先日に話題の「最後の忠臣蔵」映画を見てきたのですが、素朴な疑問として原作がある程度は実話なのか知りたくなりました。どなたか教えて頂けますか?

A 回答 (2件)

池宮彰一郎の原作は創作です。

池宮の『忠臣蔵夜話』に創作の苦労話とあわせて元禄赤穂事件にまつわる未解明の謎に対する私見があります。

寺坂信行筆記とかいう子孫がまとめたとされる史料があるようですが、吉右衛門信行本人が秘したままわからないことが多く残っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。あまりにもできたお話なので、むしろ、ほとんど架空だと思えば、安心できました。

お礼日時:2010/12/27 21:27

忠臣蔵そのものが「実話」と呼ぶにはあまりにも不可解な部分が多いのです。


歴史全般に関してそうですが、事実かどうかというのは、当時から生きてる人間が存在し、明確な記憶が無い限りは実証できないのです。
つまり「不可能」ということ。

まして忠臣蔵は戯作(演劇)として作られた部分が多いもので、そこを叩き台にしての小説の映画化ですから、これはもうどこまでが事実か?などというのは…むしろ「どれが真実か?」という方がピッタリきそうです。
そういったレベルの問題です。

歴史の実証は難しいですね。
逆に言えば、だからこそ自由に物語が語れるわけで、楽しめる要素が増えるわけですから、それで良いと思ってます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。あまりにもできたお話なので、むしろ、ほとんど架空だと思えば、安心できました。

お礼日時:2010/12/27 21:27

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Aベストアンサー

補足
 当時の城ってのは城単体で構成するもんではないです。
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 で今回の荒木の有岡城の場合、別所氏の三木城と湯ノ山街道で結ばれ、その街道を守るように上津城、丹生城、湊川城などが街道防備の城が築かれています。
 なのでこの時点で完全な包囲は無理ですし、毛利方と頻繁にやり取り可能です
しかし羽柴これらの城を攻略し、湯の山街道を制圧後、周りの枝城(付城)を落とし完全包囲可能となります。
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Q【王義之の蘭亭序を読んでるんですが、、、】 書の最後に押し印がいっぱい押されているのはなぜですか?

【王義之の蘭亭序を読んでるんですが、、、】

書の最後に押し印がいっぱい押されているのはなぜですか?

当時はどういう意味があったんですか?

Aベストアンサー

こんばんは。

これらの印は、
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Q最後の国学者 山田孝雄

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 多岐にわたる質問で恐縮ですが、何れか一問でも結構ですので、お考えや知識を教えてください。

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Aベストアンサー

NO2です。

どうだろう…「国体の本義」を書いたのですが、実は、山田孝雄の業績から、ちょっと色眼鏡をかけてみてしまう部分が多いにあり、本当に参考までなのですが、たとえば皇學館大學の学長に転身しますよね?
そして、ご承知のように、その後、皇學館大學は廃学ということで、現在においても、右の本格派ですよね?

ちょっとウィキを参考に整理したいのですが

独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格、小、中学校教員をへて

1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員
1920年(大正9年)日本大学講師
1921年(大正10年)日本大学文学部国語科主任
1925年(大正14年)東北帝国大学講師
1927年(昭和2年)同教授を歴任
1929年(昭和4年)には「日本文法論」によって文学博士の学位を授与される。
1933年(昭和8年)に退官
1940年(昭和15年)に神宮皇學館大學学長
1941年(昭和16年)神祇院参与、同年肇国聖蹟調査委員、
1944年(昭和19年)に学術研究会会議会員、同年貴族院議員に勅撰、文部省国史編修官、
1945年(昭和20年)7月には国史編修院長、同年愛宕神社名誉宮司となる
1946年(昭和21年)に公職追放された
1949年(昭和24年)仙台市に移り、国語辞典の編修に専念
1951年(昭和26年)に追放解除される。
1953年(昭和28年)に文化功労者
1957年(昭和32年)文化勲章を受章。また同年には富山市名誉市民にも推薦されている。
1958年(昭和33年)、結腸癌のために入院先の東北大学附属病院で死亡。85歳。従三位・勲二等旭日重光章。墓は富山市内の長慶寺境内にある

以上なのですが、神宮皇學館の学長就任と戦後ですね。この二つの地点の経歴に断層があるように見えるんです。

神宮皇學館学長以前は、それこそ国語学者なのですが、神宮皇學館学長就任あたりで、戦局も混沌としてきたのでしょうが、嫌な言い方ですが、保守系言論人の要素も見えてくる。そして、戦後は公職追放、そしてしばらくすると、今までの業績がみとめられ、広い意味での文化人になってゆく。

そうした中で、やはり皇學館の学長であった山田孝雄をして、特に「肇国聖蹟調査委員」この業績が、後の彼に対する評価の一端を決定づけている部分はあるのかな?とは思いました。

NO2です。

どうだろう…「国体の本義」を書いたのですが、実は、山田孝雄の業績から、ちょっと色眼鏡をかけてみてしまう部分が多いにあり、本当に参考までなのですが、たとえば皇學館大學の学長に転身しますよね?
そして、ご承知のように、その後、皇學館大學は廃学ということで、現在においても、右の本格派ですよね?

ちょっとウィキを参考に整理したいのですが

独学で小、中学校教員検定試験(文検)に合格、小、中学校教員をへて

1907年(明治40年)文部省国語調査委員会補助委員
1920年(大正9年)日本大...続きを読む

Qハンス・ヨアヒム・マルセイユが最後に撃墜した敵

ハンス・ヨアヒム・マルセイユの最後の戦果である158機目に落とした敵機は
連合国側の北アフリカ戦線でのエースだった、というのを本で読んだことがあるのですが、誰だかわからないでしょうか?インターネットで知らべても出てこないので困ってます。

Aベストアンサー

調べた範囲では、英国空軍RFAのFlying Officer(少尉) D. Turvey
の様ですが、彼がエースパイロットであったかは不明です。

マルセイユの最後の空戦は日本語Wikiと英語のWikiに詳しく書かれています。
日本語Wikiは英語Wikiの翻訳ですが、関連個所の訳文が気になるので手直し
しました。

<特に注目すべきは、マルセイユの158機目の撃墜申告である。
9月26日午後の着陸後に、肉体的に消耗し切っていた。いくつかの報告は、
彼の飛行中隊メンバーはマルセイユがはた目にも判るほど肉体的に
消耗しているのにショックを受けたことを示唆している。マルセイユ
自身の戦闘後の報告によると、彼はあるスピットファイアのパイロットに、
高高度に始まって低空まで降下する強烈な格闘戦を挑まれた。マルセイユは、
いかに彼と敵の双方が相手の後尾につこうと努力したか、詳しく話した。
双方が成功し、射撃したが、その度に追われる側はなんとか攻撃側へと
形勢を逆転させた。最後に、燃料残りわずか15分で、彼は太陽へ向かって
上昇した。英軍戦闘機はそれに続き、まぶしい逆光に捕らえられた。
マルセイユは急旋回とロールを行い、100mの距離から射撃した。
スピットファイアは火を吹き、翼がとれ、パイロットを乗せたまま地面に
激突した。マルセイユは書いている。「あれは私がこれまで相手にした中で、
最もタフな対戦相手だった。彼の旋回は素晴らしかった。…私は、それが
私の最後の戦いになるのではないかと思った」。不幸な事に、そのパイロット
と彼の飛行隊は特定されていない71)、72)。

71)Tate 2008, p. 66.
72)Kurowski 1994, p. 207.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A6
http://en.wikipedia.org/wiki/Hans-Joachim_Marseille

日本語Wikiはこれまでですが、英語Wikiには更に続きが有り。マルセイユの
全撃墜機を挙げ、それにノート(注)が付いています。

その表では:152~158機;1942年9月26日;時間(撃墜);
09:10、09:13、09:15、09:16、16:56、16:59、17:10となっており、
ノートには
.マルセイユの朝の作戦の対戦相手は英国空軍第33と第213航空中隊の
Mk IIハリケーン、に英国空軍第92航空中隊のMk Vスピットファイア
8機を加えたものであった。
・・・・・・・
マルセイユの最後の勝利は空軍小尉Turveyに対するもので、彼は
スピットファイアBR494から脱出した。マルセイユの、その日の午後の
最後の戦いの対戦相手は英国空軍第145航空中隊と第601航空中隊のスピット
ファイア11機を含むものであった。

Wikiの記事は順次追加されますので、この記述が正しく、古い記述が訂正
されなかったと考えられます。

RFAの第92航空中隊の記録にもPO Turveyの9 月26日の戦闘参加が
記録されていて、彼が撃墜され生還していることから間違いないと
思われます。
http://sirius1935.wix.com/92squadron#!losses/cosf

彼がエースであったかどうかは不明です。
92.Squardonはバトルオブブリテンの戦いから活躍していますから、
錬度が高かったとも考えられます。

よろしければ
David Lloyd George Turveyで調べてください。1944年までRAFに
在籍しています。最後の所属部隊は異なるようですが。
人名検索して、無料登録すれば彼の詳細が見られます。

調べた範囲では、英国空軍RFAのFlying Officer(少尉) D. Turvey
の様ですが、彼がエースパイロットであったかは不明です。

マルセイユの最後の空戦は日本語Wikiと英語のWikiに詳しく書かれています。
日本語Wikiは英語Wikiの翻訳ですが、関連個所の訳文が気になるので手直し
しました。

<特に注目すべきは、マルセイユの158機目の撃墜申告である。
9月26日午後の着陸後に、肉体的に消耗し切っていた。いくつかの報告は、
彼の飛行中隊メンバーはマルセイユがはた目にも判るほど肉体的に
消耗しているのにシ...続きを読む

Q最後の審判の考え方のつながりについて

ゾロアスター教において最後の審判という考え方があり、のちにユダヤ教からキリスト教、イスラームに影響しているというのは分かるのですが、古代エジプトにおいても「オシリスが行う最後の審判」という文を発見しました。この古代エジプトの最後の審判とゾロアスター教における最後の審判には関係性があるのでしょうか。それともただ似たような教義であるだけなのでしょうか。

Aベストアンサー

「オシリスが行う最後の審判」は、死者が受ける審判なので、信者全員が受ける最後の審判ではありません。(日本で言えば、閻魔大王の審判みたいなものです)
したがって、直接の関連性は無いと思いますよ。

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