『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

天領は年貢の取り立てなどが厳しくなかったので百姓は助かったという話を聞いたことがあります。
他に百姓が生活しやすかった藩はどうこでしょうか?
逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩がありましたか。
よろしくお願いします。

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A 回答 (2件)

>逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩


 南部藩は、江戸時代に138回の一揆が発生したそうです。(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)

 原因は
  * 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
  * 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
  * 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
  * 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
  * 海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に、水稲の基準で重課税。
  * 三閉伊地方の産業(海産、材木、製鉄)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。
  * 「軒別税」(人頭税)を実施したこと。
  * 藩札の大量発行によるインフレーション。
  * 幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税。
  * 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。
  * 戦国時代以来のライバルである弘前藩、仙台藩に対抗するために恒常的に高直しや官位の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。

 島原藩は島原の乱を起してしまった過酷な藩政の責任を問われて、藩主の松倉勝家は、改易処分となり、後に斬首となった。
 (藩の藩主が切腹すら許されず斬首された事例は、この1件のみ)

 水戸藩は、御三家の中でも唯一江戸常勤を定められた為、膨大な支出がある上に徳川光圀(水戸黄門)の時より行われた水戸学(大日本史の編纂)の費用で、税は8公2民(4公6民~5公5民ぐらいが一般的)でした。

 御三家である為、一揆が多発してもお取り潰し等の責任をとらされる事も無いうえに、徴税の手違いで村民皆殺しを行った「生瀬一揆」も有ります…。
 後の天狗党の乱の時も、関係者の家族まで処刑し、大勢が変ると報復に相手の家族を皆殺しにするなど、血生臭い行為に走りやすい傾向が有るのかも知れません…。

 ちなみに徳川光圀は、若い頃に辻斬りを行ったり、舶来物の贅沢品を好み、自身の趣味でもある大日本史の編纂に関係する資料の献上を推奨(賄賂)し、水戸学は幕末の倒幕のイデオロギーにも成ります…。
 (水戸黄門漫遊記の悪役を1人で包括出来そうな方だったり…。)
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>百姓が生活しやすかった藩はどうこでしょうか?



伊予小松藩ですね。
伊予西条藩の隣である伊予小松1万石です。
旧藩主やその家臣の末裔は、今でも小松町で生活しています。

この藩は「東は、紀伊和歌山藩分家の伊予西条藩。西は、家康と同じ生母・伝通院(於大の方)から誕生した久松松平家の伊予今治藩」の双方とも親藩に囲まれています。
藩内で事件を起こしたくなかったのでしようね。領内では、政治に気を使ったようです。
何か事が起きると、一発で「不行き届き」です。

農民に対しては、次男坊・三男坊を「(今で言う)契約社員」として藩で雇用しています。
(1年契約で微々たる給金ですが、食事(米)には困らなかったようです)
「百姓の食い扶持を減らす事と、藩士などの人件費抑制」一石二鳥の政策ですね。
実際は、幕府が決めた藩士(人員)を確保する程の財源が無かったのですが・・・。

民主党政権と異なり「財源はないが、選挙の為に税金をばら撒く」という無策は行っていません。(笑)
こんな無策を行えば、確実に一揆が起きます。
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Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
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Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

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Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q薩摩藩ってすごい藩?

「ドイツってすごい国?」をみて薩摩もすごいと思ったので質問します。

島津家は日本で(おそらく)唯一、鎌倉時代の守護大名からの歴史をもつ大名で、室町・戦国時代は九州最強を誇り、豊臣秀吉に逆らい、関が原では西軍につき戦闘をおこなうなど時の権力者に逆らいつつも領地を減らされることなく、江戸時代は参勤交代で全大名中最も長距離で負担の重い旅行を強いられ、徳川家は更に島津家を恐れ江戸防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。

このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、強大な武力とバイタリティーを持ち続けた理由は何でしょうか?鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除けば)最強、悪くてもベスト3には入っていたと思うのですが、いかがでしょうか。

Aベストアンサー

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょうか。
 関が原の戦いでは負けた西軍にいながらまったく唯一お咎めも無く60万石の石高もそのままでした。2度の朝鮮出兵で、三十倍の敵を殲滅し、鬼石曼子(おにしまず)とも呼ばれた武力もその外交力の裏づけにあったと思います。
 しかし鎌倉時代から明治時代初めまでベスト3には入っていたというのは買いかぶりすぎだと思います。
 最近の研究ではNo.9さんのおっしゃる程の搾取は無かったとされていますがそれでもまったく裕福とはいえず琉球に対するの清国との2重支配による密貿易や幕末の藩債踏み倒しなどでなんとかやりくりしていたのが実情ですから。
 
 
 

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょ...続きを読む

Q税の取立ては苛酷だったのか?

映画、ドラマなどでは、農民や庶民は重税に喘いだように描かれています。
実際はどうだったんでしょう?

奈良、平安時代、江戸時代などはどうですか?
まあ、権力者が好き放題できる専制社会ですから、基本的に「過酷」と考えるのが自然だとは思うのですが・・・

江戸時代、7公3民まであったそうですが、でも、江戸の町人などは落語や映画では結構生活を楽しんでいるように描かれているんですが、死ぬ瀬戸際で生きていたのは農民だけなんですかね?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

奈良、平安の頃は不勉強なので江戸時代についてのみ書かせていただきます。

「7公3民」とは7割が年貢だったという意味ですが、「何の7割」なのか御存知ですか?
収入(つまり生産量)の7割ではありません。
江戸時代の年貢は現代風に言えば固定資産税であって所得税ではないのです。
年貢の対象地は田、畑、屋敷でしたが、これらの土地にはひとつひとつに「高(たか)」といわれる数値が設定されていました。年貢の額が高の4割であれば「4公6民」といわれ、7割なら「7公3民」というわけです。中には村高より年貢の方がが多いということもあり得ました。小生どこかで12割というのを見た記憶があります。そして田畑で何を作ってどれだけ儲けても年貢は変わりません(領主によっては特定の作物に課税することもあったようです)。
歴史辞典などでは「高は生産量のこと」と説明してあるものがあるかと思います。高は江戸時代初期に設定されましたがこの当時は高と生産量はほぼ等しいと考えてよいでしょう。
しかし時代が進むと生産量は増加します(増加の理由は農業技術の進歩というより旱魃や水害に対するインフラ整備が大きいでしょう)。しかし高の数値は幕末まで変更されません。領主は実際の生産量をよく把握していて概ね夏の生産量の2割を年貢として徴収していたようです。冬の生産は一般に年貢には反映されませんが麦に課税する領主もいました。
例えば村高1000石の村で幕末には生産量が2倍になったとすると、
江戸初期 生産量=1000石 年貢=200石
幕末   生産量=2000石 年貢=400石
という具合です。幕末の400石は村高に対しては4割ですから「4公6民」と言われるのです。
これでわかると思いますが「4公6民」などと言っているのは幕末の年貢の量と江戸初期の生産量を比較しているわけで、時代が異なりますから統計とは言えないことに注意してください。

小生の村(岡山県内)は村高250石、年貢200石という村でした。なんと8公2民という全国的にも珍しい「酷税の地」だったのですが、悲惨な話は伝わっていません。
夏場の米の生産量は少なくとも1000石程度はあったと推定されており、冬の生産も米に換算して250石程度あったと考えられています。総生産量に対する年貢率は15%そこそことなります。さらに綿、菜種など換金作物もよく作っていたので総生産量はもっと多かったと考えられています。

以上、主として当地のようすを記しましたが、地方によっては貧困に喘いでいた所もあったはずです。しかし一般に言われているほどの「凄まじい貧乏」ではなかったようです。

奈良、平安の頃は不勉強なので江戸時代についてのみ書かせていただきます。

「7公3民」とは7割が年貢だったという意味ですが、「何の7割」なのか御存知ですか?
収入(つまり生産量)の7割ではありません。
江戸時代の年貢は現代風に言えば固定資産税であって所得税ではないのです。
年貢の対象地は田、畑、屋敷でしたが、これらの土地にはひとつひとつに「高(たか)」といわれる数値が設定されていました。年貢の額が高の4割であれば「4公6民」といわれ、7割なら「7公3民」というわけです。中には村...続きを読む

Q江戸時代の農民は本当に貧しかったの?

江戸時代の農民の年貢は、よく言われるので五公五民。また、農民の割合は人口全体の約9割といわれています。お米で考えると、国に収めたお米の8割は、何らかの手段で、農民が回収していたと考えています。
生活するためには、米だけでは生きていけないので、何らかの現金収入か、交換できるだけの物を生産していたことになると思います。
 
 そこで思うんですが、普通にお米を作るより副職の方が割が良かったら、割の良い副職が中心になりそうなんですが、そうでもない。
 すると、米の生産量をごまかすなり、相応のうまみがあったように思えます。もしかすると収入が決まっている下級武士よりよほど裕福だったのでは?疑問に思っています。
 詳しい方、誰か教えてください。前提条件がおかしければ指摘ください。

Aベストアンサー

#2が一番実情に近いと思います

確かに現在と異なり、飢饉等の影響は大きかったはずですが、実際は、明治以降の方が農民には過酷であった様です

年貢よりも地租の方が実質的な負担は大きかったこと
また、それを糊塗するために、江戸時代は貧しかったと言う情報操作が行われています

それを信じている回答が多いですね

江戸時代についての研究が進み、その研究成果も発表されています

質問者のコメントにある様に、生産された米は輸出などされていないので、全量が消費されているはずです

百姓が米の飯を見るのは盆と正月だけ と言うのは 明治以降に作られた話のようです
一人が年に一石食べると言われています、総石高は二千万石とか言われています、これは江戸初期の話で、中期以降は2・3割は増収になっていますから、三千万の人口を養うだけの米は生産されていました

質問者の想定が妥当だと思います

Q大名の江戸屋敷での暮らしぶり(伊達藩)

徳川幕府は大名から人質をとって、隔年四月ごとに国許と江戸を参勤交代させて統制と経済力を削(そ)いだのは知ってますが、元和二年(1616)頃の伊達家をクローズアップした場合、具体的にはどんな感じだったのでしょうか?。

(1)前田藩の正室は江戸上屋敷。側室は国許とか。それゆえにお家騒動の遠因になったとか。伊達藩は正室と忠宗はむろん側室(猫御前)と秀宗も江戸住まいを強要されたのではないのでしょうか?。ご存知の方は書き込みお願いします。

(宇和島藩の藩祖になる秀宗と猫御前は側室なれど、政宗の嫡男であり豊臣政権では伏見屋敷に住んでいた)

(2)側室も江戸屋敷にいた場合、正室と同じ上屋敷なのか中屋敷なのか。
特に寛永年間の前の元和二年当時ならば、数多い側室を江戸に住まわせた場合、屋敷は三つでは足りなかったのではないか。
ただ香の前(秀吉との碁の勝負で縁)は、仙台城内にも置かなかったとあり、江戸か国許でも別宅だと推察できます。
五郎八郎姫すら離縁後は仙台郊外に住まわせたとか。

ご存知の方、出来れば立証となる資料。あるいは映画や小説でも構いません。

徳川幕府は大名から人質をとって、隔年四月ごとに国許と江戸を参勤交代させて統制と経済力を削(そ)いだのは知ってますが、元和二年(1616)頃の伊達家をクローズアップした場合、具体的にはどんな感じだったのでしょうか?。

(1)前田藩の正室は江戸上屋敷。側室は国許とか。それゆえにお家騒動の遠因になったとか。伊達藩は正室と忠宗はむろん側室(猫御前)と秀宗も江戸住まいを強要されたのではないのでしょうか?。ご存知の方は書き込みお願いします。

(宇和島藩の藩祖になる秀宗と猫御前は側室なれど、政宗の...続きを読む

Aベストアンサー

正室は江戸ですが、側室は双方にいるでしょう。
もっとも、「お手つき」と「側室」の区別が難しいですが。
香の前は「お手つき」ですが「側室」ではないですね。
正室のいる場所は決まっていても、その他は殿様のいくところならどこにいてもおかしくない気がしますよ。

伊達家ならばとりあえず治家記録と徳川実紀をチェックされてはいかがでしょうか? 側室の場合は所生の子どもがどこで生まれたか、また妊娠時期を逆算してソノ時、政宗がどこにいたかををチェックすると、側室がどこにいたかが見当つくと思います。

元和2年だと、夏の陣のあとですから、秀宗はすでに宇和島入りしてるはずです。
それに、寛永あたりだと屋敷の使い方が落ち着きますが、元和だとまだきっちり決まってないんじゃないですかね……。
五郎八姫は仙台郊外ではなく、「西屋敷」です。二の丸にあたるところで郊外ではありません。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4623046222
伏見にも伊達家の屋敷は3つありましたし。
http://www.city.sendai.jp/kikaku/kokusai/city/date/bangai.html

正室は江戸ですが、側室は双方にいるでしょう。
もっとも、「お手つき」と「側室」の区別が難しいですが。
香の前は「お手つき」ですが「側室」ではないですね。
正室のいる場所は決まっていても、その他は殿様のいくところならどこにいてもおかしくない気がしますよ。

伊達家ならばとりあえず治家記録と徳川実紀をチェックされてはいかがでしょうか? 側室の場合は所生の子どもがどこで生まれたか、また妊娠時期を逆算してソノ時、政宗がどこにいたかををチェックすると、側室がどこにいたかが見当つくと...続きを読む

Q夫が部落出身である可能性が高いです

悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。
(理解していただきたいので内容が細かく、長いです。申し訳ありません。)
出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。
結婚して4年です。子供が一人います。
夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。
私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。
出会った当時、夫は実家にルートセールスで度々来ていました。
母は時々物を買っていて、私と知り合う2年前から夫を知っていました。
その間、彼氏がいなかった私の写真を見せていたのは知っています。よく母から、「面白いお兄さんがいて○○(私)に会ってみたいと言っているけれど、どうする?」と言われており、その一年後に初めて3人で食事に行きました。
付き合いはそこからです。
付きあってから度々悩まされたのは、他人に対して暴言を吐いたり道路の真ん中で車を止めて怒ったりすることでした。
(先日も駐車場の枠外にとめていた車の人に暴力団のような言葉を吐いていたので知らない顔をして子どもと逃げました。)
私にも暴言や暴力(年に数回)があり、何度も別れようと思ってきました。
しかし、夫にも優しい所があり、初めての人でしたので夫がすべてだという気持ちがあり、結局結婚に至りました。
何かがおかしいと思ってきたのは結婚してからのことです。
毎週夫の実家に行くごとに義父母から親戚の職業を耳にしてきましたが所謂部落の方が多い職業についており、部落の方と結婚している人がとても多いのです。
また、義父は自営業をしていますが暴力と酒癖が悪く部屋中のものを壊したり、年に数回は義母の顔にあざができるほど殴るので本当に恐ろしいです。
本人たちの口から「部落」という言葉は結婚してからは何度となく聞いていますが、自分たちは違うというニュアンスで話してきます。
差別があるから夫のいとこは子供をつくらないし、結婚もしないとも聞かされてきました。
私が少し調べた結果は義父が部落出身のようです。
調べるきっかけとなったのは私の職場に夫がやくざまがいの電話をしてきたことでした。
それは、私の仕事用携帯に職場の男性のアドレスがあっただけのことでした。私的なメールは一切しておらず、上司から同僚まで全ての電話番号とアドレスが入っています。
夫はそれを浮気だと勘違いして、会社に怒鳴りこみの電話をしてきました。しかも妊娠初期の事でした。
その後出産の為辞めることとなりましたが、会社の上司から夫のことをかなり詳しく聞かれた上でそれとなく言われました。
本当にショックで血の気が引きました。
その後、義父母や夫がよく口にする地区をネットで検索してみると、全て部落に当てはまる地区で自分が住んでいる地区も昔はそうだったと知りました。
本当にショックでした。
冒頭に「悔しい」と書いたのは騙されたと感じるからです。
結婚前に夫の性格や暴力のことで母や親戚から反対されながらも結婚を選んだのは私です。
でも、墓場まで持って行こうとした夫が許せません。
私に話していたら結婚は迷ったかもしれない。
でもきっと結婚していたと思うんです。
それなのに純粋な気持ちでずっと夫を思ってきたのに隠し通そうとしている夫は裏切り者です。大嘘つきです。
夫を許せません。
結婚するまでは部落の人がいるのかどうかも知りませんでした。そして、部落が何かもよくわかりませんでした。
しかし、少しずつ勉強したり地区や周りの人間を見ていく中で分かったことがあります。それは差別する人間だけが悪いのではなく、差別される側にも問題があるということです。
義父や夫の親戚の会話は人間の血が通っていなくて、私にはとても理解ができません。酷い言い方かも知れませんが、気が狂いそうになるほど見ず知らずの他人を悪く言ったり暴言を吐きます。
私が言われることもあります。
今、人生にとても悩んでいます。こどもが小さいので母子家庭は厳しいかもしれませんが、穏やかな暮らしがしたいです。
夫とも義父母とも一切の縁を切ってこの土地からも逃れたい・・普通の考えをした人間と関わりあって生きたい。これが正直な気持ちです。
簡単にはいきませんが、何も考えずに生活しようとしても夫や義父が何か言動を起こす度にうんざりしている自分がいます。
まとまりの無い文章ですみません。
経験談やアドバイスなど、皆さんの考えをお聞かせ下さい。
どうぞ宜しくお願い致します。
最後まで読んで下さってありがとうございました。

悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。
(理解していただきたいので内容が細かく、長いです。申し訳ありません。)
出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。
結婚して4年です。子供が一人います。
夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。
私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。
出会った当時、夫は実家にルートセ...続きを読む

Aベストアンサー

難しい問題ですね。 差別する事はいけない事だと倫理を
説いても、実際にはいろんな形で区別されている事も事実。

自分がその立場に立った時に、つゆほども気にせず過ごせるか?
と聞かれると自信がありません。

普通に・・・・と言う気持はよくわかります。

昨今は、まだ昔ほどの差別はないにしても、中には未だに
違った目で見る人がまだまだいる事も確かです。

そのうえ、いろんな事件が世間を騒がせますから、この事が
表だって知られるようになれば、なにがしかの弊害はあるやも
しれませんしね。

この事案からまったくかけ離れた所で生活している物が
当事者に対して簡単に「差別はいけません」とは言い難いです。

関わった物の苦しみは関わった者しか分かりませんね。

輪の中に身を置くという事で、私は単なる個人の人格だけの
問題でもない気がします。

生活の環境と言う物は、個人の主観に大きく影響します。

周りを取り囲む人々が同じ価値観で接してくれば、少なからず
感化されますからね。

さて、問題は今後ですよね。
離婚されるなら身を隠す必要があると思いますよ。

今までの言動・行動を見ても旦那様自身がこの事をかさに
人を威圧する性格が見受けられます。
そういう境遇が持たしたら性格かもしれませんが、実際問題
多少危険である事は覚悟する必要があると思います。

出来れば御実家のご両親にもきちんと相談されて、考えうる
対応を模索しておく必要があると思います。

それでも先を考えれば、行動する価値は十二分にあると思います。
今は×1も珍しくありません。
心穏やかな生活が迎えられると良いですね。

難しい問題ですね。 差別する事はいけない事だと倫理を
説いても、実際にはいろんな形で区別されている事も事実。

自分がその立場に立った時に、つゆほども気にせず過ごせるか?
と聞かれると自信がありません。

普通に・・・・と言う気持はよくわかります。

昨今は、まだ昔ほどの差別はないにしても、中には未だに
違った目で見る人がまだまだいる事も確かです。

そのうえ、いろんな事件が世間を騒がせますから、この事が
表だって知られるようになれば、なにがしかの弊害はあるやも
しれませ...続きを読む

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
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Q徳川幕府の最大の名君・暗君は誰?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7

徳川幕府において、最大の名君と言えば誰でしょうか?
幕府の礎を築いた徳川家康。
その百年後に享保改革を行ない、幕府財政を立て直した吉宗。
おそらくこの2人が筆頭に挙がるでしょう。

では、最大の暗君とは?
「お犬様」を保護する「生類憐れみの令」という偏狭な動物愛護法を
国民に
押し付けた綱吉。
子供を53人も産むというムチャをして幕府の財政を疲弊させた家斉。
鳥羽伏見戦において敵前逃亡をした慶喜。

皆さんの考える徳川幕府における最大の名君・暗君は誰ですか?
それぞれ挙げてください。

Aベストアンサー

何をもって名君と言うか。   ここでは幕府の為の名君でなく日本国民の為としての、名君を取り上げて見ましょう。
「そうせい公」であっても国民が豊になり、喜ぶ時代であったなら名君です。   もう一つ、時代の変化を読み取り、その方へ舵をとれば、たとえその時代に成功しなくとも、国民にとつては名君でしょう。

家康  は勿論。   前者の轍を踏まず、新体制を作り長い泰平の世を作る。
家光  家康の蓄財を惜しげもなく費消し、経済の活況の基とした。
綱吉  元禄の盛況を国民は謳歌した。   「お犬様」の失敗はあっても。
吉宗  経済の停滞から革新を夢見た。   失敗続きでも挑戦の意欲は評価できます。
家治  田沼意次の登用。   意次は時代の変化を正確に見ていましたが、改革を急ぎすぎました。   功をあせったと言うのか、じっくり布石をして、次の世代に渡すべきでした。   残念です。
   そのあとの改革はまるで、時代の逆行です。  新井白石も経済に強い関心がありましたが、具体策なく日本の金銀海外流出を、防げませんでした。
慶喜  幕府閉幕の決断です。

何をもって名君と言うか。   ここでは幕府の為の名君でなく日本国民の為としての、名君を取り上げて見ましょう。
「そうせい公」であっても国民が豊になり、喜ぶ時代であったなら名君です。   もう一つ、時代の変化を読み取り、その方へ舵をとれば、たとえその時代に成功しなくとも、国民にとつては名君でしょう。

家康  は勿論。   前者の轍を踏まず、新体制を作り長い泰平の世を作る。
家光  家康の蓄財を惜しげもなく費消し、経済の活況の基とした。
綱吉  元禄の盛況を国民は謳歌した。...続きを読む


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