
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
科学的根拠は無いと思います。
理由としては、次のようなものがあります。
・その言葉ができた当時は科学の概念自体が無かった。
⇒科学を前提にして使われた言葉ではないということ。
・前提条件を次第で、因果応報の理論が正になったり偽になったりする。
⇒科学的根拠を証明するためには100%の再現性が必要。
例えば、
「天に唾して自分にかかる」のは、100%の再現性があります。
この場合、因果応報の理論=正しいとなります。
ですが、
「交番に財布を届け、持ち主から謝礼をもらう」は、
持ち主の気分次第で謝礼があったり無かったり。そもそも持ち主不在の場合もあります。
よって、100%の再現性がありません。
この場合、因果応報の理論=間違いとなります。
この様に、状況によって正しくも正しくないとも取れるので、因果応報自体に100%の再現性が無く、科学的根拠を欠くという、結論になります。
こんな感じですが、いかがでしょうか?
全くその通りですよね、100% 科学的に証明されることはない分野ですよね。でも私たち人間は自分が悪いことをしたら 結構潜在的にでも罪悪感を抱えてしまうものだから 長い時間が経ってでもどこか歪みが出てきて その影響が行動に表れてしまって 結局自分に返ってくる現象が起きてしまうのかな、と思ってきました。論理的なお返事ありがとうございました!

No.8
- 回答日時:
科学ではまだ解明できない世界だと思います。
科学で解明しようと思えば確立,量子力学等いろいろな考え方があると思います。それとは別に占いもありますが。道徳的に考えれば因果応報ではないでしょうか。おおざっぱに,やればやられるという感じです。それはその人,その事象から直接帰ってくるのではなく,巡り巡って帰ってくる,自分あるいは自分の子や孫に帰ってくるという感じだと思いますよ。非道をしてもその人が強ければ,その人には帰ってこないでしょう。陰徳を積めば自分に帰ってこなくても子や孫に帰ってきます。ようは人として天に唾することはしない。今生きていることに感謝し人には小さくても親切にする心を養うことなのではないのでしょか? 幸せの贈り物と考えて,人に親切にする。それが巡り巡って自分や子孫に帰ってくる。こう考えれば自然と心穏やかにすごせて,質問者様の気持ちも少しほぐれるように思うのですが。私見ですがこの問題は科学で論じるには無理があると思います。科学では最後に矛盾が生じます。因果応報ですよ。因縁と因縁です。偶然と必然の違いだと思います。追伸 質問者様の質問内容から少しずれていることをお詫びします。
そうですね。科学的に、というのは矛盾が生じますよね。非道をしてもその人が強ければその人には返ってこないというのも、 なるほどと思いました。ただ、そういう人は決して心温かな人ではないのでそれなりの人生しか送れないんでしょうね。質問内容から決してずれてはないと思います、ありがとうございました!
No.7
- 回答日時:
科学的根拠というならば確率の問題でしょうね。
人は社会というものを作って暮らしています。そこにはコミュニケーションが必ずあります。そうすれば、その中の行為一つ一つが他の人を介して自分に還ってきやすい、その行為を行うように考える自分がその行為と同じような事を違う考えの他人にもっていきやすいという話だろうと思います。断言、つまり等号で結ばれる類のものではないはずです。
コミュニケーションには一人一人の心の問題も左右しますから、伝言ゲームよろしく曲解を経て還ってこない事ももちろんあると思いますね。
人の心を等号で結ぶことは不可能です。世界で一番あいまいな存在と言っていいかと思います。
曲解を経て返ってこないこともたしかにあると思います。が そういうことをした本人は 人間の本能?として 自分が悪いことをした、ということは潜在的にでも分かっているはずなので それはなんらか、生き方に影響しますよね。お返事ありがとうございました!
No.6
- 回答日時:
科学的根拠はないでしょう。
というか宗教での心理学的な考えだと思います。※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C% …
{抜粋}「因果の道理」とは、事故や事件、病気災難などの物質的出来事の発生を予言するようなものではない。 人間の幸福という問題に焦点をおき、その「幸福」自体にたいする切実な、回答の見つからない問いに対する、 覚りからでた「答え」なのである。
また、この「因果」の思想を直観的にイメージし易くするため、地獄極楽的な教誨方法も存在する。しかしまた これに囚われて、地獄への恐怖を抱える生活を作り出しては本末転倒となるのである。あくまで「因果」とは 「恐れ」や「害意」の思いを無くし、「慈しみ」「感謝」の思いを勧めていこうとする思想なのである。
だから、釈迦が説いた思想を、それに共感した人が自分の経験にあてはめている話だと思います。
今仏教の本を読みだしたりしています。慈しみ、慈悲 という言葉が随所にでてきます。それに比べたら 仕返し、という言葉は何か ほんとに嫌な響きがするな、と感じています。お返事ありがとうございました!
No.4
- 回答日時:
もちろん科学的な根拠はないでしょう。
人が何か嫌がる事をすれば、いつか別の誰かに自分の嫌な事をされるかもしれない。
逆に、他人が困っている時助けてあげれば、いつか自分が困った時に誰かが助けてくれるかもしれない。
あなたはどちらの世の中が良いですか、と言う道徳的、宗教的な教えだと思います。
元々、宗教というのは、現在のように法律とか警察機構とかが発達していない時代に、反社会的な事をする人が多くなって社会が乱れないように、社会が安定するように考えられた物だと思いますから。
自分の今までの人生を振り返って 結構同じような形で返ってきているんです。いいことも悪いことも。偶然かな?と思っていたけど 今大乗仏教の教えが 最先端の科学の考え方と一致している、と昨日ある宗教者が言っていて ちょっと調べてみたいな、と思っています。お返事ありがとうございました!
No.2
- 回答日時:
この世は全て作用反作用の連続です。
全て原子がそうふるまっています。まぁこれはあまりにもミクロな世界でのふるまいですが。ビッグバン以来、作用反作用いがいの要素によって振る舞いが変わった事はありません。地球コンピューターはそのふるまいの全てをシュミレーションする事を目的としていますが、もちろんそこまでやらずにカオス理論に基づいた算術でエミュレーションを行っています。その目的はもちろん未来の予測です。
したがってこの場合、この世の全てを理解する事はできませんから量子力学的な解釈で回答させていただきますと・・・「悪い事はやれば自分にも災難が及ぶかも知れませんし、また及ばないかも知れません」というあいまいながらも科学的な説明になります。
アインシュタインは激怒するかもしれませんが、これが科学的な回答とする事が現在のスタンダードです。
う-ん まさにおっしゃる理論に沿うと この世のすべてを理解することはできませんよね。そうかもしれないし、そうならないかもしれない。一番単純な考え方は 心は自分がよく知っている、悪いことをしたら 子供でも自分が悪いことをしたことは自分で理解できる、そしてその心の作用が自分になんらかの影響を与える、ってことですかね。単純に人にいいことしたら気持ちいいし 嫌な事をしてすがすがしく思う人はいない。いたらその人はちょっとおかしい。丁寧なお答え ありがとうございました!
No.1
- 回答日時:
科学的な根拠は無いと思います。
(たぶん。)だからと言って他人に嫌なことを皆がしたら、この世は住み辛くなりますよね。
先人からの知恵(?)(上手くいえませんが。)貴方の言うとおり道徳的な事だと思います。
関係ないですが「嘘」をついて学校や会社を休んだり嫌な付き合いを断ると、その通りになります。
(怪我や病気。)
だから休む時、断る時は差しさわりの無い「嘘」か本当の事を言うようにしています。
私も経験あります。風邪で、と嘘をついたら ほんとに病気になった、というのは何度か。自分の催眠術にかかってしまうんでしょうか だから私も差し障りのないウソを つくように?していました。ありがとうございました!
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