アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

江戸時代の画家・酒井抱一は姫路藩酒井家という大名家の出身ですが、浄土真宗本願寺派(西本願寺)にて出家しています。
そこで疑問なのですが、なぜ西本願寺なのでしょうか? 酒井家といえば徳川譜代の家柄なのに、親徳川の東本願寺ではなく、徳川と疎遠であった西本願寺を敢えて選んだのはなぜでしょうか?

もしかしたら抱一の意思は関係なく、元々酒井家が本願寺派の門徒の家だったのかもしれませんが、その場合はなぜ本願寺の東西分裂の際に酒井家は徳川譜代として自然な東本願寺を選ばず、敢えて西本願寺を選んだのでしょうか?

また、徳川家康の腹心であった本多正信の墓が西本願寺の大谷廟堂にあるのも同じ理由で不思議です。なぜ親徳川の東本願寺ではないのでしょうか?

A 回答 (1件)

 東本願寺も西本願寺も元々は一つで、浄土真宗の総本山です。



 明暦の大火後に築地に再建された本願寺は浄土真宗本願寺派ではありますが、酒井抱一の住んでいた江戸にあったことによるのでは。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。

ですが、当時は浅草に東本願寺の別院もありますので(昭和になってから分派独立)、「築地本願寺が江戸にあったから」というのは理由として弱いと思います。

お礼日時:2011/01/23 00:09

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!