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東大寺建立に関わった人びとについて調べてみますと、技術面の中心人物はほとんど半島からやって来た人びとか、またはその子孫です。
百済が滅亡したときに日本を亡命先に選んだのはある程度解りますが、その後も統一新羅から多くの知識人がやって来ています。
今日で言うところの「頭脳流出」のような気がします。
どのような理由があって母国を捨て、日本を選んでやって来たのでしょうか。
それとも大半の人びとは日本が招請したのでしょうか。
招請した場合、その記録はありますか。
よろしくお願いします。

東大寺公式HP 「大仏さまや大仏殿は誰が造ったのですか」
http://www.todaiji.or.jp/index/info/faq/saku.html 

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A 回答 (1件)

 東大寺の大仏開眼が752年ということですので、この年を起点に見てみると、727年に渤海国の使者がはじめて来日しています。

渤海国はわずか50年ぐらいしか続かなかった王国ですが、高句麗の血筋を王として担ぎ上げ、唐の周辺地域を占領しつつ、同時に唐と日本に朝貢するというやり方で命をつなぎました。
 同時期に、中国はイスラム軍の侵攻、吐藩(チベット)との国境争い、安禄山の反乱と、息つく間もなく戦いにさらされていました。当然、戦争難民は溢れかえり、東へ逃れた連中は海を渡るしかなかったのではないかと思います。
 それに、「包丁一本さらしに巻いて~」じゃないけれど、技術者と言うのは、技術を売る訳ですから簡単に国境を越えています。石工など、材料を自分で持ち歩けない場合、道具一つで移動せざるを得ないわけです。ですから職人から見れば、移動が自由かどうかは、いわば死活問題でもあったわけです。
 さらに751年のタラス河畔の戦闘で、製紙技術がイスラム圏へ移ったことが教科書にも書いてありますが、おそらく中国の技術者が捕虜となって、イスラムの国へ引っ立てられたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
7、8世紀の半島の混乱は年表を見てなんとなく解ります。
技術をもつ者に国境はない、ということですね。

お礼日時:2010/10/27 21:08

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