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 (α) われわれがうつくしさに打たれたとき 《わたし》はあるか?

 (β) つまり《あなた(他者)》はあるか? 他者あるいはわたしを見止めているか?

 (γ) けれどもわれらはその瞬間にとどまれない。ときは ながれる。うごく。ゆえにわれにかえるのか? ここにもどるのか? それとも そのとき(瞬間)にこそわれはわれにかえっていたのか?



 (δ) ピカソの《ゲルニカ》は ピカソ自身か? 別ではないのか?

  (δ‐1) この絵をうつくしいと感じようときたないと思おうと その
    美の知覚や意識に 作者ピカソはあるのか? 

  (δ‐2) ゲルニカの歴史は 絵とはまったく別ではないのか?

  (δ‐3) 《ゲルニカ》の美(もしくは負の美)とピカソの作画態度や
    あるいはその人生経験とは別ではないのか?

  (δ‐4)=(β) 作品《ゲルニカ》を知覚するとき あなたあるいは
    わたしはいるか?

A 回答 (9件)

あくまでも私個人の経験ですが、



美しいアルプスの山を見たときに、”私は昔、天国にいたことがあって、その記憶が蘇った”と自覚しました。神の存在を確信する瞬間です。

閑話休題、

人工の芸術(絵画・彫刻・音楽)の美しさにうたれる時には、精神が作品の美しさをムシャムシャ食べてしまう。そして充たされる。

そうして、精神はひとつ、階段のステップを登る。

いずれにせよ(自然美・人工美)、その方法は原始的なほど自己中心的であり、他に美を認識する道はない。

作品は生み出されてしまった以上、鑑賞する人のものである。ピカソの生涯を知ろうと、知るまいと、その迫力は人の心をかき乱す。そして、作品の素晴らしさは、それを見る人の鑑賞眼に負うところが多い。鑑賞眼の有無が作品の素晴らしさを限定してしまう。

また、鑑賞者が歴史を知らないと作品への観察力および興味は半減する。宗教画を観るときに何が描いてあるのかだけでも判ると、絵画への理解が深まる。しかし、知識は鑑賞眼の有無を補うことはありえない。

以上です。

下手な油絵書きの私としては、一度私の手から離れてしまった作品は、もう、私とは何の関わりもないものです。へたっぴだからかもしれません。
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この回答へのお礼

 チャオポルポさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 絵をお描きになるのですか。《絵画・彫刻・音楽》のいづれにも造詣の《無い》わたしが こんな質問を挙げてみました。
 審美眼ないし美学をめぐって話をしていたら そこに《他者》という主題を出されたものですから それ(《他者》)は 美じたいの主題ではなくそこから伸びて哲学に組み入れたときに初めて 話題になるだろう――こう考えての設問です。

 ★ 一度私(作者)の手から離れてしまった作品は、もう、私(作者)とは何の関わりもないものです。
 ☆ ということが 美を感じることについては当てはまる――こうわたくしも思います。むろん 作者であることにおいて作品とはつながっていますし もっと言えば作者の思いや人生の生き方を交えて作品を解説することもありえます。そのときしかも その解説と作品〔の放つ美〕とはあくまで別物だと思っております。
 もっとくどいように言うなら 《作品の放つ美》と《その解説者》とはその観賞においてつながっています。そしてその美の感覚は その解説者のものです。つまりむろんそこから解説者は 解説を述べているわけですが 今度はその解説(その文章表現)と作品の美とは もはや別物だと思われます。

 微妙になってきたでしょうか。うまく説明していただいています。
 ★ また、鑑賞者が歴史を知らないと作品への観察力および興味は半減する。宗教画を観るときに何が描いてあるのかだけでも判ると、絵画への理解が深まる。しかし、知識は鑑賞眼の有無を補うことはありえない。
 ☆ だとわたくしも思います。さらに分かりやすいように言いかえるなら 作品をめぐって鑑賞者が作者の意図や思いとはまったく別の感じ方をしたとしても 何の問題もない。つまり そういう感じ方としての受け取り方をされてしまうということは 美術にかんする作者であることの限界を表わしており その限界を持つということはきわめてふつうのことである。こう考えます。
 限界を突破する思わぬ(予期していなかった)観賞の内容を得ることもありましょうから。
 

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 人工の芸術(絵画・彫刻・音楽)の美しさにうたれる時には、精神が作品の美しさをムシャムシャ食べてしまう。そして充たされる。

 そうして、精神はひとつ、階段のステップを登る。

 いずれにせよ(自然美・人工美)、その方法は原始的なほど自己中心的であり、他に美を認識する道はない。
 ~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ おそらくこの観賞のあり方も ほかのそれらとまったく同じように 主観におさまる事柄なのだと考えます。むろん ほかの人びとのそれと重なることもあるでしょうし 違っていることも――ごくふつうに 何の問題もなく――ありうるのだと思います。

 ★ 精神が作品の美しさをムシャムシャ食べてしまう。そして充たされる。
 ☆ このあり方に反応するとしたら わたしの場合には その最後になおまだ満たされないものを感じる というのが ふつうの経験です。ゴッホあたりが 例外です。――どうもわたくしは 偏見によって審美眼が曇らされているのかも分かりません。
 ありがとうございました。

お礼日時:2010/11/30 14:06

ゲルニカの美は知覚ではなく理念です。

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この回答へのお礼

 sf75gh33 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 じつは 趣旨説明に書くのをためらいましたが――というのも そのピカソ嫌いのために設問しているのではないかと思われるのを避けてですが―― 知覚としてはゲルニカに美をわたしも感じません。
 ゲルニカを称える声の多くは 理念の問題――つまりヒロシマのごとくにゲルニカの歴史上の位置の問題――ゆえにだと思っていました。いまも思っていますが 今回この質問を挙げるにあたってほかの質問に 次のような声が上がっていたのを知りました。
 ▲ 実物を見ていると 力強さを感じた。
 ☆ といったものです。一点でしたが。

 むろん そうでもいいわけで ただしその場合も知覚と理念とは分けて捉えているとは思います。またそうであってこそ そういう声がとうといのだと考えます。
 というわけで
 ★ ゲルニカの美は知覚ではなく理念です。
 ☆ ということは 一般的に誰もが話を起こすにあたっての共通の認識になるよう願わざるを得ません。 つまり 美という言葉を使うのなら 人間性の問題にかかわって知性としてのうつくしさを言うという意味なのだと。美術は美術で別の話になるのだと。

 ありがとうございました。

お礼日時:2010/11/30 21:25

>(α) われわれがうつくしさに打たれたとき 《わたし》はあるか?



《わたし》=自我は脳がつくりだしたバーチャルなものという説が科学的にもあるらしいですね。
そう考えれば、超集中状態や美にこころ奪われる時、脳が自我をつくっていたエネルギーを対象を認識するエネルギーにまわしているとも考えられますね。
つまり、《わたし》は消滅してるということですね。

>(β) つまり《あなた(他者)》はあるか? 他者あるいはわたしを見止めているか?

 (γ) けれどもわれらはその瞬間にとどまれない。ときは ながれる。うごく。ゆえにわれにかえるのか? ここにもどるのか? それとも そのとき(瞬間)にこそわれはわれにかえっていたのか?

昔、初めてサーカスを観た時は、時間の経過も記憶の内容も一瞬しかありませんでした。
自我が無ければ、時間も記憶も認識できないのでしょうかね。

>けれどもわれらはその瞬間にとどまれない。
数時間観ていたはずですから瞬間にはとどまれると思います。

>ときは ながれる。うごく。ゆえにわれにかえるのか?
興味をひく芸が終わった、飽きた 等の観る側の原因によると思います。

>われにかえるのか? ここにもどるのか? それとも そのとき(瞬間)にこそわれはわれにかえっていたのか?

自我を基準に考えれば、われにかえる。
しかし、自我はバーチャルなものと考えれば、自我の無い動物さんに戻っただけと言えますかね。
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この回答へのお礼

 にゅうとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。質問者としては 《われがわれに還る》という主題についてもう少し突っ込んでもらいたかった。かなと まづは思いました。
 でもたぶん No.1とNo.2のご回答の内容を経験と照らし合わせていただいたのではないかと思います。

 少々愚痴を言いますと 《自我》という用語は好きではありません。理論としても 使う必要がないと考えています。だって《 Ich (つまり 英語の I )》をそう訳しただけなんですから。だいたい《自我》と言うと 《理屈っぽい〈わたし〉》であると感じられ また実際にも 超自我だとかエス(≒無意識)だとかとは別にあるというわけですから 《わたし》がちぢこまってしまいます。

 ★ 《わたし》=自我は脳がつくりだしたバーチャルなものという説が科学的にもあるらしいですね。
 ☆ 《バーチャルなもの》という場合 ややこしい理屈はさておいて わたくしの考えでは《バーチャルなもの》もそれとして現実であると見ることにしています。
 そうすると バーチャル議論や自我問題を別にすると
 ★ つまり、《わたし》は消滅してるということですね。
 ☆ というひとつの結びは おそらく次のように解釈できるでしょうね。
 ★ 超集中状態や美にこころ奪われる時
 ☆ 《〈わたし〉は 自分を意識していないのはもちろん 意識せずとも〈わたしがわたしである〉状態にあった》とも言えるであろうと。すなわちわたくしは
 ☆☆ そのとき(瞬間)にこそわれはわれにかえっていた
 ☆ と考える派でいます。

 《自我》という用語を持ち出すならば
 ★ ~~~~~~~~~~
 自我を基準に考えれば、われにかえる。
 しかし、自我はバーチャルなものと考えれば、自我の無い動物さんに戻っただけと言えますかね。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ となるでしょうね。面倒な《学術語》をつくってくれたものです。日常生活でも使うようですから たちがわるい。でも一般に自分を主張するとか利にさといとかといった場合に特に自我ということが言われますね。これは 欧米の思潮の影響だと思われます。

 ★ ~~~~~~~~~~~
  >けれどもわれらはその瞬間にとどまれない。

 数時間観ていたはずですから瞬間にはとどまれると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりこれは 《その観ていた数時間が瞬間のように感じられた》ということですよね。あるいは《そのあいだわれを忘れていた》ということですよね。
 この問いの場合は――舌足らずでしたが―― そのような《われを忘れている(または むしろわれがわれに還っている)瞬間を意識して持続させることは出来ない。われを意識せずともいられる瞬間に 意識して とどまることは出来ない》という意味でした。


 たぶん残る課題は
 ★ 自我の無い動物さんに戻っただけと言えますかね。
 ☆ と思っても仕方がないところのあるその《興味しんしんで興奮さえしている時間》とそして少し異なるかと思われる《うくつしいと感じている時間》とで 《われ》の問題は どう違うか? でしょうか。どちらも《すばらしい》とは感じているでしょうけれど。
 《〈美〉とは何か?》 になりましょうか。

お礼日時:2010/12/02 09:47

ちょっと失礼します。



質問とは関係ないのですが、ピカソについて思うところがあってもう一度回答させていただきます。

夫はアメリカ人のエンジニアで、私と結婚するまでクラッシックの音楽も、美術館も行ったことのない(芸術的なものに縁のない)普通の人でした。

可哀想に私と結婚したばかりに、世界中の美術館という美術館を、手当たり次第に訪れる羽目になったのですが、彼は美術館の電源から充電できない。。。多分ワット数が違うのでしょう。

自然や静物をありのままに写生した絵が一番好きだという。そんなもの、写真をかけておけばいいんです。

ある日、彫刻の森美術館に一緒に行きまして、あそこにはピカソの最晩年の作品が置いてあるんですが、なんと夫がこれを素晴らしいという。私にこういうのを描いて欲しい、そして部屋に飾ろうというんですね。本当に気に入ったと聞いて、私はびっくりしました。他にも何点か見ましたが、全部お気に入りですね。ピカソ大好き。

何が言いたいのかといいますと、

No.2さんの回答を見て、もしも日本人の多くが、直感的に、ありのままのピカソの美しさを享受できないとすると。。。。ピカソの作品というのは、もしかしたら、肉食の人たちにしか、受け入れられないものではないのか(??)などとひらめきましたので、再度回答したした次第です。

ご面倒さまでした。

この回答への補足

 おぎないます。

 ピカソに美を感じておられる方々に対して そのお気持ちを傷つけたかと思います。
 出来るだけ 好きと嫌いの両方の感じ方を述べるかたちにと思っていましたが 正直に申せば どうしてもピカソの絵は気に入ることがありません そんな事情から ぼろくそに言っております。言ってしまいました。 
 その点 おわびを申し上げます。

 ただし こんどヱブ上でいくつか見ましたが 古典的な絵にしても どうもなじめません。と感じました。どうも画面を止めている。つまり その時間あるいは動きを止めている。というように感じます。
 ひとの表情も きわめて乱暴に言ってしまえば死に追いやっているのではないかとさえ感じました。なんで こんな暗い調子を出しているのだろう。もともとなのか。これは いったいどういう事件なのか。――こう思いました。

 この感覚を《正常》に戻してやろうというお方は どうぞご投稿ください。
 その見方を直してやろうというお方は じゆうにわたくしをののしってでも 《ただしい》見方を明らかにしてください。

 勝手ながら。

補足日時:2010/12/02 17:58
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この回答へのお礼

 となりますと
 ☆☆ 《〈美〉とは何か?》 になりましょうか。
 ☆ という課題が大きく横たわるようにまづ思いました。

 チャオポルポさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 世界は狭い( It's a small world. )と思っていたら 広そうですね。つまり ゲルニカやピカソのほかの作品について《いやいや これでもこういう見方をすれば いいところがあるんだ。捨てたもんぢゃないよ》という答えではなく
 ★ 素晴らしいという。私にこういうのを描いて欲しい、そして部屋に飾ろうというんですね。本当に気に入ったと聞いて、私はびっくりしました。他にも何点か見ましたが、全部お気に入りですね。ピカソ大好き。
 ☆ という反応をなさったということですね。しかもその前には
 ★ 自然や静物をありのままに写生した絵が一番好きだという。
 ☆ ことであったとか。

 わたくしがほかの見方を参考にしたというのは 次のようです。
 ▼ 【Q:ピカソの「ゲルニカ」について】~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3102098.html
 (回答No.1) ・・・ちなみに私はソフィア王妃国立美術館で現物を見ましたが、長時間見ても飽きない 力強い作品だと思いました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その前には 前衛芸術だという説明があります。従来の手法に飽きた人びとの審美眼を対象にして描いたものだから 万人向けではないのだと。
 この前衛芸術だからという見方にも 知覚と理念とが混ぜ合わさっているようにわたくしは感じますが それはいま別として 《力強い》と感じるのは 知覚の領域であり 美の主題そのものだと思いますから 言わば貴重な見方だと思います。

 ★ 日本人の多くが、直感的に、ありのままのピカソの美しさを享受できないとすると
 ☆ これは アンケートを取ったほうがよいのでしょうか。

 ★ ピカソの作品というのは、もしかしたら、肉食の人たちにしか、受け入れられないものではないのか(??)などとひらめきましたので
 ☆ もしそういういきさつがあるとしますと そう帰結されるようにも思われますね。

 いちどピカソは話題になったことがあります。そのときのひとつの見方をここに紹介いたします。
 ◆ 【Q:《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》】 ~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5575536.html
 (回答No.95)
 Pablo Picasso:Family of Saltimbanques, 1905
 は、“青の時代”の作品でしょうか。“親友の死” or “青の具材が安価だった(当時のピカソは未だ貧しい1画家に過ぎませんでしたから)”等の諸説がございますが、この頃の絵は、貧しい人たちを描き続けたことで知られていますが、独特の雰囲気の絵が多いように見受けられます。以下の「老いたるギター弾き」もそのときの作品かと思います。
 http://art.pro.tok2.com/P/Picasso/Picasso.htm
 ・・・(中略します)・・・
 「ドラ・マールの肖像」(ドラ・マール:ピカソの愛人です)ともなれば、愚生もついていけなくなります。確かに、色彩は鮮やかなのですが…..
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一般的な見方ではないかなァと思って引用いたしました。

 アンケートのカテゴリには行かないで この質問でみなさんからもほんとうのところの声を寄せていたけるとありがたいですね。よろしくお願いいたします。
  ○ Pablo Picasso: paintings, photo, biograhpy
    http://www.pablo-ruiz-picasso.net/

 チャオポルポさん ありがとうございました。引き続き何かありましたら よろしくお願いいたします。

お礼日時:2010/12/02 14:12

まず、私の性質を表現した方がいいようですね。



そして、寄寓にも、No.4様の旦那様に大いに共感するんですよね。

>自然や静物をありのままに写生した絵が一番好きだという。そんなもの、写真をかけておけばいいんです。

私も機械の前で何時間も過ごしても飽きないタイプですが
写真というのは意外と雑で、写生の方が描き手の個性や能力がでていて緻密だと感じます。
bragelonne さんがこれに共感していただけるタイプなら、説明を怠けられるのですがね。

>そうですね。質問者としては 《われがわれに還る》という主題についてもう少し突っ込んでもらいたかった。かなと まづは思いました。

おそらく、神や大日如来の領土に還るというイメージなのでしょうが
現状、私はそこに還っているとしても、認識も記憶もできないわけですから
その話は放っておくしかないかなあと思います。
もちろん、後からあの空白の体験は何だったのかと空白の前後を振り返ることはできますが
認識も記憶も無い体験を私は説明はできません。


> ★ 超集中状態や美にこころ奪われる時
 ☆ 《〈わたし〉は 自分を意識していないのはもちろん 意識せずとも〈わたしがわたしである〉状態にあった》とも言えるであろうと。すなわちわたくしは
 ☆☆ そのとき(瞬間)にこそわれはわれにかえっていた
 ☆ と考える派でいます。

私は
そのとき(瞬間)にモードが切り替わった
と考える派です。


> ☆ つまりこれは 《その観ていた数時間が瞬間のように感じられた》ということですよね。あるいは《そのあいだわれを忘れていた》ということですよね。

正確に言えば、モードが切り替る直前と再度モードが切り替った直後は記憶しているということです。忘れたのではないですね。

> この問いの場合は――舌足らずでしたが―― そのような《われを忘れている(または むしろわれがわれに還っている)瞬間を意識して持続させることは出来ない。われを意識せずともいられる瞬間に 意識して とどまることは出来ない》という意味でした。

私はできません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 最後の
 ★ 私はできません。
 ☆ は わたしの文章と同じ意味ですね。

 ★ ~~~~~~~~~~
 私は
 そのとき(瞬間)にモードが切り替わった
 と考える派です。 
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ どう変わったのですか? つまり《われがわれに還る》状態へと切り替わったのか。それとも ふつうに同じ生活の次元であたらしい別の状態へと変わったのか。

 ★ 正確に言えば、モードが切り替る直前と再度モードが切り替った直後は記憶しているということです。忘れたのではないですね。
 ☆ ということは切り替わるというその瞬間は どうなのですか? どういう状態にあるということですか?
 そのとき(瞬間)が われがわれに還るときであろうということ。そして その切り替わる瞬間は――わたしがわたしである状態にあると見なしているのですが―― 意識的に持続させることは出来ない。誰にも出来ないと思われること。
 このように言っています。

 またつぎの内容も同じく言っています。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 おそらく、神や大日如来の領土に還るというイメージなのでしょうが
 現状、私はそこに還っているとしても、認識も記憶もできないわけですから
 その話は放っておくしかないかなあと思います。
 もちろん、後からあの空白の体験は何だったのかと空白の前後を振り返ることはできますが
 認識も記憶も無い体験を私は説明はできません。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もし《われに還った瞬間》を思ったり考えたりするとすれば たとえば上にあるようにあとづけをするのみです。
 ★ 後からあの空白の体験は何だったのかと空白の前後を振り返ることはできますが
 ☆ ということです。ただしその《空白》そのものの瞬間も 或る程度はそれがあったというかたちとしては 意識すると思いますよ。推測であるでしょうけれど。つまりは 《われに還った》と思えるようなかたちの記憶が残っているわけですから。

 ただし わたしは次のようなタイプではありません。
 ★ ~~~~~~~~~~
 私も機械の前で何時間も過ごしても飽きないタイプですが
 写真というのは意外と雑で、写生の方が描き手の個性や能力がでていて緻密だと感じます。
 bragelonne さんがこれに共感していただけるタイプなら、説明を怠けられるのですがね。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 共感できるタイプではありません。機械の前で長く過ごすことはないですね。写真と写生とは 特に比べたりしないです。絵でも写真でも 構図がおもしろかったり色合いがよかったり とにかくうまく図柄が現われていれば どちらでも隔てなくうつくしいと感じます。

 けれども 美とは何でしょうね。

 ピカソはどうなんですか?

お礼日時:2010/12/02 21:55

こんにちは。

この設問はおそらく私の質問に刺激を受けたものなのでしょう。私の質問が個別の議論であったのに対し、こちらはより抽象度のました議論、形而上学であると言えます。私はこの回答には不適当かもしれません。形而上学に美学を含めるかどうかについてさえ、あまり強い関心がありません。

私自身は美の認識があるとき、己があるのだと考えています。しかしその己の成分は、完全に私的なものと、社会からの影響の二通りがあると考えています。そこでゲルニカを観た際に、次のような感慨をもつことはありうるでしょう。「感動はしない。でも、かのピカソだから何かいいところがあるのかもしれない」――この時、認識される美とは社会的に認められている美です。しかし「何と美しいのだ」と感じたとすれば、そこには自己があります。

これがαとβの回答になっているはずですが、γは日本語が咀嚼できません。次の問いに進みましょう。ただしδも率直に、何を問うための細分化の問いなのかが、よくわかりません。まずδ全体の問いに対しては、芸術作品とは自伝的か否か?という意味だとしたら、それは美術史的に回答しなければなりません。これが設問意図ではないでしょう。補足してくださるでしょうから、さしあたって私がゲルニカについてどう思うかを回答します(問いを細分化する場合は通例、三段論法になっているべきです)。

おそらくゲルニカの例をあげたのは、誰でも承知している絵だからでしょうが、私は実物を何度か観たことがあります。子供の頃に観た時は、恐怖を感じました。あの大きな画布の前に立たされ、叫ぶ男の苦悩はまざまざと迫ってきました。物心ついてから観た時は、キュビスムの表現技法に美を感じました。仮にこの惨劇を写実的に表現したとしたら――と想定して比較すると、ピカソの洗練を感じました。今はピカソの力強い生を感じます。

というのも、写実的にゲルニカの惨劇を引き受けたのなら、人は生きていけるのでしょうか。私は難しいと思います。どこかで自分の見たものを忘れ、酒を飲み、浮かれなければ、人生など生きていけるものではないといえます。しかし完全に忘れることは許されない。こうした「強迫観念に近い記憶」に向き合い、格闘する時、あるいは逃げかもしれないが、写実的な表現はこの先も生きていかなければならないものにとって残酷なまでに生々しいでしょう。キュビスムという手法でゲルニカの惨劇を提示した一人の人間の生き方に私は思いを馳せ、画家の命を感じるのです。
こう感じるのは私自身が忘れてはならない記憶をいくつか背負うことになったからでしょう。特に大きなトラウマというものでは無く、誰もが持つようなものではありますが、ピカソの絵を観る時その向き合い方の参考になるのです。

一つ私はbagelonneさんに言っておきたいのですが、近代における美術は作家に教えてもらうものでもないのです。直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。自らが考察し、つかみとり、咀嚼するものです。作品はそのきっかけに過ぎないのです。「わからない」「漠然とした恐怖に襲われる」ということが始まりです。心奪われエポケーの状態になるのではないのです。
私に言わせると直感でわかると思っている人間が怠け者なのです。そして直感で認識できる美を求めるなら、事例は現代アートを避け、古典的な美術を上げるべきでしょう。古典的なアングルの裸婦は見るからに美しく、男性の欲情を冷ややかに煽ります。青みがかった背景に理性的に若い女の裸体が提示されることで欲望は客観化され、容易に同化しきれない冷やかさがエロスを生みます。画家は文化的であるとは何か、美とは何かを丁寧に鑑賞者に教えてくれます。
しかし近代美術は違うのです。問題を提起するだけです。鑑賞者が作品を前にし、思索し、思考し、そこで初めて美のイメージを生むのです。鑑賞者と芸術家のコラボレーションであるといってもよいでしょう。この質問欄でやってらっしゃるように徹底的に問うていいのです。しかし答えるのは自分なのです。

美とはコラボレーションであるという思想は「開かれた作品」というもので、西洋独特のものかも知れません。芸術家にしてみれば自己を表明し、それを他者に鑑賞され解釈されることで、自分の埒外にある認識と融合します――そして一次元高い段階に登っていく、というものです。キリスト教的です(ただこう書くと今度は宗教批判に議論が飛びそうで頭が痛いのですが。私は一つのことに集中して議論するのが好きなので)。
結論的には、bragelonneさんが美だと感じている認識は、近代美術には当てはまらなかったということになるかもしれません。ただし議論する事例に対し転換期を踏まえて適切に分類しないと議論が定まりません。さもなくば論難になってしまうのです。

この回答への補足

 ヤクタアレアエストさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 絵画ないし美術 このあり方を勝手に変えてはだめですよ。とまづは 感性のまま遠吠えを吠えておきまして。
 つまりは 美術観ないし美論についてのお互いの違い(もしくは異同)がはっきりしたように思います。その対比を確認しつつ お応えしてまいります。

 全体の結論として:
 ★ 結論的には、bragelonneさんが美だと感じている認識は、近代美術には当てはまらなかったということになるかもしれません。
 ☆ 美術作品は視覚であり知覚までであると考えます。そのあとの意識ないし認識は 知性でありそのとき知性としての美 これもありうるとは考えます。
 言いかえると 知覚をとおしての美と知性をとおしての美 これはどちらもありうると考えます。

 ★(アレアさん / 西洋近代美術) 直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。
 ☆(ブラジュロンヌの美術観) 直感そのもの。およびそこから直観へみちびかれるもの。

 ★ しかし近代美術は違うのです。問題を提起するだけです。
 ☆ ならばそれは 横着な評論といったところでしょう。人生についてあるいは社会問題ないし文明についての。つまり視覚をとおしてうつくしさを感じるという主題とは別だと見ます。
 つまり煮詰めて言えば たとえばゲルニカの歴史を文章にして問題提起すればよいと考えます。《横着な評論》は 淘汰されて行くでしょう。
 
 ★ 美とは〔鑑賞者と芸術家との〕コラボレーションであるという思想は「開かれた作品」というもので、西洋独特のものかも知れません。
 ☆ 感性をとおして美にみちびく美術作品も 《鑑賞者とのコラボレーションであり 開かれた作品である》と言わなければうそです。《思想を汲み取れ》という意味で《西洋独特》の《近代美術》が現われて来ているというところのようです。そしてそれは 横着な評論だと思われます。

 ★ 芸術家にしてみれば自己を表明し、それを他者に鑑賞され解釈されることで、自分の埒外にある認識と融合します。
 ☆ 視覚に訴える美術もその芸術家の《自己表現》です。人間にとってすべての思惟と行動は 自己表現です。《観賞され――そこからとりわけ――解釈されることで》というところが 横着の横着ぶりを示しているでしょう。《自分の埒外にある認識と融合します》のは 視覚芸術とて同じことです。あるいは 日常の動作振る舞いという自己表現にしてもまったく同じことです。ただし相手〔とその当の人との関係〕によりけりでしょうけれど。そうして次もまったく同じことでしょう。
 ★ ――そして一次元高い段階に登っていく、というものです。

 重ねて異同を確認してまいります。そういうかたちになると思います。
 ★ 私自身は美の認識があるとき、己があるのだと考えています。
 ☆ 美の感覚――あるいは見ることをとおして心のやわらがしめられるのをおぼえ それを美という言葉で表わしておくこと――にも己れはあります。われがわれに還ったという言い方をこれまでして来ています。ただしむしろ日常性に戻れば あたかもその《わたしがわたしである》状態は背景にしりぞいている。そのわたしがわたししているとき その動態が自己表現となっていて おのれがそこにある。ことになる。
 一般に《認識があるとき 己がある》というのは ふつうのことではないでしょうか?

 ★ しかしその己の成分は、完全に私的なものと、社会からの影響の二通りがあると考えています。
 ☆ どういう場合であるかにかかわらず《わたし》は そのふたつの側面を持つと考えます。
  《ひとり(個人ないし孤独)》としてのわたしと《社会性=関係性(互いに個人として存在すると見止めあうわたし。孤独関係としてのわたし)》とです。どんな芸術作品に向き合うときにも そうです。四六時中そうです。

 ★ そこでゲルニカを観た際に、次のような感慨をもつことはありうるでしょう。「感動はしない。でも、かのピカソだから何かいいところがあるのかもしれない」――この時、認識される美とは社会的に認められている美です。しかし「何と美しいのだ」と感じたとすれば、そこには自己があります。
 ☆ 一つ目に言いたいのですが 《かのピカソだから》というところが すでに視覚芸術からは別の生き方(表現形式)にもとづいていることを表わしています。直感〔からみちびかれる直観〕のとうとさを放棄していると見ます。
 ★ この時、認識される美とは社会的に認められている美です。
 ☆ この《美》はまだはっきりしませんね。すでに先に分析して見て来たところによれば 《作品とおのれとの対話をとおしてみちびかれる結論としての思い》でありましょう。

補足日時:2010/12/03 08:22
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この回答へのお礼

 けっきょくそれを単純に 美とは言わないはずです。誰が作り上げたか知りませんが 社会通念というものに過ぎないと考えます。たとえばオ○ム真○教の教祖について通念の中には へええーっと〔困ったもんだという思いで〕言わなければならない内容もあります。しかも――めぐりあわせがわるいことに―― 一般に現代社会についての問題提起を為しているとも考えられる部分さえあります。ピカソは その知覚の段階では《感動しない。みにくい》だけで止まっていますが。
 横着な評論と言いましたが でしたら問題提起とともに自分の見解を言葉でなりあるいは映像でなりと表現して行けばいいだろうと考えられます。

 たしかに――これまでのいく件かのやり取りのあとここらであらためて確認しておかねばならないことは―― 美とは何か? になるようには思います。それが 共通に分かっていれば こんなやり取りもなくて済むように思われます。美とは何なにだ。視覚美も認識美もある。これで済むことになるでしょう。
 ★ しかし「何と美しいのだ」と感じたとすれば、そこには自己があります。
 ☆ 《そこに自己がある》問題は だいたい解決していると思いますが(――つまり 《われに還る》自己の主題と 《孤独および孤独関係という両側面を持つわたし》の主題と これらはつねに《わたし》についてまわるのであって 美術鑑賞いかんにかかわらないと結論づけますが――)
 ★ しかし「何と美しいのだ」と感じたとすれば、
 ☆ のその《うつくしい》というのは そもそもどういうことであるのか? になるかと思われます。

 さてゲルニカです。何度も実物をごらんになったそうで そこから:
 ★ 子供の頃に観た時は、恐怖を感じました。あの大きな画布の前に立たされ、叫ぶ男の苦悩はまざまざと迫ってきました。物心ついてから観た時は、キュビスムの表現技法に美を感じました。仮にこの惨劇を写実的に表現したとしたら――と想定して比較すると、ピカソの洗練を感じました。今はピカソの力強い生を感じます。
 ☆ このあとさらにその美としての表現技法の中身を分析されています。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 というのも、写実的にゲルニカの惨劇を引き受けたのなら、人は生きていけるのでしょうか。私は難しいと思います。どこかで自分の見たものを忘れ、酒を飲み、浮かれなければ、人生など生きていけるものではないといえます。しかし完全に忘れることは許されない。こうした「強迫観念に近い記憶」に向き合い、格闘する時、あるいは逃げかもしれないが、写実的な表現はこの先も生きていかなければならないものにとって残酷なまでに生々しいでしょう。キュビスムという手法でゲルニカの惨劇を提示した一人の人間の生き方に私は思いを馳せ、画家の命を感じるのです。
 こう感じるのは私自身が忘れてはならない記憶をいくつか背負うことになったからでしょう。特に大きな トラウマというものでは無く、誰もが持つようなものではありますが、ピカソの絵を観る時その向き合い方の参考になるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《芸術家と鑑賞者とのコラボレーション》として
 ★ 鑑賞者が作品を前にし、思索し、思考し、そこで初めて美のイメージを生むのです。
 ☆ のかたちを具体例として示しておられます。
 わたしがいぢわるく見たくなったその中身としましては 《すでに何らかの惨劇に向き合いその後もその歴史とどう取り組むかについて自分なりの答えを出していたから》 そのようにピカソという問題提起者と対話をおこなった。のだと見るということです。
 さらにいぢわるの虫が起きてしまったのですが そこに《力強さ》を感じるというのは 社会通念から来ているのではないか これです。そういうふうに思うのが正解であるという通念のことです。
 むろんこの通念は すでに触れましたように《すでに惨劇に向き合い事後にもそれと取り組む覚悟も態度も出来ている》というところから生まれて来てはいるはずです。ですから 通念の中身は 現実的であり うそではないものです。

 わたしの暫定的結論は こうです。
 ○ ピカソが イドラになった。それだけの話である。
 ☆ 剥き出しの表現による表明であるほうが 良心的であると思いました。どうでしょう。

お礼日時:2010/12/03 08:57

お礼ありがとうございます。



なにぶん10歳くらいのときの経験なので
目を開いていたはずなのに数時間意識が抜けていて
子供ながらに驚いたことくらいしか覚えてないですね。

正直、逆にあの経験は何だったのかを教えてもらいです。
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この回答へのお礼

 にゅうとさん いまアレアさんとの対話をひとまづ終えたところです。――ご回答をありがとうございます。――
 けっきょく
 ○ 美とは何か?
 ☆ この主題に行き着くもののようです。と感じています。
 
 わたしに分かっているというものではありません。これから みなさんとともに 問い求めてまいります。

 * サーカスをうきうきとした気持ちで見に行った経験は わたしにもありますよ。小学校高学年でしたから 同じ歳くらいでしたよ。わざわざ友だちとだけ一緒に――つまり親や大人と一緒にではなく ほとんど初めていくらか遠い町にまで――出かけました。
 わたしの場合 そのサーカスの内容よりも(と言っても感動して帰って来たのですが) そのように子供たちだけで電車に乗って遠くまで行ったことのほうが 感覚としてはいまも残っているようですが。

お礼日時:2010/12/03 09:05

再回答を試みますが、私はあまり生産的な議論を出来なかったようですね。

私としては誠意をもって書いたつもりでしたが。

(1)問題の切り方
>言いかえると 知覚をとおしての美と知性をとおしての美 これはどちらもありうると考えます。

私は事象を絞った上で自分の意見を述べることが重要だと述べているのであって、そちらの意見を否定しているのとは違います。私は少なくても、古典的な作品を鑑賞するにあたっては、bragelonneさんの見方が成立するであろうことは述べていますよね。斜めに論評する態度に対して怒ったのかもしれませんが(しかしそれならピカソでは無くて、アングルを例にもってくればいいのです)。
ただし、bragelonneさんは何も絞らず、漠然と信条を表明しているだけです。何もかもを横断できる議論をしようとしてらっしゃるが、それは網羅的に事象を検討した人のみが許される議論の立場です……。

(2)イドラ?
>わたしがいぢわるく見たくなったその中身としましては 《すでに何らかの惨劇に向き合いその後もその歴史とどう取り組むかについて自分なりの答えを出していたから》 そのようにピカソという問題提起者と対話をおこなった。のだと見るということです。

私を批判するにあたって非常に大切な箇所ですね。しかし「いぢわる」ではなくて非礼だなと思います。というのもそれは私の経験の更なる告白を求めているからです。
次のように実際を言ったら的外れだったとわかるでしょう。――私が最後にゲルニカを観た時は十八歳で、念頭にあったのは親友が自殺したという問題であり、何ら歴史問題ではありません、と。ゲルニカと私の念頭にあったテーマは一致しないのです。これで書いてらした議論の大半は的外れだとわかるはずです。

>ピカソが イドラになった。それだけの話である。

決め台詞ですが、ピカソがイドラになるという日本語がまず通じません。正確にいえば「ピカソの作品から読み解いたことがサイコロ氏の自己形成の材料になった」ではないですか。
そしてこの時点で、すでにbragelonneさんは自分で論破されてらっしゃる。というのも「自分自身の力で」他者の生からつかみとったものを糧にしているという意味であるなら、これはイドラの定義から外れます。先入観は自己で構築できるものではないからです。
もっと日本語の問題をいえば、イドラは「なる」ものではなく、「ある」ものなのです。「なる」を使いたいなら、「イドラ」では無く「崇拝対象となった」など別の語を当てるべきでしょう。

(3)横着な芸術?
美術作品を横着な評論というが、私の話にも騙されたと思って一度乗って、美術館に行って御覧なさい。

>絵画ないし美術 このあり方を勝手に変えてはだめですよ。とまづは 感性のまま遠吠えを吠えておきまして。

実は私はこの件に関しては専門家なのです。だからこそ自信をもってお勧めしますが、つまらないと思った著名な作家の作品の前で、一時間、自問自答してください。それを週に一度で一年やって、ダメだったら、私は話相手になりますし、意見も聞きましょう。画集でもいいが、最初は美術館にいってください。
しかしそれができないようだと、もう議論する気はありません。
というのも、そちらの議論は相手に寄りかかるばかりで、自分を律してらっしゃらない。自分の経験が伴ってないが、聞きかじった理屈だけ振り回してらっしゃる。ディベートを楽しみたいなら、私とは遠慮してください。

(4)私のみる問題点
芸術家が横着だと感じるのは、それはbragelonneさんの立場が、資本主義社会における消費者の位置に「甘んじているにすぎない」からです。お金を払ったんだから、わからせてください――というだけのことです。
しかしそもそも最前線の研究は教科書など無く、自問自答です。問題提起だけがあり、それに向き合い、苦心して模索して行くものです。学者はそれをまとめます。芸術家は投げ出す形で問題提起するのです。どちらがいいかといわれると、学者の方が親切であり明快かもしれません。しかし問題は論理でさばききれるものではないかもしれません。だからこそ芸術もまた大切な問題提起の表現手段なのです(この意味は非常に重要ですが、ご自分で考えてみてください。教えることではないので)。

そしてたとえ明晰でなかったとしても自らの声を上げること――その声はbragelonneさんの言葉を使えば、スサノオなのではないですか。芸術家はアマテラスでは無く、スサノオなのですよ。私としてはそちらの用語を使うほどに配慮しているつもりです。
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この回答へのお礼

 アレアさん ていねいなご説明をありがとうございます。そして前回のやはりていねいな解説をいただいてそれに特定したお礼をまだ述べていないと気づきました。近代美術は 問題提起でありそれと向き合って論理で分かるものだという定義は じつは初めてうかがったものです。
 それほどいわゆる知識人の常識にとぼしい状態で 発言をしておりますが いまのところ持ちこたえているとも考えています。
 とにもかくにも蒙を啓いてくださったことに感謝申し上げます。

 今回のご議論は 前回に互いの異同が明らかになったと思われるところをいとも簡単に超えて悪いですがあいまいなままお話をつづけていらっしゃる。そういう反応にまづなります。つまりは もし近代美術がそういう定義であるのでしたら もはや美術ではなくなったとわたしなら考えます。第二美術と言いましょうか あるいは《文芸評論に付属する絵画〔なら絵画〕部門》と言うのがよいと考えます。
 そうして このように論じる対象分野がお互いに違うわけですから 生産的になりえず かみあうこともないということになります。すなわち
 ★ >(☆☆)言いかえると 知覚をとおしての美と知性をとおしての美 これはどちらもありうると考えます。
 ☆ つまり ふたつのジャンルを互いに別々に扱っているのだと分かったと言っています。
 もしこのことでわたくしが《網羅的に事象を検討》しておらず 《何も絞らず、漠然と信条を表明しているだけ》だとすれば 現代においては《近代美術》の行き方によらなければ美術論ではないと表明されたことになります。まぁ《遠吠え》うんぬんともわたし自身が言っていますから それはそれでこちらも認めたかっこうなのですが。

 ただし どうしてそうなったのか? その社会的なあり方は どのように分析できるか? について最後にひとことで
 ★ >(☆☆)ピカソが イドラになった。それだけの話である。
 ☆ と申し述べております。言い回しがわるければ 《アイドルにされたし なった》と言い直しておきます。 これにつきましては そちらからはむしろわたくしの見方や社会的なあり方が 時代の思潮に流されているというご指摘もありました。
 ★ 芸術家が横着だと感じるのは、それはbragelonneさんの立場が、資本主義社会における消費者の位置に「甘んじているにすぎない」からです。お金を払ったんだから、わからせてください――というだけのことです。
 ☆ 残念ながら この《資本主義の歯車の動きがからんでいるし そこに絡まって行った》のは ピカソであろうし 鑑賞者一般であるのではないかと見ることになります。そう感じられます。つまりアイドルにされたし みづから成ったという評言です。要するに 売れるようにしたし されたという意味です。また 解説つき(論理で分かる)というところでは 知識人も一役買っているのではないか。
 わたしが美術館におもむく前に この構図を示す分析が無効であるかどうかをお考えいただければさいわいです。

 つまり ヒロシマやナガサキを乗り超えるという元気と知恵は スサノヲ市民のものである――この基礎に立つのが 肝心だとわたしとしては思うわけです。この基礎の命題を外すわけにはいかない――このことをのみ 繰り返し言い続けているのがわたしですから。
 これは すでに言いましたように現実でありウソではありませんから そんぢょそこらの作りごとではありませんが それでもピカソをアイドルにするというのは そのあとの影響を考えると 逆立ちすることになる。こう考えます。
 つまり世界的な社会通念が先に人びとのあたまの中に入ってしまって ピカソと言えば黄門の印籠ということになってしまうという意味です。

 ただし 個人の体験――ピカソ体験についても――は別だともはっきりすでに言っています。No.2およびNo.4のお礼欄補足欄で そういう知覚としてのピカソの美のあることに敬意をはらっております。
 《わたし》には 個人性と社会性との両面があると互いに了解しているではないですか。アイドルになったという通念は むろん個人の体験よりあとに(また それとは別に)生成してくるもので しかも社会性という側面において生じているものです。決して失礼なことは言っておりません。

 ジャンル違いであるにもかかわらず もし評言をあたえるとしたら――それは もう美学という分野を超えて・つまり ここは哲学のカテゴリですからその点ではまともだと思われることに――:
 ○ ひとりのスサノヲであるピカソは 資本主義社会のアマテラス層によって取り込まれ その資本の自己運動の中にしっかりと根を下ろすようにして(歯車のひとこまとなって) 組み込まれてしまっている。
 ☆ となります。ニ千字にて。

お礼日時:2010/12/03 13:39

再回答しましょう。

Bragelonneさんはわかっているのか、何なのか……おそらく「まさか、そんなものが芸術なはずがない」という思い込みがありませんか。核心には迫っていると私は考えます。

(1)芸術の自己否定
>つまりは もし近代美術がそういう定義であるのでしたら もはや美術ではなくなったとわたしなら考えます。第二美術と言いましょうか あるいは《文芸評論に付属する絵画〔なら絵画〕部門》と言うのがよいと考えます。

大筋でその通りです。ヘーゲルが「芸術の死」を宣告したように、近代芸術とは自己否定することによってしか自らが芸術であると証しだてられなくなったのです。こうした矛盾点をどう乗り越えるか?というのが、現代でも有効な問題ではあるのです。議論の大本の入り口にいらっしゃることになります。

(2)資本主義云々
>残念ながら この《資本主義の歯車の動きがからんでいるし そこに絡まって行った》のは ピカソであろうし 鑑賞者一般であるのではないかと見ることになります(……)。

鑑賞者のみならず、芸術家とその作品も資本主義と無縁ではいられないのです。その通りです。近代の芸術の特徴の一つは、スポンサーであるブルジョワにアンチテーゼを突き付けることを一つ、重要なテーマとみなしています。この意味で仰ることは全くその通りだし、ピカソのみならず、同時代的な作家はこの点に自覚的になった上で創作しています。たとえばダリなど。単純化していえば、「わからせてもらえる」と思っているブルジョワに「わからない」上に高額なものを提示して、消費社会にノーを突きつけている側面はあるのです。それだけをテーマにする作家も現代ではいるようです。

>ひとりのスサノヲであるピカソは 資本主義社会のアマテラス層によって取り込まれ その資本の自己運動の中にしっかりと根を下ろすようにして(歯車のひとこまとなって) 組み込まれてしまっている。

それも間違っていません。ピカソは最初、貧乏でしたが、結局お金持ちになりましたから。彼自体取り込まれる動きの中にいたといえます。作品もまた同じです。ピカソ作品が完全に理解されたら、そうなると思います。しかしbragelonneさんは作品を前にして、何かがわからないのでしょう。そうやって作品は獲り込まれることに抵抗し、問題を提起しているのです。取り込む動きは認めた上で、それに抵抗するものが芸術の大切な要素の一つなのです。

(3)スサノオ市民
>つまり ヒロシマやナガサキを乗り超えるという元気と知恵は スサノヲ市民のものである

問題意識もその通りだと思います。しかし現代において表象行為全般はイメージ戦略と無縁ではいられなくなったのです。仮に写真という一番記録性が高い表象方法であったにしても、それが真実の記録であるとはいいきれません。真実を伝える一部である、としか言えないのです。現代思想の文脈で「現実でありウソではありません」とは、簡単に言えなくなったのです。言えないからこそ、どうするか。それが出発点です。広島市自体もこうした点を見据えて動いているという指摘もあります。
前に言語の恣意性とは愚かしいという趣旨のコメントをなさっていましたね。言語が恣意性でしか解釈できなくなったように、芸術も、また一般的に表象行為全体がそうなったのです。それがいいか悪いかを別として、「じゃあどうしようか?」という問いの先が議論の出発点なのです。
ロゴス中心主義が失われたと指摘するだけでは十分では無くて、その先を生きる方法をしたたかに考えることが必要でしょう。こうした試行錯誤の結果、芸術とジャーナリズムの境も、次第に曖昧になりつつあるのです。

以上のように、正しいことをいっていると思います。しかしその議論自体は新しいものでは無く(これをいうとまた怒られてしまうのかもしれませんが)、もう既に議論され、それに応答する形で議論は進歩しているからそ、何か歯がゆい感じがします。そして私の印象だと、これだけ短時間で核心に迫ったということは、もしかしたら本当は勉強なさってご存じなのではないですか。問題は、イドラの裂け目をくぐって、次を覗いてみるかどうか――ということになるかもしれませんね。進む自由もあれば、止まる自由もあるのです。

この回答への補足

 おぎなうと言っても おまけのようなものになります。

 ★ イメージ戦略
 ☆ について それは 心理作戦だから 反措定を成すには到らないのではないかと書きました。そのわたしの発言に対する反措定があります。

 ▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~
 イメージはロゴスに従属するのではない。

 ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。

 このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。

 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。

  ・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
   (1925~ 民族芸術学 美術史学)

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。

 抽象美術はシュジェ意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。

 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。

  ・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 読んだわけではなく 紹介記事で知ったものです。


 ☆ 《イメージはロゴスに従属するのではない》は 
 ○ 美は ロゴスに従属するのではない。
 ☆ と読みたいと考えます。
 ですから わたしの場合 必ずしも ロゴス中心主義でもないとは思っています。直観(ひらめき)が先行しているという意味です。
 ひらめきと美との照合は まだです。

 断章になりましたが。

補足日時:2010/12/04 00:02
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この回答へのお礼

 なるほど。出発点は同じということなのですか。――まづはご回答をありがとうございます。――

 それでしたら――あっ いまは再考をのこすというかたちで書き始めています―― ゴッホは売れなかったですよね。
 エリック・サティの音楽は おもねっていませんし 社会の何ものか音頭取りの人びとによって取り込まれることに抵抗もしていないように感じます。
 ゴッホは売れて欲しかったのだと思いますが サティは――むろん売れて欲しいでしょうが――いわば脳天気だったようにも思います。
 平山郁夫は ブルジョワに育てられたという感じがします。ことわっておきますが 感覚でのみものを言っています。つまりその絵が そういう感じをあたえるという意味です。東山魁夷は 成功したようですが 絵のほうが勝手にそこここを歩いているように感じます。
 魁夷 サティ ゴッホのような行き方もあるのではないですか?

 ★ イメージ戦略
 ☆ これは――それとして成功することもあるわけですが たとえ成功したとしても それだけでは―― 反措定にはならないですよ。せいぜい陣地の取り合いにはなるかも知れませんが 何ら批判はしていません。批判するつもりがあるとは・イメージ戦略に批判するつもりがあるとは 思いません。 
 つまり イメージだからです。心理作戦ですから。


 そして何よりも大事なことは 美は社会経済政治の矛盾を超えています。
 直観 つまりそういうひらめきがあるか無いか それだけで決まるとわたしは考えます。
 ★ 進む自由もあれば、止まる自由もあるのです。
 ☆ 《何もしないたたかい》 これが 井戸端会議のこころです。スサノヲの心意気です。

 
 あとで再考します。

お礼日時:2010/12/03 19:11

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