豊臣秀吉と言えば織田信長の跡を引き継いで天下統一を果たした「天下人」ですよね。

でも小説などでは何故か悪者にされている事が多いのは何故ですか?

例えばドラマ版「信長の柩」にしても映画「GOEMON」にしても、本能寺の変を裏で操っていたのは秀吉というような事になっています。

僕は農民から成り上がって天下を取った秀吉が結構好きです。(一番好きなのは弟の秀長ですが)
まぁ晩年の愚公は嫌いですが秀吉が悪者にされているのはどうも気にいりません。

そういう小説は大体「秀吉=悪」、「家康=善」となっておりそこも気に要りません。

家康の過去の苦労は知っています。(幼少時人質生活や信長に謀反の疑いを掛けられ妻や子供を殺した経緯など)
そうだとしても忠誠を誓った豊臣家を滅ぼし自分が天下人になるというのが何で「善」なんだろうかと。
(個人的に関西人なんで家康が嫌いというのもありますが)

そんなに家康は英雄なのでしょうか?

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A 回答 (12件中1~10件)

信長、秀吉、家康の三人はそれぞれに個性的な魅力を持った人物なので、昔から時代によって人気が変わっていましたよ。


革新的な信長、成り上がりの秀吉、保守的な家康。今は世間が非常に保守的になっているので家康が人気なのかもしれません。バブル直後の不況のときは改革への期待から信長ブームになったときもありましたね。今は成り上がりたくても成り上がれない時代ですから、秀吉人気が今ひとつなのでしょう。黄金の茶室などの典型的な成金趣味である秀吉は今はちょっと時代が合わないのかもしれません。

でも昔から大阪は「秀吉びいきの家康嫌い」ですよ。
最近はマンガでもドラマでもネタにならないですが、猿飛佐助が主人公なら家康は典型的な悪役ですし。今は政治家が小さい奴ばかりなので、大物政治家風の家康がいたらなあって世間の人たちは思っているのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

皆様いろんな回答をありがとうございました。

それぞれに「なるほど」と感心させられるものばかりでした。
どれが「正解」とは解らないので悩みましたが一番自分が納得出来た回答をBAにさせて頂きました。

皆様ありがとうござました。

お礼日時:2011/02/18 00:47

家康は江戸の街並みを基礎から作った人であり、1615年の大阪夏の陣以降、


200年以上続く太平の世を築いた人なのであまり悪く言えないのでしょう。
(明治政府の立場で言えば、徳川家=悪でしょうが・・・)

秀吉の場合、本能寺の変で織田信長・信忠父子が自害した後、信忠の嫡子(三法師)を
後継者にして天下を織田家から乗っ取りました。
当時の武将(織田家の家臣)であれば、織田信長の嫡孫である三法師が成人するまで
信長の次男や三男を後見者として、三法師が成人後は織田家の家督を継がせ、
三法師に政(まつりごと)をさせるのが普通だったのではないでしょうか?

でも、秀吉は信長の次男(信雄)と三男(信孝)の仲が悪いことを利用し、
信孝を切腹に追いやってます。
また信孝の切腹前には、信孝の母子を殺しています。
信孝の母子と言うことであれば、主君であった信長の側室と孫を殺した訳です。

これが、当時の人から見ればどれほど悪だったでしょうか。
また、徳川家康が大阪夏の陣で豊臣秀頼を自害に追い込んだ際は
秀吉が織田家に対して行った酬(むく)いが来ただけと思ったのではないでしょうか。

当然、三法師が元服(成人)し、織田秀信となった後も天下は渡していません。
それに天下を(織田家から)盗った後、甥の秀次に天下を譲りましたが、
秀頼が生まれると天下を秀頼に譲るため、秀次を切腹に追い込んでいます。
秀次だけでは物足りなかったらしく、秀次の子供や正室・側室まで処刑しています。
通常では、女性まで処刑しないものです。

このような理由があるため、「秀吉=悪」と思う方がいるのではないでしょうか?
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ま、時代による流行り廃りの一例なんでしょうね。

小説家もテレビや映画の作者も生き残らなくてはならないので、しばらくの間は秀吉英雄説で金を儲ける。ところがそればっかしだと必ずマンネリ化が飽きられて来る。そんな時に目聡い物書き屋や出版会社やテレビ局が、計算づくで秀吉悪人説を出してくる。一般大衆もそろそろ飽きているので、それに簡単に乗せられる。だから、そんな視点で小説やテレビドラマを作った若いのは時代の寵児として出世できる。そうすると二匹目、三匹目の泥鰌を狙って、日本中の作家やテレビ局が秀吉悪人説をコピーし始めて、大儲けをする。マスコミには何匹でも泥鰌がいると言うのが、黄金則ですから。

そんなのが十年二十年と続くと、また皆が飽きて来る。そうするとまた目聡いテレビ局や物書き屋が今度は秀吉英雄説を出して来る。そんなことの繰り返しなんだと思いますよ。

同じように家康も悪人説と英雄説を繰り返しながら、出版会社やテレビ局が金儲けをしているだけだと思います。テレビ局も出版社も花火が派手にぱっと上がれば彼等の勝ちなんですから。花火の上がり方では、坂本龍馬なんてのは派手に上がったものですね。物書き屋も時代の寵児なりたいので、隙があったら皆と違うことを言おうとウズウズしているようです。まあ見ていてご覧なさい、貴方の生きているうちに、そのうちどこかのテレビで清盛英雄説のドラマが出て来たり、坂本龍馬悪人説が出て来ますから。

清盛も信長も秀吉も家康も、良きにつけ悪しきにつけ日本の歴史に決定的な役割を演じた人達です。だから、流行り廃りに関係なく、歴史学者達は彼等を常に研究し続けている筈です。

その連中と比べると桁違いに小物の坂本龍馬ですら、あることないこと付けまくって、あれだけの花火が上げられるんですから大したもんです。今年の春に京都の嵐山で花見をしていたら、羽織袴のおっちゃんが幟を上げながら自作の坂本龍馬の歌を唱って、自分のCDを買ってくれとスピカーのボリュウムを上げて、折角の花見を台無しにしていました。日本中がこんなです。マスコミの力は馬鹿になりませんね。さて、来年はこのおっちゃん誰の歌を唱っているのでしょうかね。
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人間を評価する場合、何を成したかと言う事と同じぐらい、最期の姿が影響される事は


間違いありません。質問者も言うように、晩年の愚行がいちばんの問題です。
結局、秀吉は成り上がりはしたものの、国を治める体制を作れなかった事に原因が
あるのではないかと思います。

短絡的な善悪で語るべきではないでしょう。結局、人間には、見倣うべき点と
そうではない点があります。例外はないでしょう。英雄と言われた人間にも
見倣うべきでない点はあります。寧ろ英雄だからこそ際立つのでしょうね。

豊臣家の滅亡は、ある意味自滅に近いです。統治能力を失った者に力を与えると
動乱が再び起きます。これは秀吉が自身の後継者を生み出せなかったからです。
血縁の問題ではなく、政治力の面での問題です。朝鮮出兵なんて浪費以外の
何物でもないですから。秀吉は出世する事はできても、国を治める能力やセンスが
乏しく、為政者ではなく戦国武将で限界だったのでしょう。
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秀吉を悪く書くようになったのはここ最近ですよ


昔(20年くらい前まで)は立身出世の代表として書かれていて、天下統一で終わりが普通でした。

特に悪く書かれるようになったのが大河ドラマ『秀吉』以降じゃないかな。あれで朝鮮出兵が描かれ、石川五右衛門を油茹でにするシーンが極悪イメージの始まりかと…

あ、あと、豊臣家という家は無いですからねw
豊臣は本姓であって苗字ではありません。豊臣の羽柴秀吉さんですよ。豊臣秀吉と書くなら平信長、源家康というべきです。
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>豊臣秀吉と言えば織田信長の跡を引き継いで天下統一を果たした「天下人」ですよね。


>でも小説などでは何故か悪者にされている事が多いのは何故ですか?

・戦国時代には数多くの武将がいますが、現在の人にとって豊臣秀吉はかなりメジャーな部類に入るから。(どマイナーな武将の場合は良くも悪くも評価すらされない)

・秀吉の死後とはいえ、死後まもなく豊臣は徳川に敗北したから。(死後100年後に滅亡とかなら話は変わるかと)

・朝鮮出兵を行ったから。(但し、朝鮮出兵で勝利したとか、太平洋戦争で勝利又は太平洋戦争自体が発生してないなら話は大分変わるでしょうね)


この辺が秀吉のまずいところといえる所でしょう。
つまり人物評価において、重要なのは結果であり、過程はどうでもいいわけです。
結果を残せば過程は良く言われ、結果を残せなれば過程は悪く言われる、というのが基本ということでしょう。


>そんなに家康は英雄なのでしょうか?
それは評価する人にとって変わります。
英雄だと思えば家康は英雄ですし、英雄じゃないと思えば家康は英雄じゃない、それだけでしょう。
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まったく詳しくないのですが、家康も秀吉も良く描かれたり悪く描かれたりと同じぐらいのイメージです。



秀吉は大河ドラマの太閤記では緒形拳が秀吉役で良く描かれていたと思います。
草なぎ剛のドラマの秀吉も良く描かれていたと思います。
竹中直人の秀吉もわりと良く描かれていたと思います。


悪い家康といえば大河ドラマの津川雅彦と松方弘樹が演じていたと思います。


戦前は家康は明治政府の敵の悪としてのイメージがあり、戦後も悪いイメージで山岡壮八の小説により良いイメージになったと思います。

秀吉といえば戦前は農民から関白になった英雄で戦後も英雄として人気があったと思います。
太閤記も英雄として人気があったので制作されたと思います。
私のもっているマンガでは秀吉が出世する苦労人として描かれて、家康は豊臣家や大名を騙して農民を弾圧しているように描かれています。

過去の大河ドラマやドラマの家康と秀吉の配役を見ると、どちらも良い場合も悪い場合もあるように思います。

秀吉が悪役になるのは最近の、流行のように思います。
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 明智光秀が何故、織田信長を討ったのかは歴史上の謎であり、理由が判明していません。


 そのため、その動機に関しては、様々な憶測や噂が存在しています。
 例えば、光秀が自身の母親を人質として丹波八上城に預けていたにも関わらず、信長が八上城の元城主である波多野秀治・秀尚兄弟を殺したために、光秀の母親も八上城の家臣達によって殺されてしまった事に対する怨恨であるという説もありますし、誰かにそそのかされていたという説もあります。
 そして、光秀をそそのかした黒幕に関しても、豊臣秀吉に切腹させられた千利休とする説もあれば、徳川家康とする説もあります。
 その中の1人として豊臣秀吉が黒幕であるとする説もありますから、秀吉を悪玉としている作品は、この説を採用しているだけなのではないかと思います。

 又、徳川家康は戦死する事無く73歳まで生きて大往生を遂げていますし、家康の死後も徳川家による政権は二百数十年もの長きに渡って続いた事は、歴史上の事実ですから、もし、家康を悪玉にしてしまうと、悪が栄えるストーリーとなってしまい、客受けに悪影響が出るおそれがあると思います。
 しかしながら、家康が生前の秀吉と交わした約束を破り、豊臣家に反旗を翻した事もまた歴史上の事実です。
 そのため、家康を善玉とするためには、家康が豊臣家を裏切った事に関しても正当化せねばならなくなり、それ故に家康に裏切られた秀吉の方を悪者に仕立て上げる事で、「家康が豊臣家を裏切ったのは、止むを得ない理由があったのだ」、というフィクションを作ったのではないかと、私は憶測します。
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単に徳川家の治世の時代が長かったため、徳川を善とした記録が多いんです。


そうなると、秀吉は無理やりにでも悪にしないと辻褄が取れません。

豊臣家治世の時代の記録を見れば豊臣が善でしょうが、残念ながら豊臣の時代は短いし徳川の時代を超えて記録が残ることも難しかったのでしょう。
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はじめまして。



家康が英雄なのは世を単に太平させたからだと思いますよ。

だから、後世の人たちからみたら偉大な人とゆうことになると思います。

小説やドラマで秀吉が悪者にされることがある理由は、

(1)一般的には木下藤吉郎~羽柴秀吉ぐらいまでは努力の人や
強運の人など良いイメージだと思いますが、

そのイメージは小説やドラマを作る人、または一般の人にとっても
平凡なものです。

だから、悪い秀吉が出てくる。

(2)豊臣秀吉になってから、まぁ天下をとってからの秀吉の態度や行動
とゆうか歴史的史実が悪すぎるとゆうことから。

まぁ、いま残っている歴史をうかがえるものは徳川幕府が残しておいたもの
なので本当のことはわかりません。

ただ秀吉も信長や家康と同じぐらい人気のある戦国武将だと一般的には
思われているので、

だから、Facesさんの意見は普通のことだと思います。

回答ぜひ参考にしてください。

回答
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

なるほど。
たしかに三国志にしても「演技」は劉備は英雄、曹操は悪人ですが「正史」から見たら曹操が英雄で劉備や孫権は悪人という風になっていますもんね。

時の権力者サイドから見たら他は皆「悪」と思われてしまうのは仕方ないのかも知れませんね。

お礼日時:2010/12/06 01:10

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Q今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣

今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

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Q織田信長と豊臣秀吉と徳川家康。

 江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。
 その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。
 そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。
 

Aベストアンサー

本来、幕府とは将軍(征夷大将軍を含む)の居場所を指す言葉でした

それから転じて、征夷大将軍の政権機構を幕府と言うようになったのです

将軍は、天皇から将軍宣下を受けて、将軍となったのです
他の回答にもあるように令外の官です、令外の官とは律令に規定されていない役を称します、また、臨時に置かれる官で、その任務が終われれば解かれました

平安時代の征夷大将軍からの歴史を紐解いてください

このようなことは、歴史の経緯が判らなくて、その部分だけを抜き出したのでは全く理解することが出来ません

いろいろな事象は、突然起こるのではなく、歴史の流れの中のわずかなうねり、それがだんだんに大きくなって、あるとき、突然大きな事象となって現れます

ある瞬間を見るのではなく、流れで見ることを心がけてください

Q豊臣秀吉

今宿題をやっているのですが「人物調べ歴史新聞」で豊臣秀吉を調べたいのです。
ぜひ豊臣秀吉のいいサイトがあれば紹介して下さい。

Aベストアンサー

宿題、ということなのでlekkaさんは小学校高学年か
中学生くらいの年齢なのでしょうか。
(はずれてたらごめんね。)

ここのホームページはどうでしょう。
画面下の「top」ボタンをおしたら一番最初のページにもどれて
もっといろいろなことがわかると思いますよ。

でも、NO1の回答の方がおっしゃるように
図書館に行ったほうがいろんな本があって探す楽しみも
増すかもしれません。
ただし、行くんだったら大きな図書館を選んだほうがいいです。
小さいところだと本自体が少なかったりしますから。。

参考URL:http://www5b.biglobe.ne.jp/~shiteki2/hideyoshi/hideyoshiden.htm

Q織田信長と豊臣秀吉の弱点

織田信長と豊臣秀吉の弱点を教えてください小学校6年生の宿題です。調べてもわからず、困っております。

Aベストアンサー

織田信長の弱点。
近畿・東海地方を平定した段階に於いて
自信家になってしまった。
自分は他を裏切ることはあっても、部下は
絶対に自分を裏切るはずはないと思ってしまった。
その油断が、僅かの兵しか連れずに京へ入る
事となり、本能寺の変を招いた。

豊臣秀吉の弱点。
卑しい身分から、成り上がったまでは良かったが
家歴代の家臣というものがおらず、常に損得勘定で
人を引きつけておくしかなかった。
領地には限りがあり、これが朝鮮へ出兵する遠因と
なった。
晩年近くになって実子が出来たが、それを守るべき
親戚がいなかった事が、豊臣家崩壊の原因となる。

共通する弱点。
いずれも、天下を取るという意識は旺盛であったが
天下を取ったあとの政治という面での意識が希薄で
あった。

したがって信長は本能寺の変が無くとも、織田家の
天下は長続きしなかったと思われる。

秀吉も、実子秀頼が成人の時まで存命していたと
しても、豊臣家の天下は長くは続かなかったと
思われる。

後の天下人、徳川家康との決定的な違いかと思います。

以上、お粗末な講釈で失礼しました。

織田信長の弱点。
近畿・東海地方を平定した段階に於いて
自信家になってしまった。
自分は他を裏切ることはあっても、部下は
絶対に自分を裏切るはずはないと思ってしまった。
その油断が、僅かの兵しか連れずに京へ入る
事となり、本能寺の変を招いた。

豊臣秀吉の弱点。
卑しい身分から、成り上がったまでは良かったが
家歴代の家臣というものがおらず、常に損得勘定で
人を引きつけておくしかなかった。
領地には限りがあり、これが朝鮮へ出兵する遠因と
なった。
晩年近くになって実子が出来...続きを読む

Q豊臣秀吉に詳しぃ方。。。

豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた時の、詳しぃ情報を教えて欲しいのですが。。。

あとは、豊臣秀吉の学校で習わなぃような事も知っている人がいたら教えてくださぃ!!

「豊臣秀吉」の事だったら何でもいいのでお願いします!!

Aベストアンサー

ちょっと 筆が 飛んでましたね。

秀吉が、最終的に関白として、政権首座に立ったことに関しては、公武合体の上での政権を目指したという説や、将軍になれなかったからという説があります。

前者は、足利義満モデル(ただし、天皇位簒奪までは考えていなかったようですが)

後者は、足利義昭の養子になろうとして断られたという歴史的事実もあります。

少なくても、養子になろうとしたのですから、将軍でどうよ?という、意思はあったかと考えられます。

織田信長が武田家(東夷)を征伐した段階で、朝廷の中には、将軍職OKでないの?という、意見がでてきたので、漠然と時代の雰囲気として、東夷を征伐したら 将軍OKというのがあったのではないでしょうか?(これは、わたしの推測)

徳川家を征伐したら、その流れで東夷成功!将軍就任となったのでしょうが、実際はできなかったので、他の方法を模索した結果が 関白。
途中で、将軍といえば、頼朝・・・どんな事をやったのかを、研究させたかと推測します。

その結果、将軍にはつけなくても、頼朝の行跡をたどったのが、奥羽仕置きになった・・・と 秀吉の心中を おもんぱかるわけです。

ちょっと 筆が 飛んでましたね。

秀吉が、最終的に関白として、政権首座に立ったことに関しては、公武合体の上での政権を目指したという説や、将軍になれなかったからという説があります。

前者は、足利義満モデル(ただし、天皇位簒奪までは考えていなかったようですが)

後者は、足利義昭の養子になろうとして断られたという歴史的事実もあります。

少なくても、養子になろうとしたのですから、将軍でどうよ?という、意思はあったかと考えられます。

織田信長が武田家(東夷)を征伐した段階...続きを読む

Q織田信長・徳川家康・豊臣秀吉 この3人をまとめてなんと言いますか? 歴史は苦手なもので…この3人はた

織田信長・徳川家康・豊臣秀吉
この3人をまとめてなんと言いますか?
歴史は苦手なもので…この3人はたしか、天下統一を目指していた方ですよね?

その辺を詳しく教えていただきたいです!!

Aベストアンサー

「(戦国)三英傑」でいいと思います。

Q豊臣秀吉のことで教えてください。

歴史に興味があり豊臣秀吉を祀る京都の豊国神社について知りたいのですが、出来るだけ簡単な言葉で教えてください。
自分でも調べましたが難しい言葉ばかりで良くわかりませんでした。

豊国神社は豊臣秀吉が亡くなって建てられ、徳川幕府により豊国社は破却され、明治時代に新たに再建されたという事ですが、
現在の豊国神社は当時(豊国社を造営された時)に建てられたそのままの物ではないと言う事でしょうか?
場所も当時に建てられた場所とは違うのでしょうか?
他には、豊国神社の唐門は、元は伏見城の城門だと言う事ですが、豊国社を造営された時に伏見城から移したという事でしょうか?
豊臣秀吉が眠っているのは豊国廟ですか?

Aベストアンサー

元々あった場所ではありません。明治13年に再建されたものです。豊臣滅亡後に破壊されました。豊臣秀吉は豊臣廊で眠っています。豊臣秀頼、豊臣秀長、淀殿は大阪の豊国神社に眠っています。
唐門は伏見城のものです。
伏見城は豊臣秀吉により築城されました。
関ヶ原の合戦の際に東軍 鳥居元忠が籠城戦を行い完全に破壊されました。
江戸幕府時に一度再建されましたが、再建後に廃城となり、各地の城・神社仏閣に移築されたものもあります。唐門もそのひとつです。

豊国神社は京都以外にも全国の豊臣秀吉ゆかりの地にあります。大阪の豊国神社は有名ですね。他には加賀・前田家建立の金沢、香川・蜂須賀家建立の香川、木下藤吉郎時代の墨俣城 岐阜、織田信長家臣時代の名古屋、近江城主時代の滋賀、朝鮮出兵時代の福岡などたくさんありますよ。

Q【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」 な

【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」


なぜ記録にないのに豊臣秀吉は織田信長にサルと呼ばれていたという話が広がったのでしょう?

Aベストアンサー

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀...続きを読む

Q豊臣秀吉以上の出世人

日本史で豊臣秀吉以上に出世した人はいるのでしょうか?
やはり秀吉がキング・オブ・出世頭なのでしょうか?

Aベストアンサー

>豊臣秀吉以上に出世した人はいるのでしょうか?

いません。

>やはり秀吉がキング・オブ・出世頭なのでしょうか?

一節によると農家の息子ということらしいですが、
そのあたりの真偽は置いておいて、
いずれにしても最下層から関白。。。
その当時においては天皇に次ぐ第二位。
実質的にはNO1ですから。

他に並ぶものがないと思います。

Q豊臣秀吉と織田信長の息子達との関係

日本史にあまり詳しくありません。質問よろしくお願い致します。
織田信長が本能寺の変で自殺した後、豊臣秀吉が彼の後継者として諸侯をまとめ天下統一したことは
誰でも知っている話ですが、そもそも織田信長には自分の息子がいますよね?
なぜ信長の息子たちが後を継がず秀吉が後継者になれたのでしょうか。
信長の息子を差し置いて秀吉がしゃしゃりでたら秀吉には後継者を名乗る道理も大義もないと周囲から非難されそうだし、秀吉が信長の息子をリーダーに立てて織田の名の下に天下統一、ということにならなかったのは理由があるのでしょうか?

もう一つ、柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

簡単に説明しましょう・・・。

(1)織田信長には、長男信忠(のぶただ)、二男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)、四男秀勝(ひでかつ)の4人の息子がいました。しかし、秀勝は信長の命により秀吉の養子となっていました。

(2)本能寺の変(天正10年6月2日)で明智光秀が信長と信忠を倒すと、それを知った秀吉は備中高松城の毛利氏と戦っていて釘づけの状態でしたが、早々に毛利氏と和睦を結び、すぐさま京にとって返し(これを「中国の大返し」と呼びました)「山崎の戦い」で光秀軍を撃破しました。

(3)信長の家臣の中で、すばやくただ一人で光秀を討った「第一の軍功功労者」として柴田勝家らに一目置かざるを得ない存在となりました。

(4)その後、6月27日に信長の後継者問題を討議すべく清州城(いわゆる清州会議)で、出席をしたのは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席した(直前の神流川の戦いでの敗戦を口実に、参加を拒まれたとの説もある)。
その場で勝家は二男信雄が跡目相続をするべきだ、と主張しましたが、秀吉は、長男信忠(二条城で信長と一緒に死亡)の一人息子三法師丸が血筋としては最も正しい、と主張しました。丹羽長秀や池田恒興はそれに賛同をし、軍功功労者第一番という威圧感もあって秀吉は三法師丸の後見役として信孝を指名したことにより、勝家はニガニガしい思いをしながらも、出席者の意見に従うしかなかったのです。

(5)やがて柴田勝家は信長の妹お市の方を押し立てて100ケ日法要を妙心寺で行い、秀吉よりも地位が高いことを見せつけようとしましたが、秀吉も黙ってはおらず、信長と信忠の葬儀が行われていないことに目をつけ、10月15日、秀吉の養子となっていた信長の四男秀勝を喪主として大徳寺で盛大に葬儀を執り行いました。

(6)この頃より秀吉と勝家が一層不仲になったと言われています。

(7)秀吉は勝家への「ゴマすり」の意味も含めて、天下一の美女と言われていたお市の方を勝家に嫁がせましたが、勝家は秀吉の策略を見抜いていました。

(8)12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師丸を安土城に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏。秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師丸を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。

(9)翌年の天正11年2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。

(10)4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。

(11)4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。

(12)こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師丸を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになり、やがては、関白となって天下統一への路を走ったのです。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

簡単に説明しましょう・・・。

(1)織田信長には、長男信忠(のぶただ)、二男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)、四男秀勝(ひでかつ)の4人の息子がいました。しかし、秀勝は信長の命により秀吉の養子となっていました。

(2)本能寺の変(天正10年6月2日)で明智光秀が信長と信忠を倒すと、それを知った秀吉は備中高松城の毛利氏と戦っていて釘づけの状態でしたが、早々に毛利氏と和睦を結び、すぐさま京にとって返し(これを「中国の大返し」と呼...続きを読む


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