豊臣秀吉と言えば織田信長の跡を引き継いで天下統一を果たした「天下人」ですよね。

でも小説などでは何故か悪者にされている事が多いのは何故ですか?

例えばドラマ版「信長の柩」にしても映画「GOEMON」にしても、本能寺の変を裏で操っていたのは秀吉というような事になっています。

僕は農民から成り上がって天下を取った秀吉が結構好きです。(一番好きなのは弟の秀長ですが)
まぁ晩年の愚公は嫌いですが秀吉が悪者にされているのはどうも気にいりません。

そういう小説は大体「秀吉=悪」、「家康=善」となっておりそこも気に要りません。

家康の過去の苦労は知っています。(幼少時人質生活や信長に謀反の疑いを掛けられ妻や子供を殺した経緯など)
そうだとしても忠誠を誓った豊臣家を滅ぼし自分が天下人になるというのが何で「善」なんだろうかと。
(個人的に関西人なんで家康が嫌いというのもありますが)

そんなに家康は英雄なのでしょうか?

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A 回答 (12件中1~10件)

信長、秀吉、家康の三人はそれぞれに個性的な魅力を持った人物なので、昔から時代によって人気が変わっていましたよ。


革新的な信長、成り上がりの秀吉、保守的な家康。今は世間が非常に保守的になっているので家康が人気なのかもしれません。バブル直後の不況のときは改革への期待から信長ブームになったときもありましたね。今は成り上がりたくても成り上がれない時代ですから、秀吉人気が今ひとつなのでしょう。黄金の茶室などの典型的な成金趣味である秀吉は今はちょっと時代が合わないのかもしれません。

でも昔から大阪は「秀吉びいきの家康嫌い」ですよ。
最近はマンガでもドラマでもネタにならないですが、猿飛佐助が主人公なら家康は典型的な悪役ですし。今は政治家が小さい奴ばかりなので、大物政治家風の家康がいたらなあって世間の人たちは思っているのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

皆様いろんな回答をありがとうございました。

それぞれに「なるほど」と感心させられるものばかりでした。
どれが「正解」とは解らないので悩みましたが一番自分が納得出来た回答をBAにさせて頂きました。

皆様ありがとうござました。

お礼日時:2011/02/18 00:47

家康は江戸の街並みを基礎から作った人であり、1615年の大阪夏の陣以降、


200年以上続く太平の世を築いた人なのであまり悪く言えないのでしょう。
(明治政府の立場で言えば、徳川家=悪でしょうが・・・)

秀吉の場合、本能寺の変で織田信長・信忠父子が自害した後、信忠の嫡子(三法師)を
後継者にして天下を織田家から乗っ取りました。
当時の武将(織田家の家臣)であれば、織田信長の嫡孫である三法師が成人するまで
信長の次男や三男を後見者として、三法師が成人後は織田家の家督を継がせ、
三法師に政(まつりごと)をさせるのが普通だったのではないでしょうか?

でも、秀吉は信長の次男(信雄)と三男(信孝)の仲が悪いことを利用し、
信孝を切腹に追いやってます。
また信孝の切腹前には、信孝の母子を殺しています。
信孝の母子と言うことであれば、主君であった信長の側室と孫を殺した訳です。

これが、当時の人から見ればどれほど悪だったでしょうか。
また、徳川家康が大阪夏の陣で豊臣秀頼を自害に追い込んだ際は
秀吉が織田家に対して行った酬(むく)いが来ただけと思ったのではないでしょうか。

当然、三法師が元服(成人)し、織田秀信となった後も天下は渡していません。
それに天下を(織田家から)盗った後、甥の秀次に天下を譲りましたが、
秀頼が生まれると天下を秀頼に譲るため、秀次を切腹に追い込んでいます。
秀次だけでは物足りなかったらしく、秀次の子供や正室・側室まで処刑しています。
通常では、女性まで処刑しないものです。

このような理由があるため、「秀吉=悪」と思う方がいるのではないでしょうか?
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ま、時代による流行り廃りの一例なんでしょうね。

小説家もテレビや映画の作者も生き残らなくてはならないので、しばらくの間は秀吉英雄説で金を儲ける。ところがそればっかしだと必ずマンネリ化が飽きられて来る。そんな時に目聡い物書き屋や出版会社やテレビ局が、計算づくで秀吉悪人説を出してくる。一般大衆もそろそろ飽きているので、それに簡単に乗せられる。だから、そんな視点で小説やテレビドラマを作った若いのは時代の寵児として出世できる。そうすると二匹目、三匹目の泥鰌を狙って、日本中の作家やテレビ局が秀吉悪人説をコピーし始めて、大儲けをする。マスコミには何匹でも泥鰌がいると言うのが、黄金則ですから。

そんなのが十年二十年と続くと、また皆が飽きて来る。そうするとまた目聡いテレビ局や物書き屋が今度は秀吉英雄説を出して来る。そんなことの繰り返しなんだと思いますよ。

同じように家康も悪人説と英雄説を繰り返しながら、出版会社やテレビ局が金儲けをしているだけだと思います。テレビ局も出版社も花火が派手にぱっと上がれば彼等の勝ちなんですから。花火の上がり方では、坂本龍馬なんてのは派手に上がったものですね。物書き屋も時代の寵児なりたいので、隙があったら皆と違うことを言おうとウズウズしているようです。まあ見ていてご覧なさい、貴方の生きているうちに、そのうちどこかのテレビで清盛英雄説のドラマが出て来たり、坂本龍馬悪人説が出て来ますから。

清盛も信長も秀吉も家康も、良きにつけ悪しきにつけ日本の歴史に決定的な役割を演じた人達です。だから、流行り廃りに関係なく、歴史学者達は彼等を常に研究し続けている筈です。

その連中と比べると桁違いに小物の坂本龍馬ですら、あることないこと付けまくって、あれだけの花火が上げられるんですから大したもんです。今年の春に京都の嵐山で花見をしていたら、羽織袴のおっちゃんが幟を上げながら自作の坂本龍馬の歌を唱って、自分のCDを買ってくれとスピカーのボリュウムを上げて、折角の花見を台無しにしていました。日本中がこんなです。マスコミの力は馬鹿になりませんね。さて、来年はこのおっちゃん誰の歌を唱っているのでしょうかね。
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人間を評価する場合、何を成したかと言う事と同じぐらい、最期の姿が影響される事は


間違いありません。質問者も言うように、晩年の愚行がいちばんの問題です。
結局、秀吉は成り上がりはしたものの、国を治める体制を作れなかった事に原因が
あるのではないかと思います。

短絡的な善悪で語るべきではないでしょう。結局、人間には、見倣うべき点と
そうではない点があります。例外はないでしょう。英雄と言われた人間にも
見倣うべきでない点はあります。寧ろ英雄だからこそ際立つのでしょうね。

豊臣家の滅亡は、ある意味自滅に近いです。統治能力を失った者に力を与えると
動乱が再び起きます。これは秀吉が自身の後継者を生み出せなかったからです。
血縁の問題ではなく、政治力の面での問題です。朝鮮出兵なんて浪費以外の
何物でもないですから。秀吉は出世する事はできても、国を治める能力やセンスが
乏しく、為政者ではなく戦国武将で限界だったのでしょう。
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秀吉を悪く書くようになったのはここ最近ですよ


昔(20年くらい前まで)は立身出世の代表として書かれていて、天下統一で終わりが普通でした。

特に悪く書かれるようになったのが大河ドラマ『秀吉』以降じゃないかな。あれで朝鮮出兵が描かれ、石川五右衛門を油茹でにするシーンが極悪イメージの始まりかと…

あ、あと、豊臣家という家は無いですからねw
豊臣は本姓であって苗字ではありません。豊臣の羽柴秀吉さんですよ。豊臣秀吉と書くなら平信長、源家康というべきです。
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>豊臣秀吉と言えば織田信長の跡を引き継いで天下統一を果たした「天下人」ですよね。


>でも小説などでは何故か悪者にされている事が多いのは何故ですか?

・戦国時代には数多くの武将がいますが、現在の人にとって豊臣秀吉はかなりメジャーな部類に入るから。(どマイナーな武将の場合は良くも悪くも評価すらされない)

・秀吉の死後とはいえ、死後まもなく豊臣は徳川に敗北したから。(死後100年後に滅亡とかなら話は変わるかと)

・朝鮮出兵を行ったから。(但し、朝鮮出兵で勝利したとか、太平洋戦争で勝利又は太平洋戦争自体が発生してないなら話は大分変わるでしょうね)


この辺が秀吉のまずいところといえる所でしょう。
つまり人物評価において、重要なのは結果であり、過程はどうでもいいわけです。
結果を残せば過程は良く言われ、結果を残せなれば過程は悪く言われる、というのが基本ということでしょう。


>そんなに家康は英雄なのでしょうか?
それは評価する人にとって変わります。
英雄だと思えば家康は英雄ですし、英雄じゃないと思えば家康は英雄じゃない、それだけでしょう。
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まったく詳しくないのですが、家康も秀吉も良く描かれたり悪く描かれたりと同じぐらいのイメージです。



秀吉は大河ドラマの太閤記では緒形拳が秀吉役で良く描かれていたと思います。
草なぎ剛のドラマの秀吉も良く描かれていたと思います。
竹中直人の秀吉もわりと良く描かれていたと思います。


悪い家康といえば大河ドラマの津川雅彦と松方弘樹が演じていたと思います。


戦前は家康は明治政府の敵の悪としてのイメージがあり、戦後も悪いイメージで山岡壮八の小説により良いイメージになったと思います。

秀吉といえば戦前は農民から関白になった英雄で戦後も英雄として人気があったと思います。
太閤記も英雄として人気があったので制作されたと思います。
私のもっているマンガでは秀吉が出世する苦労人として描かれて、家康は豊臣家や大名を騙して農民を弾圧しているように描かれています。

過去の大河ドラマやドラマの家康と秀吉の配役を見ると、どちらも良い場合も悪い場合もあるように思います。

秀吉が悪役になるのは最近の、流行のように思います。
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 明智光秀が何故、織田信長を討ったのかは歴史上の謎であり、理由が判明していません。


 そのため、その動機に関しては、様々な憶測や噂が存在しています。
 例えば、光秀が自身の母親を人質として丹波八上城に預けていたにも関わらず、信長が八上城の元城主である波多野秀治・秀尚兄弟を殺したために、光秀の母親も八上城の家臣達によって殺されてしまった事に対する怨恨であるという説もありますし、誰かにそそのかされていたという説もあります。
 そして、光秀をそそのかした黒幕に関しても、豊臣秀吉に切腹させられた千利休とする説もあれば、徳川家康とする説もあります。
 その中の1人として豊臣秀吉が黒幕であるとする説もありますから、秀吉を悪玉としている作品は、この説を採用しているだけなのではないかと思います。

 又、徳川家康は戦死する事無く73歳まで生きて大往生を遂げていますし、家康の死後も徳川家による政権は二百数十年もの長きに渡って続いた事は、歴史上の事実ですから、もし、家康を悪玉にしてしまうと、悪が栄えるストーリーとなってしまい、客受けに悪影響が出るおそれがあると思います。
 しかしながら、家康が生前の秀吉と交わした約束を破り、豊臣家に反旗を翻した事もまた歴史上の事実です。
 そのため、家康を善玉とするためには、家康が豊臣家を裏切った事に関しても正当化せねばならなくなり、それ故に家康に裏切られた秀吉の方を悪者に仕立て上げる事で、「家康が豊臣家を裏切ったのは、止むを得ない理由があったのだ」、というフィクションを作ったのではないかと、私は憶測します。
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単に徳川家の治世の時代が長かったため、徳川を善とした記録が多いんです。


そうなると、秀吉は無理やりにでも悪にしないと辻褄が取れません。

豊臣家治世の時代の記録を見れば豊臣が善でしょうが、残念ながら豊臣の時代は短いし徳川の時代を超えて記録が残ることも難しかったのでしょう。
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はじめまして。



家康が英雄なのは世を単に太平させたからだと思いますよ。

だから、後世の人たちからみたら偉大な人とゆうことになると思います。

小説やドラマで秀吉が悪者にされることがある理由は、

(1)一般的には木下藤吉郎~羽柴秀吉ぐらいまでは努力の人や
強運の人など良いイメージだと思いますが、

そのイメージは小説やドラマを作る人、または一般の人にとっても
平凡なものです。

だから、悪い秀吉が出てくる。

(2)豊臣秀吉になってから、まぁ天下をとってからの秀吉の態度や行動
とゆうか歴史的史実が悪すぎるとゆうことから。

まぁ、いま残っている歴史をうかがえるものは徳川幕府が残しておいたもの
なので本当のことはわかりません。

ただ秀吉も信長や家康と同じぐらい人気のある戦国武将だと一般的には
思われているので、

だから、Facesさんの意見は普通のことだと思います。

回答ぜひ参考にしてください。

回答
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

なるほど。
たしかに三国志にしても「演技」は劉備は英雄、曹操は悪人ですが「正史」から見たら曹操が英雄で劉備や孫権は悪人という風になっていますもんね。

時の権力者サイドから見たら他は皆「悪」と思われてしまうのは仕方ないのかも知れませんね。

お礼日時:2010/12/06 01:10

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Q織田信長と豊臣秀吉と徳川家康。

 江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。
 その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。
 そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。
 

Aベストアンサー

本来、幕府とは将軍(征夷大将軍を含む)の居場所を指す言葉でした

それから転じて、征夷大将軍の政権機構を幕府と言うようになったのです

将軍は、天皇から将軍宣下を受けて、将軍となったのです
他の回答にもあるように令外の官です、令外の官とは律令に規定されていない役を称します、また、臨時に置かれる官で、その任務が終われれば解かれました

平安時代の征夷大将軍からの歴史を紐解いてください

このようなことは、歴史の経緯が判らなくて、その部分だけを抜き出したのでは全く理解することが出来ません

いろいろな事象は、突然起こるのではなく、歴史の流れの中のわずかなうねり、それがだんだんに大きくなって、あるとき、突然大きな事象となって現れます

ある瞬間を見るのではなく、流れで見ることを心がけてください

Q織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が行った事、功績を教えて下さい。
サイトなどを見ても難しい言葉ばかりでよく分かりません。
簡単に分かりやすく詳しく3人を比較して書いてくださると嬉しいです。

Aベストアンサー

質問者様の意思を尊重して回答します。あいまいですが、ご了承ください。

☆織田信長
貿易の自由化、楽市楽座は大変な功績です。
能力主義で人材を登用した功績。⇒秀吉の登用。

☆豊臣秀吉
私的には、あまり功績は無いと思います。
基本的に、信長の遺志を引き継いだ人物。
子(後継者)に恵まれなかったのが、短命政権となってしまった。
やはり、家康の存在が大きすぎました。

☆徳川家康
戦国時代を終わらせたという功績。

すべては家康で終息しています。
脱線しますが、家康が「本能寺の変」の主犯格との一説もあります。
家康のブレーンに「天海」という人物がいました。
「天海」=「明智光秀」という説があります。明智光秀は生きていたという説です。

歴史に「たら」「れば」はないですが、織田政権とあるいは豊臣政権が続いていたらどうなっていただろうか?と思うとさらに興味が湧いてきます。

Q今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣

今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成さ...続きを読む

Q豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供か?

豊臣秀吉の子供は本当に豊臣秀吉の子供なんでしょうか。53歳で最初の子供が生まれたなど信じられません。あの頃の武将は子供を沢山もうけて、他の武将との政略に使うわけだったのに、若い頃に子供が出来ずに50何歳から子供がやっとできたなど、本当に豊臣秀吉の子供かと疑問に思います。秀頼など、石田光成の種なんではないでしょうか。もっとも、私は歴史音痴ですが。誰も今まで、疑問を呈していた人はいなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

淀殿はとくに秀吉が死んでからは、けっこう大っぴらに大野治長と密会していたらしく、秀頼も大野治長の子なんではないかと結構広く噂されていたそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
真ん中らへん。

Q天皇陛下は家康・信長・豊臣家の子孫?

ニコニコ動画には、「天皇陛下の御先祖様を16代前まで遡ってみた」
というのがあって、それによると現在の皇室は、織田信長・徳川家康・
豊臣秀吉(の母)の子孫であるとの事だそうです。
だとすれば、現代の皇室は日本史オールスターですね。

残念ながら、どういうわけか私はこの動画を見る事が出来ないんですが
皇室が上記の人物の子孫だというのは、どういう流れになるんでしょうか?

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4182383.html
ちなみに天皇が徳川家康の子孫という部分はちょっと違うという
指摘があるようです。(他のルートで繋がっている可能性は大ですが)

Aベストアンサー

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信通」に嫁ぎます。
そして次の第五代臼井藩藩主になる「稲葉知通」を産みます。
その「稲葉知通」の子「稲葉恒通」が臼杵藩第六代藩主になります。
その「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になったのが徳川家康の血筋の女性です。

ここで、ちょっと話を置いて、徳川家康に行きますが・・・
徳川家康の次男に「結城秀康」という人がいまして福井藩藩主となります。
この人も子供がたくさんいまして、その六男「松平直良」が大本藩藩主となります。
その「松平直良」の三男「松平直明」の娘が、臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になりました。

そして臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」と、その正室(お嫁さん)の間に娘が産まれます。
つまり、ここで「信長」と「家康」の両方の血をひく子供ができたわけです。
この娘さんが、公家の勧修寺家の当主「勧修寺顕道」に嫁ぎます。
そして跡継ぎの「勧修寺経逸」を産みます。
その「勧修寺経逸」の娘「勧修寺ただ子」が、第119代天皇である光格天皇に女官として仕え、後に光格天皇の子供を産みます。
その子供が第120代天皇になった仁考天皇です。
ここで「徳川」「織田」の血が天皇家に入りました。
そして第121代の考明天皇、第122代の明治天皇、第123代の大正天皇、第124代の昭和天皇、そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。


豊臣家の場合は・・・
秀吉には、「日秀」という実姉がいました。
この「日秀」が結婚し「秀勝」という子供が産まれます。
この「秀勝」を秀吉が養子にしたりしますが、それは置いておいて・・・
その「秀勝」が結婚し娘が産まれます。
この娘「完子」が公家の名門「九条家」に嫁ぎ、その跡継ぎを産みます。
そして時は流れて・・・
第123代天皇の大正天皇に九条家の娘さんが嫁ぎます。
そして第124代の天皇となる昭和天皇が産まれました。
つまり、ここで「秀吉」の姉の血が天皇家に入りました。
そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。

「織田」と「徳川」なら探せば他にも繋がってるルートが複数あると思います。はい。

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信...続きを読む


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