください。応援してます。
 
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ことばをつみあげる


ということでは
ないでしょうか?
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こんばんは。



#1ですが、ご質問をいただいたので。

私の展開した論法でいくと、Evianusさんは中学高校時代、今よりも自分に問う「数」も
少なく、「質」も深くなかったのではないでしょうか。今と比べてみてください。

今のほうが、当時よりもより多く、深く、問いを
発してはいませんか? 
つまり、それだけ「考えている」ということですよ。成長している、ということです。

たとえば赤ちゃんは自分に対して問いは発しません。幼稚園生は
自分の人生がいかなるものか、などという問いは発しませんよね。

自分の中に蓄積された経験と知識が、よりたくさんの、深い問いを生みます。

そして、人間は考えを文字通り「深化」させるのだと思います。
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こんにちは。



辞書的に回答すれば、考えるということは、

物事について、論理的に筋道を追って答えを出そうとする。思考する。
「いくら―・えても解けない問題」
(2)さまざまなことを材料として結論・判断・評価などを導き出そうとする。

ということですよね。

>心の中もまとまりをつけるのが困難・・・
についててですが、なぜ?今、そのまとまりをつけねば
ならないのでしょうね・・。
正直、そのあたり
のこと小生にはよく判らないです。

全くそのようなこと、必要ないのではないかと思います。
それがあなたの思考プロセスでありスタンスであり
性格そのものですから、それこそ考えても、そうそう
まとめえるものでもないと思います。

そういうご自分を受け入れて、うまく活用していく方が
むしろ自然体ではないでしょうか。

将棋の格言に、下手(へた)な考え休むに似たり・・と
いうのがあります。

何年も経ってふとヒラメキに至るようなものは
考えていたものではなく、なんとなく思い続けていたという方が、妥当なような気がしますが、いかがでしょう。

考える内容にもよりケリですが、最後は、判断をともなってこそ、考えた言えるフィニッシュである訳ですから、
そこまで、いつまでも結論に至らないことは、
その間・・将棋の格言そのものだと思います。

>物事を考えるのに必要な「材料」に決定的にかけていたのだと思います。 ・・ということも理解できないですね。

材料というより、思考の資質、レベル、プロセス、パタ-ンなどなど、あなた自身の頭脳の使い方に研究の
余地があったのかも知れません。

材料の多少は、そう問題にならないハズです。
材料がいっぱいあるならば、言わずもがな、
考えるまでもなく
誰でも簡単に、結論を導き出すことができる訳ですからね。

長々と書きましたが予は、あなたはそのことに拘り、
少し考え”過ぎている”のではないかなぁ・・
と思いました。他意はありません。
ということで
別に問題なんて・・ない と思うんですけど。

ただもし このアドがどうしても、納得出来なければ
あなたの思考に関しての意識を、根本的に
見直して変えることですね。

いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識
によって解決することは解決することはできません
(アインシュタイン)ですから
この言葉をどうぞ反芻してみて下さい。

以上長々と失礼申し上げました。
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こんにちは



そうですね。今日も私は朝起きてから、いろんな事を考えました。死刑制度の是非、信号待ちしている女の子のパンツの中身、アメリカのストリートギャングの抗争について、台風一過の多摩川は増水しているか、昨夜みた夢の回想など・・・

ほとんど一貫性もなにもないですね~。で、考えたことが無意味だっかと感じているかといえば、そんなことはありません。わりと有意義でした。考えたからといって、お金がもらえるわけでも、本が書けるわけでもありません。また考えることがいつも楽しいってわけでもありません。

興味のあることについて考える。考える必要のあることについて考える。とりとめもなく思考が移ろう。
そういう風になっています。

人は気がついていないだけで、大半の人は、ちゃらんぽらんな、とりとめもない思考の流れで一日をすごしています。もちろん職業的、学究的に思考の一貫性や実効性が求められる役回りで一日の大半をすごしている人達は、比較的まとまった思考をしています。それはいいとか悪いとかではないし、そういう人が自分にとって面白い人であるかどうかとも関係ありません。

女性はあまり思考に脈絡がなく、その場限りの思いつきを楽しむといった人が比較的多いですが、女性の方がはるかにストレスがなく、幸せそうな人が多いってきがします。

Evianusさんがこのような疑問をもたれるのは、具体的な解決や結果を出す必要性を感じているのに、そうならない、しかも時間に限りがある。という焦りからではないでしょうか。そういう考えもひとつの”考え方”なんですね。まあそういったところで、そこから自由になれるわけでもありませんが、ひとついえることは、こうした考え方は多分、狩猟採取民族にはあまりみられないし(いまでもブッシュマンとかは狩りをしています。貯金もありません)産業革命以来、色濃くなった、ひとつの文明病であるとも言えるんじゃないでしょうか・・・パトリック・J・ブキャナンという人の本で”病むアメリカ、滅びゆく西洋”という本があるそうです。今先進国のキリスト教国は(日本も含まれています)2050年には滅びるだろうと主張しているらしいです。今度読んでみようと思っています。頭がいい事、ひとつの事を一貫して深める。というような、思考のひとつの理想型も、人を幸せにするの???っていう時代に入っています。
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こんにちは。



哲学的、心理学的、あるいは大脳生理学的に、さまざまな答えがあると思いますが、
まあ、私なりに。。。

考える、とは、「自分の中に問いを発し、それを解決すべく知恵を働かせること」

だと思います。たとえば私はEvianusさんのこの質問を読み、「私に答えられるだろうか?」
と、自分に問いを発しました。それを解決すべく、これまでの経験、
知識を使い、PCに向かってお答えしようとしているわけです。
すなわち、考えているんですね。

たとえば朝、カサを持って行くべきか、いかざるべきか「考える」としましょう。
まず最初にあるのはその「問い」です。
そうだ、新聞の天気欄を見てみよう。いやいや、ネットで調べた方が早い。
まてよ、空が明るいから必要ないか。カサはジャマだし……。

こういった解決のために思考を巡らせることが「考える」ということだと思います。

ですから、すでにお気づきかもしれませんが、自分の中に深い、鋭い「問い」を
立てることが、すなわち、しっかり考えることとイコールなのだと思います。

もっと言えば、問いを立てていることそのものが考えていることなのです。
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この回答へのお礼

ものすごく範囲の広い質問をしてしまいすいません。
僕としては、さまざまな人の意見を聞き、それを本に何かに「気づけ」ればいいなぁと思い質問しました。

0410さんは考えるということを「自分の中に問いを発し、それを解決すべく知恵を働かせること」と考えていらっしゃる。

僕は0410さんの提出された一つの提案に賛成です。しかし、疑問点が残ります。「考えている」と思っていながら、何も生産的な考えを生み出さない時、それは本当に考えているといえるのかということです。僕は、自分自身が中学高校時代に行ってきたこういう行動とは何かということを知りたいのです。結局、当時物を考えるには決定的に心の中に材料が足りなかったのです。

ううむ-。またまとまりのない文章になってしまいました。

お礼日時:2003/08/09 23:16

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