アース役のごみ処理方法について

 は 次の記事があらすじをしるしていると思うのです。それを解読してみてくださいませんか。

 ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~
 ――ルカによる福音書8:26-39 ――

 26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。

 27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。

 28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。
   ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」

 29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。

 30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。

 31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。

 32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。

 33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。

 34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。

 35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。

 36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。

 37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。

 38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。

 39 ――「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」
 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ガミガミ役からの意識の排泄としてのゴミを みづからの内的に棄てるということ。こうだと思っているのですが ご見解を寄せてください。

A 回答 (2件)

こんばんは、bragelonneさん。






【第5節 「倒錯視」とは何か】
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663 …
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この回答へのお礼

 ふうむ。愛の伝道師からこんどは 労働者の救世主に?
 リトルキスさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。またふるい議論を持ち出して来ましたねぇ。
 引用文のあとの図式を見てください。
 ▲ (【第5節 「倒錯視」とは何か】) 労働生産物が使用価値を捨象した価値を本質とする商品になりうる論理
 ▲ (同上) 「このような置き換え Quidproquo (→倒錯視)によって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるのである。」
 ☆ このような命題を説明しうると思われます。

 ○ アマテラス・スサノヲ概念による図解 ~~~~~~

 スサノヲ------アマテラス
 Susanowo・・・・・・・・・・・Amaterasu
 S者・S語(人間語)・・・A者・A語(学術語・人格語)・A語概念
   ↓             ↓
 具体的・有用的労働・・・・抽象的・人間的労働
   ↓             ↓
 効用(使用価値)・・・・・・商品価値(交換価値)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ふつうにおこなう仕事。この《労働》が 二つの側面に分けられる。
  S : そのままふつうに具体的に力をそそぐ側面として あたかもスサノヲ人間語( S 語)に当てはまるかたちで 《具体的・有用的な労働》である。
  A : このふつうに為される仕事としての労働の側面がどうであるかにかかわらず その後流通し交換に出されるその商品としての価値をけっきょく貨幣なら貨幣で測るかたちにすることによって《抽象的》な側面を見ることになる。あるいは 素朴には労働時間がどれだけ費やされたかで測る象(かたち)を抽(ひ)き出したところの《抽象化した人間的労働》の側面。

 S 語的労働の側面は 労働生産物にあって《使用価値つまり効用》となる。ふつうの仕事というのは 靴なら靴を 机なら机を作ったという具体的・有用的労働であり 靴や机という効用を持つ。
 A 語的労働の側面は 労働生産物にあってすでに商品価値の側面を受け持つことになる。靴であろうと机であろうとそれらが商品となるということは 抽象的にして人間的な労働といった物指しですべて統一的に価値を測ることを意味する。すなわち《抽象的・人間的労働》の側面が 《交換価値つまり商品価値つまり価値》となる。貨幣価値として現われる。

 資本主義社会においては 人間は労働の結果そのみづからの生産物を商品とすることをつうじて社会にデビューする。
 ▲ 商品として労働生産物の第一義存在性格が効用でなく価値であることを意味しており、商品が人間として人間関係を取り結ぶことを意味している。
 ☆ というのは どこまでそうであろうか。
 貨幣がものを言うなら 効用がどうであれ 交換価値つまり貨幣価値つまり価値が 第一義となるという。労働をおこなった人間が 商品の価値となって社会にデビューするのだという。
 商品社会では 人間が商品となるという。人間関係は 商品としての関係であり 貨幣価値で測る関係になるという。

 S 語の仕事( quo )に対して( pro ) A 語で仕事の値打ちを測ること( quid )が置き換えられ( quid pro quo ) 効用(使用価値)に対して交換価値(商品価値・価値・貨幣価値)が置き換えられ 人間とその労働に対して商品ないしお金が置き換えられ 人間はお金と倒錯視されるという。


 お金がではなく 人間と錯覚されたお金が・つまりその観念が あたまの中にこびりついて来ると 《悪霊》になると言う。これが イエスに出会うと そのあたまの持ち主の中で 狂ったように暴れた。イエスよ 来ないでくれ。近寄らないでくれと。
 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。
 
 32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とさ。

お礼日時:2010/10/16 00:22

質問の主旨が全く分からないのですが、


「悪霊」と「恐れ」とを、同じ部類だとして読み下すなら
39以降の話として、たとえば

 40 「恐れ」に取り憑かれていた人々は、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、神(ないしイエス)に願った。

 41 ところで、その町の周りには、たくさんの人々が様々な町をつくっていた。「恐れ」が他の町の人々の中に入る許しを願うと、神(ないしイエス)はお許しになった。

 42 「恐れ」はその町の人々から出て、周囲の他の町の人々の中に入った。

 43 すると、他の町の人々は「恐れ」に取り憑かれて、崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死ぬ夢をみた。
 44 40に戻る

となり、キリスト教(ないし一神教)が広まっていく本質を表しているのかも知れませんね。。。

この回答への補足

 * 上下の順序が逆になりますが ここはお礼欄からのつづきになります。

 ☆ 一方で《初めの町の人びとからは恐れが出た》 そして他方で《次の町の人びとは その恐れがどうなって欲しいかを別に何も願ってもいないかたちで 恐れがかもしくは人びとがか あるいはその両者もろともがか 崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死ぬ》という《夢をみた》。
 どうなんでしょう。上に触れたように 風邪を人に移すごとく《おそれ》が感染して行くというのでもないでしょうか? 《宗教が広まっていく》という規定がある割りには そうでもないらしい。
 この《夢見》はいったいどういうことか? この説明を俟ってでしか あとは評価も批評もおこなえない。こういったところでしょう。

 おそらくこのように考えて来るなら ここに提起された続編の物語についてその内容は 海のものとも山のものともまだ分からない。こうなりませんか。どうでしょう。

補足日時:2010/10/17 09:11
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この回答へのお礼

 ふむふむと読み継いで と言ってもまだよくは分からないのですが 違った視点からのご回答をありがとうございます。

 ★ 「悪霊」と「恐れ」とを、同じ部類だとして読み下すなら
 ☆ の《恐れ》は
 ◆ 37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり ≫恐れ≪ に取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。
 ☆ この《恐れ》とつながっているのでしょうか。
 
 でもこの37節の《恐れ》は 《36:悪霊に取りつかれていた人の救われた次第》を知ったときの異様さや不思議さあるいはそして《そんなことがちょっとやそっとで起こるはずがない》というようなうたがい から来るものでしょう。
 ★ 40 「恐れ」に取り憑かれていた人々
 ☆ の《恐れ》は ふつうに人が生きるときに感じる人生や社会についての不安――つまりその中身がはっきりしないまま抱くに到るような心の落ち着きの無さ――を言うのではないでしょうか?

 だとしたら その場合の《恐れ》はけっきょく広く取って《悪霊》と同じようなものですね。
 逆に 聖書の文意と違うと思われるところは 誰が・何が《命令を受ける》かだと思われます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 40 「恐れ」に取り憑かれていた ≫人々は≪、
     底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、
   神(ないしイエス)に ≫願った≪。
 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 31 そして ≫悪霊どもは≪、
     底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、
   イエスに ≫願った≪。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《命令を受ける》のも 《願う》のも 同じ主体(主語)だという意味で 《願った》のほうにカッコをつけましたが それはそのように受け取ってもらうこととして その主語は明らかに 互いに違いますよね。聖書では 《悪霊に取り憑かれた男》は 《命令を受ける》のでもなければその内容を《願った》のでもありません。

 言いかえると
 ★ キリスト教(ないし一神教)が広まっていく本質を表しているのかも知れませんね。。。
 ☆ というときの《キリスト教(ないし一神教)が広まっていく》ということを イエスとその弟子たちの行動に限るなら――すでに ヤハヱーという唯一神は《広まってい》るのですから―― まったく事態が別です。言いかえると その後ローマ教会が――今度はやがて個人にとっての主題であるだけではなく組織をともなった教団の行動として――その宗教を広めるときの事態については そうであるとも あるいはむろんのこと違った側面もあったとも 言わなければならない歴史だったのでしょう。

 ☆ そういった文意と史実にかんする分析としてよりももっと大事だと思うところを明らかにしましょう。
 ★ 42 「恐れ」はその町の人々から出て、周囲の他の町の人々の中に入った。
 ☆ もし《恐れ》が すでに初めに捉えたように《社会の中に生きるという人生において人がおのれの内からも外からも持つに到る悩みや不安》を含む《悪霊》と同じようなものだとすれば 《その恐れが人びとから出る》ということ このこと自体が大問題だと言わねばなりません。

 (1) もし《悪霊が人から出る》ということを意味するのならば まづその《出る》こと自体は 人にとってよろこばしいことでしょう。

 (2) けれどもそもそもその《悪霊が出る》ことは どのようにして起こったか。これも大問題です。はっきりと知ることが必要です。つまり あとに継いだ物語において〔も〕明らかにすべきことでしょう。

 (3) つまり――ことはややこしいのですが――
 ★ 42 「恐れ」はその町の人々から出て、周囲の他の町の人々の中に入った。
 ☆ というように《他の町の人びとの中に入った》ことも重大問題なのですが まづはそうではなく そもそも《初めの町の人びとから恐れもしくは悪霊が出た》ということ このこと自体について その中身をくわしく人は知らねばならないでしょう。
 知った上でやっと 他の町の人びとへ《風邪を移した》ごとくの感染について それがどういう事態であるかを判断することになります。
 
 (4) これら全体の説明されるべき課題が課題であることの証しとしては 次のように続編としての物語には 《夢》という事態が現われて来ていることが挙げられます。
 ★ 43 すると、他の町の人々は「恐れ」に取り憑かれて、崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死ぬ ≫夢をみた≪。
 ☆ それは どういうことか。

お礼日時:2010/10/17 09:02

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Qイエスのユダヤ教観とユダヤ教徒のイエス観は?

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ここに
>>イエスは自身をユダヤ教徒であると認識しており、真正のユダヤ教徒として当時の保守化・教条化したユダヤ教を批判していたのであって新たな宗教を起こす意図はなかったとされている。<<
との記述があります。素人の直感とよく合いますが、「保守化・教条化したユダヤ教」を具体的に幾つか例示することができますか。

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また、
>>神の子を自称したとされ、最高法院の裁判にかけられた後、ローマ帝国側に引き渡されて、反逆者として磔刑に処せられた<<
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ここに
>>イエスは自身をユダヤ教徒であると認識しており、真正のユダヤ教徒として当時の保守化・教条化したユダヤ教を批判していたのであって新たな宗教を起こす意図はなかったとされている。<<
との記述があります。素人の直感とよく合いますが、「保守化・教条化したユダヤ教」を具体的に幾つか例示することができますか。

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Aベストアンサー

>>1
ユダヤ律法は、公正、忠実、憐れみ、神に対する愛といった原則の下に制定されていますが、当時の独善的なユダヤの宗教指導者(以下、宗教指導者)たちはそうした原則を忘れ、律法の内容を細分化し、膨大な数の規則で民を縛る事で、その価値を損なっていました。

例えば、宗教指導者たちは「清さ」に関わる律法を拡大解釈し、食事の前に手を肘まで洗う事を義務付けていました。それを守らない者は違反者であり、汚れた者だと主張したのです。
言うまでも無く、律法にはそのような項目はありません。
(マタイ15章1-2節;マルコ7章1-5節)

安息日とは、神への崇拝をささげるために取り分けられた日であり、安息日に仕事をする事を律法は非としています。
ある安息日に、イエスの弟子が歩きながら穀物の穂をむしって食べるのを見た宗教指導者は、その行為が収穫の業、つまり仕事に相当するとして、イエスと弟子たちを非難しました。
(ルカ6章1-2節;マタイ2章1-2節)

宗教指導者は立場の低い人々を蔑む一方で、そうした人々に救いと慰めを差し伸べるイエスを、目の上のたんこぶのように思っていました。それゆえ、彼らはあらゆる手段を講じてイエスを攻撃したのです。

>>2
厳密に言うならば、イエスの罪状は「神の子を自称する事で、神を冒涜した」というものです。旧約聖書の約束のメシアに関する預言の中には、イエスと合致するものが数多くありますが、宗教指導者たちは最後までそれを認めませんでした。
しかし、自分たちがイエスを殺せば、イエスを尊敬する大勢のユダヤ人の反感を買う事になると考え、「ローマ帝国の政治的理由による処刑」という形をとる事によって、自分たちの責任を逃れようと考えたのです。それゆえローマ帝国側には、
[1]ユダヤ国民を撹乱し
[2]ローマに税を払う事を禁じ
[3]自分は王キリストだと主張した
という濡れ衣を着せて告訴したのです。

>>3
ユダヤ教最高法廷は「サンヘドリン」と呼ばれています。サンヘドリンは71名の成員から構成されており、パリサイ派、サドカイ派という二つの派閥に分かれていました。成員すべての名前は聖書には記されていませんが、カヤファ、アンナス、後にはアナニアといった著名な人物の名前は記されています。
当時ユダヤ地方はローマ帝国の属州であり、本国から派遣された総督が監督の任に就いていました。サンヘドリンには、当時の総督であるポンテオ・ピラトの管理下の下で一定の自治権を認められていましたが、飽くまでローマ帝国の支配下における限定的なものでした。
ちなみに、イエスに直接死刑宣告を下したのはポンテオ・ピラトですが、彼自身はイエスを無実だと考えていたようです。しかし、宗教指導者に扇動された大勢の群集が、イエスを殺せといきり立っていたため、恐れのあまり、彼はイエスを死に処しました。

>>1
ユダヤ律法は、公正、忠実、憐れみ、神に対する愛といった原則の下に制定されていますが、当時の独善的なユダヤの宗教指導者(以下、宗教指導者)たちはそうした原則を忘れ、律法の内容を細分化し、膨大な数の規則で民を縛る事で、その価値を損なっていました。

例えば、宗教指導者たちは「清さ」に関わる律法を拡大解釈し、食事の前に手を肘まで洗う事を義務付けていました。それを守らない者は違反者であり、汚れた者だと主張したのです。
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Q究極の悪とは――存在について――

 《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。
 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。

 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。
 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。
 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。

 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。

 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。
 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。
 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。

 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。
 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。
 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。

 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

 《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。
 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。

 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。
 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひ...続きを読む

Aベストアンサー

オコリザルです。
前に反物質おばけってのを話した憶えがありますが、このおばけは反物質についての論理武装をした特異な知性でした。
私は無学なのでその手の知識はありません。要するに経験に無い自らが生み出したものでない魔物でした。
このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。
お相手はメチャンコ悪魔君が担当しました。
このおばけには言葉がありません。
マナ識の、要するに私自身の声の、代理として、メチャンコ悪魔君がその知性を解きほぐし復活蘇生させました。
神様がいずこからか連行してきた縁の無いおばけでしたが、私の脳と体はこのおばけに反応しましたので生命に内包しうる知性でもありました。このときの脳の反応が、(エヴァンゲリオンみたいに)知性の暴走により無意識が浮き彫りになる状態です。
人間の手で克服することが人間の普遍性を記憶する上で重要であったと推測します。
primeapeなんて気取っていますが実際は神様のモルモットです。
第二の死の究極の姿さえも救いえます。
ですから勝負は全て買って下さい。

無意識の話ですが個を超えて連携している無意識は地上で起きている事象で理解できないことは何も無い状態にする目標でしょう。
理解の行き届かない影が闇の子です。

オコリザルです。
前に反物質おばけってのを話した憶えがありますが、このおばけは反物質についての論理武装をした特異な知性でした。
私は無学なのでその手の知識はありません。要するに経験に無い自らが生み出したものでない魔物でした。
このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。
お相手はメチャンコ悪魔君が担当しました。
このおばけには言葉がありません。
マナ識の、要す...続きを読む

Q究極の悪とは――存在について――

1. 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問いま
す。

2. 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。
ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはずです。それを 善と呼
ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け
欠けていきます。
 

3. つまり悪は 悪というものが なにか・どこかに他の一切のものから独立して存在する
のではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての
善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶ
という見方です。

4. さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと
推し測られます。

5. これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的
に無視し無関心となること(あるいはつまり虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることが
できます。
 
6. 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の
消滅のことです。

7. ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死
ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができると
いう主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても 
まだなお 善を回復すればよいという考え方です。

8. ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死
ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなると
いうことは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味
です。

9. これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う
《生けるしかばね》でしょうか。
 
10. 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 
実在するものでしょうか。ぜひ お考えをのべてください。

11. わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 
想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻る
ことができる。というふうに捉えられている。それだけで じゅうぶんなのかも知れないとい
う見方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

12. でも単純な言い方では 例の《顔なし》がそれに当たるのではないかとは思います。

1. 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問いま
す。

2. 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。
ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはずです。それを 善と呼
ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け
欠けていきます。
 

3. つまり悪は 悪というものが なにか・どこかに他の一切のも...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん。


究極の悪とは?




そりゃ【無関心】でしょ。
自分に対しても無関心、
隣人にたいしても無関心、
他、すべてに対して無関心、
なぜ自分が生きていられるか
にも無関心、
自分の歴史や今にも無関心、
損得や善悪にも無関心。
ただただ快ときどき不快。



>2. 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。
:はい、本当は自分がかわいいのに
自分に関心を持つこと
を実際に放棄してしまったか、
放棄したフリをしているかどっちか。
放棄せざるを得ない場合もあり、
その場合、医学的治療が必要です。



>善が損傷を受け欠けていきます。
:充電すれば回復します。


>3. つまり悪は 悪というものが・・・
:同意。


>4. さすれば 悪の究極とは
:同意。


以下、5.~9.まで同意なので省略。



>《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。
:実在しません、
人が意図的にでっちあげなければ。



>12. でも単純な言い方では 例の《顔なし》がそれに当たる
:気のせいです。
【誰か】や【何か】にとって必要
な存在であることには違いありません。

こんにちは、ぶらじゅろ~ぬさん。


究極の悪とは?




そりゃ【無関心】でしょ。
自分に対しても無関心、
隣人にたいしても無関心、
他、すべてに対して無関心、
なぜ自分が生きていられるか
にも無関心、
自分の歴史や今にも無関心、
損得や善悪にも無関心。
ただただ快ときどき不快。



>2. 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。
:はい、本当は自分がかわいいのに
自分に関心を持つこと
を実際に放棄してしまったか、
放棄したフリをしているかどっちか。
放棄せざるを得ない場合もあ...続きを読む

Q水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――

 すでに一度わたしは 水による洗礼の必要か否かについて問うています。
 【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html
 今回は それ(水の洗礼)が秘蹟(サクラメント)であるから欠かすべからざるものだという場合のその根拠について問います。

 秘蹟とは何か?
 ▲ (ヰキぺ:サクラメント) ~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
 サクラメント(英: sacrament、羅: sacramentum)は、キリスト教において神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことである。それはキリスト教における様々な儀式の形で表されている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり水による洗礼を受けるときに このサクラメント(秘蹟)が現われるという意味だと思います。これについて つぎのように問います。

 【Q1】 洗礼などの儀式をいま離れて一般的に言って 《神の見えない恩寵が具体的に見える形に表わされた》とひとりの人がその内面において――信教・良心の自由において―― 捉えることは自由である。しかも このことは その内面を出るものではない。信教・良心の自由ゆえ。ではないだろうか?

 【Q2】 その受け身の場合を超えて そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? したがって儀式などにおいて それとしての秘蹟が成り立つものなのか?

 【Q3】 秘蹟は おそらく【Q1】に戻って ひとりの人間の内面においては成立すると言うひとがあれば 認めねばならないであろうけれど では 組織においてそのことが成立すると言えるか?
 * 組織とは 権限関係を規定して活動をおこなう集団とします。

 【Q4】 一般に秘蹟は 組織において規定しても 個々の人間にとってその内面を外に出たところでは判断のつかないことであり 無効であるのではないか? 

 【Q5】 なぜならひとりの人にとって 《神の見えない恩寵が具体的に見える形で表わされた》と受けとめることは 自由であろうし そのことをほかの人に言葉で伝えてもまだよいであろうが その人間としての表現行為の有効性はそこまでであると考えなければならないのではないか?

 【Q6】 五十歩ゆづって その秘蹟は 無効だと言えないとしても 有効だとも言い張ることは出来ない。こうではないか? けれども組織としては 有効だという前提に立つはずであるから やはりその前提が無効だと言わなければならないのではないか?

 ☆ 洗礼・秘蹟は 特殊な主題ですが 問題は 人間の自由について問うものであり 一般性があると考えます。

 すでに一度わたしは 水による洗礼の必要か否かについて問うています。
 【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html
 今回は それ(水の洗礼)が秘蹟(サクラメント)であるから欠かすべからざるものだという場合のその根拠について問います。

 秘蹟とは何か?
 ▲ (ヰキぺ:サクラメント) ~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
 サクラメント(英: sac...続きを読む

Aベストアンサー

 こんばんは、失礼致します。Hidocchiです。

 今回は、以前のご質問と重複するところもございましたので、簡潔に述べさせていただいております。

> 【Q1】 

 意見を等しく致します。

> 【Q2】 

 現実的には、成立不可能かと考えております。 

> 【Q3】 組織においてそのことが成立すると言えるか?
 
[定義] 
組織(社会上のです):個人では成し遂げられない目標を達成するための、複数の人々による恊働・手段・システム(体系)。(Wikipedia 組織(社会科学)からです。)

 元来、”組織”といった場合には、何らかの強い志等を持った目的があろうかと 考えられます。しかし、現時点では、宗教において、かような強い目的があるとは考えにくいと思われます。
 仮に、目的が信者にとりまして、不確定なまま、儀式(システム体系)が一人歩きしますと、“組織”が生き残ることはあっても、むしろ、“わたくし”としての信仰は死んでいくものと解しております。

 ですが、それ以外の場合、例えば”考古学的 or 神学研究”等におきましては、「学問の自由」も保障されていることから、許容されると解しております。
 また、初期キリスト教のような状況下、つまり圧倒的に虐げられる側の立場(信教の自由が認められていない状況下です)では、その当時の信者たちには、”秘蹟”により、ある種の”救い”が得られた可能性はあろうかとも考えておりまし(教義自体の存亡すら関わっている状況ですから)、また強い”恊働”をもたらした結果、想像以上の”信仰心”もしくは”行動力の発揮”をもたらしか可能性もあろうかと思われます。ですが、「信教の自由」が与えられた今日では、形式のみの”秘蹟”は、かえって信仰心の”形骸化”をもたらす可能性が高いと考えております。信仰とは、そのひとの内面の問題だからでございます。しかも、その内面情報は容易に、他のひととは情報交換可能なものではないと考えられるからです(そのひと固有の体験、経験に基づくものだからでございます)。

> 【Q4】 

 上記理由により、現在では、意味をなさないと考えております。 

> 【Q5】and【Q6】

 表現行為の有効性は、通常、理性的認識が可能な範囲内に限られるかと思われます。

 ご参考になるところがございましたら、幸いでございます。

 こんばんは、失礼致します。Hidocchiです。

 今回は、以前のご質問と重複するところもございましたので、簡潔に述べさせていただいております。

> 【Q1】 

 意見を等しく致します。

> 【Q2】 

 現実的には、成立不可能かと考えております。 

> 【Q3】 組織においてそのことが成立すると言えるか?
 
[定義] 
組織(社会上のです):個人では成し遂げられない目標を達成するための、複数の人々による恊働・手段・システム(体系)。(Wikipedia 組織(社会科学)からです。)
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Qブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

 あらためて問いたいと思います。
 【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。
  * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。

 【問い1】 ブッダは 神か?

 【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?

 【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?
 
 【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?
 
 【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

Aベストアンサー

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。

> ○ 生老病死を四苦というくらいですから・つまり生をも苦と言うくらいですから 少なくとも出発点は 悲観論であり 徹底的な諸行無常論であるのではないか。

 悲観論につきましては、四苦八苦の八苦、例えば、「愛別離苦:愛する者と別離する苦しみ」、「怨憎会苦:怨み憎んでいる者に会う苦しみ」らは、確かに生での苦しみかと思われます。

 また無常論につきましては、例えば三島由紀夫等もこれら“無常観”に影響されたとされています(下記サイトをご参照くださいませ)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 (“三島由紀夫と唯識”の箇所です)

 従いまして、仰られますように、「徹底的な諸行無常論」と考えられます。

> ○ その限りで虚無思想であるとさえ捉えられます。しかも ここで 虚無ないし悲観ないし無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだのではないか。

 “四諦”を釈尊が説いたとされております(つまり、いったんは“苦”を受け止め、それは避けられるものではなく、諦念思想でもって、“苦”を処理していくものかと察せられます)。従いまして、仰られますように、「無常観を排除するのではなく避けるのでもなく その道を突き進んだ」と考えてなんら支障はないものと察せられます。

> この《仏性》観が現われたので ブッダのあたかも神格化ないしかれ独りのみの《極度に偉大な超人的存在》化が つられて出て来がちになったのでしょうか

 《仏性》観が現われる前、つまり、上座部仏教の折から、すでに「神格化」がなされていたようでございます。例えば、大パリニッバーナでは、釈尊の意向を無視し、遺骨に対しては、相当な“価値”を見出すようになり、争いすら起こったといわれています。
 これは、愚見でございますが、釈尊がご存命中は、呪文等は原則禁止したなど、超越的概念を取り込むことには否定的だったかと記憶しております。ですが、入滅後すぐには、例えば古い経典のひとつであるスッタニパータ(あまり大乗仏教では重視されない経典かと思われます)でも、以下のような記載があり、入滅後直後には“神格化(仙人化)”がなされていたかと考えられます。

698詩 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である”仙人”(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。

また釈尊の十大弟子-目連も、“神通第一”とされ、超越的概念が取り入れられていることが示唆されます。
 つまり、入滅後では(ほとんど直後には)、釈尊の神格化が著しく進んだと推察されます。

> ○ 無神論であることは とうぜん 《絶対》という想定を《無》で受けたものであるからには 片や《有》で受けたところの有神論と同等の《非思考なる信仰》の一形態である。
 ☆ と考えるのですが いかがでしょう?

 これは愚見ではございますが、
「今回明らかにされたたとえば《無》については それは 有神論と無神論とに分かれる前の《ひとり満ち足りている存在》のことを おおむね 指し示したかたちである。」
とのご質問者様の意見とは少し異なっております。つまり、“スッタニパータ”はじめ、さらには大乗仏教の基礎となった“般若経”につきましても、“呪術的”な要素も含まれていたかと思われます。つまり、入滅後の著しい神格化(超越的存在化)が生じたこと、さらにまた、《無》というそこに価値を見出すのが非常に困難なものに対しまして、ひとびとは“信”の対象にするとは少なくとも愚生には考えにくく思われるからでございます。

 お役に立てれば、幸甚に存じます。

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。

> ○ 生老病死を四苦というくらいですから・つまり生をも苦と言うくらいですから 少なくとも出発点は 悲観論であり 徹底的な諸行無常論であるのではないか。

 悲観論につきましては、四苦八苦の八苦、例えば、「愛別離苦:愛する者と別離する苦しみ」、「怨憎会苦:怨み憎んでいる者に会う苦しみ」らは、確かに生での苦しみかと思われます。

 また無常論につきましては、例えば三島由紀夫等もこれら“無常観”に影響されたとさ...続きを読む


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