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現在,日本の歴史を改めて勉強しようと思って取り組んでいます。
小学レベルのことは見直し終えて,それで関心のある部分を掘り下げようとしているところです。
今,どうしても分からないのが,将軍がなぜ統治できるのか,ということです。



通常,何者かが国を統治できるとき,そこにはなにか(法律や建前上の)根拠があるはずです。
現代日本であれば,国会,内閣が統治するのですが,
それは憲法を初め,各法律に根拠があって,だからこそそこに権限があるはずです。

それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。


自分が調べた範囲ではこうです。

幕府=本来は単に将軍の居所を指していた(のちに武家政権自体を指すように)
征夷大将軍=臨時設置の将軍(征西大将軍などと並ぶ)



疑問は二つです。
(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?
律令が形式的には生きているのかなと思うのですが,そこに何か根拠があるのでしょうか。

(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?
当時はそのような言い方はせず,「将軍の幕府(=居所)は鎌倉にある」とかいう言い方だったはずです。

現代で言えば○○内閣発足,と言えば,実際には認証官任命式の時点を指すのだと思います。
それでは,「幕府を開く」というのは一体何を指してそう呼んだのでしょう。





色々調べてみたものの,自分の手の届く範囲でははっきりしたことは分かりませんでした。
以上よろしくお願いいたします。

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A 回答 (9件)

歴史記述というのは基本的に、後世の人間が、過去を後世の人間にとって都合のいいように、あるいは理解しやすいように記述します。


漫画日本の歴史とかに書いてあるように、頼朝が「鎌倉に幕府を開くぞ」なんて言うわけがない。

では幕府概念というのは、いつ成立したか?

これは江戸時代です。

徳川将軍家が一番偉いのはなぜなんでしょうか?
という、現実に一番偉い状態を説明しなければなりません。
日本国憲法があり、その憲法で記述されていれば簡単ですが、そんな憲法は江戸時代にはありません。
イギリスには(成文)憲法はありませんが慣習憲法があるとされています。
ひらたくいえば

いままでが、そうなっているんだから、いまもこれでいいじゃん。

ということでして、江戸時代の人間にとって「これでいいじゃん」と言い切れる制度は、頼朝の将軍職就任です。
中国の古典を読んだら、首都にいない将軍が実際の全国統治をしたときには、幕府って言うらしいぜ、じゃぁ頼朝を鎌倉幕府初代将軍と名付けよう。
はい、こんな感じで、江戸時代の人間が頼朝を鎌倉幕府を開いたことにしました。


(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?

逆です。
現実に全国統治をしている、徳川家がまずありきです。
征夷大将軍に、頼朝や尊氏など武家政権の創始者が任官されていたので、徳川家康も任官させた。臨時設置だからではなく、前例主義です。


(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?

頼朝と、その周辺の人間にとっては新政権を打ち立てたという意識はない。
あくまで、江戸時代の人間が、打ち立てたと記述しただけです。



それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。

頼朝:京都以外の地で、常設軍を身近においてもOKとい許可書みたいなものです。統治とは関係ない。
尊氏:鎌倉殿の前例です
家康:鎌倉殿、室町殿の前例です

補足
武士から王へ―お上の物語 本郷和人著
これによれば、武士は500年かけて統治者意識を持つに至ったとしています。
鎌倉武士にとっては、自分の領地の運営だけが気がかりで、全国統治という意識はない。
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この回答へのお礼

なるほど,やはり幕府とか統治という言葉自体,相当に評価を含んだ言葉なのですね。
しかも後世の。
「1192年鎌倉幕府成立」とか,実体のある具体的な出来事とは言い難いですね。


前例というのも大変興味深いです。
ご紹介の本,さっそく注文してみました。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/13 20:49

こんちわ。


自己流で歴史を勉強している暇中年っす。
(2)は私も知らないので、(1)の話を中心に。

>それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。

頼朝の時代に関して言うなら、彼は質問者さんの仰る意味では「統治」していないと思います。

頼朝が掌握したのは、あくまで日本全国の武士団だけです。
「大将軍」というのも、あくまで武士団のリーダーという意味です。
鎌倉幕府の発行する法律も、武士を対象にしたもののはずです。

(将軍が貴族や寺院相手に多少なりとも口出し出来るようになったのは、確か江戸時代に入ってからです。
もっともそれも完全に干渉できたわけではありません)

頼朝の場合、掌握した全国の武士団が警察や軍隊の役割を負っていたので、彼らに号令をかけることが可能でした。
あまりに権力絶大なので、国政にも口出しできた、というだけだと思います。

(1)についてですが、「征夷大将軍」という本来臨時の称号が固定化されたのは、後世の将軍たちが頼朝に倣ったからだろうと思われます。
一度ハクがついた称号なら、使いまわしするほうが手っ取り早く格好つくので。

では頼朝は何故「征夷大将軍」に拘ったか。
これは当時彼の最大のライバルだった奥州藤原氏に対抗したかったから、と思われます。
秀衡が「鎮守府将軍」だったんで、それより上の称号が欲しかったらしいです。

称号が「征夷」だったら東北現地勢力の秀衡をやっつけるにも都合良さげだし。
あくまで頼朝の都合で選択された称号じゃないかなぁと思います。
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この回答へのお礼

なるほどー。
武士だけを支配しているんだけど,
それで十分国政の多くを仕切ることができてしまう,
ついでに他のことにも口を出せる。
というような関係でしょうか。
征夷大将軍であることにも必然性は無いんですね。
ありがとうございます。



ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/15 19:23

幕府を開く、という表現だけに絞って。



よく時代劇、特に戦国時代の映像作品で、戦のときに指揮官が、幕を張りめぐらせた本陣を設営しているのを見かけると思います。あれが言葉の起こりで、幕府とはもともと将軍の陣営のことでした。司令部を設営することを「幕を置く」と言い、その司令部を「幕府」と言ったわけです。
自衛隊のトップを幕僚といいますが、この単語ももともとは「幕の内で、将軍を補佐する人」から転じた言い方です。
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この回答へのお礼

幕僚もそうなんですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/15 19:19

(1)軍事政権のトップを本来は臨時設置の征夷大将軍に任命した。

あるいは頼朝公が要求して実現した。武士が政治にかかわるなら平清盛のようなやり方もあるのですが、頼朝公はそのようには考えず、軍事政権を京都から離れた鎌倉に置き、力を認めさせた。ご恩と奉公という言葉のように、武士は汗水かいて獲得した土地を軍事政権のトップに認めてもらい、その見返りに一命を賭して権利を守った。ちなみに、今では「一生懸命」という言葉は「一所懸命」から始まったとされます。以後、明治維新まで続くシステムを考え出した頼朝公は偉大な人だと思います。

(2)については良くわかりません。吾妻鏡ではどんなふうになっているのでしょうね。
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この回答へのお礼

なるほど,清盛の方法をとらなかったと考えるとおもしろいですね。
吾妻鏡は全然知りませんでした。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/15 19:18

「征夷大将軍が天下を治める」という形式は鎌倉幕府に始まるので, そこを見るのが正しいと思う.


で先に (2) にいくと, 「鎌倉幕府がいつ開かれたのか」については議論があります. というのも, 源頼朝にはいくつかの権利が徐々に与えられていったため, どの時点をもって「鎌倉幕府の成立」とみるか微妙だからです. たとえば源頼朝が征夷大将軍に任じられたのは 1192年ですが, その前に「源義経を討伐する」ため全国に守護・地頭を設置する権利が認められており, この 1185年をもって鎌倉幕府が成立したという説も有力視されています.
これを見れば (1) もおのずから明らかで, 天皇 (あるいは上皇・法皇) から征夷大将軍に対しいくつかの権利が与えられたがために統治できています. 天皇の命令は律令に優先します (これ以外にも, たとえば「検非違使の設置」は天皇の命令によるものであり, 律令には存在しません).
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この回答へのお礼

なるほど,「成立」時点にも議論があるわけですね。
それなら納得しやすいです。

天皇は律令以上なのですね。
そういえば君主権を制限し始めたのは憲法からですね。
憲法以前のこの時代であれば,理屈上は天皇は絶対権力者ということになるでしょうか。
そのへんもう少し調べてみたいです。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/13 20:44

私も現在ある軍事政権(ミャンマー等)と同じだと考えれば原則的にはいいと思います。



(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?
律令が形式的には生きているのかなと思うのですが,そこに何か根拠があるのでしょうか。

まず現在でも「軍」というのは、国の中にありながら独自の自治権を有しており、その活動は国と同等の内容を自前で行うことになっています(警察「憲兵」や裁判所「軍事裁判」などがあります)
これはそもそも「軍」が、自国の外に出て戦うことを目的とした組織であり、その中では国内と同様の法治が必要だからです(もちろん脱走などの軍独自の決まりもあります)
ということで「軍」にはそもそも統治組織そのものがあるのです。

征夷大将軍にもどりますが、元々征夷大将軍は日本を統一し始めた大和朝廷が、東夷(今の東北地方にいる夷=大和朝廷に従わない部族たち)を征伐する軍隊の指揮官に与えていた名称で、夷を征する最高指揮官という意味で、源頼朝が始めての征夷大将軍ではないのです。

そしてこの流れの中で、武士に実力がつき始め貴族(公家)を押しのけて荘園を支配したりし始めます。ただ、彼らの立場は単に「武力で土地を支配している」だけの状態でしたから、非常に不安定な立場でした。彼らとしては朝廷に「この土地を自分たちのものと認めるよう」働きかけるのですが、朝廷側は土地を実質上奪われることになる貴族に配慮して、なかなかそれをしませんでした。
この不満がおおきくなり、結局源頼朝を首謀者として実力行使にでます。朝廷側は軍事力を持つ武士に攻められたらひとたまりもありませんので、都(京都)から離れた関東地方を中心に自治を認めます。この自治を認める方便が「征夷大将軍」だったわけです。
これにより「自治権」を認められた鎌倉軍事政権は「御成敗式目」を作り、武士以下武家が所有する領地に住む農民などはこれに従う、としました。つまり当時の日本は公家と公家の領地に住む農民は「律令」に従い、武家の領地は「御成敗式目」に従うことになりました。
現代で言えば武装蜂起した軍事クーデターの後、軍が守っている土地は別の法律を作って自治を行うということです。
つまり律令があり、律令には「大将軍には軍を指揮する権限を与える」とあるため、それは自治権を有してると解釈できるため、(ある意味拡大解釈して)源頼朝に「指揮権を与えるから勝手に自治していいよ」とお墨付きを与えたのです。



(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?
当時はそのような言い方はせず,「将軍の幕府(=居所)は鎌倉にある」とかいう言い方だったはずです。

幕府という言葉は、軍本部を置き軍事的な組織を作る、ということです。
これが拡大解釈されて、まるで普通の国家のような機能を有していたのが、日本の幕府です。
当時は当然、将軍の在所は軍本部にある、という意味で「将軍の幕府は鎌倉」という使い方だったわけですが、後世のわれわれからみれば幕府をどこかに置くということは、新しい統治組織が出来たということになりますので、幕府を開くと現在では表現するのです。

ちなみに法律の話をすると、この土地の領有の問題は現代まで尾を引いています。
日本は成田空港問題などに代表されるように、他国に比べて都市計画を進めるのが非常に困難ですし、立ち退きには多額の費用がかかります。
これは日本の土地がそもそも「私有」になっているからです。
もっとも大和朝廷が日本を統治してた平安時代までは、原則として土地を公有していたのですが、農地が足りなくなり、開墾を奨励するために「三世一身法」から「墾田永年私財法」へと法律ができ、平安時代には私田がかなり多くなっていました。
これらは後に武士階級になる人々が開墾したものがたくさんあったのですが、開墾しても守っていかないと暴力で貴族や寺社に権利を取られてしまうため、段々自衛力を高めていきました。
これが後に貴族のやり方を横暴だとして、鎌倉幕府の開闢につながるのですが、それがそのまま「土地は自分の物」という日本の風土につながります。
ヨーロッパなど都市国家の歴史の長い地域では、土地は(特に都市の内部は)公有財産でもあるため、日本よりはスムーズに都市計画が進むのです。

また日本の武力は自分たちの土地を守る自衛からスタートしており、異民族の侵攻のような理不尽な攻撃を受けることがほとんどありませんでした。そのため、日本の軍事政策はなんとなく「他国による理不尽な攻撃を受けるかもしれない!」という勢力と「どこが日本を攻めるというの?」という堂々巡りの議論になってしまうのだと思います。

歴史はこのように見てみると、今の日本が出来上がる過程が見れて面白いと思います。
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この回答へのお礼

なるほど,軍には自治権があるわけですね。
東京を自治しなさい,
といって地域自治権を与えたら,
勝手にここもそこも,といって,塗り絵が広がるようにして,
自治する地域を広げ,とうとう全国的に自治するに至った,
というようなイメージになるでしょうか。

律令の規定など,具体的な史料を探してみたいと思います。
(そういえば令外の官の設置根拠はなんだろう)

私有の問題も根深いですね。
これまで侵略されたことが無い人が,
侵略されるおそれがある,
とか言われても空想の危険を言ってるように感じますしね。
実際に問題が起こるまで,危険というものは人は実感できないものですよね。
どんなことでも…。

ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/13 20:40

歴史を見る切り口は、様々だと思いますが、


私が中学生の頃に当時の社会科の先生は、
律令制という一種の共産主義から、自分で開墾した土地は自分の物だという
自然な私有土地制度への移行が、平安から鎌倉への移り変わりの重要なポイント
と言っておられましたな。
すなわち、鎌倉政権というのは、武装した自営農場主が糾合して立ち上げた政権で
、源頼朝を征夷大将軍として旗頭にしたのは、補足的な事項だと思います。
もし、この時代、自由とか、権利と言う思想が日本で生まれたなら
源頼朝は不要になったはずです。
源頼朝を征夷大将軍として、全国を統合するというのは
この時代では「たてまえ」にすぎません。
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この回答へのお礼

律令制が共産主義というのは確かにそうですね。
公有と私有の移り変わりというのは探求してみるとおもしろそうです。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/13 20:31

考え方としては「軍事政権」としたらわかりやすいと思う。


現在でもいろいろな理由をつけて軍隊がクーデターを起こし政権を握り、その後に選挙をやって、その選挙は軍が支持する候補に極めて有利な方法をとることで当選させ、その軍の利権を代表する国家元首によって国を治める。
国家元首も軍の意向を無視すると失脚するか暗殺されるので、実質的には「将軍」が国を支配する。
今でもどこかの国はこんな感じではないでしょうか。

さて,「幕府を開く」ですが、開くに関しては「開闢」という言葉でわかるように「できる」の意味です、天地開闢は天と地ができた、幕府を開くは「幕府ができた」ということになると思う。

統治に関しては「御教書」という概念で説明できる、身分の高い人は直接文章を書かず、家臣が主君の意を呈して書いて命令とする。
逆に、主が一切政務に携わらなければ、家臣が御教書を出して統治することも可能で、将軍は令外官で天皇の指示を待たずに命令が出せるため、最適だったんでは。
この事例で最近は阿久根市の竹原市長の手法が面白いが、市長の「専決処分」として議会の議決を経ずに政治を行い、法律の定めにより、議会を開かなければこれが通るし、開かれて不承認でも通ってしまう。
天皇も「治天の君」という地位があり、天皇の位についてもその上位者が存在すれば力がなくなるという「院政」があったので、将軍も解任はできるが、臣下が解任の命令書を書かなければ自ら書くことはできず、後醍醐天皇などは自らの命令を代筆したという話もあるくらいで、天皇が棚上げされたのでは。
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この回答へのお礼

御教書というのは知りませんでした。
将軍が御教書という形式を利用したということになるでしょうか。
もう少し調べてみたいと思います。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/13 20:30

1)征夷大将軍はもともと蝦夷地方を制圧するために派遣された、いわゆる総司令官です。


制圧したらそのまま平定しなさいという任務を受けていたと思います。
そのうち朝廷の力が衰退し、武家主体の世が来てしまった。
そして武官最高位である征夷大将軍がトップに立ってしまった、ということではないかと。

何故全国統治ができるかということですが、実質統治であって国家元首ではないので現在の天皇と内閣のような関係でなかったことは確かだと思います。
統治権を認めていたわけではなく、武力で制圧した末の全国統治ですから。

2)何かを設立するとき「~を開設する」と言うことがあります。
なので開くで間違っていないと思います。
幕府を開く=将軍が政府を設立した ということだと。
タイミングとしては征夷大将軍就任でしょう。
天皇に就任させるよう要求し、任命された時だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2010/12/13 20:20

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
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朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Qなぜ征夷大将軍が幕府を開設するための資格になっているのか?

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以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例えば、征夷軍の副官が反抗したら、征夷大将軍は天皇に一々お伺いを立てなくても、自分の判断で処刑してしまっていい、という事です。これは、戦地に行く軍隊の大将軍だから、都度天皇に伺いを立てていたら戦争にならないので、節刀=非常大権を与えられる事で初めて認められる事です。右近衛大将では、都で近衛府を統括する常設武官としての最高位、というだけですから、そういう権限はなく、No.3の方がいうように、結構違います。また、征夷大将軍は、戦地に赴くものですから、都に常駐する必要がありません。
この二点から、東国で独立した政権を打ち立てるには、征夷大将軍が、最適だった、という説です。

2.もう一つは、頼朝がなる少し前に、源義仲が頼朝を討つ為に、武力を背景に無理矢理朝廷に征夷大将軍に命じさせた、という事があって、これにより東国の支配者としての「征夷大将軍」という考え方ができた、というものです。ま、有体に言えば、義仲がもらったタイトルは、義仲に勝った自分にぴったりなんだから、よこせ、って事ですね。
こういう理屈っぽい話は、参考URL↓に纏まっています。

ただ、実際には、本当に「征夷大将軍」と、他の(例えば)鎮守府将軍や右近衛大将とでは、頼朝にとって、決定的に意味が違っていたか、というと実は結構疑わしいものがあります。頼朝は1190年に右大将に任ぜられて、すぐに辞職しますが、その後、御家人に与える幕府の正式文書である政所下文は「前右大将家政所下」と書かれました。1192年に征夷大将軍になると、これは「将軍家政所下」にかわりましたが、そのうちまた「前右大将家政所下」に戻ってしまいます。この事実と、尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事がある事から、頼朝が1195年に征夷大将軍を辞したと考える説があり、これは必ずしも定説とは言えませんが、辞めていたら勿論の事、辞めていなくても、自己の権威を主張するのには「征夷大将軍」よりも「前右大将」の方がいい、と思っていた事を意味しますから、どちらにしろ、頼朝にとって、征夷大将軍という地位が、決定的に重要だった訳ではない、とは言えます。また、二代目の頼家は、1199年の頼朝の死の後、直ぐには征夷大将軍にはならず、1202年になっていますが、頼家が早く将軍にならないと困る、なんて話は残っていないです。
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参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/syougun.html

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実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
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日本とは異なり複数の幕府がありました。

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★「封建制度」を簡単に説明してください!

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Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。

Qどうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。

当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。
そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。
どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう?
そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう?
結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。
しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。
自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。
自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。
そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

になったのでしょう。

官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。

関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。

一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に...続きを読む

Aベストアンサー

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまくいかなかったという説があります。
ちなみに彼が辞職するのは天正16年になってからです。私も知りませんでした。
関白も棚から牡丹餅でなったのです。それについては関白相論を見てください。
どのみち、実力で天下の覇者になった秀吉としては官位が高いほど自分の権威が高まって行くと考えているだけで、それほど執着はしなかったのでしょう。


豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
足利義昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

関白相論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

kuwantan さん、こんばんわ。


平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。
その通りです。秀吉は日本を統一し、さらに朝廷から関白の官位を受けることでその権威をもって日本全国の大名を支配しました。
実は秀吉は小牧長久手の役の終わった時に朝廷から征夷大将軍の称号をうけるかどうか打診されていましたが、断りました。これはまだ、足利義昭が将軍の在職中であったため、遠慮したのだという説があります。また、一説に義昭の養子となるように工作したのですが、義昭が嫌ってうまく...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q征夷大将軍とは?

日本の歴史にとって当たり前のことなのですが。
何故、征夷大将軍が武家の頭領であり、幕府を開くことができたのでしょうか?
考えついたのは、大江広元だと思うのですが。

Aベストアンサー

 征夷大将軍が幕府を開くというのは、どういう政治的意味合いなのか、日本の武家政権という政治システムの根幹にかかわる部分で、歴史学者の論文も多数出ています。

 そもそも、征夷大将軍は東北の平定を目的とした軍事最高指揮権を意味し、軍事行動を行なっている地域の軍政を行なうことは出来たでしょうが、日本全国の統治権の根拠となりうるものではなかったようです。

 確定した学説ではないのですが、有力なものを一つ上げます。

 征夷大将軍となるとき、慣例として「源氏の長者・淳和院別当・奨学院別当」を兼ねます。
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/toyokuni.html

 源氏は、天皇の子供(親王)が臣籍降下したときに与えられる姓として高い格式を持ち(平氏は親王よりも代が下がった王に与えられた)、準皇族として扱われ(藤原氏と同じように平安貴族であって、武士ではありません。)ていました。
 平安時代に村上天皇の血統である「村上源氏」は、最高権力者を輩出しましたが、そのような「源氏」という氏族の長であることを、明確にする役職が淳和院別当です。
 また、奨学院は皇族を対象にした学校で、準皇族の源氏も入学することが出来ました。

 源氏の長者が、皇族の将来を左右する奨学院の責任者になることで、皇族代表の地位を明確にし、その立場で天皇の政治を代行するという形を取っているというのが、この説の骨子です。

 尚、源頼朝が鎌倉幕府(幕府=幕を張った本部=軍事用移動司令部)を開いた当時は、征夷大将軍の名前のように、権限が及ぶのは東国だけで、京より西の地域では、平安時代と同じように朝廷の行政権が優越していました。
 鎌倉幕府の全国支配が確立するのは、承久の乱の後のことです。

承久の乱では、三人の上皇(元天皇)が、後鳥羽上皇が隠岐に、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐に配流となり、仲恭天皇(九条廃帝:明治になるまで天皇として認められなかった。)が退位することとなり、朝廷・皇位の権威が著しく失われました。

 征夷大将軍が幕府を開くというのは、どういう政治的意味合いなのか、日本の武家政権という政治システムの根幹にかかわる部分で、歴史学者の論文も多数出ています。

 そもそも、征夷大将軍は東北の平定を目的とした軍事最高指揮権を意味し、軍事行動を行なっている地域の軍政を行なうことは出来たでしょうが、日本全国の統治権の根拠となりうるものではなかったようです。

 確定した学説ではないのですが、有力なものを一つ上げます。

 征夷大将軍となるとき、慣例として「源氏の長者・淳和院別当・...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む


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