英仏百年戦争はもともとイギリス国王がフランス国王の臣下で、フランスのノルマンディなどに領土を持っていたことが原因といわれています。しかし1453年に百年戦争が終ったあと、英仏の国境が確定したと歴史の本で読んだことがあり、イギリスはフランスにある領土を失ったと思うのですが、その後イギリスはフランスのかつての領土奪還をあきらめたのでしょうか

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A 回答 (2件)

ノルマンジー周辺に領地を持っていたノルマンジー公が、イギリスに渡ってイングランドを造り、その後スコットランド・ウエールズ・アイルランドを併合して行きました。


ノルマンジー公はフランス王権についても継承順位を持っており、王権争いが英仏戦争の理由にもなりましたが、結果的にフランスでは反逆者となってしまったので、領地を没収された形になりました。

その後領地奪還を諦めた理由としては、海峡を挟んで進出したとしても陸からの攻勢に守り難い地形であり、そのリスクを負って軍事力を行使する程豊穣な土地では無く、それ以外に進出する地域が沢山あったと言う事でしょう。
欧州においても、フランスから奪取したジブラルタルについては、その地域的戦略性の高さから未だに権利を譲りませんし、マルタ島についても同様にフランスから取り上げかなり最近まで領有していました。
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百年戦争で国王が権威を失いお家騒動発生、内戦(薔薇戦争)へと発展。


内戦が終わった後はブリテン島統一、それが終わったころは大航海時代でヨーロッパ内での領土紛争どころではなく海外の植民地の奪い合いの時代、といった感じです。
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できれば、その戦争の勝敗も教えてください。

Aベストアンサー

1番です。

イタリア戦争とか、フロドゥンの戦いとかでも良いのでしょうか?

イタリア戦争(1521年~44年)は、フランスとハプスブルク家によるイタリアを巡る一連の戦い。
フロドゥンの戦い(1513年)は、イギリスとスコットランドの戦いでスコットランドの大敗。
神聖ローマ帝国のフリードリッヒ1世とハインリッヒ獅子公の一連の戦い(1156年~1180年)は、フランスのルイ7世とイギリスのヘンリー2世の対立もかかわっています。
ハインリッヒ獅子公のイギリスへの亡命で終わっています。

アルビジョワ十字軍(1208年~1229年)も加えてもよいかも。
カタリ派(アルビジョワ派)の壊滅で終わっています。

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Aベストアンサー

日清戦争についてはその様な事は全くありません。日露戦争については多少その側面があったと言えます。というのは当時イギリスは清国領土内に多大な権益を有していましたが義和団事件以後のロシアの満州不法占拠等の露骨な極東に対する侵略的行動により、それらの権益を脅かされていたからです。その為に光栄有る孤立政策を捨ててまで日英同盟を締結し日本の後ろ盾となったのです。しかしながら日本の戦争目的は朝鮮の安全、ひいては日本本土の安全を確保するというものでした。結果的にはイギリスの権益を守ったという事にもなりましたが、たとえ英国の権益が無くても日本はロシアに対し開戦せざる終えなかったと思われます。但しイギリスとの同盟の存在がが日本にとってこの戦争に踏み切る決断の際大きなウェートを占めた事、またバルチック艦隊の航海を陰に陽に妨害するなど戦局に有利に作用したことは間違い有りません。
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小説ですが”坂の上の雲”(司馬遼太郎)を読まれたらいかがでしょう。
とのことです。(歴史に詳しい家族より。)

日清戦争についてはその様な事は全くありません。日露戦争については多少その側面があったと言えます。というのは当時イギリスは清国領土内に多大な権益を有していましたが義和団事件以後のロシアの満州不法占拠等の露骨な極東に対する侵略的行動により、それらの権益を脅かされていたからです。その為に光栄有る孤立政策を捨ててまで日英同盟を締結し日本の後ろ盾となったのです。しかしながら日本の戦争目的は朝鮮の安全、ひいては日本本土の安全を確保するというものでした。結果的にはイギリスの権益を守った...続きを読む

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カテ違いでしたらすみません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

いつの時代かを言っていただけないと捉えようがないのですが・・・まあ、天皇が象徴と言うことは、現代のこととして答えさせていただきますね。ざっと流れは説明しますが。

立憲君主制を取っています。立憲君主制の最大の特徴は、王が一番上ではなく、法(憲法)が一番上にあるということです。
結局、天皇と一緒です。つまりマスコットです。

13世紀前半、ジョン王の時代ですが、イギリスはフランスにボコボコに負け、大陸領土を全部失った上に、更なる出兵をジョンは企て、課税を強化します。これに怒った諸侯(議会)は、反乱をおこしました。その結果生み出されたのがマグナ・カルタ。これは、王権を制限するものです。その後、ずっと、絶対王政の元であっても議会は機能し続けます。
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王となったのはジェームズ一世。そしてそのあとを継いだのがチャールズ一世。
しかし、スコットランドに数百年の重みを持つ伝統的な議会政治はありませんでした。そのため、彼らは専制政治を行い、革命を勃発させてしまいます。これが清教徒革命です。その結果チャールズは処刑されます。その後しばらくクロムウェル時代が続き、王政復古となるわけですが・・・
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で、これが今現在まで続いているのがイギリス。基本的に権力はありません。

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参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/絶対君主制

いつの時代かを言っていただけないと捉えようがないのですが・・・まあ、天皇が象徴と言うことは、現代のこととして答えさせていただきますね。ざっと流れは説明しますが。

立憲君主制を取っています。立憲君主制の最大の特徴は、王が一番上ではなく、法(憲法)が一番上にあるということです。
結局、天皇と一緒です。つまりマスコットです。

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百年戦争の時代のジャンヌ・ダルクの事ですが。放送大学の面接授業で1430年3月28日付ランス住民宛書簡の署名はジャンヌ・ダルクの自筆と説明されたのですが、ロレーヌ地方の村で親の仕事が農夫の家に生まれた彼女ですが、当時、文字の読み書きの出来る人達は限られていたのでは?代筆の可能性は無いのでしょうか?誰か解られる方、ご教授下さいませんでしょうか?

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>現在残っている、1通目と3通目の手紙は、どの様な、ものだったのでしょうか?
ジャンヌダルクの署名のある手紙は、3通ですが、ジャンヌの口述筆記された原本が6通、その他に手紙の写しなどがかなり残っているようです。
ジャンヌの署名のある手紙として、一番最初のものは、リオン市住民に宛てた手紙で、1429年11月9日ムーランより発した手紙で、現在もリオン町立博物館に保管されているそうです。
内容は、ジャンヌが次の街ラ・シャリテを攻略するにあたり、火薬などの物資が不足しているのでその物資の補給を求める手紙です。
なお、この手紙の中に、女性のものと思われる黒髪が入っていたため、ジャンヌの髪の毛は、黒であったといわれていますが、現在その髪の毛は無くなってしまっているそうです。
2番目が1430年の3月16日ランスの住民にあてた手紙。
内容は、ブルゴーニュ派が攻めてきてもすぐに救援に行くので、ブルゴーニュ派の味方にならないでほしいとの手紙です。
3番目が1430年の3月28日ランスの住民にあてた手紙。
2通目の手紙の返答内容を了解した旨の手紙です。

先の質問回答で、勘違いがありました。
1430年3月28日付ランス住民宛書簡は、3通目でした。
書簡を調べている時、3月16日の書簡の後に、3月23日ジャンヌの書記官パスクレルの署名の文章をジャンヌの署名と勘違いし、フス派にあてた手紙を3通目だと勘違いしたためです。

>現在残っている、1通目と3通目の手紙は、どの様な、ものだったのでしょうか?
ジャンヌダルクの署名のある手紙は、3通ですが、ジャンヌの口述筆記された原本が6通、その他に手紙の写しなどがかなり残っているようです。
ジャンヌの署名のある手紙として、一番最初のものは、リオン市住民に宛てた手紙で、1429年11月9日ムーランより発した手紙で、現在もリオン町立博物館に保管されているそうです。
内容は、ジャンヌが次の街ラ・シャリテを攻略するにあたり、火薬などの物資が不足しているのでその物資の補給を求...続きを読む

Q17世紀のイギリスでクロムウェルの死後王党派が迎えた国王の子って誰ですか?チャールズ一世の子ですか?

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Aベストアンサー

処刑されたチャールズ1世の息子、チャールズ2世です。
母親はフランス王アンリ4世の王女、ヘンリエッタ・マリアです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA2%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)


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