『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

仏教には守るべき五戒というものがあるそうです。(1)不殺生戒(2)不偸盗戒(3)不邪淫戒(4)不妄語戒(5)不飲酒戒というものです。これらをしっかりと守ることでどんな社会を出現させたいと仏教は考えているのでしょうか?あるいはこれら戒めを破りつつも、そのたびに悔悟するようにせよとしておられるのでしょうか?

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A 回答 (11件中1~10件)

 こんにちは。



 ブッダもそれは苦労したと思います。考えに考えたのだと思います。
 ここでは 五戒のうち《ころすなかれ / ぬすむなかれ / うそ・いつわりを言うなかれ》は およそ普遍的な道ですので そして《不飲酒戒》は一般にどうでもよいと考えられると思うので 《姦淫するなかれ》のみを取り上げます。

 基本的な考え方として 戒律・禅定・智慧のみっつがまとまってひとはめざめる(ブッダになる)ということだそうですね。
 おそらく戒めを守って難行苦行をしたから悟りが得られるとかいうのではなく(ただし得られないというのでもなく)
 いちど心にたましいの落ち着きを得たからもう大丈夫だというのでもなく(でも いちどの即身成仏ですでに生涯のやすらかさを得たという見方もあるようで)
 智慧がすぐれているからもう何が来てもだいじょうぶということでもなさそうで。・・・

 動機としては 生老病死の四苦をあきらかに見ることを目指したとも言われますが 老病死のみっつの苦については分かりやすくても 生という苦については 分かりづらい。宮元啓一の説によると――これはわたしは bonbonnier という方からおそわったのですが―― 生存欲のことだそうです。なおまだ分かりにくい部分を残すと思いますが 周りのことが目に入らずただひとりだけにおいて生きようという欲望に駆られているときの無明(無知)なのでしょうか。

 ▲ 宮元啓一:苦楽中道――ゴータマ・ブッダは何を発見したか――
 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles …

 ☆ これによると まづブッダが初め修行のためについた仙人らのおしえは こうであったと言います。
 ▲ ~~~~~~~~~~
  輪廻←―行為(業)←―欲望

 すると、輪廻的な生存をやめるためには、つまり解脱にいたるためには、善悪の業を滅ぼせばよく、善悪の業を滅ぼすためには、欲望を滅ぼせばよいことになる。この解脱のメカニズムを図示すれば、つぎのようになる。

  欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱)

 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ところがブッダに分かっていたこととしては この《欲望の滅》などは 一時的な・心理的な・うわべのことに過ぎないということ。そこで到達した結論としては 先に触れた生存欲としての無明なのではないかだったと。欲望の起こる根源を見つけたのだと言います。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~
  輪廻←―善悪の業←―欲望(貪、瞋)←―根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)

 ・・・では、欲望のよって起こる根源である根本的な生存欲を滅ぼすにはどうしたらよいか。それは、ふつうの人間には自覚できないことをはっきりと自覚すること、根本的に無知だった状態から最終的に脱出することである。
 これを可能にするものこそが、無自覚、無知の対極にある智慧であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。すると、解脱のメカニズムは、図示すれば、つぎのようなものに改められることになる。

  根本的な生存欲の滅―→欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱)

 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ただしこの智慧は わたしに言わせれば たとえば梵我一如としての世界との一体感に見られるような《心がやわらがしめられている状態》だとは思います。そのことは措いておいて ブッダの考えによると 五戒のうちの特にいま取り上げている《(3)不邪淫戒》はたとえば 
 ▲ 苦行は心身を清澄にする効能がある。
 ☆ といった観点からも 智慧に到るひとつの道であると考えられたようです。

 ★ どんな社会を出現させたい
 ☆ かと言えば 一人ひとりが世の中について ものの見えたる境地に到っている社会であろうと思われます。
 ただ たぶんですが ブッダは なにぶんにもブラフマニズムを否定しておのれの説を打ち出しましたから けっきょく神はいなかったわけですし 後世に説かれて来る仏性も明確には言わなかったので 拠りどころがあいまいに成ってしまった様子です。
 《おのれ》を拠りどころにせよと言っているか あるいは《ブッダ自身 もしくは 観念のブッダ》をそれとするか。さらにあるいは 《戒律のみ もしくは その修行のみ》という派閥を生むことになってしまったか。《言葉では何も言い表わせない》という密教方式に走ったか。などなど 拠りどころは不明確・不明瞭なものとなりました。つまり多様なものとなりました。
 ぎゃくに言えば 仏性 このひとことで済むはずだとも言えます。
 それにもましてブッダ自身が唯一のカリスマになってしまったとすれば そのおしえは――わたしには――インチキだったと思われます。
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この回答へのお礼

「適当に五戒を守れ」ではなくてしっかり守れとのご趣旨であったとのこと、有難うございます。そうだとすると、五戒とは信者のための戒めであって社会に与える影響についてはお釈迦様が関心をお持ちでなかったと想像しました。「不邪淫戒をも含めて強く守れ、守らなければ悟りには届き難いもの」とのお釈迦様のおさとし考えます。ご紹介の宮元啓一氏のホームページも大層示唆に富んだもので感服いたしました。有難う御座います。この方向でさらに考えを進めることにします。

お礼日時:2010/12/02 16:37

 ANo.7において、質問者さんのコメントを頂きました。



 【「五戒を完全に守ることは困難だ」とおっしゃるのですね。そうしてなおかつ疑問が残ります。「守れそうにない五戒」なのか「強く守れ」なのか?守ることで何が得られるのか?】

 1. 「五戒を完全に守ることは困難だ」という件
  そういうフレーズでの表現をしておりましたか?いい抜けではありませんが、そういう意味の事は申し上げておりませんで、人それぞれに一定の教えを頂き、理解し精進していきます。
  同じ人はいませんが、オリジナル性は貫かれなければいけません。
  言葉の意味や知性だけではなく、実際に精進する中で「不可能なアヒムサ」の実際の意味内容が始めて分ってくるものだと存じます。
  知的い形式的に論理演繹して内容をことば化するものではなく、私達の人生での不殺生の意味を知ることでなく、その教えで何を実現し、自分の何をもたらそうとしているかのことだと存じます。
  つまり教えの当為命題の出てきている基盤を自己に持つことだと存じます。

 2. 「守れそうにない五戒」の件
  私は五戒は守らなければいけないと存じます。それ以上ではありません、それ以下でもありません。
  従って当然に、「守れそうにない五戒」ではありません。
  素人ですが、“戒”をどう理解するかではないですか?
  自然界、動植物の存在と存続。この遣り方に戒に違背しているとかなんとかいいますか?
  毒蛇が自己の保全のために殺そうとしなくても人を噛んで殺して、殺人になりますか?
  毒蛇は誰の毒を持っているのですか?
  毒蛇はその毒で自分は死なない。
  創造界の中に、人間には不正義や不道徳となるようなことがたくさんあって、創造の主格は決してそれで影響を受けていない。
  人間への五戒ですからね。

 3. 「強く守れ」
  ANo.10でも出しましたが、在家にも出家にも強く守れです。
  どうでもいいでありえません。してはいけないこと、私達、Self-Realization Fellowshipの教えでは、ヤマという禁則があります。そしてニヤマは積極的な、逃げないで行いなさいということ。
  そしてアサナという修行、プラナヤマという意識と生命のcontrol、そして内方化、集中、瞑想、サマディといきます。
  五戒はその最初の段階の戒めです。当然守らなければいけません。

 4. 守ることで何が得られるのか
  自分自身の正常性です。

この回答への補足

有難う御座います。「強く守れ」ですね。「仏法とは知識・認識でなくわが身を解決する(度脱する)方法だから、実行できなくてはならない」と思い至りました。皆様のお蔭で五戒を実行する意欲が沸いてきました。皆様有難う御座います。

補足日時:2010/12/03 19:06
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この回答へのお礼

いろいろご意見を頂いて大いに得るところがありました。「五戒を守る」は目的でもなんでもない。私が私の勤めを(仏教徒にふさわしく)果たすためには五戒を守りながらでなくてはうまく行かないはずだ。このことを考えながら勤めをすることにします。皆様有難う御座いました。

お礼日時:2010/12/05 17:11

 ANo.10:最初に


 ANo.10でいう行為とは、私たちにおいては、生活、呼吸、生理作用と生命作用を内包しております。
 私はSelf-Realization Fellowshipというところの哲理で勉強と精進をしてきております。
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 ANo.9のご回答で、私達の信仰では仏教はカルマ(行為)の修行(ヨーガ)だといわれていることの意味を理解する手掛かりがありました。


 五戒はそういう中での、質問者が仰せの、(在家のための)ゆるい指針でもあるわけなんですね。
 有り難う御座いました。
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まず最初に確認しておきますが、五戒というのは在家の信者が守るべき徳目として存在するものです。

後代には、三帰と五戒をセットで受けることが在家信者になるための儀式となりました。出家修行者のほうは、(見習いの期間はともかく)正式の比丘になるには、当然より多くの戒を受けますから、五戒の議論をするという際には、出家者と在家信者の違いを念頭において語ることが前提となります。

さて、この五戒は、あくまでも強制力のない徳目、もっと言えば「心がけ」です。ですから、仮に守れなくとも罰則もありませんし、懺悔も求められません。破ったことで在家信者の資格がなくなる、といったこともありません。比丘にとっての戒と違い、在家信者にとっての戒は、その意味では非常にゆるいものなのです。

なぜそのようにゆるいのかと言えば、五戒が目指すのが、いわば「心の持ちようの意識的な改善」といったものだからです。例えば、五戒を自ら受けて、かつそれを人前に表明した者は、もちろん積極的に生き物を殺そうとは思わないでしょうし、それだけではなくて、虫を踏みつけてしまいそうな場所を避けたり、足元が見えない場所などへの外出を控えようとも考えるでしょう。

仏教は行為の動機に重きを置きます。ですから同じ殺生でも、生き物を意図して殺した場合と、過失によって結果的に殺してしまう場合では、大いに意味合いが違います。五戒も、在家信者に過失も含めて是が非でも守らせようとしたわけではなくて、少なくとも故意に悪事を働くことは抑制しながら、広い意味で日々心がけを改善するような生活態度を求めたものなのです。いわば戒は広野に立てられた旗のようなもので、戒を受けた者は、その旗を常に視界に収めて定点を意識することで、自らの生活を反省的に営みやすくなるのです。

このことからもわかるように、仏教は個々人に対して、大きく言えば「自らをコントロールする人間として生きよう」という呼びかけを行ったと言えるでしょう。原始経典には盛んに、「自らを調御する」という言葉が出てきます。この言葉は、自分でよく考えること、感情や欲望に流されないように反省的に自分を見つめること、そしてそういった態度を怠らずに続けようとすること、そういった仏教の理想的人格に至る営みを一言で表わしたものと言えます。五戒もその理想にのっとったものです。

以上、要点のみ。戒のはなしは、誤解が多いだけに議論が錯綜しがちですので、整理の意味でとりあえずごく基本となることだけを書きました。何か補足のご質問があるようでしたら、時間をみて回答させてもらいます。

この回答への補足

No.8様へのお礼に付記しましたように「適当に五戒を守れ」ではないのだと小生は考えるに至りました。有難う御座います。

補足日時:2010/12/02 16:42
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 #5


 「適当に五戒を守れ」というのではないですよ。
 五戒も三戒もいろいろ人によってあったと思いますし、伝わってきているし、その間には多少手垢もついているだろうし。
 それ、それぞれにその中に入って、或いは一定の修行の中で頂きや出会をしてその内容が分ってくるものではないですか?
 私は、言葉や知性で追究していく事は不適当な界だということを言っているのです。
 また、釈尊など古代からのヒンドゥの教えの世界観って、宇宙は即、人体の知覚経験の用具での構成体ということでもあり、個人の修行は即衆生のためのものだという事でしょう。
 意識は決して個体存在はしない、という論理と哲理ではないですか?

この回答への補足

思い違いをしていました。ごめんなさい。krya1998様は「五戒を完全に守ることは困難だ」とおっしゃるのですね。有難う御座いました。そうしてなおかつ小生には疑問が残ります。「守れそうにない五戒」なのか「強く守れ」なのか?守ることで何が得られるのか?

補足日時:2010/12/02 20:55
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それらの五戒は末法には守る人はいないと釈尊は説き、仏法を持つ持戒だけでよいとされたのです。



何故なら仏法自体を守れないからで、いまは既存の宗派から新興宗教まで全仏教神と同化しているではありませんか。しゃれのようですが、どうかしてます。釈尊は最初仏教を説く時に宗教ではないとされ、神と霊魂の話しを禁じられました。

今や日本の寺院は神仏習合化しているのはあの教団さえお祭りに参加しているので明らかです。話しにならないほどです。南伝仏教でさえ神や仏像を拝んでいますので仏教ではありません。

ですのでこの質問自体成り立たないのです。五戒以前の仏教崩壊の現実には。

ただ持戒を守れる人には五戒を守ってほしいですね。そうすればもっとまともな社会が現出されるでしょうから。

この回答への補足

お釈迦様はよりよい社会をお考えだったのでしょうか。社会をより良くすることに責任をお持ちではなかったと考えておりました。有難う御座います。それにしても守れそうな戒めなのでしょうか?

補足日時:2010/11/30 19:26
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 仏教徒というより、日本の民族に生きているということで仏教の中で私達は育ってきていますので、考えることを投稿する資格があるかもしれません。


 1)は言葉を字義通りに形式的に理解すれば、食事も呼吸もできませんし、道を歩くことも出来ませんね。
  そして害獣や害虫も殺せないし、病原菌もやっつけられませんね。
  このことは自分の修行の実践として、その実践のプロセスで自分で考えるより仕方ないのでしょうね。

 3)はセックスをするな、ってことではないですよね。
 2)、4)、5)は当然なんでしょうね。

 そして修行はmmkyさんが仰せのように、自分の為でもあり、創造存在界全体の為でもあります、ということでしょう。
 そういう修行のための諭し、綱要を示したのが五戒なんでしょうね。
 こういうものは得てして、言葉だけに頼って内容の確定をしようとすると分らないものです。
 言葉では表せないことを、逝っているのだと存じます。
 そしてそのいっていることの背後に更に一定の経過と一定の世界のことを前提しにしていますでしょうから、そういう斟み酌りをする実際の生活が必要ですね。

この回答への補足

「適当に五戒を守れ」とのお釈迦様のおさとしだったとのお考えですね。有難う御座います。

補足日時:2010/11/30 19:18
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これらをしっかりと守ることでどんな社会を出現させたいと仏教は考えているのでしょうか?



○ 釈尊が出した5戒は個人を幸福にすると同時に社会をも幸福にするものなのですね。
仏教でいう悟りとは個人と社会の幸福論なのです。
五戒の(1)不殺生戒は、当時の階層社会では自分より低い階層の者を殺しても罪に問われなかったという事情もありますね。自分たちだけよければ他を害してもよいという考えは社会の幸福論に反しますからね。今でもアメリカなどでは無断で敷地に入ったということで殺されることがありますね。銃社会はインドの当時と同じですね。このような社会はよろしくないというのが不殺生戒ですね。
(2)不偸盗戒: これも同じですが。「盗んで何が悪い。」という国や国民は未だにたくさんいますよ。
まねではなく盗みですね。よその一部の国では普通なことですね。これでは社会の幸福にはなりませんね。当然、個人の幸福にもならないですね。
3)不邪淫戒:不倫するなということですね。不倫は家庭を壊し、結果として社会を壊すということですね。例えば、アメリカなど見て御覧なさい。離婚が多いと子供が正常な幸福を得られませんね。
不倫の勧めのような本や作家もこの不邪淫戒に触れるわけですね。
(4)不妄語戒:個人は当然のこととして、北朝鮮や中国共産党の宣伝見ればわかるでしょう。個人のみならず国家や団体が嘘をつくと決して国民は幸福になりませんね。
(5)不飲酒戒:これはちょっと解釈が必要ですね。当時のインドでは暑いので出来の悪い酒を飲むと死ぬということがあったという理由と、宗教的生活では霊的なものがありますからそれに障るという理由ですね。現代的には「麻薬をやるな。」ということですね。
酒やタバコを適度にたしなむことを否定しているわけではないのですね。呑みすぎ、食べすぎは個人にも周りにもよくないという理由ですから幸福論ですね。

以上のように5戒を守るということは個人や社会に幸福をもたらすということですね。
特に、個人に対しては5戒を守って生活すると、目には見えませんが戒体という一種のシールドが出来るのですね。それによりいろいろな実際の惑わし、霊的な惑わしから自身を守れるようになるのですね。
これは悟りという幸福を手に入れるための実践論の一つなのですね。個人の幸福が社会の幸福につながる、強いて言えば小乗から大乗へということですね。そういう深い意味もありますね。
・・・ということでわりと深い意味がありますね。

この回答への補足

「適当に五戒を守れ」とお釈迦様がおっしゃっておられた訳はないないと考えておりました。一方厳密に守りきれそうにないとも思われます。mmky様は「適当に説」でございますね。

補足日時:2010/11/30 17:48
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釈迦は弟子に五戒を与えましたが、社会には何も戒を与えていません。


釈迦の思想と、仏教はまた別のものであり、現在の仏教と釈迦の教えは似て非なるものですから、五戒とは関係ありません。
釈迦は解脱する為の法として、五戒を弟子に与えました。
弟子によって様々な戒と導きを与えています。

元々宗教は初めは、哲学であり理想社会などは完全にあと付けです。

理想社会の実現などの話が聞きたいのであれば、大川隆法さんや、池田大作さんに会ってみる事をお勧めします。
めくるめく理想社会の話をしてくれる事でしょうから。(笑)

この回答への補足

コメント有難う御座います。お釈迦様は弟子が社会のごく一部に留まっていることを願っておられたのではなく、多分多数の人々が帰依することを願っておられたと考えました。この五戒を社会の大多数が守りきることが可能と考えておられたのか、そうとすればどんな社会を予想しておられたのかと疑問に思っての質問でした。大方の人には守りきれない、さらには出家にも守りがたい戒めをどうしてお授けになったのでしょうか、というのが質問の趣旨です。

補足日時:2010/11/29 16:47
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私は浄土真宗ですがご説教の中に大日如来様の話が出て詳しくしりたいと思いました。

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 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一目見た中国真言宗の最高僧が、「遅し!我、汝を待つこと久し!」と叫んだという逸話があります。

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 密教では当然、大日如来は宇宙(宇宙を描く曼荼羅)の中心であり、諸仏(如来その他)も大日如来から産まれるものとされています。それ故、諸仏の王とされて王冠を被って描かれたり、彫られたりします。場合によっては装身具も身につけます。

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 そう説得するためには、まず阿修羅の存在を認め、次に仏教の中に受け入れなければなりません。

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 従って、大日如来そのものを直接知るのではなく、それぞれの仏などの教えや特徴を知って積み上げていくしかないのではないかと思います。
  

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

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Q仏教の殺生を禁じる教えについて(質問)

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  自分から「大切な人を欲しい」と求めるのではなく、すぐ近くにゐる人の中に、「すばらしいところ。大切にしたいところ」を見出してみるのは如何でせう。自分の行爲、行動を意識的にして、周りの人から、大切に思はれる自分になれるやうに努めてみるのはどうでせう。
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Q仏教の「五戒」や「十善戒」は、いつ頃、誰が言い始めた?

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「仏教において沙弥・沙弥尼が十種の善行(十善)を守らなければならないと定めた戒で、最澄によって定められたという。」 とあります。

最澄が説いたとすれば、紫式部はそんなことクソ食らえとばかりに、不倫あり飲酒ありの源氏物語を書き、宮廷人はその物語に熱中したということになりますね。
それはそれで、私のような凡人にはけっこう面白く、紫式部に拍手です。
一般民衆ならともかく、宮廷人なら仏教の教えの片言くらいは聞いていたと思います。

世の中が乱れて争いが絶えないので仏教会が「戒」を広めたのか、それともただ単に理想を書き並べただけなのか、興味があるので質問しました。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

すでにWikipediaでお調べのようですので、最澄が広めた、または、確立したことは、読んでの通りです。

(1)最澄は、孝謙天皇(こうけんてんのう)にとりいり、僧道鏡が前代未聞の「法王」に任じられた頃に生まれました。

(2)最澄が比叡山に入山した当時は、山岳信仰の霊峰(れいほう)で、「大山咋神(おおやまくいのかみ)」や修験者たちの草庵がわずかにあった程度でした。

(3)延暦7年(788)に最澄は比叡山において自ら薬師如来像を刻んで、後の「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」と呼ばれる堂を建てました。延暦寺根本中堂の前身です。

(4)その頃、桓武天皇が延暦3年(784)に平城京から長岡京へ遷都、さらに、延暦13年(794)に平安京に遷都をしましたが、比叡山は都の「鬼門」にあたるため、「皇城鎮護(こうじょうちんご)」と言う役目を与えられ、都を守る役目を与えられました。

(5)さてそこで、紫式部などとの関係ですが、天皇を初めとする公家衆のほとんどは「神道」で、「加持」「祈祷」などでは仏教の力も借りましたが、仏教を信奉する、と言うことは、当時としては、「俗世」を棄てることでありましたので、多分に、紫式部自身、または、源氏物語では、俗世の「ありのまま」または「汚い部分」が「まかり通った」ことではないでしょうか。

(6)また、日本の仏教の祖師と言われる「聖徳太子」を信奉する「太子信仰」も古くからはありましたが、空海などによる「真言宗」など、「念仏」を唱えれば「俗世の人間」であっても極楽浄土へ行けるとの説法で人々の間でも広く信仰されるようになり、宮中などにも広がりましたが、宮中では、先に述べた通り「仏門の入る」=「俗世を棄てる」の考え方が根強く残っていたのではないでしょうか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

すでにWikipediaでお調べのようですので、最澄が広めた、または、確立したことは、読んでの通りです。

(1)最澄は、孝謙天皇(こうけんてんのう)にとりいり、僧道鏡が前代未聞の「法王」に任じられた頃に生まれました。

(2)最澄が比叡山に入山した当時は、山岳信仰の霊峰(れいほう)で、「大山咋神(おおやまくいのかみ)」や修験者たちの草庵がわずかにあった程度でした。

(3)延暦7年(788)に最澄は比叡山において自ら薬師如来像を刻んで...続きを読む

Qパーセントの計算がまったく出来ません…

本当にお恥ずかしいのですが、パーセントの計算方法を教えて下さい。

お店のバーゲンセールなどでよく「50%オフ」「45%オフ」といった表示を見ます。50%は半分ということは「感覚」でわかるので、定価が2000円ならその50%オフは1000円ですし、1500円なら750円と計算が出来ます。
ですが、たとえば75%オフだとか、44%オフだとか、80%オフだとか、そういう中途半端(?)な数の場合、さっぱりわからないのです。テレビなんかでバーゲンセールを取材している様子を見るとリポーターの女性なんかが「定価が○○円で、65%オフ!?ということは○○円ですね!?」などとパッと暗算で計算しているのを見るととても驚きます。

暗算とまではいかなくても計算機(ケータイにもその機能はありますし)があればいいので、どういう計算式でその%オフされた数字を出すのか教えて下さい。

また、今のバイト先で、商品の売り上げ目標というのを作るのですが、先輩たちのミーティングを見ていると「目標○○万円でしたが、××円しか売り上げがなく、△△%の達成率となってしまいました」と報告をしているのですが、この場合もどのような計算式で計算しているのでしょうか?

消費税を出す場合につきましても教えて頂きたいのですが、今現在の税率は5%で、その計算をする場合は「定価×1.05」で出ますよね。なぜ、1.05をかけるのかわからないのです。

本当にお恥ずかしいのですが、どうか教えてください。まったくわからないので、出来る限り丁寧で細かい説明をして頂けると本当に助かります。よろしくお願いいたします。

本当にお恥ずかしいのですが、パーセントの計算方法を教えて下さい。

お店のバーゲンセールなどでよく「50%オフ」「45%オフ」といった表示を見ます。50%は半分ということは「感覚」でわかるので、定価が2000円ならその50%オフは1000円ですし、1500円なら750円と計算が出来ます。
ですが、たとえば75%オフだとか、44%オフだとか、80%オフだとか、そういう中途半端(?)な数の場合、さっぱりわからないのです。テレビなんかでバーゲンセールを取材している様子を見るとリポーターの女性なんかが「定価が○○...続きを読む

Aベストアンサー

丁寧で細かい説明が希望とのことなので、ちょっと長くなりますが書いてみます。
数学的には無駄の多い説明ですが、分かりやすく説明したつもりですので読んでみてください。

1000円の50%は500円、30%は300円であることは分かりますね?
これは以下計算をしていることになります。
 1000×(50÷100)=500
 1000×(30÷100)=300
●%ってのは●÷100のことです。
で、▲円の●%を求める場合、▲×(●÷100)で計算します。

次、1000円の30%オフって場合ですが、「オフ」=値引きです。
つまり、1000円の30%分を値引きします、ということですよね。
だから、元の値段1000円から1000円の30%分である300円を引いた
残りである700円が答えです。
でもそれを計算するのは面倒なので、ちょっとテクニックがあります。
30%オフということは、元の値段の70%分を求めればよいと考えます。
つまり、1000円の70%なので700円、となります。
ここまではいいですか?

次、達成率の計算ですが、、
目標100万円に対して売り上げも100万円だったら達成率は100%なのは
感覚的に分かりますよね?
つまり、達成率=(実際の値÷目標値)です。
%で表現する場合はこれに100を掛けます。(●%=●÷100だから)
たとえば目標50万円で売り上げ35万であれば35÷50×100なので70%になります。

最後、消費税。前述のオフとは逆で、消費税5%分を上乗せする、と考えます。
つまり、税抜き●円であれば、●円と●円の5%を足した金額が税込み金額です。
式にすると●+(●×5÷100)です。
これが基本ですが、先程のオフの計算のテクニックと同じ考え方が適用できます。
5%上乗せした額ってことは、元の値段の105%分を求めればよいと考えます。
ですから●×(105÷100)です。
ここで出てくる(105÷100)は1.05ですよね。
つまり、元の値段●に1.05を掛ければよいのです。

おまけ。暗算を早くするためのテクニック初級編として3つだけ書いておきます。
1.計算式に掛け算と割り算しかない場合、もしくは足し算と引き算しかない場合、
  順番を無視しても答えは一緒です。
  上の例でいくと35÷50×100は35×100÷50でも答えは一緒です。
  で、100÷50を先に計算して、それに35を掛けます。
  これならすぐに暗算できますね。

2.割り算の場合、前後の数字に同じ値を掛け算しても答えは一緒です。
  たとえば35÷50であれば、前後に2を掛けて(35×2)÷(50×2)でも
  答えは一緒です。
  35÷50の暗算は一瞬悩むけど、70÷100なら簡単ですよね。

3.掛け算の場合、前後の数字を分解して細かく掛け算しても答えは一緒です。
  たとえば25×32を計算する場合、32は4×8なので25×4×8を計算しても
  答えは一緒です。
  25×4は100、100×8で800ということで25×32=800です。
  これなら暗算できそうですよね。

丁寧で細かい説明が希望とのことなので、ちょっと長くなりますが書いてみます。
数学的には無駄の多い説明ですが、分かりやすく説明したつもりですので読んでみてください。

1000円の50%は500円、30%は300円であることは分かりますね?
これは以下計算をしていることになります。
 1000×(50÷100)=500
 1000×(30÷100)=300
●%ってのは●÷100のことです。
で、▲円の●%を求める場合、▲×(●÷100)で計算します。

次、1000円の30%オフって場...続きを読む

Q「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。

「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。
自分なりに調べてみたのですが「諸行無常」と「諸法無我」の意味や違いが理解できません。できれば具体例をまじえながら説明していただければ幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Q仏教・五戒について

はじめまして。
私は、最近、仏陀の教えについて勉強しはじめたところです。

仏陀の教えを勉強していくにつれて、「なるほど、こう考えれば苦悩がなくなるのか!」など、感銘を受ける教えが多かったのですが、
「五戒が全部守れそうもない」ことが、仏陀の教えを守れそうもないネックになっています。

まず、「不偸盗」と「不飲酒」は守れると思います。

問題は、「不殺生」と「不妄語」と「不邪淫」です。


「不殺生」はどこまでが範囲なのでしょうか?
生き物を殺すな、と言われても、例えば、ノミ・ダニやゴキブリは、殺さなくては家が清潔に保てません。
また、もっと範囲を広げて考えれば、我々の食べてるものはすべて生き物なので、直接、殺しはしなくても、誰かが殺したものを食べていることになりますよね?
「不殺生」の範囲・境界はどこなのでしょうか?


それと、「不妄語」ですが、私は性格は平均的人間より正直な方ですが、時には、どうしても嘘をつか
なければならない場面というのが出てきます。人をかばったり、相手を傷つけないために、嘘をつくこともあります。
これも、現実的には守れそうもないです。


それと、「不邪淫」ですが、私は今は20代独身ですが、性欲はかなり強く、アダルトビデオはよく見てしまいますし、今までに、性風俗にも行ったことも何度かありました。
不邪淫を守れる自信はありません。
「世の中に、性風俗が無くなれば、性犯罪が増える」とよく言われますが、田代○さしさんの盗撮事件や、官僚・裁判官・新聞記者・警察の性犯罪事件の記事を見ると、その人達が、女遊びをもっとしていれば、事件を起こさずに済んだのになぁ・・・とも思います。

このあたり、仏教の見解はどうなのでしょうか?

お願いします。

はじめまして。
私は、最近、仏陀の教えについて勉強しはじめたところです。

仏陀の教えを勉強していくにつれて、「なるほど、こう考えれば苦悩がなくなるのか!」など、感銘を受ける教えが多かったのですが、
「五戒が全部守れそうもない」ことが、仏陀の教えを守れそうもないネックになっています。

まず、「不偸盗」と「不飲酒」は守れると思います。

問題は、「不殺生」と「不妄語」と「不邪淫」です。


「不殺生」はどこまでが範囲なのでしょうか?
生き物を殺すな、と言われても、例えば、...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
宗教って難しいですね。

まず、「不殺生」ですがこれは、むやみやたらに殺さないことです。食事のとき「みんなの生命を分けてもらう」という考え方ですね。
例えば「お米の命を戴いて自分の命を繋ぐ」という考え方なのではないでしょうか。
そういった考え方をしていくと「感謝」の気持ちが出てきますよね。「おかげさま」の精神だと思います。

そして「不妄語」ですが、世の中で必要な嘘はあります。他人が傷つくような、迷惑のかかるような嘘をついてはいけないということです。
もちろん自分自身に対しても。

最後に「不邪淫」ですが、敬虔な方なら守るのでしょう。一般的には人様に迷惑のかからないようにしなさいと自分は解釈しています。
実際お寺の住職さんも奥様がいたりお子様をお持ちですよね。

仏教的観点から行くと自分の見解はかなり甘く、五戒と見えないかもしれませんが、一般の方が行うには少し不便な部分もあるかと思います。
ideaismさんの中でideaismさんなりの線引きをしておくことがいいのでは?

Q旅行代理店予約とネット予約、どっちがお得(お勧め)ですか?

家族で温泉旅行を計画中なのですが、JTBなどの旅行代理店で予約を取るのと、自分で泊まりたい旅館のホームページから予約を取るのとでは、どちらがお得なのでしょうか?
列車や飛行機で行くなら代理店の方が得なのはわかりますが、マイカープランなど宿泊だけに関してならネットで予約を取った方が安いですよね?
代理店予約の方が高いのは、単にマージンの問題ですか?
それとも代理店経由ならではの特典があるのでしょうか?(部屋がいいとか?)
あまり旅行というものを企画したことがなく(いつも企画に乗るほうでしたので)疑問に思ったので質問させていただきました。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

こんにちは、

厳密にいえば、旅行会社の窓口でとるほうが高めにはなることが多いようです。理由はいくつかありますけど、スタッフと相談しながら決められるという本来のサービスがうけられますね。

そういうサービスがいらない人向けにこういったたころでも各社ネット専売商品をいろいろもうけて各HPから予約できるようになっています。

ですが主なホテルや旅館など自前のHPを持っているところも多いです。泊まりたい宿があればネットで自前HPも含め予約サイトなど、検索かけて調べてもたいした手間じゃないですよ。

それに、人気のところであれば既に空き室がない場合などもあって、値段云々以前に予約がはいるかはいらないかの問題にもなってきます。

感覚的にいうと、日本国内の食事の付いた温泉旅館やホテルの場合、各予約サイトとも似たようなプランで横並びのことも多いです。違ってもポイント分くらい高いとか気持ち安いとかそんくらいなかんじ。それより空室があるかどうかを重視します。

私が温泉関係の宿を探すときに利用するのが
宿のHP(これでまず値段はもちろんキャンペーンやプランの確認)
旅窓
じゃらん
Eクーポン(近ツー)
アタリかな。そのときによってかわります。扱いの有無もありますが、最初にGOGLEあたりで宿の名前を検索すれば扱いのあるサイトがでてきますのでそれからたぐると便利。

特典がといえるかどうかは分りませんが、確実なのは宿に直接予約をいれるのが一番です。予約変更やキャンセルなどの場合、直接やりとりなんで楽だし間違いがないです。また、部屋についてのリクエストや細かい指定についても直のほうがリクエストしやすいかもしれません。

このあいだEクーポンで初めて手配して飛行機の欠航どたきゃんで変更をよぎなくされたのですが、対応がネット予約とは思えないくらいまとも(笑)でした。ここは、普通ネットの予約だと予約確認メールが自動的に送られてくるだけなんですが、一応担当者らしい人がチェックして送ってくるようなんで安心度高いです。

値段がネット経由のほうが安いのは、人件費や諸経費の問題もありますが、割り当て部屋数が限られている問題もあります。
年末年始や、お盆などトップシーズンでほっておいても予約が入るような時期だと初めから予約不可になていたりしますし、予約を受け付ける期間も制限があります。

販路の窓口が多ければそれだけ販売のチャンスも増えます。空いたままの部屋をほっておくだけなら安くしても売ったほうがよいということです。(トクーなどのように宿泊日が近くなって空き室がある場合安くするとこもありますね)

とはいうものの、最近の傾向としては自前のHPでもお得なプランだしている宿も多く、ネット販売のサイトと比べてもさほど差を感じることは少なくなりましたが。。

こんにちは、

厳密にいえば、旅行会社の窓口でとるほうが高めにはなることが多いようです。理由はいくつかありますけど、スタッフと相談しながら決められるという本来のサービスがうけられますね。

そういうサービスがいらない人向けにこういったたころでも各社ネット専売商品をいろいろもうけて各HPから予約できるようになっています。

ですが主なホテルや旅館など自前のHPを持っているところも多いです。泊まりたい宿があればネットで自前HPも含め予約サイトなど、検索かけて調べてもたいした手間じゃ...続きを読む

Qユダヤ人はどうして嫌われているのでしょうか?

映画「ホテル・ニュー・ハンプシャー」で、
「このホテルにユダヤ人がいるんじゃあるまいな」という
発言がありました。
シェイクスピアの「ベニスの商人」もユダヤ人です。
チャップリンの初期の映画にもユダヤ人をばかにする人種差別的ギャグがあるそうです。
ヒットラーにも嫌われました。
どうしてユダヤ人は嫌われるのでしょうか?
イエス・キリストがユダヤ人なのですが、白人はそう思ってないのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

いくつかありますが・・・
ユダヤ教の中における考え方に「選民思想」があります。簡単に言えば自分たちが優勢人類だ、という代物なのですが・・・
これをもっている民族はたいがい他の民族と仲良く出来ません。
理由は簡単です。本来同等の立場であるにもかかわらず自分たちのほうが上であるという態度を取っているのですから、嫌われるのはある種当然といえましょう(この選民思想に近い思想を持っている民族はすべからく嫌われています。このごろは減りましたがまだそういったのを持っている日本人も同様です。気をつけたいものです)。

さらには独自コミュニティを形成してそれを崩そうとせず、あくまで頑なにユダヤであるということを固持してきました。
これは、キリスト教という緩やかなつながりでつながっていた西ヨーロッパ圏では、ユダヤという存在は異端という点がその場に存在しているようなものです。
日本でもそうですが・・・自身たちとは違う風貌、習慣を持つ人は少なからず煙たがられる傾向があります。
さらには、銀行業などの当時「卑しい」とされていた職業で設けていました。余所者に自身たちの金を吸い上げられるのですから、決して面白いわけはありません。

もう一つが、政治的要因。
政治で、国民の不満をそらす方法に、悪役をつくる、というのがあります。
簡単に言えば、こじつけでも「~が悪い」というのをつくれば、そこに国民の不満がいきますから、政府とかそういったお上に攻撃がこなくなります。
で、ユダヤはキリストを十字架送りにしたというのがありますから、非常に悪役に仕立てやすいのです。上に書いた民族的な特徴も仕立てやすい理由です。

大体、嫌われる、あるいは嫌われている人、民族には共通項があります。
1.お金にうるさい(理由はともあれお金をためる人全般)
2.異文化的である。または異文化の性質を強く持っている
3.異郷の地でがっぽり稼ぐ人
4.郷に入らば郷に従えを実践しない人
5.自分たちのほうが偉いと少なからず思っている人
などなど・・・
ただ、こうやって見るとわかるように、どこぞの民族も似たようなことをやっています(車をアメリカで売りまくって、ご当地の車会社から白い目で見られたりする国です。まあ、いまはあまりやらないのかな・・・?)。
結局、嫌われる民族か、そうでないかというのは、ある意味紙一重なところがあります。
ユダヤが嫌われているのは、これらを満たしてしまっているせいと、国を持たなかったという地政学的悲劇のためと考えています。

いくつかありますが・・・
ユダヤ教の中における考え方に「選民思想」があります。簡単に言えば自分たちが優勢人類だ、という代物なのですが・・・
これをもっている民族はたいがい他の民族と仲良く出来ません。
理由は簡単です。本来同等の立場であるにもかかわらず自分たちのほうが上であるという態度を取っているのですから、嫌われるのはある種当然といえましょう(この選民思想に近い思想を持っている民族はすべからく嫌われています。このごろは減りましたがまだそういったのを持っている日本人も同様で...続きを読む

Q江原啓之さんのカルマの法則

江原啓之さんの考え方が好きです。
しかし「良いことには良い事が、悪い事には悪い事が返ってくる」というカルマの法則がどうしても納得出来ないでいます。

親友だと思っていた人、信頼していた人、自分が心から(恋愛感情では無く人として)好意を寄せていた人ばかりに裏切られて人を信じれなくなってきています。私自身、人を裏切った事は誓って一度もありません。

「人を恨んではいけない」と言う江原さんの言葉を信じて忘れるように勤めていますが、私を陥れた人が今成功しているのを知りショックを受けています(ショックで恨む気力もありません)
私は友達だと思っていたその人に巧みに嵌められ、周囲の人からの信頼をなくし、軌道にのっていた仕事を駄目にされ、職場を追われるまでその悪質な嫌がらせは続きました。彼女の方が賢く魅力的で元々成功する人だった、のは確かですが、騙された者は泣き寝入りしか無いのでしょうか?
「騙されてもを騙しはしない」が信条ですが、「正直者は馬鹿を見るしかないのか…」と哀しくなってしまいます。

同じような経験をされた方、江原さんの考え方を信じている方などのアドバイスをお願い致します(江原さんについての質問がこのカテゴリーに多いようなのでこのカテゴリーで質問させて頂きました)

江原啓之さんの考え方が好きです。
しかし「良いことには良い事が、悪い事には悪い事が返ってくる」というカルマの法則がどうしても納得出来ないでいます。

親友だと思っていた人、信頼していた人、自分が心から(恋愛感情では無く人として)好意を寄せていた人ばかりに裏切られて人を信じれなくなってきています。私自身、人を裏切った事は誓って一度もありません。

「人を恨んではいけない」と言う江原さんの言葉を信じて忘れるように勤めていますが、私を陥れた人が今成功しているのを知りショックを受...続きを読む

Aベストアンサー

江原さんの本は読んだこと無いので自分なりのアドバイスになります。
一言にカルマといっても仕組みは複雑で説明のしようがありません。
また、良いことをしてそれが返ってくる時間もばらばら。
良い種を蒔いても今回の人生で芽が出ないこともあると思います。
でも差はでてきます。
人徳というものは一回良いことをすればできるものではありません。
徳を積み重ねてできるものです。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上
死んでからの話だけではありません。
今生きているこの世界にもあてはまります。
裏切りや苛め、蹴落としてでも上に上がろうというのはどの世界だと思いますか?
されたことに対し同じことを返していたら同じ世界のままです。
悪い人と縁が切れたということはあなたと違う世界に住む人だからです。
ではなぜ悪い世界にいたのか?
学びや経験を得るのに必要だったからだと思います。
それが得られない場合、繰り返し課題を突き出されることがあります。
riratoroさんなら間違いなく良くなってくると思います。
時間的なズレはあると思いますが。

自分が持っている「因」に対し「縁」ができ「果」「報」となります。
「因」が弱まるか切れれば縁は生じません。
逆に「因」があっても「縁」を結ばなかったから腐れ縁にならずに済んだのかもしれません。
良い因には良い縁がきます。
悪い因があっても縁で結ばれることがなければ果、報には至りません。
悪い人、環境から離れられたのですからプラスに考えてみてはどうでしょうか?
お仕事をお辞めになって大変だとは思いますが。。
良い縁がくるようお祈り申し上げます。

江原さんの本は読んだこと無いので自分なりのアドバイスになります。
一言にカルマといっても仕組みは複雑で説明のしようがありません。
また、良いことをしてそれが返ってくる時間もばらばら。
良い種を蒔いても今回の人生で芽が出ないこともあると思います。
でも差はでてきます。
人徳というものは一回良いことをすればできるものではありません。
徳を積み重ねてできるものです。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上
死んでからの話だけではありません。
今生きているこの世界にもあてはまります...続きを読む


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