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山川出版社『詳説日本史』の第4章「延久の荘園整理令と荘園公領制」には、「在庁官人らは、公領を彼らの共同の領地のように管理したり、荘園領主に寄進したりしたため~」と書いてあります。

ようするに、公領にたいする私的支配権を強めた在庁官人は、(荘園の寄進がよく行われたのとおなじく)国衙の公領すらも上級貴族に寄進していた。

っていうことですよね?

その場合、一つの土地に対して、その国の国衙(≒そこに派遣された国司)と、寄進をうけた上級貴族との、二つの所有者が存在することになるのですか?

A 回答 (1件)

面白い話題なので文献を調べてみました。



府中市史史料集 十三
平安中期・末期の武蔵国司 土田直鎮
によると

平安中期以降になると国主なるものが登場するようです。
国主というものは法令により定められたものではなく、一部の有力公卿-質問にある上級貴族が勝手に始めてそれが流行したもののようです。国主は自分の親族や有力な手下を国司に任官させました。さらにその国司は任地の国へ行く事はなく配下の下級貴族を派遣して(受領)統治させていました。
よく知られているように受領は公領からも過激な取り立てをして私腹を肥やし、国司はさらに中央(京)に送られる税をピンハネしていました。そしてピンハネした税の一部を国主に納めていたらしいのです。従って、一つの国に2つの所有者どころか下請け、孫請とうい3重構造で支配していたようです。

結局こういう国家を私物化する構造のなかで朝廷の財政はガタガタになり、逆に私物化の過程で財力を貯えてのしあがってきたのが平氏です。
国司になるとかなり儲かるらしく、国司になるためにかなりの賄賂を上級貴族に支払っていた例もあるようです。
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この回答へのお礼

わざわざ調べていただき、ありがとうございます。

荘園の場合、たての関係で、どんどん上級貴族に向けた、寄進の流れがあったのは知っていましたが、公領でも似たような私物化が進んでいたのですね。

よくわかりました。

お礼日時:2010/11/10 11:23

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