人気マンガがだれでも無料♪電子コミック読み放題!!

白村江の戦いの後新羅唐連合軍が日本に進駐占領したと
考えられませんか?
天武天皇こそ新羅人の占領軍司令官であったと思います。
それで天皇家の菩提寺に天武系の天皇が祭られていない
理由がつくのでは。
すなわち万世一系の天皇家は嘘っぱちと思われませんか。

ちなみに私は韓国人ではありません。

A 回答 (6件)

  まあ、余りにも常識的な疑問は普通の人は持たないものですがね。


  『当時同時通訳がいたか疑問』という意味のご感想を質問者のお方はお持ちのようですが、当時の日本人で百済語を理解出来た「吉備海部直羽嶋」は、十分に『同時通訳』は出来たと思いますよ。
 
  一番下に、マスター(修士課程)の学生さんの『古代日本での言語接触』という論文のURLを上げておきます。参考になりますよ。


  現代の朝鮮語と日本語は、まったく異なる言語で『通訳なしでは会話』はできませんが、私の知人のフランス人は、スペイン人と日本人の通訳を苦も無く行います。その方は『元々同じ言語だから、少し勉強すればスペイン語は分かる』そうです。 この方、言語学者でも先生でもありません。その理由は、言語的に近く、分岐してから2000年も経っていないからのようです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question … 

 日本語と琉球語の分岐が、1700年ですから、その近さが分かりますね。

 ちなみに朝鮮語と日本語は4000年前~1万年程前に分かれたようですから『通訳』は絶対必要でしょう。

 ちなみに、私は日本人ですが、歯並びが悪いので、顎の骨の狭い縄文人の遺伝子と歯の大きな弥生人の遺伝子を持った典型的な日本人だと思います。

  ++++++++++++++++++++++++++++++++
 東洋の歴史学では、朝鮮の歴史書と日本の歴史書と、外せないのは中国の歴史書や史料が揃わないと『本物』とは認められないようです。 しかし、デモシカ本は面白ければ良いし、個人の歴史家は考えること、そのものが、楽しいので、私は『本人が楽しければ良い』と思います。
  +++++++++++++++++++++++++++++++
  歴史は楽しいですね。  

参考URL:http://nihongo.human.metro-u.ac.jp/~long/longzem …
    • good
    • 0

わたしは、天武天皇は新羅軍人の金多遂


もしくは、金春秋や金庾信の近親者(例えば弟)ではないかと思っいます。

金春秋か金庾信の弟であれば、天武天皇が「大皇弟」と呼ばれていたこととも、辻褄が合いますし。

(あと、占領司令官は確か郭務宗だったかと)

ただ、このサイトは歴史愛好家のサイトではありませんので、
こうしたマニアックなご質問は、あまり向いていません。

がんばって、探究を進めてください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2010/11/02 21:58

泉涌寺に祀られていないのは、天武系天皇だけなのかを確認すべきだと思います。


逆に天智系ではあるものの天皇でない人物が祀られていたりしないでしょうか。

なお、別のご質問で話題となっていた天智・天武兄弟の年齢についてですが、天智は『日本書紀』の生年を採用し、天武は『日本書記』の没年と『一代要記』『本朝皇胤紹運録』の没年齢を採っていたようですが、『一代要記』などにも天智の没年齢が記載されていたはずです。それらの史料では彼らの生年が逆転などしていなかったように思います。年齢の比較をするならまずは同一の史料を用いるべきでしょう。
思いこみを前提に、異なる史料の都合のいい部分だけを組み合わせて解釈する手法は、真実を見落とす危険なものです。その陥穽に落ちないようご注意された方がよろしいかと。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

おっしゃるとうりです。

お礼日時:2010/11/02 22:02

 日本に新羅唐連合軍が進駐したら両国の歴史に大々的に記録された筈です。



 日本側の記録は仮に隠蔽できたとしても、中朝の記録が隠蔽される必要性は全くありません。つまり、駐屯などしなかったというのが真実でしょう。

 なお、白村江の戦い後も朝鮮半島内での動乱は続いていましたから、日本へ駐屯する余裕は両国には有りません。

 また、天武天皇の政策は過剰に唐の脅威を叫ぶ事で、国内を統制し倭国から日本国への転換となっりました。
 そもそも、天武天皇って唐との国交を断絶した人ですよ…。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

確かにそのとうりです。

お礼日時:2010/11/02 22:01

そもそも「天皇家の菩提寺」って, どこのことをさしている?


ちなみに「日本書紀を朝鮮語読み」することは, (少なくとも) 現時点では不可能です. なにしろ「当時の朝鮮語」が全くと言っていいほどわかっていないので....
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そのまま検索してみてください。泉にゅう寺という京都のお寺です。

お礼日時:2010/11/01 23:02

白村江の戦い以前から、日本では朝廷・貴族・豪族等の支配階級は渡来人でした。


聖徳太子は日本語を喋っていないのです。
遣隋使・遣唐使、よく言葉が通じたな・・通じるわけです、同じ言葉を喋っていたのですから。
鑑真和上も通訳なしでよく日本に来られたな・・日本の支配階級は渡来人ですから言葉は通じます。

日本書紀を朝鮮語読みすると朝廷内の醜い権力闘争の話になるそうですよ。

万世一系の外来人ですよ。
ちなみに私も日本人です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

当時同時通訳がいたのかと疑問でした。

お礼日時:2010/11/01 23:07

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q白村江の戦いについて

 気になったので質問します。
 白村江の敗戦で当時の日本は瀬戸内地方に多数の城郭を築き唐の侵攻に備えていたといいますが、すんなりとわずか兵力二千ほどの唐の軍隊を受け入れたように書かれています。また、何故か唐の進駐軍は九州の大宰府までしか来なかったとも書かれています。日本が唐に降伏していたのだとすると、なぜ当時の首都である大津京に進駐軍は来なかったのでしょうか。
 日本よりもずっと長い戦乱の歴史がある中国がてぬるい戦後処理をしたとは思えないのですが。
 どうしてなのか教えてください。

Aベストアンサー

要員2000、兵力としてはあまりに少なく使者にしてはあまりに多い。
その資料が誇大表現である可能性が高いですが、あえて解釈すれば自国の海軍力(軍船)を見せつける威力外交でしょう。
今後朝鮮半島に要らぬ領土的な野心をもたせないように唐が船団を見せつけに来たのかもしれません。

Q南九州にいた隼人について

勇猛果敢な薩摩隼人などその血を引いていることを
誇る言葉がある、「隼人」とはどういう人々で
しょうか?
全くの無知なのですが、蝦夷やアイヌ民族のような
大和民族とは違う異民族なのでしょうか?
それとも民族的には同じで大和朝廷に制圧される
前に国を持っていた人々でしょうか?
他にも文化、歴史などなんでもご教授ください。
質問文の中にも多々おかしなところもあるかもしれません
がお許し下さい。宜しくお願いいたします

Aベストアンサー

 「隼人」とは本来男女の別なく古代の南九州の住民につけられた呼称であり、呪術的な能力に長けていると見なされたことから、5世紀頃から朝廷の間近に仕えたともされます。隼人の呼称は7世紀後半頃から見られそれ以前には「熊襲」が南九州一帯にいたとされます。

 後に編纂された「風土記」では地名として好字二字を当てるルールがあったにもかかわらず、熊襲や土蜘蛛など良くない印象を与える呼称が与えられたのは、やはり中央に対立する勢力があったのだろうと思います。熊襲の支配地域がどこにあったかという説はいろいろありますが、津田左右吉が唱える球磨と曽於を結びつける説には、両地域に実際に行ってみて、私も個人的には抵抗があります。

 熊襲以降波状に加えられた中央政権からの軍事行動によりこの地域の中央政権への従属度は強まっていきます。具体的には筑紫の太宰や日向の国を通じての朝貢やさまざまな交流があったようです。

 7世紀までは隼人は大隅の隼人と阿多(今の加世田市・金峰町の万瀬川河口付近か)隼人と大別されていましたが8世紀になると統一した隼人の呼称が定着します。

 「隼人」の呼び名は古事記や日本書紀で見られますが、万葉集では一部「早人」の表記もあります。江戸時代の国文学者本居宣長によれば「隼人」の呼称の由来はその敏捷性や勇猛果敢さにあるとされますが、他にも地名説、「囃し人」説、「吠人(はいと)」説、中国古来の「四神思想」の「鳥隼」がもとになるとの説もあります。

 なお現在の姶良郡隼人町ですが昭和4年に西国分村から改名した名前であり、昨今の市町村合併のあおりを受け消えゆく運命にあるようです。
http://www2.airachuou-gappei.jp/

 12世紀になると、源氏の直系とされる惟宗忠久(島津忠久)が南九州の支配を任じられるようになります。隼人の名はこの地の勇猛果敢な武士の代名詞としてその名を広く知らしめるようになりますが、明治維新や西南戦争を経てそのイメージは十分に摩耗したような気もします。

>大和民族とは違う異民族なのでしょうか?

 これを考える上では民族とはなにか、と言う定義をはっきりさせる必要があります。私見ですが、民族とは、言語をはじめとする共通な文化のもと、地縁や血縁などを通じて同じグループに属するという共感を持つ集団であるとするなら、熊襲のころは別民族ではなかったのかという気もします。さすがに中央政権の支配を受け入れるようになってからは同一の民族意識のもと、日本の一地方を構成していったものと想像します。

 例えば漢民族などどんどんその限界を広げていき歴史的には東夷北荻と呼ばれた人たちもいつの間にか漢民族を名乗るようになったことを考えると、異民族であったかどうかなどはあまり問題にはならないのでは、などと考えたりします。

 ホモサピエンスが日本付近に到達したのは早くても数万年前のはずで、弥生時代には明確に「日本人」が確立していたとの記事を下記サイトなどで読むと、隼人とそれ以外の地域に住む日本人との間の身体的差異はなかったものと思います。
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/D/dna-11.html


 以上は、全くの私見でフリーハンド書いていますので自信なしとしますが、興味がおありなら参考書籍も読んでみて下さい。多少読みにくいかもしれませんがおもしろいのはおもしろいです。

参考:「隼人の古代史」中村明蔵著(平凡社新書#119)

 「隼人」とは本来男女の別なく古代の南九州の住民につけられた呼称であり、呪術的な能力に長けていると見なされたことから、5世紀頃から朝廷の間近に仕えたともされます。隼人の呼称は7世紀後半頃から見られそれ以前には「熊襲」が南九州一帯にいたとされます。

 後に編纂された「風土記」では地名として好字二字を当てるルールがあったにもかかわらず、熊襲や土蜘蛛など良くない印象を与える呼称が与えられたのは、やはり中央に対立する勢力があったのだろうと思います。熊襲の支配地域がどこにあったかと...続きを読む

Q天皇家・藤原氏・蘇我氏の出自について

私はよくインターネット等で天智天皇は百済の王子の翹岐王だったとか
蘇我氏は名前が渡来系っぽいから百済人や藤原鎌足は豊璋だとか言っている人を見ます
そこで疑問があります。

まず、いくら王子だからとはいえ日本の属国であった百済の人間が
まして国外追放されて亡命してきた翹岐王や人質としてやって来た豊璋のような人間たちが
頑張ったとしても、朝献をする国の外国人が日本のトップである天皇や
その側近に成れるものなんでしょうか?
名前を隠して入れ替わろうにも周りも馬鹿じゃないんだからバレて入れ替われないでしょうし
普通は周りの人間が大反対してそんな地位にはなれないんじゃないでしょうか?

倭が391年以来、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった。 (広開土王碑)
新羅百済は倭を大国と崇めた (隋書81巻東夷倭国)
新羅の4代目国王の昔脱解は日本人 (三国史記 新羅本記)
百済の王が王子を人質として倭国に送る (三国史記 百済本紀)
新羅は倭国に奈勿王の子未斯欣王子を人質に送る。 (三国史記 新羅本紀)

Aベストアンサー

『日本後紀』延暦二十三年四月二十七日条の和朝臣家麻呂薨伝に、「蕃人入相府、自此始焉」(渡来系の人として公卿になったのは、家麻呂が最初である)とあります。
桓武天皇の母方のコネで、渡来系氏族からようやく中納言や大納言に昇ることができたわけです。

ましてや律令制以前の世襲的に職掌の継承が行われる時代であれば、渡来人は差別を受けて、高官に昇ることはほぼ無理です。マエツキミ(のちの参議にあたる議政官)クラスでも、秦河勝ら数例しかありません。彼らは、基本的には技術官僚として貴族層に搾取される側の人間でした。
外国人が天皇に成り代わるなんてのは不可能です。

インターネットでそういったトンデモ説をご覧になり、疑問を持たれたとのことですが、みんなが皆、疑いを持つとはかぎりません。高校の日本史ですらまともに勉強してこなかった人や、おもしろければなんでもいい人、思想的に偏っている人など、さまざまな人たちがいます。

そういった、インターネットで見かけただけで、あっさり洗脳されてしまいそうな人もいるのですから、教えて!gooのようにネット検索の上位にヒットする場でこのような質問をされるのは控えていただけないでしょうか。
知らずに一生を終えるであろう人にまで興味を持たれて、トンデモ説が広まってしまいます。
無視が一番です。

『日本後紀』延暦二十三年四月二十七日条の和朝臣家麻呂薨伝に、「蕃人入相府、自此始焉」(渡来系の人として公卿になったのは、家麻呂が最初である)とあります。
桓武天皇の母方のコネで、渡来系氏族からようやく中納言や大納言に昇ることができたわけです。

ましてや律令制以前の世襲的に職掌の継承が行われる時代であれば、渡来人は差別を受けて、高官に昇ることはほぼ無理です。マエツキミ(のちの参議にあたる議政官)クラスでも、秦河勝ら数例しかありません。彼らは、基本的には技術官僚として貴族層に搾...続きを読む

Q日本のミサイル防衛にTHAADが無いのは何故?

【ワシントン共同】米陸軍当局者は26日、米領グアムに配備した高性能の地上発射型迎撃システム「高高度防衛ミサイル」(THAAD)が完全な稼働状態に入ったことを明らかにした。との報道です。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130427/amr13042709290001-n1.htm
一方日本の場合イージス艦から発射するミサイルとPAC3でTHAADはありません。
日本の場合THAADは無くても良いのですか?


 

Aベストアンサー

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km にある化学圏) に突入してきた最終段階での弾道弾を撃墜する Missile です。

一方、日本が Aegis 艦に搭載している SM3 (Standard Missile 3) 161B Block IA は射程 400km、射高 250km で、先端部が Kinetic 弾頭と呼ばれる高機動弾頭になっているように、空気のない大気圏外での超高速運動能力を持たせたものとなっていて、THAAD よりも高性能な Missile になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=Clny6teU5ik&feature=youtu.be

最初に海上自衛隊に配備された「こんごう」の SM3 161B Block IA は高度 160km を飛行する模擬弾道弾の直撃撃墜に成功していますし、現在は日米共同開発になる Block IIA の地上試験を終えて来年に飛行試験、2018 年には現在の Block IA を Block IIA に置き換える予定になっています。

http://www.youtube.com/watch?v=A6CIu9fRk3k

地上発射型で射程が 200km しかない THAAD では幅数百km 長さ 2000km 余りの日本列島に数十基の発射機を配置しなければならず、何時 Terrorism だの過激な反対運動の前に壊されるか判ったものではないのに比べ、SM3 は部外者など近付けない Aegis 艦の中にありますし、相手国の Missle 発射機から 400km 以内の海域に派遣すれば 1 隻で事足ります。

相手国が日本に向けて発射する Missile の Course は決まっていますので、日本列島近海に配置する Aegis 艦の数も数隻あればよく、既に海上自衛隊は上記「こんごう」型 Aegis DDG (Missile 護衛艦) を 4 隻、次級の「あたご」型 Aegis DDG を 3 隻運用していますので、2~3 隻が定期整備中であっても常時 4~5 隻は緊急配備に就くことができるようになっています。

>日本の場合THAADは無くても良いのですか?

はい、必要ありません。

THAAD (Terminal High Altitude Area Defense) Missile は射程 200km、射高 40km~150km の地上発射型迎撃 Missile で、High Altitude Area Defense (高高度域防御) の部分だけを見て ICBM (Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道弾) をその頂点付近の宇宙空間で迎撃するかのように誤解されがちですが、Terminal (末端の/終末の) のいう言葉が示すように、目標に向かって高度を下げて大気圏 (成層圏よりも上の 40km~150km ...続きを読む

Q古代朝鮮半島で「創氏改名」?

日朝の歴史をみていると古代の朝鮮半島の国々では王族や僧侶を除き、どうも今の韓国・北朝鮮の人とは名前のツクリが違っている人が多いようです。
例えば、高句麗の乙支文徳(ウルチムンドク)将軍や淵蓋蘇文(ヨンチソムン)・百済の阿直岐(アキチ)..
現代のような、金正日(キムジョンイル)や盧武鉉(ノムヒョン)とは、根本的に違うナニカを感じます。

これは過去の半島の歴史の中で、今で言う「創氏改名」が行われたことを指しているのでしょうか?
だとしたら、
それは自主的なもの?強制的なもの?(誰によって?)でしょうか?
そして、それは何時頃でしょうか?
「創氏改名」に対する反対運動や民衆の反発は無かったのでしょうか?
現代の当地の教科書では、そのへんの事情はどのように説明しているのでしょうか?

日本による「創氏改名」問題が話題になったので、ちょっとギモンに感じました。

Aベストアンサー

同じ朝鮮半島でも、『新羅』と『高句麗』・『百済』とでは、状況が少し違うように思います。

新羅は、高句麗と百済に挟み撃ちされる形で、常にどちらかの国から攻撃を受ける位置にあったために、『遠交近攻策』により『隋』・『唐』と接近したことから、高句麗や百済と比べると、早い時期から『金春秋』というような中国風の名前が使われています。

648年に新羅の眞徳女王が金春秋(後の太宗武烈王)を唐に遣わし百済攻撃のための軍事援助を受け、翌649年には唐の制度を導入していますが、とどめを刺したのは、太宗武烈王による徹底した唐の制度や文化の受容ではないかと思います。
唐のご機嫌を取るためとはいえ、この太宗武烈王による新羅の唐化は相当に徹底していたようで、結婚の形態までもが唐化しています。この頃までは、従兄妹同士等の近親婚がごく普通に行われていた新羅ですが、これ以降、従兄妹同士の結婚を禽獣以下として蔑むようになります。(従兄妹同士の結婚を禽獣以下とするのは、中国人の儒教的文化です。)

その唐化した新羅が唐との連合により、百済・高句麗を滅ぼして半島を統一したことで、旧百済・旧高句麗でも唐風の名前を使わざるを得なくなっていったのではないかと思います。

>それは自主的なもの?強制的なもの?(誰によって?)でしょうか?

新羅においては、唐のご機嫌をとるための、歴代の王自ら率先しての自発的なもの、百済・高句麗においては、支配者となった新羅による強制でしょう。

>そして、それは何時頃でしょうか?

6~7世紀。ちょうど、乙支文徳や淵蓋蘇文と同時代です。

>「創氏改名」に対する反対運動や民衆の反発は無かったのでしょうか?

新羅においては、国の存亡がかかっていますから、王自ら率先すれば、さほどの反対は無かったかと・・・。
百済・高句麗においては支配者である新羅に逆らえば、殺されるだけだったでしょう。

同じ朝鮮半島でも、『新羅』と『高句麗』・『百済』とでは、状況が少し違うように思います。

新羅は、高句麗と百済に挟み撃ちされる形で、常にどちらかの国から攻撃を受ける位置にあったために、『遠交近攻策』により『隋』・『唐』と接近したことから、高句麗や百済と比べると、早い時期から『金春秋』というような中国風の名前が使われています。

648年に新羅の眞徳女王が金春秋(後の太宗武烈王)を唐に遣わし百済攻撃のための軍事援助を受け、翌649年には唐の制度を導入していますが、とどめを刺したの...続きを読む

Q白村江後の遣唐使

663の白村江の戦いの敗戦後、僅か2年後の665に第5回遣唐使が派遣されていますが、大唐帝国としては生意気のも楯突いた小国の使節を、なぜ受け入れているのでしょう。唐を取り巻く諸々の対立関係等で説明されることがあるようですが、今ひとつ釈然としません。どなたかよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

百済の滅亡により多くの百済人が日本にやってきて重職につきます。
彼らの目的は新羅を倒して朝鮮に帰国したいと言う希望があります。
それでは朝鮮半島の情勢はと言えば、668年高句麗が滅び新羅が半島を統一すると、共通の敵がいなくなった唐と新羅は別の目論見を持ちます。
新羅は中国の影響力を脱して完全に独立したいと思い、唐は新羅を完全に属国にしたいと考える。
こうした情勢を読んだ天智天皇と取り巻きの百済難民は唐と誼を通じて新羅に圧力をかけつずけ、あわよくば再度海を渡って新羅を滅ぼそうと考えます。
勿論唐も日本に対して新羅挟撃を提案します。
その為、今までの唐に対する対立外交を改めると共に対新羅の相談のため遣唐使を送りつづけます。
それでは天智天皇の思惑通り、北から唐の軍勢が南下し、海を渡った日本・百済連合軍が北上したらどうなるか??
20世紀の朝鮮戦争を見るまでも無く、新羅が滅亡すれば中国と日本は直接対峙する事になり、当時の国力から考えれば唐の大群がそのまま南下して日本に押し寄せた可能性があります。
その為次代の天武天皇は外交方針を変え、新羅と仲良くすることで唐との緩衝帯を作ろうとして、遣唐使の派遣を中止します。

百済の滅亡により多くの百済人が日本にやってきて重職につきます。
彼らの目的は新羅を倒して朝鮮に帰国したいと言う希望があります。
それでは朝鮮半島の情勢はと言えば、668年高句麗が滅び新羅が半島を統一すると、共通の敵がいなくなった唐と新羅は別の目論見を持ちます。
新羅は中国の影響力を脱して完全に独立したいと思い、唐は新羅を完全に属国にしたいと考える。
こうした情勢を読んだ天智天皇と取り巻きの百済難民は唐と誼を通じて新羅に圧力をかけつずけ、あわよくば再度海を渡って新羅を滅ぼそうと...続きを読む

Q日本人と中国人・韓国人の性格の違い

日本人は、中国人や韓国人とは性格が違うような気がするのですが、知り合いにいないので、具体的に何が違うか分かりません。

何となく聞きかじったことは、日本人は感情を表に出さないけど、中国人や韓国人は激情型だということです。
これは歴史的なものなのでしょうか?

また、中国人と韓国人は似たような性格ですか?
多少の違いはあるのでしょうか?

Aベストアンサー

日本,中国,韓国とそれぞれ地理上,歴史上の位置について考えると、それぞれの国民性が分かりやすくなります。

「日本」は大陸から離れた島国であり、(現在では異なりますが)国外からの侵略,進行経験が比較的少ないため、国外から来る人は「商人または知識人=お客さん」、国内の人は「隣人(親戚)」の感覚があります。歴史上、日本国土が侵攻された例を挙げれば、大抵の日本人は元寇と先の大戦ぐらいと思っています。(しかし一日~数日で起こった小さな戦程度の侵攻や人や家畜の略奪事件では、数十~数百件程度の記録がありますが、高校の社会科教師でも多くて4~5件程度ぐらい言えれば良い方でしょう。これが良くも悪くも日本人の対外関係に影響しています。)
このため、他人に対して激しい感情を表せない人間を作り上げています。少々の罪を犯しても「身内であるから何となく許してしまう」とか、「身内であるからお互い争わない」とか、国外から色々難癖を付けられても、「お客さんの言うことだから」とかの感情で済ませてしまうところがあります。

「中国」は大陸の中心をなしており、「夏」「殷」と続く歴史上の国家交代の歴史は、何時,誰(どの民族)にその中心的地位を奪われるかの世界です。ありていに言えば、こちらの方が世界の歴史観の主流です。
主権を持つ民族が交代すると、それまで主流の地位を占めていた民族は反逆者として抹殺されかねない世界です。このため、良くも悪くも図太い人間が出来上がります。すこしでも自分を大きく見せかけないと、いつか他人に出し抜かれてしまうため、出来るだけ子分を多く従えるものが偉いという世界観が出来上がってしまいます。悪くいえば任侠の世界観です。孔子の「論語」も突き詰めれば、ヤクザの親分としての処世訓を書き上げたものに過ぎません。常に自分を中心としておかねば気が休まらないため、自分中心の考えを持つ国家あるいは人間が出来上がります。すなわち、自分がルールであるという国家あるいは国民性を作り上げています。(このあたりはアメリカやロシアなどの大国に共通するものです。)

「韓国」とは、上の2つの例とは異なり、「半島」であるということが国家観や人間の考え方に影響しています。
直接大地を接している中国からは属国として扱われており、歴史の上でも何度も中国大陸側より侵攻を受けております。また逆に、中国に朝貢していれば僅かな挨拶程度でも、「多大のおすそ分け」をいただける位置にあります。
宗主国への鬱屈した反動として中心となる国(中国)から遠い国(すなわち日本)に対して、「こちらの方が中国の第一の舎弟であるから、お前(日本)のほうが悪いのであって、頭を下げるべきだ」との感情を持ちます。また、常に大陸国家からの軋轢や侵攻を受けてきたことから、「自分は常に被害者であり、悪いことは全て自分の原因ではなく、他人のせいである」との感情を持つ国を作り上げています。

日本,中国,韓国とそれぞれ地理上,歴史上の位置について考えると、それぞれの国民性が分かりやすくなります。

「日本」は大陸から離れた島国であり、(現在では異なりますが)国外からの侵略,進行経験が比較的少ないため、国外から来る人は「商人または知識人=お客さん」、国内の人は「隣人(親戚)」の感覚があります。歴史上、日本国土が侵攻された例を挙げれば、大抵の日本人は元寇と先の大戦ぐらいと思っています。(しかし一日~数日で起こった小さな戦程度の侵攻や人や家畜の略奪事件では、数十~数...続きを読む

Q白村江の戦いで、倭軍の兵力の42,000人は多過ぎ

Wikiによれば,白村江の戦いで、倭軍の渡航した兵力は、42,000人だったそうです。
ところで
1、地元の百済軍は、5,000人の兵力でした。
2、元寇の役では、来襲してきた蒙古軍の兵力は、27,000人~39,700人および140,000~156,989人でした。
以上のことを考えると、倭軍の42,000人は多過ぎるように思いますが、如何でしょうか?

Aベストアンサー

他の方も指摘するように、古代の戦争については文献が頼りにならないだけではなく、当時の状況を知る術も非常に少ないので実態を把握するのは非常に難しいと思います。

で、時代的には16世紀の戦国時代より、3世紀の三国志時代のほうが近いと思います。
三国志で最も有名な戦いは赤壁の戦いであり、なんとも都合がいいことに、こちらも水軍(河川海軍ですが)の戦いです。三国志演義では曹操軍100万、なーんていわれていますが、これが「白髪三千丈」であることは異論はありません。じゃあ実数はどんなものなのか。
中国でも資料が少ない時代なので極めて困難な作業ですが、頑張った人がいて、その人によると「だいたい曹操軍が2万からいいとこ2万5千。孫権・劉備連合軍は2千かその程度ではないか」ということでした。当時の人口と補給能力を考えると「現実的にはそんな数字だろう」という点では中らずと雖も遠からずというところではないかと思います。

でね、現実的にはおそらく当時は「兵力をきちんと勘定する習慣はなかった」と思うのですよ。古代の軍隊というのは今の軍隊と違って組織化されていませんし、戦闘員と非戦闘員の境界も曖昧です。それは戦国時代でもそうなんですけどね。馬の世話をする人は非戦闘員だけど、時と場合によっては戦う(戦わされる)ことだってあったでしょう。
例えば、暴力団が「抗争や。動員せえ」となったときに、若頭が「若い衆を200人集めました」といったときにちゃんと勘定しているかっていうとしていないでしょ、絶対。「そのくらい集めました」ってことだと思います。「佐藤組が200人、田中組が150人、鈴木組が100人。合わせてだいたい500人てところか」という感じだと思います。
当時の軍隊なんてヤクザと同じで、親分が子分を引き連れてやるものですから、実数をきちんと把握している人なんて誰もいなかったと思いますよ。自己申告を山積みしただけでしょう。

だから倭軍4万は私も多すぎると思います。「それだけの人員が、メシも食えば糞もする」ということを思えば組織だった補給システムがないと到底維持できないと思います。秀吉の朝鮮出兵のときはあの石田三成らがロジスティクス(補給)を担当し、彼らが優秀だったのでそれは破綻しなかったですが、朝鮮出兵を支えていたのは石田三成らですよ。
当時の倭軍にはロジスティクスに関しては個別に対応していたか、貧弱なシステムがあったに過ぎないと思うので、ロジスティクス面から考えればもっと少ない数にならざるを得ないと思います。
ただ、当時の倭軍としては持てる水上戦力はほぼ全て投入したのではないかなとは思います。その水上戦力を使い潰したからこそ、古代最大の争乱、壬申の乱を招いたのでしょうね。

他の方も指摘するように、古代の戦争については文献が頼りにならないだけではなく、当時の状況を知る術も非常に少ないので実態を把握するのは非常に難しいと思います。

で、時代的には16世紀の戦国時代より、3世紀の三国志時代のほうが近いと思います。
三国志で最も有名な戦いは赤壁の戦いであり、なんとも都合がいいことに、こちらも水軍(河川海軍ですが)の戦いです。三国志演義では曹操軍100万、なーんていわれていますが、これが「白髪三千丈」であることは異論はありません。じゃあ実数はどんなものなのか...続きを読む


人気Q&Aランキング