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ポストモダンの終焉またはアンチポストモダンのはじまり
について何かわかりましたら、教えてください。

とりあえず連続テレビ小説(全部見てるわけじゃないけど)から
1999年のあすか  ----ジャム入り大福という斬新なアイデアは老舗の店の顔を
               潰してしまった。
 
2005年の風のハルカ----お祭りの町おこし事業としてのアイデアは住人に迷惑を
               かけてしまった。

この辺の作品にアンチポストモダンの思想性が出ている気がします。
個人的にはアンチポストモダンは経済低迷の要因だと思っていますので、
知っていたら教えてください。

A 回答 (5件)

単に、改良した結果、質が悪くなってしまったり、アイデアは良かったけど考えが足りなかったりとかそういう問題ではないでしょうか?


経済的な面で言えば、多様な価値観を実現するにはよりコストが掛かりますので、コストに見合う質の物ができるかが問題点な気がします。
何でもオーダーメードでなくてもいいと思いますし。
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正義を振りかざす権威主義は人間活動を抑圧することになり 個々人間の自由な創造力を潰していく という 質問者の問いかけは その通りと思います。



例えば 地味な分野ですが 科学分野ではどうでしょうか。20年ほど前ですが ノーベル賞物理学者朝永振一郎が 10次元の超弦理論アイデアが提案された時 こんなものは物理学でも科学でもない ただの陳腐な思いつきだ と言ったのです。なぜなら 観測される次元は4次元時空間であって6次元が使用されてない。使用されない次元(余剰の数式など)がある理論は 物理科学の理論ではない と。物理学の権威が発言するということは 物理科学とは 次元は過不足なく使用されているものか と 多くの科学者は思ったのです。ニュートン以来の伝統に従えば その通りです。しかし 伝統的科学(モダン科学)は 論理学では一つの公理系から出発する一つの系でしかないのです。公理が違えば 違った科学が展開できるのです。案の定 ポストモダン流の発想の理解が進んでいる 欧米ではこの10次元超弦モデルは大いに発展しております。日本では 権威者朝永の発言は 相当 10次元超弦モデルの研究発展を阻害して来たのです。 これはなにも物理学についてだけではなく モダン科学に拠って立つ科学権威者は多いと思います。しかし、科学者も又個々の自由な創造力が期待されるモノと思います。モダン科学ではなく 個々の自由創造力によるポストモダン科学の発展を期待したいのです。

また、質問者は 現代社会の切り口として【もっと表面的で内向きなネガティブな現象の様な気がします。無秩序に対する強制的な秩序を求める事が正義ですあるかのような、劇場的なナショナリズムのお祭りに酔いしれることでバーチャルなリアリズムを栄養ドリンクのようにむさぼるような逃避行動にしか見えないのです。】と評されております。確かに 何か 問題が発生すると 大新聞社などが その分野の権威者などを登場させ 権威者中心の訳知り顔で 解決策を示していきます。もっと多くの個々人の意見が反映されないものか と思う場面は多々あります。ここでも大新聞の権威、各分野の権威者が少なからず個々の意見を抑えているように思います。
民主主義の一つに全員参加の議会があります。インターネットの 社会で 個々人がPCをツールにして全員参加型議会が出来ないものか と思うのです。多数の異なった意見を集約、表示、確認などのソフト開発は必要でしょうが 技術的には 可能とおもうのです。試みに ある小規模の町村で実施できないものでしょうか。ツイッターとか2チャンネルとか TVの内閣支持率の調査などはそのはしりと思います。ポストモダン議会が機能するなら 広域に拡大し、願わくば国まで広げることができないでしょうか。もっと言えば世界まで広げる ということでしょう。

以上 参考になれば 幸甚です。

この回答への補足

補足です。
マーケットは資本を監視する役割をはたすはずですが、天下りの支配する
国営企業はしょうがないとしても、それ以外は本来ならば健全な経済活動
の推進力になるはずです。(つまり、しょうもないプランにより、労働価値
がさがるということをマーケットはゆるさないはず。)

マーケットにかける規制は人権的配慮からくるべきものであるはずが、
国粋主義的規制になってしまったところから、この国のマーケットがおかしく
なってしまったきがします。
デフレギャップはマーケットの把握を怠ったことも原因の一つのような気が
します。

市場が活気が無いのは飽和状態だからと短絡的な分析になってしまったのは、
企業がみるあまりにもの世界市場の大きさに視界がぼやけてしまったからかも
しれません。

一回、踏み絵政策みたいな、何らかのきめ細やかな視点の企業の為の税制対策
なり、規制緩和なり、規制なりで、健全な実質的暖簾分けや横連携だけで、
それなりに持ち直す気がします。

変な形の国粋主義になったらそれこそしぼんじゃいます。

補足日時:2010/11/16 12:44
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
物理化学の発達という側面からのご回答いただきましたが私自身あかるくないので
少々困惑してしまいましたが、しかしどの分野でもいえることなのだろうと、少し
考えの広がりが期待できそうです。

社会的側面からの先進国のデフレギャップ状況からも鑑みるとそこからの考察にも
大いにその価値はあると思います。

なので湯浅さんの様な活動は単なる弱者救済ではにとどまらず、文化、芸術の閉塞感
を打破し、より未来的に推し進める役割にもなる気がするのです。

近代化には人間の自由や人権の獲得は必須であることはやはり間違いないわけですか
ら、その為のテクノロジーや文化の発達であったはずなんですね。

過去の土木分野への再分配は、やはり土木のテクノロジーの飛躍につながり、
医療分野への再分配も同じ結果を見せました。

人間の欲求をのぞまない分野は淘汰されるべきで、欲求する分野に再分配がされれば
必ず人間欲求から、活動がされて、それは外貨を稼ぐほどのテクノロジーの発展につ
ながると思います。

人間の欲求や活動を原点から見直すポストモダンというエッセンスには何か現状の
問題を解決する糸口がある気がしてしまいます。

お礼日時:2010/11/14 16:26

経済低迷の要因/



前提/
>ポストモダン

>社会構成をこどものような、素朴な目で、懐疑的にみたり、批判的にみたりしすることは、
>ただ順応することと、同じぐらい、もしかしたらそれ以上に大切なことかもしれない。

>なぜなら素朴な目っていうのは、人間の基礎的な素朴な欲望とか感性からくるもので、
>だったら、それこそを基本として、社会を構成することが本当じゃないのかな。

序/

「素朴のフリ」というのがありますよ。

「人間」という商品を自分の主観に基づき分類するのがはやっています。

おいらのいけんを無視しない人間
けしからん人間
おいらをコケにした人間
という三つです。

宣伝はやりたいだけやるという生活態度。彼らはコレを、「哲学・思想」とよんでいます。

アンチポストモダン/

テレビ小説がテーマであるようですから導入として提案いたします。

課題/
向田邦子さんが死んだ原因が何かを考えてください。

課題の暫定的回答
原因は、「じじい」の考え出した「しょうもないプラン」です。

主義者たちの
テーマは
金・海外・食べ物(グルメ)・衣服・・・=高利回りプラン「ゆうづる」の頽廃主義(ヘドニズム)です。
形而上の精神的テーマというのは、ストーカーテーマ(愛と利他=愛されるべき自分;俺から逃げる奴はけしからん)です。

甲板船員と兵卒に「突っ込めー」と叫んで喜ぶ非道なやからたちです。テーマを具体的に楽しむのは自分であるというのは当然内緒。

おいらのしつもんにこたえろ!お前らの回答は、俺のドグマで評価してやるという生活です。

公共は利用するもの。金はみんなから巻き上げる。

経済低迷の直接的原因は、創造性の欠如した人達の蔓延。

他人の感性は無視する。おいらは、他人がほしいと思っているもの・他人のやりたいことがわかる。という
おせっかいじじいの激増です。

企画自体が成立しなくなったのです。経済的にあたるのは、じじいにまとをしぼった
偽フルムー◎n商品。 日本のじじいが企画した製品(動物・赤ちゃん・外国)をほしいという健常者は、いません。

イメージの乏しい文化ビンボーの結果です。

特に年嵩のいった男性にいえることですが、
基本的に自分は革新(革命的)いう考えのまま年をとってしまい、自分の信じている者が、「確信」であり、
いい考えなのだから、他も共有するべきであるというという理論を展開する人が多いようです。

当然ドイツ語は出来ないしマルクスを読んだこともない。(ここ大事)
デモマルクス立派な人だったていうwww (だから当然俺様も立派であるていうwww)

浅ましい生き方をする「浅間山荘」世代です。

低迷は能率と生産性の問題です。
その原因は、経済学の名前を隠れ蓑にして、ボルシェヴィズムを展開した
60年・70年代安保世代だと思います。いまでもやってます。その一端がポストモダン批判です。

基本
赤旗の下でデモをしたという事実を隠して、その上社会に「おんぶにだっこ」の癖に
こともあろうに社会批判をする。

無能な人たちは
経済を発展させようという気がないと言い換えたほうがよろしいのではないでしょうか?


問題は利権を持っているものタチがこういった感性を持っているというフリをし始めたことにもあるようです。

外国語第2言語の推移を観察しても、はっきりしています。
日航的不動産利権から、企業支配利権(ホールディング・産業開発組織)への推移です。

ホテル◎航(ドイツ)とルイ◎ィトン(サ◎トリーのフランス葡萄農園でもいいですが)をJetroという組織を中心に比較すると答えが出ます。

日本の資本は着実に海外で権力を拡大しています。

fr4nce Jetr◎の いまの経済政策は、サブカルチャー重視「アニメとコミケ最高」というものです。民衆のフリをする小ざかしい第2世代がいたるところで既に権力を握っています。

ざっと書いてしまったので、補足欄で個別に突っつきを願いできるでしょうか?

この回答への補足

補足です。
海外への資本流出も、財閥資本の利権化もまた、これは「愛国心」という
欺瞞のもとで行われた、一番の失策なのだと思います。

より合理化や、より人間の感性から、創造していかなければならない時代
に、それに逆行したことをしてしまった気がします。

グローバル化は別に資本を海外に流すことではなく、歴史で培った、
人間文化を資本にして、外貨を稼ぐまたは、外国の地を開拓することだと
認識をし直さないと、その一番大切な人間的資本がしぼんでしまい、やがて
魅力を失ってしまう気がします。
国が美しさを失わないようにすることがやはり先決だと思うのですが、
どうなんでしょうか。

補足日時:2010/11/14 16:46
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

権威が芸術や産業、文化を支配するかの様な勘違いが横行していることは
危惧すべきことだと思います。
メディアが攻撃すべき相手は本来それのはずですが、なぜか結託している
印象をうけてしまいます。独法がまたさらにかんでいるとなると哀しいけど
果てしなく根が深いのかもしれません。小林よしのりさんは利用されている
だけの気がします。(はやくきづいてほしい)

なんかいろいろ勘違いしているのだと思います。戦後、公害問題、人権問題、
日本にもいろいろありました。しかし、何がそれらを解決したといったならば
冷静な三権分立の中にある司法という「システム」なのです。決して神風では
ありません。

そのなかで自由を獲得した民衆が文化を発展させていったと考えるのが自然
ではないでしょうか。権威のみが芸術文化を発展させたのではないということ
です。

「海のお巡りさん」だって被害者だと思いますよ。現場で起きた事件は、
会議室で冷静な合議の結果、的確に解決すべきという原点にかえることが必要
だと思います。「お巡りさん」は聖職ですので、イデオロギー活動をしたい
のならば職業をかえるのが筋だと思いますが。職業の自由はありますので。

例え編集されたソースを見たって、ほんまもん(現場)を見られるわけでは、
ありませんから、視聴者の想像力にまかされるわけですから、そんなに意味
ないんですね。違法な画像が流れましたっていう報道の中でどうしてその違法
な画像をマスメディアが繰り返しながすんでしょう。本人はもうとっくに責任
感じて削除した後にも、まだやめないっていう。
これも報道の自由という権威に酔いしれた勘違いの典型かもしれません。
こっちはCGでも模型でも全然構わないんですけどね。

お礼日時:2010/11/11 13:14

この質問に 耐える答えにはならない と思い答えを躊躇しておりましたが質問者さんの補足、お礼 欄から お許し頂けるかもしれない と思い書いております。



私の考えはざっと以下のようなモノです。
モダンとは真理があるとして 真理を求めていくモノとおもいます。とくに産業革命以後 数学、科学技術にうら付けられた産業発展はすばらしいものがあったとおもいます。

ポストモダンは真理はなくただ公理(定義)から出発する系を構築していくモノとおもいます。ポストモダンの出発点は 論理学の限界がゲーデルにより証明されたことです。論理的に公理(1階述語論理まで含め)は証明されないことを厳密に証明し(不完全性定理の証明)、さらに小理論系の完全性定理の公理(ユークリッド幾何学、証明はゲーデルではないが)まで証明されないことが証明されたのです。結局のところ真理はなく各自が勝手に公理系を創造すればよい ということです。この考えは 個人主義の徹底化につながり 相対主義につながります。経済に対して このことが活性化の要因となるのかどうか不明です(経済活性化に反対の者も出てきます、この程度の理解では まともな答案者にはなれないが)が 人間の活性化された社会にはなるとおもいます。問題は 全体のまとめ 例えば 標準化(ルールづくり)運動とかには各自勝手なことを言いマイナス作用することは間違いないでしょう。

このようなポストモダンは廃るとか いうものではなく 論理学の結論を核として延々と続くものであろうとおもいます。ブームになって 又廃れていく ようなモノではないと思います。全く知識がないのですがアンチポストモダンとはモダンを示していると推定します。モダンとするとどうして今時見直されるのか 不思議です。論理学を無視する モノとおもわれます。ご指摘されていますNHKの朝ドラをtextにして観た
ことはありませんが 仮にモダン化の運動として観ることが出来るなら せっかく手にいれたポストモダン
を手放すことになり 問題とおもいます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
論理学の限界がポストモダンの始まりの原因という説はなるほどと思いました。

しかし、やはり私にはこういうエッセンスの様なものは(懐古したいわけじゃな
いので)現代において、必要とされているのではないかと思っているのです。

しかし、また、他方で、必要なルールづくりも求められている気がします。
(そこには不要なルールを冷静に排除するというルールもまた求められいるのだと
も思いますが)

今のアンチポストモダンはモダン化の見直しというよりも、どちらかというと
もっと表面的で内向きなネガティブな現象の様な気がします。
無秩序に対する強制的な秩序を求める事が正義であるかのような、劇場的な
ナショナリズムのお祭りに酔いしれることでバーチャルなリアリズムを
栄養ドリンクのようにむさぼるような逃避行動にしか見えないのです。

問題ですよね。

お礼日時:2010/11/11 12:38

 「ポストモダン」はその思想がでたときにはすでにその批判者はでていました。

というより、いわゆる「ポストモダン」が受け入れられたのはその発信地であるフランスと日本ぐらいのようなものではないでしょうか。分析哲学や論理実証主義が強い英米系でポストモダンという言葉が使われることはほとんどないですし、フランスの一思想潮流というような扱いです。もちろん、20世紀後半とそれ以前の社会に変化があることを認める人は多いのでその社会的な変化についての考察は別の言葉でなされていることはありますが、「ポストモダン」思想の場合、そこに断絶を見、「近代」を解体する運動と化した観があります。
 当然「ポストモダン」と「ポストモダンの終焉」あるいは「アンチポストモダン」という対比構造が成り立つとするならば、ポストモダンをモストモダニズムととらえた場合ですが、やはり上述のように当初から批判はずっとありました。(ただし、「ポストモダン」の思想家と捉えられている、たとえばボードリヤール、フーコー、ドゥルーズ、デリダなどの業績は「ポストモダニスト」以外でももちろん認めており、「ポストモダニズム」のような運動とは切り離して考えるべきだと思います。彼らは自分のことをポストモダニストのように語ったことは一度もありませんし、拒否さえしています。)

 日本の「ポストモダン」思想=現代思想の展開については仲正昌樹『日本の現代思想』を参照なさればよいとおもいます。そこでは、「ポストモダン」がはやらなくなった理由として内在的理由と外在的理由が語れています。内在的理由としては、1.目新しさがなくなったこと2.「ネタ元」のフランスの思想家がなくなったこと3.哲学・思想のトレンドがリベラリズムをベースにした正義論へ移ったこと4.ポストモダンの議論が小さな領域ごとに閉じこもっていったこと があげられています。外在的な理由には質問者様のあげられたようなバブル経済の崩壊に並んでソ連・東欧ブロックの消滅があげられています(逆に資本主義批判が活性化し、資本主義の発展を背景に持つ「現代思想」への風当たりが強くなった)。またこれと同時にかつての「ポストモダニスト」がグローバル化する資本主義に対抗するために左転回していった様子が描かれています。

 質問者様が「ポストモダン」をどのように捉えていらっしゃるのかはわかりませんが、挙げられた連続テレビ小説の例のどのあたりが、「アンチポストモダン」の思想なのかが私にはわかりませんでした。仲正の上述の著作では80年代末頃から現代思想が「流行らなくなった」と述べていますが、私もポストモダン思想が飽きられたのはあのあたりだと思っています。もしかしたら質問者様は、われわれ一般の人々のレベルでの「ポストモダン」的な思想の流行とそれに対するアンチについて語られているのかもしれません。その場合、なにをもって「ポストモダン」というのでしょうか。消費文化、記号消費的なものであれば、いまだにある程度存在していると思います。それに対するアンチは文芸作品の中ではやはり記号消費がでてきたころからあったように思います。というか、それをアンチとしてではなく、肩ひじ張らずに乗ってみせる、流されてみせるのこそが80年代ポストモダンだったのではないでしょうか(『なんとなくクリスタル』や岡崎京子の作品など)。

 非常に長くなってしまって申し訳ありませんが、単なる「新しい思想VS古い思想」ではなく「ポストモダン」と呼ばれる思想に関してご興味をお持ちなら、ポストモダン思想とその展開について書かれた概説書は、特に日本では、多くありますのでぜひなにか一冊手に取られることをお勧めいたします。

この回答への補足

補足です。
実は、このアンチポストモダンこそが、経済低迷の要因だと考えているのです。
これは、内実はただの内向き、既得権益保身思想なのです。

躍進につながることは皆無だと思っています。

グローバル社会の中での先進国の役割は、製造舞台が途上国にアウトソーシング
される中で、より多くのそして多様な、開発企画が必要なのです。

1企業で数開発プロジェクトのだったところを数十倍にチームを増やしていく
ことが必要なのです。

デザイン、設計、開発大国になり、必要があるということです。
そして福祉医療教育部門に再配分する

なので結局は、産業構造は北欧に似てくるということになりますが。

だから結局リオタールなのです。

補足日時:2010/11/05 13:45
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この回答へのお礼

たくさん書いてくださって、ありがとうございます。

私の考えるポストモダンは、とっても簡単なことで、
社会構成をこどものような、素朴な目で、懐疑的にみたり、批判的にみたりしすることは、

ただ順応することと、同じぐらい、もしかしたらそれ以上に大切なことかもしれない。

なぜなら素朴な目っていうのは、人間の基礎的な素朴な欲望とか感性からくるもので、
だったら、それこそを基本として、社会を構成することが本当じゃないのかな。

ざっくりこんな感じにとらえています。

アンチポストモダンの気運があるというのは、実は最近、知ったことなのです。
ですので、今のご時世の「アンチポストモダン的」な気運的なものと捉えております。

お礼日時:2010/11/05 13:29

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