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もし織田信長が天下統一していたとしたら、どのような社会を作るつもりだったのでしょうか?
江戸幕府とはここが違っただろうということがあれば教えていただきたいのです。
この質問がばくぜんとしすぎているのであれば、次の論点のどれかを教えてください。

1.家康のような世襲制の幕藩体制をしいたか。それとも世襲にしないで、共和制のようなものにしたか?
2.キリスト教を禁止したか?
3.鎖国はしたか?
4.朝鮮出兵をしたか?
5.朝廷権力をどのように扱ったのか?

A 回答 (5件)

もし信長が本能寺で死んでいなかったら、毛利軍と織田軍との大合戦が行われていたでしょう。


その間に、東方の伊達、上杉、北条が当然のように勢力拡大をしていたでしょう。
そう考えると信長が天下を平定できたころには日本は大合戦の疲労でボロボロになっていたと思います。
そこに海外の勢力が目をつけていたら、日本は幕末の上海のように植民地になっていたような気がします。

天下平定は秀吉の人使いのうまさがあってこそできたものだと思っていますので、信長のように力で押さえる性格では、よい日本にはなっていなかったと確信しています。
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織田信長が何者か?という位置づけによって、論考が変わってきますね。


私は鈴木眞哉氏の論考が一番合理的だと考えます。「天下人史観を疑う」などで見る限り、信長は近代人的な考えだったとかというのは、イカガナモノカ?という考えに同意です。その前提で、1~5を私なりに考えますと。
1:世襲制は当たり前でしょう。長子、信忠にすでに織田家家督を世襲させ、濃尾という織田家の本拠地を与えていました。また、次子信雄にも、伊勢という枢要地を与え、三子信孝には、四国攻めの総大将にしており、次のステップでは四国管領とでもいう位置に立ったことでしょう。
幕藩体制に関しては、より中央集権的な物になっていたと推測します。三代将軍家光が将軍になったときに「祖父・父は諸侯の手助けを受けて将軍になったが、自分は生まれながらにして将軍である」という発言がありました。これは裏返せば、家康・秀忠段階では、徳川家の権威がまだ、弱かったということでしょう。それに対して、信長には「尾張の小大名からここまで、全部おれの力で作り上げたんだからな」という自負があったと思います。その自負を以てすれば、中央集権になると考えます。
2:秀吉のキリスト教禁令が、九州においてキリスト教領国のような物をみての判断に基づく物である事から、一向宗が俗界での領国を作ることに断固たる異議を提示した信長にしてみれば、同様な判断をしたと考えます。
3:江戸時代自体、鎖国ではなく、管理貿易であったという考えもあります。管理貿易という意味で、鎖国的な体制になったのではないでしょうか。
4:朝鮮出兵の理由の一つに、国内で成長飽和点に達した各武将に新しい領地を与える必用があった・・・しかも秀吉は、成長願望の強い武将を押さえることが出来なかったという点があります。(家康・秀忠以上に、織田家で同輩だった武将たちですから)信長は、佐久間追放など、武将に対して激しいリストラ策をとれる立場だったので、そのような理由は生じないと考えられます。無理な海外出兵はしないでしょう。
5:足利将軍家を弊履のように捨て去ったので、朝廷も捨てるのでは・・・という考えもありますが、代替させる権威がないので、しなかったのではないでしょうか。

以上、かなり勝手な考えです。
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織田信長!私が一番好きな戦国武将です。



ぼんやり考えた結果です。

1 信長が隠居後は秀吉か家康に継がす。
2 当初外国人及びキリスト教を厚遇したが外国の文化を
  大体理解した上で最終的に規制
3 鎖国はしない。むしろ舶来品を終生好む
4 天下統一後日の本の国統治で精一杯なので朝鮮人が
  攻めてこない限り朝鮮に興味ナシ。
5 朝廷は敬うも信長の傀儡朝廷でしょうな。
  都合のいい時に官位を賜うくらいでしょう。

個人的にいつも思うのは天下統一後暫くして信長は
スペインに移住したのではないか?
と考えてしまいます。
そのことから1の答えは移住後自分を慕う者に国を
くれてやるという意味でそういう回答になりました。

戦国武将一日本が狭すぎた男だと思うので。
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1.いずれでもない。

ただ、独裁制にした可能性が高いかと思われる。
何故ならば、天下を取る野心は旺盛だったが、天下を取った後
のビジョンが欠けていたと思われる。

2.中世の権威を否定するカブキ者であり、禁止はしなか
ったでしょう。

3.絶対にする筈はない。これは断言できる。

4.家来の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が唐入り論者であった。出兵したでしょう。

5.活かさず殺さずに、利用したでしょう。

他は、↓のNO.1をどうぞ。
他の方の回答も、大変参考になると思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=540021
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一つの仮説として何かの本で見たことがあるのですが、


羽柴『筑前守』秀吉・明智(惟トウ)『日向守』光秀・丹羽(惟ズミ)長秀
と、西に向かわせた3名に九州がらみの官位や苗字を
与えているのは、この3名で九州を分割統治させる
意思の表れでは、というのがあります。
東については柴田・滝川・徳川の3名で奥州&関東の一部を
分け与えるつもりだったのでは… と考えると
極めて強大な織田帝国が日本の中央部にできることになります。
(本能寺の変の元になったとも言われる光秀への領地返還
(交換)の命令もこう考えるとある程度納得がいきます)
よって、1、については中央集権型(世襲かどうかはわかりませんが)
と予想することが可能です。

2、については敵対しない限りは認めたと思います。
ただ、一度でも敵対したらどちらかが全滅するまで
戦ったでしょう。

3、と4、は微妙です。
朝鮮をはじめとする極東地域を支配化に収めようと考えたなら
鎖国はないでしょうし… 何より、それに関する発言が
なかったように思います。

とりあえず、簡単ですがこんなところですね。
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