借りたものは返さねばならず、借金は消えてなくなることはないと思います。
幕末、幕府は財政事情が逼迫し、借金を返すことなど到底できない状態までになったとききます。幕府は倒れるわけですが、その借金は誰がどういう形でかぶったのでしょうか?一番損をしたのはどのような人たちで、得をしたのは誰でしょうか?

今の日本政府も、おそらく江戸幕府と同じような形で借金を返済するのだと思いますがいかがでしょうか?

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A 回答 (6件)

江戸幕府や大名達の借金は、基本的に大坂などの商家などが貸したものですネ。


そして、江戸時代後期に徳政令が出され、借金は踏み倒されたハズです。
その後も、幕府や大名は借金をし続けました。
最終的に江戸幕府が抱えていた借金も明治維新と共に踏み倒され、莫大な額の借金は商家の損失として終わってしまったと聞き及んでいます。
それが尾を引いており、大阪のお上嫌いの風土が培われたとも聞いております。
以上kawakawaでした

この回答への補足

やはり、そうでしたか、という気持ちです。結局、取れるところから採る、つまり、小金持ちの末端の人たちが背負うということなのでしょう。
おそらく、現在の日本政府の借財も、同様に処理されるような気がします。

大阪のお上嫌いの風土が培われたとも聞いております。”とはなかなか、鋭いご意見で、納得してしまいます。

補足日時:2001/04/12 21:05
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踏み倒しですすね.私は何かでこの話を読んでいましたが,両替商が没落したと聞いていました.御用金はただ取りではなく,借金と同じです.利息をつけて返すのことになっています.両替商の天王寺屋、炭屋など40軒も潰れたのです.幕府と新政府でしょうか. --昭和48年毎日放送出版--大阪の世相-


  政府も同じ事をするでしょうね、戦後の混乱期もありました.新円切換
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政治主体としての幕府は、すでにshoyosiさんのお答えになっている通り、


国内においては債務はありませんでした。

当時には、現在の国債のようなものはありませんし、極端に言えば、幕府
は強権を発動できますから、借金をする必要はありません。もっとも、そ
の場合に資金源として狙われるのは主に豪商たちですから、彼らが泣いた
とは言えますね。

商人たちに借金をしたのは、大名・旗本やその家来たちです。また、後に
明治新政府を作ることになる薩長などは倒幕資金の一部をやはり借金して
まかなっています。

以上、今までの皆さんの意見をまとめただけの回答です。(皆さんが「自信
なし」なので、それで良いのですよという意味でしゃしゃりでました。)
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こんばんは。



全く自信がありませんが、土佐藩の借財は、当時の藩政後藤象二郎が岩崎弥太郎に、大阪、江戸、京都藩邸、海援隊資産をもらう代わりに土佐藩の借財を丸投げにした話は有名ですね。

ただ、岩崎弥太郎もその後借財から逃れるために、会社をつぶして再設立するというやり方を数度繰り返していますから、結局取引先が泣き寝入りという事だったのではないでしょうか?

又、明治政府は維新直後に政府債を発行していますから、当然幕府の物とは区別されるでしょうしねぇ・・・

ということは、泣いたのは商家でしょうねぇ。
末端までの波及効果を想像したら、少し怖くなってきますね。

結局、江戸幕府の踏み倒しというのが・・妥当だったのではないでしょうか?

想像の範疇を全く越えませんが、少し楽しい話題だったので、首をつっこんでみました。

ご参考になれば幸いです。
ならないか・・?
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この回答へのお礼

やはり、踏み倒ししかなかったでしょうね。小泉氏が総理になりそうな勢いですが、(4月22日現在)小泉首相は財政再建をするのでしょうね。そして、踏み倒すようなことはなさらないでしょうね。

お礼日時:2001/04/22 22:01

幕府は国内には、ほとんど借金はなかったと思います。

幕府が大工事のため、金が必要なときには、富裕な藩に申し付ければいいし、手元不如意なときには、貨幣の改鑄、幕臣の知行借上げ、それでも足らないときには、商家に対して御用金の取りたてという手段があります。現代と違って、権利義務意識なんかないですので、お上のいうことは、ご無理ごもっともで済んだ時代です。結局、そのつけは、幕末のインフレーションになりました。各藩の借金は、有力商家からの借金や藩札、家士に対しての借り上げがありましたが、結局はこれらもご破算になりました。
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明治政府が返済しました。


参考URLに詳しく載ってます。
あと、司馬遼太郎さんの本のどこかにも書いてあったんですけど、どの本だったか思い出せません。

参考URL:http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9801/9801 …

この回答への補足

ありがとうございました。参考URLを見ました。
しかし、残念ですが、私の質問したかったのは、幕府の対外債務ではなくて、国内向けの債務です。幕府は、国内の民間人から多額の借金をしていたはずです、また、幕府の出先とも言うべき藩も同じように民間から借金をしていたはずです。それらの借金を誰がかぶったかを質問いたしたかったのです。

補足日時:2001/04/11 21:21
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Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Q江戸時代、武士への借金取立て

江戸時代、商人が武士に借金の取立てをするとき、なかなか払ってもらえなかったらどうしたのですか。

Aベストアンサー

>江戸時代、商人が武士に借金の取立てをするとき、なかなか払ってもらえなかったらどうしたのですか。

現在と同じで、差し押さえです。
武士は、次の二種類がありました。
1.米の現物支給。
2.領地を与えられ、その領地からの収穫分の米が収入。
どちらも、確実に年貢が入りますよね。
債権者は、来年度分の収入を差し押さえるのです。
「借金の踏み倒し」は、武士としては非常に恥ずかしい事でした。
ですから、未来の収入を担保に差し出すのです。

面白いのは・・・。
御家人株を売却するという事も合った様ですね。
大店の御曹司が、御家人株を買って「十手持ち」になっている事実もあります。
御家人は、旗本と異なり「将軍に会う事は無い」武士ですよね。
将軍から直接に「跡目相続のご沙汰」は、必要ありません。
地方では、郷士株の売買も多かった様です。
今年ブームになった坂本龍馬。
この本家筋の才谷屋も、高知藩郷士株を購入しています。

さらに、面白い例。
借金が貯まった武家へ、娘を嫁さんとして送り込みます。
当然、娘は「しかるべき武家へ養女となってから嫁ぎ」ます。
武家としては、借金が「ちゃら」になる。(持参金と相殺)
商家としては、武家との婚姻関係が結べる。(箔が付く)
正に、一石二鳥の関係でした。
(流石に、婿養子は認められていませんでした)

>江戸時代、商人が武士に借金の取立てをするとき、なかなか払ってもらえなかったらどうしたのですか。

現在と同じで、差し押さえです。
武士は、次の二種類がありました。
1.米の現物支給。
2.領地を与えられ、その領地からの収穫分の米が収入。
どちらも、確実に年貢が入りますよね。
債権者は、来年度分の収入を差し押さえるのです。
「借金の踏み倒し」は、武士としては非常に恥ずかしい事でした。
ですから、未来の収入を担保に差し出すのです。

面白いのは・・・。
御家人株を売却するという事も合っ...続きを読む

Q幕末の幕府財政。

文久2年の生麦事件で幕府は、イギリスに言われるままに10万ポンド(およそ25万両)の賠償金を支払っています。
さらに、イギリスが薩摩藩に要求した賠償金の2万5千ポンド(6万300両余)も薩摩藩に貸付とはいうものの幕府が支払っています。
この時期、幕府は外国から艦船を購入したり、さらに膨大な出費をともなう複数の自国船建造を命じたり、しています。
幕府財政は、厳しかったといいますが、実際はどうだったのでしょうか。
賠償金や艦船購入費用、長崎製鉄所他の建設費用などはどのように工面したのですか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

”幕府の財政が苦しかった”と言うのは現代の財政難とは趣が違う様に思います。

幕末は開国により輸出超過状態で、不平等な条約の為に不当な契約をすることも遠因となり、激しいインフレになっていますが、元々、当時の財政は現物の年貢米が基本ですから、インフレになってら米も値上がるので財政そのものが苦しいことはなかったと思います。
幾つかの回答にも有る様に金銀は豊富にありましたし。

江戸時代全般を通じても飢饉や大地震が発生したとき、財政の専門家が少ない事もあって何度か失政を行った時に激しいインフレになっています。又、収入を増やそうと米の生産量増やすと米価が下がるなど、色々と悩みは多かったでしょうが財政難とは無縁だっと思います。

言って見れば政府の買い物やインフラ整備も現物交換の様な物で、国債の発行も無く(江戸末期にそれらしき物もありますが、本格的に始まったのは明治以降)、莫大な借金を抱える公社や民間会社を救済する事も無く、財務省の役人や経済の専門家が居なくても回って行くシステムだったと言う事だと思います。

質問とは外れてしまいますが、財政難では無かったと思い回答を寄せさせて頂きました。

”幕府の財政が苦しかった”と言うのは現代の財政難とは趣が違う様に思います。

幕末は開国により輸出超過状態で、不平等な条約の為に不当な契約をすることも遠因となり、激しいインフレになっていますが、元々、当時の財政は現物の年貢米が基本ですから、インフレになってら米も値上がるので財政そのものが苦しいことはなかったと思います。
幾つかの回答にも有る様に金銀は豊富にありましたし。

江戸時代全般を通じても飢饉や大地震が発生したとき、財政の専門家が少ない事もあって何度か失政を行った時に激しい...続きを読む

Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれ...続きを読む

Q江戸時代の借金

江戸時代、消費貸借契約を結ぶ場合、金利の上限は決められていたのでしょうか?特に制限はなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

大名や大商人相手の両替屋の金利が年18%でしたが、旗本や御家人相手の札差は享保9年上限15%と決められましたが、すぐに多少は借り手と貸し手の操舵してよいと修正されました。
庶民はこれらは貸してくれませんので、庶民が利用するのは質屋あるいはすがね(江戸は素金、大阪は素銀)でしたが、質屋でふつう年利48%くらい、そすがねのほうは60%から100%くらいでした。
さらにもっと下層庶民相手の金貸しには日銭貸しというのがあり、朝100文かりて夕方101文返すといった形でしたが、これだと年利360%でした。
また烏金貸しと言うのはきょう金一両借りて、あす1両と400文返すという、年利にすれば3600%というようなのもありました。

Q江戸幕府の財政悪化~享保の改革前~

享保の改革において吉宗の最大の課題は財政再建でしたが、どのような経緯で幕府財政は悪化していたのでしょう。商品作物栽培の進展から貨幣経済が農村にも浸透していき、「米価安の諸色高」という状況になり、それまで年貢米を中心に徴収していた幕藩領主が困窮したということなのでしょうか?それは、享保の改革の最中に現出した状況であって、享保の改革前に幕府・藩の財政が悪化していたという理由としては適切でないとも思ったりしてます。それとも、上記の状況は享保の改革以前から始まっていたのでしょうか?それならば、納得がいくんですが。ご存知の方、どうでしょう?

Aベストアンサー

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました
他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税率はさらに下がります、ある資料によると農業収入の1~2割だそうです

結果として、幕府や藩の収入は江戸初期からほとんど変わらないのに、武士以外の収入は漸次増加して行き、生活レベルが向上してきました
社会全般のレベルが向上し、費用が余計にかかるようになっても 幕府・藩には増収の手立てがありません
これが根本的な原因です

商工業にも課税しようとした田沼意次のような為政者もいましたが、大勢の賛同を得られませんでした、

縮小均衡を図ろうとする吉宗のような為政者が賛同されたため、財政は悪化の一途をたどってしまったわけです

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました
他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税...続きを読む

Q薩摩藩ってすごい藩?

「ドイツってすごい国?」をみて薩摩もすごいと思ったので質問します。

島津家は日本で(おそらく)唯一、鎌倉時代の守護大名からの歴史をもつ大名で、室町・戦国時代は九州最強を誇り、豊臣秀吉に逆らい、関が原では西軍につき戦闘をおこなうなど時の権力者に逆らいつつも領地を減らされることなく、江戸時代は参勤交代で全大名中最も長距離で負担の重い旅行を強いられ、徳川家は更に島津家を恐れ江戸防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。

このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、強大な武力とバイタリティーを持ち続けた理由は何でしょうか?鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除けば)最強、悪くてもベスト3には入っていたと思うのですが、いかがでしょうか。

Aベストアンサー

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょうか。
 関が原の戦いでは負けた西軍にいながらまったく唯一お咎めも無く60万石の石高もそのままでした。2度の朝鮮出兵で、三十倍の敵を殲滅し、鬼石曼子(おにしまず)とも呼ばれた武力もその外交力の裏づけにあったと思います。
 しかし鎌倉時代から明治時代初めまでベスト3には入っていたというのは買いかぶりすぎだと思います。
 最近の研究ではNo.9さんのおっしゃる程の搾取は無かったとされていますがそれでもまったく裕福とはいえず琉球に対するの清国との2重支配による密貿易や幕末の藩債踏み倒しなどでなんとかやりくりしていたのが実情ですから。
 
 
 

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょ...続きを読む

Q株で儲かっている人ってどのくらいいるの?

最近、株で儲ける系の本とか雑誌が氾濫し、株式市場が賑わっているようですが、実際のところファンダメンタルズだのテクニカル分析など学んで儲けている人ってどれだけいるんでしょう?

ファンダメンタル的な指標は、あくまで過去のデータの蓄積にすぎないし、テクニカル分析は現実の株価の動きに適合しずらい気がします。


ボクはこういった本全般は、ただひとえに証券会社が儲ける為の大規模な宣伝活動でしかなく、また、一部の株で運よく儲けた人達の思い込みで構成された、印税目当ての出版にすぎない気がするのです。


だれか、ファンダメンタルズ、もしくはテクニカル分析を駆使して本当に儲けている人がいれば、教えて下さい。

また、逆にそれらを使っても全くダメでした、こんなに存しちゃいましたという人にも体験談をいただければと思います。

Aベストアンサー

デイトレを煽るような本がたくさん出ていますが、それは確かに証券会社の宣伝活動と結びついていると思います。デイトレで儲かるのはよほどの才能がある人だけかなーって思います。

でも、優良会社が何らかの理由で安くなっている時に買ってしばらく辛抱して持っていれば儲かります。スズキショックの時のスズキを拾って1年半くらい持ってましたが、中級の新車1台分くらい儲かりました。
反日デモの時、拾った銘柄もいい儲けになりました。

株投資歴3年目のど素人です。一応、ファンダメンタルとテクニカルは
見ています。


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