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日露戦争の旅順要塞戦等で使用された28サンチ砲の設置について
 28サンチ砲は元々が要塞砲でありコンクリートの強固な土台に設置されるこ
とが前提の砲でありますが、日露戦争では結構短期間で砲撃可能となっています。
これについて、たぶん20年以上前の軍事総合雑誌「丸」で版築工法(地面を深
く掘り下げたうえ、砂利・土その他補強材を混ぜて入れて「たこ」などで突き固
めて強固な一定の層を作り、これを何度も繰り返して強固な基盤を作る。)
で土台を作って砲を設置して砲撃を行ったが、26tの砲から217Kg砲弾を
撃ち出す衝撃によりある程度砲撃を行うと、土台が変形して砲撃できなくなるの
で、事前に同様の土台を横に作っておいてそこに砲を移動させて設置し、砲撃を
行ったとの記事を読んだ記憶があります。
 しかしながら、「丸」を読んだのがあまりにも以前のため、砲の設置にどのく
らいかかったか、同じ土台で何発ぐらい撃てたか、またどの戦場で行われたか全
く忘れてしまいました。
 お知りの方がおられましたらお教えください。

A 回答 (6件)

もう時間切れだろうけど・・・



短期間の設置は、内地から派遣された設置将校が、木材を用い短期間に実施した・・・

不発弾はベトンに当たらず、土に当たった物が不発で転がってしまった・・・

ロシア艦隊は自沈で、28サンチ砲弾は鉄鋼を貫通出来なかったが、上部構造に火災を発生させ、それを見た日本兵には、さも28サンチ砲で撃沈した様に見えた・・・

だったと記憶してます。
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 こんばんは。



 正直今回のようなお返事をいただけるとは思ってもいなかったので、はたと困ってしまいました(笑)

 このような面識のない者同志のメールのやり取りは、その文章が持つ微妙なニュアンスが届かないかもしれないという欠点もあって、私自身も過去に赤面するようなまた自己嫌悪に陥るような回答をしたこともありました。したがって私自身はあのようなお返事をいただける資格はないのが本音なんです。

 ただ今回のやり取りについては本当にいろいろな意味で勉強になり、喜んでいる次第です。このサイトで少しでも自分に知識があることを答えようとするとき、山積みになった資料やもうとっくに忘れてしまったような歴史的事実を必死に探し出すことが多くあります。

 もともと本好きな私はそのとき至福の時間を過ごすことが出来、ある意味ストレスを発散することが出来るくらいなのです。

 今回のあなたとのやり取りは本当に楽しかったですよ。ゲームのように先の先を読んで回答するような、そんな楽しみを感じたりしました。そういう意味からも、深甚からの感謝を申し上げます。

 そろそろ寒さも本格的になり、ひょっとしたら日露戦争でお互いの国と自己の名誉のために必死になって戦っていた、日露両兵士たちを苦しめたような寒さに(オーバーかつちょっと引用が長くてすみません(^_^;))なるかもしれません。くれぐれもご自愛ください。

 またいつかどこかでお会いで来ることを楽しみにしております。
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この回答へのお礼

 こんばんわ。

 お怒り無きことと心より安堵しております。

 私も本が大好きです。特に歴史物が大好物です。テレビの歴史物特集やドラマもよく見ます。これらの本や番組を見るに当たって、これは虚偽、これは創作と突っ込みを入れて楽しんでいます。そのため自宅は本と資料に埋もれ、知人の大工さんが来たとき「本の重みで家が歪んできている。そのうち扉が閉められなくなるぞ。何とかしろ。」とアドバイスされました。

あ~それでも本はほかせない。何とでもなれと言った心境です。

 しばらくは日露戦争にどっぷりで行こうと思っています。そのため、また貴殿の博識をお借りするかもしれませんがその節はよろしくお願いします。

 温かな文章に感謝までいただき恐悦しています。ありがとうございました。

 今年の冬は本当に寒くなりそうですね。お風邪などめされないようご自愛ください。

 私もいつかどこかでお会いできることを楽しみにしております。

 

 

お礼日時:2010/11/20 01:04

 非常に勉強になるお礼文というか、ご教授をいただき感謝いたします。



 私よりも数段博学な知識をお持ちの方に、浅学振りをただ露呈しただけではないかと赤面しております。

 現代において私たちが入手できる資料というものは数多くかつある意味限られており、知らぬうちに共通の資料を手にしていることや、今まで目にしたこともない資料がこの世に存在していることも考えられますので、あまり知ったかぶりはするものではないと猛省しております。

 日露戦争後に日本陸海軍部において多くの資料が刊行されましたが、現代においてその内容は甚だ眉唾的な、組織の自己保全や自己満足、あるいは自画自賛的な記述が多く見られることが定説となっていますので、その真偽の取捨選択は非常に難しいものがあります。

 もちろんこのことは戦争に限らず、あらゆる歴史的な出来事に当てはまることでは有りますが、たまたま私が所有している資料にそのような記述があることに不覚にも気付かなかったのかもしれません。

 今回は大変得るところがありました。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 揚げ足取りの愚文をもってお礼の文としたことに深くお詫びします。

 アルコールのメートルが上がっていたためまともな推敲もせず自己顕示欲むき出しの下品な作文を送信してしまい、不快なお気持ちにさせてしまいました。
 せっかくのご厚志ある教示に対して、感謝の念のかけらもない自分のお礼文を読んで青くなっています。

 当時の記録原文でさえ、書かれた方の立場によって事実を曲げたと思われるものが多々あります。ましてや、近年に書かれたものなどについては、よくよく調べてから引用すべきであり、私も大いに反省しています。

 重ねてお詫び申し上げるとともに、今後ともご教授頂ければ幸いです。 

 

お礼日時:2010/11/16 18:59

 奉天会戦に駆り出された28サンチ榴6門は他の野砲とともに独立野戦重砲旅団に配属され、満洲軍総司令部直轄となったためその運用は限定的で、緒戦においてロシア軍中央に威嚇的な意味での砲弾を降らせるだけで、それほどの戦果を挙げることは出来ませんでした。



 さて日露戦争中において陸軍砲兵部隊における深刻な問題は、解決の先行きが見えなかった不発弾の問題です。これに関しては軍部内においても早くから深刻な問題と認識しており、前線への調査も行っています。記憶ではあの有坂成章少将が調査に加わっています。

 ではその不発を起こす原因は何であったかといえば、やはり信管そのものの性能にありました。着弾した場所が軟弱で信管が起爆しなかったということはそれほどなかったのではないかと思います。まれに着弾の角度が悪く、弾頭のアール面から落ちて弾き飛ばされ不発になったということがあり、それが奉天での例にもなったのかもしれません。

 28サンチ砲弾が泥で出来た堡塁に着弾しても、その炸裂した破片効果が泥の中でほとんど減殺されて効果がなかったことは知られていますし、冬季に入り地面が凍結して固くなると今度は期待通りの効果が発揮できた記述もあります。

 信管は当時の工業技術から見れば相当にハイレベルな精度を要求される、しかも脆弱なパーツでした。そのため発射のショックで信管そのものが変形破損して起爆しなかった例が多く見られたようです。ただこの問題は当時のどの国の軍隊でも抱えている問題でした。現在においてもその傾向はあまり変わりなく、通常各種弾頭や爆弾などの兵器の不発率を抑えることにどの国の軍隊も苦心しています。

 また起爆薬に使われた火薬が炸薬と同じ粒状黒色火薬であったことも問題で、この黒色火薬が湿気によって起爆しなかったという実例もかなりあったようです。この粒状火薬は砲弾の炸裂においても爆発力不足という問題を呈しており、これは液状火薬に移行するまで解決は出来ませんでした。

 とにもかくにも信管というものは敏感にすれば発射と同時に砲身内部で爆発する、「腔発」を起こしますし、それを恐れるあまり安全度に気を遣いすぎれば今度は不発が多くなるといった具合に、当時の技術者は相当な苦労をしています。

 それでも28サンチ榴の信管は数次に亘って改良され、最終的にはある程度満足できる信管を製作しましたが、これは明治39年に日の目を見ましたので、戦局には寄与していません。

 ロシア軍が日本軍の28サンチ砲弾をリサイクルしたという話ですが、興味深い話ではありますが私は初めて聞きました。たしかにロシア側には同じ口径の11インチ砲がありましたが(陸側の重砲としては6インチ臼・加農砲が最大だったと思います)、これは全て海岸砲として海正面を向いていました。もっとも旋回は可能でしたので、陸側への攻撃も出来るはずですが、しかし砲弾のリサイクルということはまず不可能だったのではないかと考えます。

 砲弾はいかに堅牢に出来ていたとしても、また着弾地点の状況が軟弱だったとしても、着弾の時点で相当の変形を免れません。仮に無傷の弾頭が入手できたとしても、当時「銅帯」と呼ばれている、砲身のライフリングに嵌合する帯状のバンドの消耗が問題です。これは発射時点でほとんど消耗していますので、再発射できたとしてもどこへ飛んでいくのか分かりませんし、横弾も考えられます。

 さらに発射薬嚢や新たな信管の問題もありますし(砲弾に欠乏したからリサイクルのするのなら、発射薬嚢もすでに欠乏していると考えます)、なんといっても同じ28センチ口径であっても、日露双方の規格や製造精度に差があるはずですので、きっちりと同じ口径であると考えるのも無理があります。

 また不発弾を並べるという記述も疑問です。不発弾は着弾の時点の姿勢で不発であるのが、不用意に動かしたために暴発することが十分に考えられます。そのような危険を冒してまで安全確保のためにといって、不発弾を掘り起こすことはちょっと考えられません。

 不発弾の比率ですが、これには確たる数字は見たことはありません。ただ旅順戦の後に旅順港のロシア軍艦における28サンチ榴の効果を調査した資料があります。

 それによれば戦艦ペレスウェートに命中した28サンチ弾の27発のうち、11発が不発で2発がスキップ(弾き飛ばされた)、残りが炸裂したということでした。これは前述の有坂少将の調査において、前線兵士たちが砲弾の不発は半分もあると具申したという記述に符合します。

 ついでに28サンチ砲台の即製ですが、当時のローマンセメントからポルトランドセメントへの移行が大きかったことを付記します
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この回答へのお礼

 高度な知識をご教授頂頂ありがとうございます。

 私は不学のため、明治時代の文語体で漢字カタカナ交じりの文章を読んでも大まかな内容もなかなか理解できず、往々にして投げ出してしまっています。おのずと原文を読んだとする記録に頼っており、誇張や作文を事実として認識していたのかもしれません。ついては、以下に書きます内容で、御納得いただけ無い部分については無知故のこととお許しください。

 日本軍の砲弾の少なくとも三分の一は不発弾になったと思われます。よってロシア側堡塁・トーチカの周辺には多数の不発弾によって一種の地雷原になったと推測できます。これらの砲弾の内、炸裂すれば要塞守備兵・輸送兵・街側から増援のため移動する兵に危害が及びそうな不発弾についてはやはり撤去し、出来れば信管を外して安全な場所に移動する必要があったと思います。加えて、日露両国ともドイツのクルップ社等から購入したものやコピーで、信管の取り外しは比較的容易であり、安全が確保できる地にまとめて保管することは容易であったと思われます。

 また、旅順要塞戦では、死傷者収容のため結構長時間の一時停戦が何回か行われ、ロシア側は、負傷者の後送・兵士の交代・砲弾の補充などの作業とともに、不発弾を慎重に回収することができたと考えられます。 28サンチ砲の弾体は、非常に固く着弾速度も遅く変形しにくいと推測され、打ち込まれた砲弾数も相当数有ったため、破損程度低い砲弾を選別し確保はそんなに難しくなかったと推測できます。

28サンチ砲は日本がクルップ社のものをイタリアがコピーしたものの孫コピーで、ロシアのものはクルップ社製となっています。両方の違いがライフリングが逆であるほかはほば同じであったとのことでした。多分日本軍砲弾の性能を調査する際、加工すれば自軍の28サンチ砲から発射可能であることに気がついたと思われます。加工については、旅順要塞内には、銃砲の修理を行う工場が有ったため、砲弾の修理(「銅帯」の取り替えなど)は可能だったと思われます。

 日本陣地に着弾した砲弾の破片に「大阪砲兵工廠」の文字が鋳込まれていたとの記録があります。
また、要塞引き渡しに際して、奈良少佐が要塞引き渡し委員長のベイリー少将から「黄金山の28サンチ砲から打ち返したが不発弾はなかった。」との話を聞き、接収委員として黄金山に行ってみると整備された日本製砲弾が山と積まれていたとの記録もあります。

ウイッキーペ゜ディアの「28糎砲」に同砲弾の不発弾にロシア軍が47mm速射砲用の信管を付けて撃ち返して来た珍事まで起きているとの記載があります。根拠の無いものをウイキーペディアに載せられることはあまりないと思います。

 とはいえ、そんなに多くの砲弾が撃ち返されたとは思えません。ロシア人技師将校の研究結果の確認と、自軍の士気を高めるため「日本軍が撃ってきた砲弾をそのまま撃ち返し、奴らを吹き飛ばして、度肝を抜かしてやろう。痛快ではないか。」というお茶目心ではなかったかと思います。ですので、精密な射撃精度や大きな効果は期待していなかったのではないでしょうか

当時の砲は、加工精度の低さから0.5mm未満の砲弾直径バラツキは許容範囲内ではなかったかと思われます。

 私の知識は上記の通りですが、当時の記録を読んだものではなく他の方の書き物ですので、創作が含まれているかもしれませんがその節はお許しいただきますようお願いします。

 ポルトランドセメントは、幕末期には輸入されており明治8年には国内生産も始まっています。28糎砲は明治20年より製造されていますのでポルトランドセメントを三軍の参謀たちが知っていてもおかしくないと思いますが、陸軍ではコンクリートで砲床を固める重砲の経験が無く、古い技術書をもとに設置に期間がかかると判断したと言うころでしょうか。

 貴殿の砲弾に関する知識においては、私は足下には及びません。ありがとうございました。

お礼日時:2010/11/16 00:05

 こんにちは。


 お礼の返事を戴きありがとうございました。

 さて28サンチ榴について他に何かあるかということですが、あなたの質問内容を見るにつれ多分に重複するところがあるかと思いますが、思いつくままに書いてみますので、既知の内容があった場合はご笑読ください。

 ではまず28サンチ榴のサンチですが、軍部内においてこのサンチの表記が当時は「珊」と「糎」の二文字を混用していましたが、大正に入って「糎」に統一されたということです。

 28サンチ榴の砲弾は艦船攻撃用の破甲榴弾でしたが、これも軍部では「堅鉄弾」と呼称されていました。その初速は秒速315mで極めて遅かったため、旅順において砲兵たちは飛翔していく砲弾の弾道を目で確認しながら照準補正できたので、その実用性は極めてよかったということです。

 また砲弾はあたかも旅順要塞の胸壁を破壊することを目的としていたようなイメージもあるのですが、その目標はほとんどが比較的厚みの薄い掩蓋部を狙っていたということですので、これも曲射砲的な弾道性能を持つ28サンチ榴にはうってつけだったようですね。

 また旅順攻撃の終盤にはさすがに多数の砲弾を発射したため、砲のライフリングが磨耗して命中率が悪くなることを懸念した参謀本部は、次に来るであろう北面満州の奉天会戦に流用しようとする案が出たのですが、当たらぬ砲を使用するのは如何なものかとそれに反対する若手参謀との間で喧々諤々の論議が起こっています。

 また旅順港内に停泊していたロシア軍艦に対する28サンチ榴の効果のほどですが、一般にとてつもない戦果を挙げたかのように喧伝されていることもありますが、実際旅順港を戦闘後調査した日本軍によれば、そのほとんどが後に引き揚げて再利用しようと画策したロシア側による自沈だったということです。

 以上、もし一つでも初めてお知りになったものがあれば幸いです。

 
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この回答へのお礼

 早速のご教授ありがとうございます。

 サンチが明治時代には「珊」とも表記されていたことも、奉天会戦にライフリングが摩耗した28サンチ砲を流用しようとする案が出て喧々諤々の論議があったことも知りませんでした。勉強になりました。

 当時の砲撃時の写真の多くも大きな仰角を取っていましたし、飛翔する弾体と思われるものが写っているものもあり、弾道の目視は可能と思っておりましたが、実際に弾道を目で確認しながら照準を補正していたとの記録は見たことが無く、自己納得させて頂きました。

 ありがとうございます。

 28サンチ砲は旅順のほか奉天会戦でも使用されており、威風堂々たる姿形や、大地を揺るがす発射音・飛翔音・着弾に伴う炸裂音と飛び散る土砂に前線の将兵たちは感涙にむせんだとの記録があります。
 他方203高地においては柔らかな地面のため不発弾となりただ刺さるのみであまり効果がなかった。ロシア軍が不発弾を集めて信管を付け替え自軍の同口径砲から日本軍を砲撃した。奉天の固く凍った大地に跳ね返されて転がり不発弾となったため効果が少なかった。などです。

 旅順ではベトンを打ち抜き弾薬庫を爆砕させるなど相応の効果は有ったと思いますが、あまりにも不発弾との記録が多すぎるように思います。これは、砲弾が対艦専用だったため、着弾地が柔らかすぎても固すぎても信管が作動しなかった。
備蓄されていた砲弾は、製造された当時の信管作動確率がその程度だった。
初めての近代大砲撃戦で一日に数万発の砲弾が発射され、着弾した不発弾をロシア軍が安全確保のため回収して几帳面に並べて保管したので、それを見た日本軍将校たちが不発弾が多かっと感じただけで、当時の不発弾比率はそんなものだった。
または、私の記憶には有りませんが、28サンチ砲弾の備蓄分を使い尽くし、開戦後に急造されたたため、日本軍の他の急造砲弾同様に不発弾の比率が増えた。

 不発弾の比率を調査した資料も見当たらず、上記のどれを是とすべきかわからず、この辺で私の思考は固まっています。貴殿が良き知識をお持ちでしたら重ねてのご教授をお願いします。

お礼日時:2010/11/09 01:53

 まず28サンチ榴弾砲の配備状況ですが、当時旅順へは三次にわたって各6門ずつの計18門が送り込まれていますが、そのうちの第一次分、鎮海湾向けの要塞砲であった6門はそれぞれ王家旬子・團山子・鄧家屯諸砲台へ2門ずつ配備されています。



 第二次分、これも鎮海湾向け要塞砲6門と第三次分、対馬向け要塞砲6門の計12門は、碾盤溝・石板溝・叢家荀子南方高地へそれぞれ4門ずつが配備されています。

 次に砲の設置期間に関してですが、これは当時28サンチ榴を旅順に送る時点ではその運搬据付に3週間から最高2ヶ月は要するだろうという観測が出ていましたが、資料によれば「砲床構築班長であった横田譲砲兵大尉の努力もあって、9月14日達子房身に到着した第一次分が同月22日には早くも発射準備整頓した」とありますので、設置は9日で済んだということになります。

 これが最初の運搬据付事例ということになりますので、この後の据付は作業を重ねるごとに要員の習熟もあり、期間が短くなることはあっても長くなることはなかったのではないでしょうか。ただし据付における最大の問題は、基礎工事の最大の重要工程であったべトン(コンクリート)の乾燥時間でしたので、28サンチ榴の配備が東京の大本営で決定された時点で、現地における据付工事があらかじめ開始されていた可能性も無きにしも非ずですが、これに関しては確証や資料はありませんので、単なる私の推測としてお読みください。

 砲台の発射耐用数に関してですが、据えつけた砲台が発射の衝撃によって疲弊し、砲台を変えなければなかったという話は浅学ながら聞いたことがありません。砲身命数ならそれなりの資料があるのですが、砲台に関してのそれには残念ながら明確な回答をすることは出来ません。

 ただ、この28サンチ榴は当時の軍事の世界では駐退機もしくは砲身後坐機とも呼ばれるシステムがまだ完成していなかった時点でも、それなりに完成度の高い砲身後退システムを備えていましたので、砲台に対するストレスは思ったほど強烈なものではなかったのではと推測しています。

 さらに砲台の基礎工事において、べトンや砂利などの基本的な土木工法とともに、大ぶりの角材を敷き詰めていたという記述に注目する必要もあるかと思います。これは推測ではありますが現代の車でいうショックアブソーバーやダンパーといった役割を持たせるためのものではなかったかと思われます。

 ということで個人的意見ではありますが、私は旅順において戦闘中の砲台の更新はなかったのではないかと考えます。

 蛇足ではありますが、旅順戦における28サンチ榴の発射弾数は1万9640発に及んでいますので、仮に同じ砲台を最後までそのまま使ったとするならば、19640発÷18門の数字分、砲台はその発射に耐えたということになるかもしれません。(ちょっといい加減な計算ですので、真に受けないでください(笑))
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この回答へのお礼

 お礼が大変後れすいません。

 多分私の記憶違いで、砲台の強度を高めるためと建設に使用するコンクリートを減らし乾燥・硬化を早めるための措置を記したものだったかもしれません。後に関東軍が28サンチ砲を気動車で牽引して移動させ砲撃することに成功したとの記録もありましたし、貴殿の述べられたとおり砲身が砲座上部ごと傾斜レールを登らせる後退システムも当時ちゃんと機能してました。砲弾の初速も非常に低速で砲台基礎部にかかる衝撃は私が思っていたより低いものかもしれません。

 ありがとうございました。

 追伸
 28サンチ砲に関する情報の中に神話的なものと否定的なものがあります。私の当初の質問以外でもお知りのことがありましたら、ご教授頂ければ幸いです。

お礼日時:2010/11/07 03:57

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