当時の坂本龍馬評

坂本龍馬のことを当時の人がどう評価したのかが気になり、ネットで調べたところ以下のサイトを見つけました。

同時代人の龍馬評判http://www.geocities.jp/kyoketu/5736.html

ただ、なんとなくはわかるのですが、現代文ではなんと言っているのでしょうか?
また、伊藤博文も龍馬のことを高く評価していたようですが、ここに載っていない龍馬評なんかも知りたいと思っていますので、ご教示いただければ幸いです。

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A 回答 (2件)

伊藤博文が龍馬を高く評価していたのは、政治的理由もあるのではないでしょうか?



伊藤博文が初代総理大臣にはなったものの、土佐藩は薩長に比べると、あまりいい扱いはされていませんでした。

伊藤としては、「坂本龍馬がいたから、ひいては土佐藩があったから明治政府があるのではないか」という思いがあったのではないかと思います

だから坂本龍馬を高く評価し、土佐藩の権威を上げようとしたのではないでしょうか?
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http://www.geocities.jp/kyoketu/5736.html
の言葉の出典(どこにかいてあったのか、或いは何時何処で言ったのか)などがあると良いですね。
 そしてこのhttp://www.geocities.jp/kyoketu/5736.htmlのHPはアクセスできないのですね>


 申し訳ありません、ご質問にお応えする知識がありませんので。
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Q坂本龍馬を殺したのは新撰組?武士は武士道を習うので1対1で決闘をする。決闘前に申し込みを行う。複

坂本龍馬を殺したのは新撰組?

武士は武士道を習うので1対1で決闘をする。決闘前に申し込みを行う。複数人で襲撃しない。

坂本龍馬が襲われたのは酒の席だった。

新撰組は相手を殺すのに複数人で攻めること、酒を呑ませて相手を殺すという美徳より勝ちを優先した。

それは新撰組が武士が結成したものではなく農民が結成した愚連隊だったから。

坂本龍馬って新時代に反対する過去を美徳する武士じゃなくて、新時代を目指していた同胞の新撰組に殺されてますよね。

違いますか?

武士の殺し方じゃなくて新撰組の殺し方なのになぜ新撰組が英雄視されているのかが分からない。

坂本龍馬もそんな日本にとって密貿易していた密売人が英雄視されているのも納得出来ない。

岩崎彌太郎の土佐商会は坂本龍馬の海援隊から武器を買っていたが坂本龍馬が持ってきた武器を全部買う契約をしていたので次々に買ってくる坂本龍馬の性で土佐商会の負債は数百億円に積み上がり、貯めてきた武器を消化するのは坂本龍馬を暗殺して海援隊を潰すか日本で戦争を起こすしか土佐藩の破産は免れなかった。

結局、坂本龍馬を暗殺して更に日本の戦争も土佐藩が生き残るためにいままで買ってきた数百億円分の武器を消費するためのものだった。

坂本龍馬を殺したのは新撰組?

武士は武士道を習うので1対1で決闘をする。決闘前に申し込みを行う。複数人で襲撃しない。

坂本龍馬が襲われたのは酒の席だった。

新撰組は相手を殺すのに複数人で攻めること、酒を呑ませて相手を殺すという美徳より勝ちを優先した。

それは新撰組が武士が結成したものではなく農民が結成した愚連隊だったから。

坂本龍馬って新時代に反対する過去を美徳する武士じゃなくて、新時代を目指していた同胞の新撰組に殺されてますよね。

違いますか?

武士の殺し方...続きを読む

Aベストアンサー

坂本龍馬を殺したのは新撰組?
   ↑
諸説ありますが、京都見廻り組だ、という
説が最も有力です。
新撰組説は弱いですよ。


武士は武士道を習うので1対1で決闘をする
    ↑
一対一なんてのを定めている武士道は
見たことも聞いたこともありません。
そんなのは後生の人間が勝手に創り出した
おとぎ話です。
一対一が武士道なら、およそ戦争など不可能
になってしまいます。


武士の殺し方じゃなくて新撰組の殺し方なのになぜ
新撰組が英雄視されているのかが分からない。
       ↑
当時は壬生浪と軽蔑されていました。
新撰組が英雄視されるようになったのは、子母沢寛の
新撰組が出てからです。
悲劇の英雄ということで、日本人のシンパシーを
得たためです。


坂本龍馬もそんな日本にとって密貿易していた密売人が
英雄視されているのも納得出来ない。
   ↑
坂本龍馬は、当時無名でした。
西郷隆盛の使い走りをしていたような存在です。
彼が英雄になったのは、明治になってからマスコミ
が取り上げるようになったからです。
つまり、人工的な英雄に過ぎません。

龍馬の小説を書くため、司馬遼太郎は当時の金で
2000万をつぎ込み、資料を集めて、実像との
差に愕然としました。
だから「龍馬」ならぬ「竜馬が行く」という
題名にしたのです。

坂本龍馬を殺したのは新撰組?
   ↑
諸説ありますが、京都見廻り組だ、という
説が最も有力です。
新撰組説は弱いですよ。


武士は武士道を習うので1対1で決闘をする
    ↑
一対一なんてのを定めている武士道は
見たことも聞いたこともありません。
そんなのは後生の人間が勝手に創り出した
おとぎ話です。
一対一が武士道なら、およそ戦争など不可能
になってしまいます。


武士の殺し方じゃなくて新撰組の殺し方なのになぜ
新撰組が英雄視されているのかが分からない。
       ↑
当時は壬生...続きを読む

Q坂本龍馬、暗殺ですが結局坂本龍馬暗殺して誰が得して誰が損しましたか? 結局徳川入り新政府ご破算でした

坂本龍馬、暗殺ですが結局坂本龍馬暗殺して誰が得して誰が損しましたか?
結局徳川入り新政府ご破算でしたが黒幕松平容保なら松平容保の器と力量はしれてますか?
結局公務ではなくただの皆殺し暗殺で現代のテロリストとなんら変わりないですか?
てか正規政権ないから公務もくそもないですか?

Aベストアンサー

竜馬は内戦回避と、徳川の政権への参加を考えていました。
薩長はこの逆でした(徳川を倒し政権を奪取する)。

結果は後者になりました。
なお、勝と西郷の話合いで、薩長と徳川の戦は回避されました。
(内戦はその後、東北、北海道と北上しました。函館で終結。)

明治維新とは政権が、徳川から薩摩・長州に変えただけのもの
でした(内向政権から外攻政権への転換)。

Q坂本龍馬を尊敬する方に質問。龍馬の魅力

坂本龍馬を尊敬されている、もしくは大好きという方にお聞きします。
坂本龍馬の魅力とはなんですか?
素敵なところ、格好良いところ、魅力的なエピソードなど。
龍馬が何故好きか、を教えてください。

Aベストアンサー

※一徹
「お前、坂本龍馬という人を知っているか?
 封建時代の日本に新しい日の出をもたらそうと命をかけて来た人だ」

飛雄馬
「あぁ知ってるよそのくらい。でもそんな話今の俺には関係ない」

一徹
「関係があるかないかは聞いてみなければわかるまい」

飛雄馬
「・・・」

一徹
「これからの日本は門戸を広く世界に開き
 外国の優れた思想・技術を学ぶ必要があると考えた龍馬らは
 当時の幕府に徹底的に弾圧された。
 新選組は日夜その命を狙って嗅ぎまわり
 龍馬はいつどこで死ぬかわからない有様だった。
 しかしそんな中で龍馬はこう言い放った。」

ここでいきなり寺田屋の映像が出てきて龍馬が語り始めます。



龍馬
「いつ どこで斬られるにしても死ぬ間際まで前へ進みたい。
 たとえ、どぶの中で切り捨てられても私は前を向いて死にたい。
 前のめりで死んでいきたい。」

その直後、龍馬を新選組が襲います。



傷を負った龍馬は鴨川(どぶ?)を苦しそうに前進して行きます。



そしてついに前かがみに倒れます。



龍馬
「たとえ幕府の大きな力の前に俺が虫けらでしかないとしても
 俺は死を・・・ 前へ・・・ 前へ・・・」

そう言うと龍馬は亡くなります。



なんで星一徹が死の話を星飛雄馬にしたかは、
飛雄馬に球威が全くないことに気が付き、
プロでは通用しないことを告げるためでした。

一徹
「投手飛雄馬は死ぬしかないんだ」



その言葉を聞いて明子ねえさんは台所で泣きます。



明子
「元旦早々なんてことを・・・」

星一徹は説教くさく飛雄馬に言います。

一徹
「飛雄馬よ。
坂本龍馬になるんだ。
 どうせ死ぬんだと言って前進を止めるようなやつは
男じゃない。
 たとえドブの中で死んでも
なお前向きで死んでいたい。
これが男だ。」

この星一徹の言葉に飛雄馬はミョ~に納得します。

飛雄馬
「そうか、今やっとわかったよ、父ちゃんがなんで龍馬の話などしたか。
 俺、父ちゃんからいろいろ教わったけど今のが最高だ。
 熱い男の血潮をもろに浴びたみたいだ。
立派に死んでみせるよ。
 ドブの中で前のめりになって・・・父ちゃん」

〇「巨人の星」に引用された竜馬の名言です。

実際には、鴨川を流されてから息を吹き返して薩摩藩邸に逃げ込み、
鹿児島で新婚旅行したり、
海援隊を指揮し貿易で儲けたり、
長州征伐に対抗して幕府艦隊を奇襲したり、
薩長同盟をまとめたり、勝海舟を通じて将軍徳川慶喜に大政奉還させ、
明治新政府の基本政策を上申したりしたあげく、暗殺される
という
しぶとく生き抜くというのも
好きですが\(^^;)...

※一徹
「お前、坂本龍馬という人を知っているか?
 封建時代の日本に新しい日の出をもたらそうと命をかけて来た人だ」

飛雄馬
「あぁ知ってるよそのくらい。でもそんな話今の俺には関係ない」

一徹
「関係があるかないかは聞いてみなければわかるまい」

飛雄馬
「・・・」

一徹
「これからの日本は門戸を広く世界に開き
 外国の優れた思想・技術を学ぶ必要があると考えた龍馬らは
 当時の幕府に徹底的に弾圧された。
 新選組は日夜その命を狙って嗅ぎまわり
 龍馬はいつどこで死ぬかわからない有様だった...続きを読む

Q【坂本龍馬の子孫が】兵庫県神戸市の長田区にいるそうです。 なぜ坂本龍馬の子孫が神戸に住んでいるので

【坂本龍馬の子孫が】兵庫県神戸市の長田区にいるそうです。

なぜ坂本龍馬の子孫が神戸に住んでいるのでしょう?

どういう経緯で神戸に坂本龍馬の子孫が住むことになったのか推測してください。

あと坂本龍馬の子孫なのにお金持ちの街ではなく下町の長田に住んでいるのも不思議です。

あと偉人の子孫の大半が母方の家系で繋がっていってます。

男が産まれても早い代で家系が途絶えてます。

なぜ女方の家系図の方が延命していって、男方の家系図は3、4代で滅びるのでしょう。

女方の家系図は5代目以上に伸びていくのに。

男は金持ちの家系に産まれても独身で家系が途切れる。

なぜでしょう。

Aベストアンサー

龍馬には子供がなく子孫はいません

http://history.monovtube.com/entry5.html

Q坂本龍馬についての本

坂本龍馬について知りたいので、坂本龍馬の歴史関係の本でオススメはありますか?できればあまり難しくなく、読みやすい本を教えて下さい。

Aベストアンサー

平尾道雄の「海援隊始末記」(中公文庫)と、
飛鳥井雅道の「坂本龍馬」(講談社学術文庫)。

文庫本で価格もお手ごろだし、オーソドックスな
入門書というころでしょうか。

Q坂本龍馬の評価

坂本龍馬の評価って、人によっていろいろですよね?
特になぜ評価されにくいのかを教えてほしいです。
自分でも何となくわかる気がするんですけど、うまく説明ができません。

Aベストアンサー

龍馬をよく言う人達はほとんど、司馬遼太郎の「龍馬はゆく」でかなり美化された内容を読み、江戸末期の混乱時の英雄として捉えているようです。

その後、新しい資料などが出たりして、龍馬は他人のアイデアをパクッただけのポリシーのない人物という評価をする人達が増えてきたので、現在では評価されにくくなっています。

船中八策は、福井藩松平春嶽の藩士由利公正の案、大政奉還は、小栗上野介と慶喜合作、出資会社を初めて作ったのは三井呉服店や近江商人の江戸・京店がすでにしていたこと。

ひとえに司馬遼太郎の腕(ペン)に因るものです。

龍馬の出身は才谷屋という裕福な商店で、ここから岩崎弥太郎=三菱の創始者が出てきたことでも環境は良かったようです。

Q坂本龍馬が薩長同盟を締結させた???

「坂本龍馬」司馬遼太郎創造説という内容の本を読みました。
つまり、実際の坂本龍馬が歴史上果たした意義、さらには龍馬自身の人物像は、司馬遼太郎の誇張によるところがかなり大きいとういう内容です。
実際、司馬遼太郎本人も
『あれは僕の竜馬なんだよ。「竜馬がゆく」は小説だから、史実の龍馬と区別するために「竜馬」という字を使ったんだ。』
と対談集で言っていました。

この「坂本龍馬」司馬遼太郎創造説を知って以来、「竜馬がゆく」をそのまま信じて
「坂本龍馬が薩長同盟を締結させた。」
というのは間違った歴史観だと思えてきました。

小説のように龍馬が日本を救うための薩長同盟をひらめき、薩摩も長州も嫌がっているのに、ムリヤリ同盟締結をしたのでしょうか?

薩長同盟は少なくとも西郷と桂に代表される実質的な指導者層が必要性を感じていなければ坂本龍馬がいくら周旋したところで成功はなかったでしょう。
やはり薩摩もしくは長州に同盟に意志があり、同盟締結のための一つの手段として龍馬を使ったという方が納得できませんか?

Aベストアンサー

事実として明治維新後、坂本龍馬の名前はほとんど知られていませんでした。日露戦争の時、昭憲皇太后の枕元に白装束の武士が立ち「私は魂を海軍の上に宿して、必ずロシアに勝利させます」と言上したという逸話があり、時の宮内大臣田中顕光(土佐出身)が「それは坂本龍馬である」と語った話が新聞に報道されてから、名を知られるようになりました。
では、龍馬が風評伝説の中だけの人物なのかといえばそうともいえません。実際に薩長同盟締結の裏書もしているのですから、相当のポジションにいたことは疑いがないと思われます。
西郷と龍馬は親しく、西郷に関する記録にも龍馬の名前が度々出てくるようですが、薩摩のもう一人の大立者、大久保利通と龍馬は面識が薄かったのか、あるいは仲が良くなかったためか、大久保に関する記録には全く龍馬の名前が出てきません(確か『大久保日記』の某日に「土州坂本某来る」と書かれているのが唯一の記録だった、と記憶します)。
維新後、西郷は政権中枢から外れ大久保が壟断するようになって行きましたから、維新の功績を評価する場面でも自然に龍馬の名前も出なくなってしまったのではないかと想像します。
『竜馬がゆく』のすべてを鵜呑みにすることはもちろんできないと思いますが、坂本龍馬が薩長同盟締結の重要なキーマンの一人であったことは否定できないのではないでしょうか。

事実として明治維新後、坂本龍馬の名前はほとんど知られていませんでした。日露戦争の時、昭憲皇太后の枕元に白装束の武士が立ち「私は魂を海軍の上に宿して、必ずロシアに勝利させます」と言上したという逸話があり、時の宮内大臣田中顕光(土佐出身)が「それは坂本龍馬である」と語った話が新聞に報道されてから、名を知られるようになりました。
では、龍馬が風評伝説の中だけの人物なのかといえばそうともいえません。実際に薩長同盟締結の裏書もしているのですから、相当のポジションにいたことは疑いがな...続きを読む

Q坂本龍馬 今までの時代と比べて龍馬がやったことというのは?

題名の通りです。
今までとは全然違うやり方、新しい発想をしたと思います。
具体的に、33年間、龍馬がやったもの、龍馬ならではのやり方や行い(例えば、教えをうけたり、説得したりすること)をまとめようと思っているのですが自分だけでやると間違ったものをまとめてしまいそうなので、どなたか具体的に教えて下さい。
どうか宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

龍馬の背景で独特なものとしては、

1.土佐藩の郷士であった。
 当時の土佐藩は上士(山内氏とともに入国した者の子孫)、郷士・足軽(土着の長曽我部系の武士や士籍を買った者の子孫)の対立がその成り立ちから先鋭的なものとなっていました。また、郷士が表だって藩政に参加することはまず不可能でした。
 龍馬は後に脱藩し、勝海舟の「日本主義」に素直に共鳴していますが、藩への帰属意識が希薄だったことが大きいでしょう。

2.同族に才谷屋と言う土佐藩でも三指に数えられる豪商がいた。
 坂本家も1.の郷士株を購入して武士になった家で、才谷屋は藩の財政の面倒や上士にお金を貸していました。
 当然、藩や上士のだらしない内情(無能・怠惰)を知っていましたので、上士や藩への盲目的な忠誠心や畏怖は育まれていません。武市が藩や藩主へ盲目的な忠誠心を持っていたのとは対照的です。

3.土佐藩出身のジョン万次郎との接触
 直接の接触があったかどうかは不明ですが、当時アメリカで高等教育を受けて帰国したジョン万次郎は高知の出身でした。高知滞在中に幕府と藩の要望でアメリカ事情の聞き取りを行っていますが、この聞き取り役の絵師と龍馬は懇意でした(後の海援隊にこの絵師の弟子達が加わっています)。
 若いときにアメリカの実情をほぼ直接的に知り得た事は龍馬の最大の財産となります。

4.北辰一刀流の塾頭を務めた
 当時の江戸の剣術流派では、斎藤道場・伊庭道場・桃井道場・千葉道場(北辰一刀流)が、4大道場といわれていました。
 龍馬は千葉周作の実弟の定吉が運営する道場の塾頭を務めています。定吉は兄の華やかさに隠れてはいますが、千葉門への他流試合は全てこの人が最終的にこなし無敗を誇っていたほどで、技は兄を凌ぐと言われたほどの名人でした。
 その道場の塾頭は4大道場に準じるものとして剣客の間では重んじられています。このキャリアが龍馬の活動のスタート時点での、最大の名刺がわりとなっていました。


 当時の日本人(日本の武士)と比較して、「龍馬」と言う人材が育まれた独特の背景にあるものは上記のようなものだと思います。
 こうしたものから龍馬を論じていけば実相に近い人物像が得られるのではないでしょうか?

龍馬の背景で独特なものとしては、

1.土佐藩の郷士であった。
 当時の土佐藩は上士(山内氏とともに入国した者の子孫)、郷士・足軽(土着の長曽我部系の武士や士籍を買った者の子孫)の対立がその成り立ちから先鋭的なものとなっていました。また、郷士が表だって藩政に参加することはまず不可能でした。
 龍馬は後に脱藩し、勝海舟の「日本主義」に素直に共鳴していますが、藩への帰属意識が希薄だったことが大きいでしょう。

2.同族に才谷屋と言う土佐藩でも三指に数えられる豪商がいた。
 坂...続きを読む

Q坂本龍馬の評価が下がり続ける理由は?

司馬遼太郎が生きていた頃は、坂本龍馬の評価は最高潮だったと思います。
例えば、
【1】薩長同盟がなければ明治維新は成功しなかった。
薩長同盟を締結させたのは坂本龍馬だった。

【2】龍馬は船中八策で日本の将来を示した。
船中八策がなければ、今の日本はない。

【3】龍馬は亀山社中という日本で最初の株式会社を作った。
龍馬には先見の明がある。
岩崎弥太郎は龍馬のアイディアを受け継いだだけだ。

【4】龍馬は剣⇒銃⇒本と簡単に思考を変化できる柔軟さがあった。

【5】龍馬は着物にブーツをいうファッション感覚だった。
また日本で初めて新婚旅行に行ったのは龍馬だ。
龍馬は流行の最先端のオシャレだった。

など、思いつくままに書いてみました。
過去、TVなどで好きな歴史上の人物の投票をすれば毎回1位でした。
(最近のTV番組の投票では2位に下がっており、1位は織田信長でした。)

現在は坂本龍馬像が崩れており、龍馬の評価は下がり続けています。
坂本龍馬の評価が下がり続ける理由は何だと思いますか?

Aベストアンサー

基本的には、司馬遼太郎の本が売れすぎて、虚像の龍馬像がでかくなっていたのが、揺り戻されている。
それだけです。
証拠:龍馬像が建ったのは、大正になってから
http://www.kochinews.co.jp/ryoma/ryoma005.htm
例で質問者があげた、1,2,3が真実であれば、明治初期に銅像が建っていたはず。薩長土肥は、明治初期の勝ち組であり、「おらがところが、御一新の功あり」ということで、ネタ探しに必死でした。吉田松陰などは、全国的に見れば無名だったのを、弟子たちが、師匠は偉かった!としたわけです。

Q坂本龍馬について

いま、学校で坂本龍馬のことについて勉強しています
そこで、疑問を持ったことがたくさんあるので教えてください

1、1867年何藩の前藩主山内容堂(豊信)は幕府になにを建白したのか?
2、薩長同盟で薩摩藩と長州藩と亀山社中(後の海援隊)にとってどんな利点があるのか?

3坂本龍馬はなぜ、大政奉還を考え、進めたのか?

です。よければ、すべてお答えしてほしいです
よろしくお願いします

Aベストアンサー

1,将軍慶喜に大政奉還を土佐藩の藩論として建白しました。
2,大きくまとめると、
長州は幕府の第二次征長によって藩の(とくに攘夷派)生存が危うかったが、薩摩が密約の上にそれを回避する機会を与えてくれる。
実際、薩摩は幕府に対して「このままでは幕府の私闘であり、薩摩は賛成できない」を藩論とし、大久保利通は大阪城代に「長州を討て」と言われたが「幕府を討てですと?幕府を討つことなど出来ません」と答え、後は何を言われても「幕府は討てません」と聞き間違いで通したりもした。
薩長両藩にとってはいざ倒幕戦の時の兵力を増やすため。
薩摩にとっては倒幕を行う際(倒幕後も)に自藩が主導権を得る為にも、幕府にぎりぎりまで真意を隠す為にも先ず長州を叩き、次に同盟を組んだ。
亀山社中にとってのメリットは・・特に亀山社中自体が云々と言うより、坂本龍馬の(龍馬独自の考えではなかったけど)考えとして「薩摩と長州、この犬猿の仲の二大雄藩をくっつけないと倒幕はできない」があったからでは。
3,内戦を起こしたくなかったから。
当時の欧州諸国は内戦をしている国の片方に武力供給するかわりに租借地などを得て、そこから植民地化していった。
実際に倒幕派(薩摩)には英国が、幕府には仏がついていて、何としても日本の植民地化を避けたかった龍馬は、「幕府が政権を持っているから武力衝突が起きる。政権を朝廷に帰してしまえば倒幕派は武力倒幕の名目を失い、内戦は起きない」
と考えた。

ですかね、かなり手短ですけどポイントは押さえてあると思います。

1,将軍慶喜に大政奉還を土佐藩の藩論として建白しました。
2,大きくまとめると、
長州は幕府の第二次征長によって藩の(とくに攘夷派)生存が危うかったが、薩摩が密約の上にそれを回避する機会を与えてくれる。
実際、薩摩は幕府に対して「このままでは幕府の私闘であり、薩摩は賛成できない」を藩論とし、大久保利通は大阪城代に「長州を討て」と言われたが「幕府を討てですと?幕府を討つことなど出来ません」と答え、後は何を言われても「幕府は討てません」と聞き間違いで通したりもした。
薩長両藩...続きを読む


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