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木村敏著の『時間と自己』のP46の16行目からの

時間において数えられるものは、そのつどの「今」であるが、今は、それがつねに今であるという点では同一であるけれども、そのつどの具体的なあり方においては異なっている。今はある意味ではつねに同一であり、ある意味ではけっして同一ではない。したがって時間が連続しているのも今によってであるし、時間が分割されうるのも今においてである。今はけっして時間の部分ではない。

がよく分かりません。
どう解釈すればよいんでしょうか?
教えていただきたいです。

A 回答 (5件)

著書を読んでませんし、素人考えながらこの文章のみで解ったような気になったので記載してみます。


的はずれな場合は無視してくださいませ。

>時間において数えられるものは、

 時間を使わずかぞえられるものは存在しませんので、ここは、「時間において、数えられるものは、」だと思います。どちらでもいいのかもしれませんけどね。

>そのつどの「今」であるが、今は、それがつねに今であるという点では同一であるけれども、そのつどの具体的なあり方においては異なっている。

 数えているそのつどはそれぞれが「今」であり、正確には「今」であった。
 「今」は常に「今」であったという点では同一であるが、それぞれの「今」は、具体的に異なる「今」であった。

>今はある意味ではつねに同一であり、ある意味ではけっして同一ではない。

 今はつねに同一の今あり、かつ、それぞれの「今」は異なっているのだということ。

>したがって時間が連続しているのも今によってであるし、

 「今」は常に「今」であったという点では同一であるのだから、時間が連続しているのもその「今」によるものである。

>時間が分割されうるのも今においてである。

 それぞれの「今」は、具体的に異なる「今」であったのであるから、時間は分割されうるのもこの「今」においてである。

>今はけっして時間の部分ではない。

 しかし、上記、いずれの「今」の見方に立っても、「今」をいわゆる時間全体の一部分とすることはできない。 最後のこの部分は論理がすこし飛んでいるような気がしますね。

 それぞれの今は分割はされうるが、過去、現在、未来の現在を「今」として切り出すことはできない解釈します。
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この回答へのお礼

一文ずつ丁寧に解説してくださってありがとうございます。
とても分かりやすいです。
ただやはり「今はある意味ではつねに同一であり」というところがまだよく分かりません。
もしできたら、具体例を上げていただけたら有り難いです。

お礼日時:2010/12/04 22:10

自己の認識において、変化するものを認知出来るのは、そのつどの今という認識単位においてである。


今という空間(時間=変化、が停止したと想定しての今とは空間=物、だけの世界になります)は
それが空間であるということにおいて同一であるけれども、そのつどの具体的な在り方については異なっている(物が変化している=時間が起きている)今はある意味では同一であるけれども、(変化を起こす方向性としての時間が一体である故に)けっして同一ではない。
したがって時間が連続しているのも今(という空間の集積、積分)によってであり、
時間が分割(過去と未来に)されるのも今を基準としてである。
今はけっして時間の部分ではない。(世界は常に今ある、今しかない、という世界の根元的な在り方の単位である)。
というのは、私の考え方を当てはめただけのことです。
勝ってなことを書いた(お詫び 、意図があり、自己主張として、、 これがタメ認知?)として。
私の時間認識を紹介しましょう。

変化がなければ時間はない変化と時間は一体であり同じものである。
変化=時間であり。時間は変化が起こる単位、空間=物、に付随する。実体としては存在しない、
変化を起こす能力方向性、である。
つまり、重力、力、速度、熱、電気、・・生命、心、知恵、精神、といような。実体はないが、物、物の構造に付随する。変化を起こす能力方向性、が時間の形態となります。
時間にも当然、二つあることになります。
変化=変化を起こすもの。としての時間と
変化×(1/変化)=1 としての、存在となるための、(1/変化)を=時計 と置くと

変化×時計=変化の量
変化/時計=変化の質 というむようなものになります。
この、時計、が、地球の自転を1日と、人間が決めた、変化の物差しとしての、時、分、秒、の時間と
一致するものになります。
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この回答へのお礼

なるほど、物理的に考えるとhanniyagiさんのような考え方になるんでしょうね。
詳しいご説明ありがとうございました。

お礼日時:2010/12/06 10:25

これは、何百年も前に言われてることです。


 仏教で説かれてることですね。

「空仮中の三たい」という言葉があります。

 これは生命感から理解したほうがいいでしょう。

 聞いた話で言えば、生まれて死んでいくというようなことや、消えていく存在が空、
姿など肉体は変化しというのが『仮」仮の姿といえるのでしょうか
その中で自分という意識が変わらずある『中」
とどこかに書いてありましたが、

仏教なので間違えていうのはいけないことらしいですから、
ご自身できちんと調べてみるのがいいでしょう。

 間違った解釈によって仏教や宗教が、乱されるというのは手垢にまみれて、わからなくなりますので、
書きながら、間違いがあるのではと心配しながらあえて『聞いた話によれば」とか『書いてあった」とあえて添えました。
 資料が手許にないまま、書いてみました。
 詳しくは、ご自身で調べてみてください。

 まぁ、古くからいわれてることですね。ということと、仏教でしょ。ということがいいたかった。

ですから
、それがつねに今であるという点では同一であるけれども、
 とは、、意識では常に今。ということでしょうか。

>>そのつどの具体的なあり方においては異なっている
 つまり10歳のときと60歳のときは、状況として変化して同一ではない『状況」


また、状況の違いを深く考えると、
 始まりや途中、試合で言えば、勝ってる負けてる状況など、心の状態も違っているでしょう。
 しかし、今は今しかない。

 結局、それを知って、どう使うかで言えば、勝ってても負けてても、今しかない、今しか与えられてない。ということに気づきます。

さらなる結論で使えるように理解を進めれば

 小さなことは気にしないで、今を全力で
 と思ってしまいます。
  
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この回答へのお礼

それぞれの「今」は「今」としては同じだが、「今」ごとに状況が異なっているから同じではない、ということなんですね。
例がわかりやすくて助かりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/06 10:31

>「今はある意味ではつねに同一であり」というところがまだよく分かりません。



 ここは至極自然にとらえてよろしいのでないでしょうか。

 「今」が常に「今」であり続けているのですから、さっきの「今」も今の「今」も同じ「今」であるという事だと解釈しました。つまり、いつの「今」を持ってきても全部「今」だということでしょう。
 数字を数えているとすると、1を数えた「今」も、2を数えた「今」も具体的「今」は異なるが、「今」としては同一であるということかと思います。そして、全部の今が同一だから時間は連続すると行っているのだと思います。


ちなみに、前回の最後の文は

「切り出すことはできない解釈します。」→「できないと解釈します。」へ一字追加します。
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この回答へのお礼

なるほど、そういうことなんですね。
私は難しく考えすぎていたみたいでした。
良い回答をありがとうございます。

お礼日時:2010/12/05 03:04

木村さんの本は読んでいませんから、見当違いかもしれませんが。



これは別に、当たり前すぎることを、言っているだけですよ。

私がこの質問を最初に見たときも、それは今ですし、こうした回答の途中で、分かりやすい単語を見つけようと思い巡らしている時も、今です。恐らく、回答を書き終えて、投稿する時も、今になっているとおもいますが、極々直感にしたがって、理解できるとおもいます。

>時間が分割されうるのも今においてである。今はけっして時間の部分ではない。

この部分は少し分かりにくいのですが、この本の著者が、どのような時間論の上で、文章を構成しているかによって、若干、解釈が変わりそうですね。

ベルクソン=ドゥールズの持続・差異・反復・強度を基にしようと、ゲシュタルト的な時間論、(こんなのあったんかしら)を基にしようと、微妙な表現上の違いでしょう。

問題は、時間を、上から下・右から左といったように、流れていて、その線分を無限に分割できるという、ゼノンのパラドックスに捕まっていなければ、理解できるような気がします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
難しいですが、今はその時々の今があるという考え方なんですかね。

ちなみにここではアリストテレスの時間論の考え方を取り上げていました。

お礼日時:2010/12/04 21:58

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