借りたものは返さねばならず、借金は消えてなくなることはないと思います。
幕末、幕府は財政事情が逼迫し、借金を返すことなど到底できない状態までになったとききます。幕府は倒れるわけですが、その借金は誰がどういう形でかぶったのでしょうか?一番損をしたのはどのような人たちで、得をしたのは誰でしょうか?

今の日本政府も、おそらく江戸幕府と同じような形で借金を返済するのだと思いますがいかがでしょうか?

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A 回答 (6件)

江戸幕府や大名達の借金は、基本的に大坂などの商家などが貸したものですネ。


そして、江戸時代後期に徳政令が出され、借金は踏み倒されたハズです。
その後も、幕府や大名は借金をし続けました。
最終的に江戸幕府が抱えていた借金も明治維新と共に踏み倒され、莫大な額の借金は商家の損失として終わってしまったと聞き及んでいます。
それが尾を引いており、大阪のお上嫌いの風土が培われたとも聞いております。
以上kawakawaでした

この回答への補足

やはり、そうでしたか、という気持ちです。結局、取れるところから採る、つまり、小金持ちの末端の人たちが背負うということなのでしょう。
おそらく、現在の日本政府の借財も、同様に処理されるような気がします。

大阪のお上嫌いの風土が培われたとも聞いております。”とはなかなか、鋭いご意見で、納得してしまいます。

補足日時:2001/04/12 21:05
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踏み倒しですすね.私は何かでこの話を読んでいましたが,両替商が没落したと聞いていました.御用金はただ取りではなく,借金と同じです.利息をつけて返すのことになっています.両替商の天王寺屋、炭屋など40軒も潰れたのです.幕府と新政府でしょうか. --昭和48年毎日放送出版--大阪の世相-


  政府も同じ事をするでしょうね、戦後の混乱期もありました.新円切換
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政治主体としての幕府は、すでにshoyosiさんのお答えになっている通り、


国内においては債務はありませんでした。

当時には、現在の国債のようなものはありませんし、極端に言えば、幕府
は強権を発動できますから、借金をする必要はありません。もっとも、そ
の場合に資金源として狙われるのは主に豪商たちですから、彼らが泣いた
とは言えますね。

商人たちに借金をしたのは、大名・旗本やその家来たちです。また、後に
明治新政府を作ることになる薩長などは倒幕資金の一部をやはり借金して
まかなっています。

以上、今までの皆さんの意見をまとめただけの回答です。(皆さんが「自信
なし」なので、それで良いのですよという意味でしゃしゃりでました。)
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こんばんは。



全く自信がありませんが、土佐藩の借財は、当時の藩政後藤象二郎が岩崎弥太郎に、大阪、江戸、京都藩邸、海援隊資産をもらう代わりに土佐藩の借財を丸投げにした話は有名ですね。

ただ、岩崎弥太郎もその後借財から逃れるために、会社をつぶして再設立するというやり方を数度繰り返していますから、結局取引先が泣き寝入りという事だったのではないでしょうか?

又、明治政府は維新直後に政府債を発行していますから、当然幕府の物とは区別されるでしょうしねぇ・・・

ということは、泣いたのは商家でしょうねぇ。
末端までの波及効果を想像したら、少し怖くなってきますね。

結局、江戸幕府の踏み倒しというのが・・妥当だったのではないでしょうか?

想像の範疇を全く越えませんが、少し楽しい話題だったので、首をつっこんでみました。

ご参考になれば幸いです。
ならないか・・?
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この回答へのお礼

やはり、踏み倒ししかなかったでしょうね。小泉氏が総理になりそうな勢いですが、(4月22日現在)小泉首相は財政再建をするのでしょうね。そして、踏み倒すようなことはなさらないでしょうね。

お礼日時:2001/04/22 22:01

幕府は国内には、ほとんど借金はなかったと思います。

幕府が大工事のため、金が必要なときには、富裕な藩に申し付ければいいし、手元不如意なときには、貨幣の改鑄、幕臣の知行借上げ、それでも足らないときには、商家に対して御用金の取りたてという手段があります。現代と違って、権利義務意識なんかないですので、お上のいうことは、ご無理ごもっともで済んだ時代です。結局、そのつけは、幕末のインフレーションになりました。各藩の借金は、有力商家からの借金や藩札、家士に対しての借り上げがありましたが、結局はこれらもご破算になりました。
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明治政府が返済しました。


参考URLに詳しく載ってます。
あと、司馬遼太郎さんの本のどこかにも書いてあったんですけど、どの本だったか思い出せません。

参考URL:http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9801/9801 …

この回答への補足

ありがとうございました。参考URLを見ました。
しかし、残念ですが、私の質問したかったのは、幕府の対外債務ではなくて、国内向けの債務です。幕府は、国内の民間人から多額の借金をしていたはずです、また、幕府の出先とも言うべき藩も同じように民間から借金をしていたはずです。それらの借金を誰がかぶったかを質問いたしたかったのです。

補足日時:2001/04/11 21:21
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Aベストアンサー

#1です。

確認いたしました。

やはり、民事では海外移住中の時効の停止はないようです。
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小泉内閣では新自由主義の立場で小さな政府を目指し、借金返済を行おうとしているようです。
構造改革というもので、行政の支出を抑える、自由経済を重視し自由な市場を整備する、福祉支出の抑制などの方針で動いているようです。
具体的な政策として思いつくのはこんな感じです。

・行政の支出を抑える
郵政民営化、省庁再編、国家機関の独立行政法人化

・自由経済を重視し自由な市場を整備
郵政民営化、金融ビッバン、自由貿易協定

・福祉支出の抑制
医療費負担増

郵政民営化について詳しく取り上げます。
郵貯、簡保の300兆円を担保とすることで国債発行が継続されてきた結果、
日本は700兆円といわれる借金を背負っていると考えられています。
郵政民営化で郵貯、簡保の300兆円を政府が担保として扱えなくなることで、
将来に問題を先送りできない=借金を増やさない体制を小泉内閣はつくりたいようです。
そして多分、300兆円の資金が自由な市場にながれることで景気回復→税収増加という借金返済プランなんじゃないかなと思っています。
この改革がうまくいくか?これは難しすぎて私にはわかりません。

>国は借金の返済方法を考えているかご存知な方はおられますか?

小泉内閣では新自由主義の立場で小さな政府を目指し、借金返済を行おうとしているようです。
構造改革というもので、行政の支出を抑える、自由経済を重視し自由な市場を整備する、福祉支出の抑制などの方針で動いているようです。
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Q幕末の幕府財政。

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さらに、イギリスが薩摩藩に要求した賠償金の2万5千ポンド(6万300両余)も薩摩藩に貸付とはいうものの幕府が支払っています。
この時期、幕府は外国から艦船を購入したり、さらに膨大な出費をともなう複数の自国船建造を命じたり、しています。
幕府財政は、厳しかったといいますが、実際はどうだったのでしょうか。
賠償金や艦船購入費用、長崎製鉄所他の建設費用などはどのように工面したのですか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

”幕府の財政が苦しかった”と言うのは現代の財政難とは趣が違う様に思います。

幕末は開国により輸出超過状態で、不平等な条約の為に不当な契約をすることも遠因となり、激しいインフレになっていますが、元々、当時の財政は現物の年貢米が基本ですから、インフレになってら米も値上がるので財政そのものが苦しいことはなかったと思います。
幾つかの回答にも有る様に金銀は豊富にありましたし。

江戸時代全般を通じても飢饉や大地震が発生したとき、財政の専門家が少ない事もあって何度か失政を行った時に激しいインフレになっています。又、収入を増やそうと米の生産量増やすと米価が下がるなど、色々と悩みは多かったでしょうが財政難とは無縁だっと思います。

言って見れば政府の買い物やインフラ整備も現物交換の様な物で、国債の発行も無く(江戸末期にそれらしき物もありますが、本格的に始まったのは明治以降)、莫大な借金を抱える公社や民間会社を救済する事も無く、財務省の役人や経済の専門家が居なくても回って行くシステムだったと言う事だと思います。

質問とは外れてしまいますが、財政難では無かったと思い回答を寄せさせて頂きました。

”幕府の財政が苦しかった”と言うのは現代の財政難とは趣が違う様に思います。

幕末は開国により輸出超過状態で、不平等な条約の為に不当な契約をすることも遠因となり、激しいインフレになっていますが、元々、当時の財政は現物の年貢米が基本ですから、インフレになってら米も値上がるので財政そのものが苦しいことはなかったと思います。
幾つかの回答にも有る様に金銀は豊富にありましたし。

江戸時代全般を通じても飢饉や大地震が発生したとき、財政の専門家が少ない事もあって何度か失政を行った時に激しい...続きを読む

Q莫大な借金をしてる一方で、なぜ?小泉竹中経済は海外資産を増やすのですか?

¥700兆の借金から対外資産残¥185兆から先に差し引いて、つもり積もる金利分だけでも軽くしないのは、どうしてですか?

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Aベストアンサー

アメリカの対日貿易赤字が膨らむとアメリカの機嫌が悪くなり、あらゆるところでアメリカからの圧力が発生します。かつての貿易摩擦でえらい痛い目にあっているため、こういう総論が日本の政治家や官僚に浸透しているためでしょう。
例えば、政界でなくて財界でも少し前に、GMの不信からトヨタを少しバッシングする論調がアメリカで起こったとたん、トヨタのトップ奥田会長は「場合によってはハイブリッド技術を一部提供しても良い」と発言しました。つまりはこういう事なのです。

Q幕末の幕府と藩の関係

幕末には長州藩は幕府と戦争したり、幕府の権威も失墜していたと思いますが、だからといって幕府には藩を取り潰したり、処分を下したりする力までなくなっていたのでしょうか。だとしたら参勤交代なんてみんな拒否しそうですが、ちゃんとやってたから生麦事件が起きたわけですよね。それにいくら薩摩長州が強くても親藩譜代大名がみんな幕府側なら、かなうはずないような気がするのですが。そのあたりの当時の状況について教えていただけませんか?

Aベストアンサー

幕末には徳川幕府の権威も形の上だけで形骸化していました。
幕府に弓をひくような藩例えば長州藩に対し取りつぶしの処置もできず、武力により征伐するべく各藩に出兵を命じましたが親藩の指揮官の尾張藩ですら十分な兵力を用意出来ず、譜代や外様大名も同様でした。
その上旧式装備でしたから長州藩の新式装備、奇兵隊の活躍の前に敗北を重ねて進攻は頓挫する始末でした。第1次長州征伐は長州藩の内紛でなんとか勝利したのですが重役などを切腹させただけでそれ以上の処分は出来ませんでした。

この為第2次長州征伐が必要になったのですが、既に各藩とも戦意を失い、譜代大名の小倉藩の小倉城も落城、譜代の浜田藩も敗退し戦線は後退、膠着状態になる始末でした。

このように親藩譜代といえども全て佐幕派ではなくなっていました。
幕府が先手としていた彦根藩も桜田門事件で藩主が首を取られたことを理由に処罰を受けたため勤王派に鞍替えしてしまいました。
親藩の尾張藩も代々将軍になれなかった恨みから戊申戦争では勤王派につく始末でした。

Q江戸、明治時代に海外から借金するとは?

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Aベストアンサー

こんにちは
>日清戦争では補償金を清国から取れたと聞きますが、どんな通貨で受け取ったのですか?
日清戦争の賠償金は、講和条約である下関条約(1895・4・17締結)の第4条で、庫平銀(清国の通貨)2億両(テール)を支払うものとされ、1895~1902年の8年間に分割払とし、2年目から残金について毎年5%の利子をつける(批准後3年以内に完済の場合は無利子)としています。また、第8条で講和条約が履行されるまでの担保(保障)として、日本が山東省の軍港威海衛を占領すること。さらに、同条約別約第1条において、威海衛占領経費の一部として、占領期間中毎年庫平銀50万両を払うと規定しています(威海衛守備費償却金)。
その具体的な支払方法・場所等については日清両国で協議され、同年10月6日に合意に達します。その内容は、
1、品位・量目が一定しない庫平銀一両について、純銀37,311g(575グレイン82)とすること。
2、支払いは当時最も信頼性のある通貨である英ポンド金貨で、ロンドンで支払われること。(日本銀行ロンドン支店に収納)
3、庫平銀一両(実際上は純銀37,311g)と英ポンド金貨の交換比率は、1895年(条約締結年)の6、7、8月の銀相場の平均値により算出されること。
とされました。
その後、三国干渉があり、日本に割譲されると決められた遼東(奉天)半島が清国に返還されることになり、奉天半島還付条約の第3条で、還付の報酬として庫平銀3000万両の支払いが決められました。その結果、清国が日本に支払う金額は、2億両+3000万両に、威海衛守備費償却金として3年(最終的に賠償金支払が3年間で終了したので)×50万両=150万両加わり、総計2億3150万両相当の英ポンド金貨が支払われることになりました。
清国はこれを、1898年5月7日までに完済します。下関条約の締結日は1895年4月17日ですが、同年1895年5月8日に批准書が交換され、条約が発効しますので、完済日が批准後3年以内の規定により無利子となるので、完済を急いだと思います。なお、1896、1897年は賠償金の利子は支払われていますが、3年以内に全額が支払われたので、この2年分の利子支払金は、賠償金本体に充当されており、実際的には無利子となっています。
さて、蛇足になりますが、清国は賠償金支払いのために庫平銀・金塊・ポンド金貨などを本国から運んだのかと言うと、運んでいません。清国は数次にわたり外債(借款)をフラン・ポンド建で発行し、ロシア(初期のフラン建起債には政府保証を付けています)・フランス・ドイツ・イギリスの銀行が引き受けをしています。このように外債の発行が8年間の支払い期間を3年間に短縮し、利子を生じさせなかったことになります。
ただ、貨幣が輸送されなかったかと言うと、日本の例になりますが実際は輸送されています(全額ではなく一部)。日露戦争当時の主要戦艦のほとんどはイギリス製で、完成後日本海軍軍人により日本に回航されるのですが、この時に回航される軍艦により輸送されたことがありました。
なお、賠償金等については、来るべき日露戦争に向けての海軍・陸軍の軍備費に充てられただけでなく、八幡製鉄所(現在の新日鉄住金の出発点)の設立資金や、1897年の金本位制(日本は実際上金為替本位制)復帰の資金(準備金)ともなり、日本経済の近代化にも活用されています。
下関条約及び議定書・別約全文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84
奉天(遼東)半島還付条約全文
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/pw/18951108.T1J.html
下関条約批准
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/05/post_13.html

>日露戦争では戦費を英国から借りたと聞きますが、この金はどのような形で受け取りましたか?
これは、外債発行により資金を調達しています。英国(ロンドン債券市場)が中心ですが、アメリカでも起債(ポンドとの確定換算率によるドル払)され、戦争後期にはドイツでも起債(ポンドとの確定換算率によるマルク払)され、債券市場を通じて一般に募集されます。8200万ポンド(約6億8600万円)を集め、日露戦争の戦費の4割をまかなったとされています。
外債と言っても日本国(大日本帝国)が発行する国債です。つまりは国が資金調達のために発行する債券で、債券の売却により資金を得る国の借金です。(国債の)債券は発行額(額面金額で、元金)と償還期限と利率が決められています。実際の販売価格は額面より低く、その上手取り金額は更に低くなり、逆に実質利率は上昇することになります。さて、債券の購入者は額面額に対する利率により、償還期限までの毎年利息を受け取り、償還期限の到来により額面金額(元金)を受け取ることになります。外債の場合、額面額が外国通貨(当該では英ポンド)で表示され、利息も外国通貨(英ポンド)で支払われ、当然償還も外国通貨により支払われます。
ただ、どの国でも債券を発券できるわけではなく、国に信用が無ければ、利率を上げても購入者はないことになります。そのようなリスクを避ける意味でも債券を引き受ける銀行等の金融機関を引受会社(複数の場合は引受団=シンジケート団)として、債券の募集・売り出しを委任します。契約にもよりますが、引受会社・シンジケート団は債券の全額を取得するか、売れ残り総額を取得することが一般的でした。そのため、引受会社・シンジケート団となるものがない場合には、起債することは難しいことでした。日露戦争時の外債発行に東奔西走したのは後に首相となる高橋是清日銀副総裁ですが、起債のための引受手を得るために苦労しています。特に戦争初期には、欧米の間に日本軍の敗戦を予想する向きが多く(=敗戦で債権の回収ができないと見られていた)、引受手がなかなか見つからないさまが、その自伝(中公文庫『高橋是清自伝上・下』)にも記載され、簡単に読むことができます。
紆余曲折を経て、1904年5月に英国銀行団と調整ができ、1000万ポンドの外債が発行されることになります。発行条件は6%の利率で、7年の償還期限、発行価格は93,5(額面100ポンドにつき発行価格は93,5ポンドの割合)、日本政府の手取額は90%(額面100ポンドにつき手取額は90ポンドの割合)という条件でした。発行総額1000万ポンドの内、500万ポンドはロンドンで、後の500万ポンドはジェイコブ・シフの率いるケーン・ロブ社がロンドンの銀行団より額面の90%で再引受して、ニューヨークで募集されることになります。ただし、もしもの場合には日本の関税収入に当てるということを担保としています。
この募集期間中に、鴨緑江会戦で日本軍が勝利すると、日本の外債の人気が上昇し、されにその後日本軍が勝ち進むと、好条件(利率の低下など)で外債の発行が可能になります。これ以降3回、都合4回の起債で上記8200万ポンドを集めています(以降の外債発行もあります)。


以上、参考まで。

こんにちは
>日清戦争では補償金を清国から取れたと聞きますが、どんな通貨で受け取ったのですか?
日清戦争の賠償金は、講和条約である下関条約(1895・4・17締結)の第4条で、庫平銀(清国の通貨)2億両(テール)を支払うものとされ、1895~1902年の8年間に分割払とし、2年目から残金について毎年5%の利子をつける(批准後3年以内に完済の場合は無利子)としています。また、第8条で講和条約が履行されるまでの担保(保障)として、日本が山東省の軍港威海衛を占領すること。さらに、同...続きを読む

Q幕末の江戸幕府について

以前より疑問がありましたが、幕末の薩摩、長州、土佐、会津以外の藩は何をしていたかです。
幕末になると上記の藩が多く登場しますが、他藩は何をしていたのでしょうか。例えば、蛤御門の変の時も、長州がどのくらい強かったかしりませんが、なぜ、たった1藩を制圧するのに苦労していたのか。長州征伐も薩摩が参加しなかっただけで、なぜ失敗したのでしょうか。権威は落ちかけていたとはいえ、御三家だけでもかなり力があったかと思います。それ以外にも東北から九州まで沢山藩があったかと思います。どうしてみんなで大軍で攻められなかったのでしょうか。
素人的な発想では、全国から軍勢を集めれば、長州や薩摩が同盟しても勝てそうな気がしますが、なぜそうしなかった(できなかったのでしょうか)また、伊達家も昔から徳川へ敵意を持っていたような気がしますが、彼らも薩摩や長州と同じような行動をとったのでしょうか。などなど疑問が多すぎて書ききれませんが、わかりやすく教えてください。

Aベストアンサー

蛤御門の変・・・勇猛果敢な倒幕派浪士が頑張った結果、幕府軍は制圧するのに手間取ったのだと思います。
この戦いは長州藩と共に倒幕派浪士が多数参加し戦っています。その軍勢は3方向から京に攻め入りました。
長州藩の家老、福原越後率いる長州藩の藩兵部隊は、大垣藩、彦根藩、会津藩と戦い敗走しています。
真木和泉守らが率いる倒幕派浪士隊は、桑名藩、越前藩、会津藩と戦い敗走しています。
そうした中で、蛤御門を攻めた来島又兵衛率いる浪士隊が敢闘し、守っていた会津藩が苦戦に陥り、救援に駆けつけた薩摩藩に助けられます。
蛤御門の変は、長州藩が強いと言うよりも、蛤御門で戦った浪士達の頑張りが大きかったと言えると思います。

第一次、第二次長州征討において幕府は西国大名に出兵を命じていますが、他の地域の藩には命じていません。長州は西国の一藩でしかなく、全国から軍勢を集める程の事はないという判断でしょう。
第二次長州征討において一部の藩が出兵命令に消極的で、薩摩のように出兵しない藩もありましたが、それでも10万の軍勢で第二次長州征討が行われています。
それに対し長州軍は4000からは5000という兵力でした。
兵力だけでいうなら幕府軍が圧倒しています。
しかし、長州軍はそれまでの外国との戦闘との経験から新式の小銃と西洋式の戦術を取り入れた軍隊を作り上げていました。特に兵士全員が小銃を持って戦います。
それに比べ幕府軍は、古い戦闘方式でした。鉄砲は身分の低い足軽の持つ武器であり、武士は刀を持って戦うという方式です。
この戦いには井伊家の彦根藩と榊原家の高田藩が出兵しています。「徳川四天王」と言われた井伊家と榊原家です。しかし、両家とも主力部隊の武器は槍や刀でした。
4000の兵力の井伊家の鉄砲の数は約500ほどでそれも随分と旧式な物が大半でした。榊原家は約200ほどしか鉄砲をもっていませんでした。
井伊の軍勢も榊原の軍勢も長州軍に小銃(井伊や榊原の鉄砲より射程が長く命中率も良い)で一方的に撃たれ、ろくに応戦もできず敗走しています。
つまり、長州軍は性能のよい小銃を主力武器とし、幕府軍で参戦した藩の多くは旧来の刀、槍が主力であり、鉄砲はありましたが性能は悪すぎました。
幕府歩兵隊や一部の藩では、長州軍のような洋式の編成や小銃をもっていた部隊もあり、善戦した部隊もありましたが、戦局を引っ繰り返す事はできませんでした。
ちなみにこの第二次長州征討では、御三家の紀伊藩の藩主が幕府軍の司令官であり、紀伊藩の兵も戦っていますが、幕府上層部と紀伊藩主の間で軋轢が生じ、職を辞して国に帰っています。
また、運悪く、将軍家茂が大阪城で病死した事も痛手でした。
幕府から九州の諸藩を統括するよう派遣されていた小笠原壱岐守は、将軍の死に狼狽し(一説には錯乱したとも)、軍勢を放って九州から逃げ出します。この事態に肥後、久留米、柳川など出兵していた九州の各藩は、兵を引き上げてしまいました。

この第二次長州征討の結果から幕府は、洋式戦術の取り入れや、新式小銃の装備を急ぎます。
第二次長州征討の翌年にはフランスから軍事教官が来日し色々指導を受けますが、鳥羽・伏見の戦いの時までには、徳川全軍を完全な洋式部隊にするまでには至りませんでした。未だ、槍、刀を主力の武器とする部隊があったのです。
そして薩長の3倍の兵力を持ちながら、鳥羽・伏見の戦いで敗北します。
薩長側は、長州も薩摩も全員が小銃を装備していました。
ただ、「会津戊辰戦史」によれば、旧幕軍の敗北の原因は・・・
「将帥に人を得なかった。命令の統一がなく、各部隊が思い思いの行動をとり、難局に直面すると命令も待たずに逃走した」など色々あげられています。一概に武器だけのせいだけとは言い切れません。
ちなみに新撰組なども鳥羽・伏見以後に銃を装備するようになります。

この鳥羽・伏見の戦いの後、御三家の尾張家と紀伊家は旧幕軍(江戸の徳川)を見放し、薩長側につきました。

第二次長州征討で敗北し、薩長に靡く藩が増えたとはいえ、鳥羽・伏見ではまだ、兵力で旧幕軍は薩長を上回っていました。しかし、ここでの敗北は致命的でした。

御三家の水戸藩は長州征討の前から藩内が、ガタガタになっていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97%E5%85%9A%E3%81%AE%E4%B9%B1

伊達家は仙台藩ですが、後になって結構、表舞台に立って戦ってます。敗北してばかりですが・・・奥羽越列藩同盟の盟主的立場にいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F

当時は日本中の藩が揺れに揺れ、内部で政争があったようです。また、百姓一揆なども多発しており、1年で全国で200件近くあった年もあったようです。薩長と幕府軍の戦いに目を向けがちですが、そうした騒乱もあり各藩いろいろ大変だったようです。

蛤御門の変・・・勇猛果敢な倒幕派浪士が頑張った結果、幕府軍は制圧するのに手間取ったのだと思います。
この戦いは長州藩と共に倒幕派浪士が多数参加し戦っています。その軍勢は3方向から京に攻め入りました。
長州藩の家老、福原越後率いる長州藩の藩兵部隊は、大垣藩、彦根藩、会津藩と戦い敗走しています。
真木和泉守らが率いる倒幕派浪士隊は、桑名藩、越前藩、会津藩と戦い敗走しています。
そうした中で、蛤御門を攻めた来島又兵衛率いる浪士隊が敢闘し、守っていた会津藩が苦戦に陥り、救援に駆けつ...続きを読む


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