二条城のうぐいす張りはだれが考えてのでしょうか・・・・(なんとなく気になった・・・・)知ってる方がいたら教えてください。

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A 回答 (3件)

うぐいす張りは二条城より知恩院の方が先らしいですね?


知恩院には左甚五郎の「忘れ傘」があるし、浜松の龍潭寺(りょうたんじ)のうぐいす張りは、左甚五郎作と言う事です。
…で、左甚五郎かな?なんて思ったのですが、歴史の年表に自信がないので時代が矛盾してるかも...。
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床板をふむと、「かすがい」が上下し、それと「釘」が擦れ合い、うぐいすのような音がするので、うぐいす張りと云うそうです。


これは、敵の侵入を防ぐために、作られたものです。

考案者は分かりませんが、二条城は1603年(慶長8年)初代将軍家康が京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、1626年(寛永3年)完成したものです。
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参考URLを見ると、使っているうちに音が出るようになったと言うことらしいですね。


それを誰かがいつでも鳴るように作ったのでしょう。

きしみの音でさえいきを感じるのも日本人だからですね。

参考URL:http://www.kippo.or.jp/culture/build/archi.htm
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Q二条城について

二条城に家具がないのは、どうしてでしょう。フランスのベルサイユ宮殿だったらきらびやかな家具が飾っていますよね。これは文化の違いからでしょうか。

ふたつ目は、トイレ、台所、お風呂などの水周りが、二の丸御殿にはないのですが、別棟だったのでしょうか。 100人もの護衛はどのあたりに宿泊していたのでしょうか。

最後に女官について。 白書院に女官のマネキンがディスプレイされていますが、実際に女官も将軍に同行して上洛したことがあるのでしょうか。

たくさんの質問ですいません。
ご存知の方よろしくお願いします。

Aベストアンサー

二条城二の丸御殿の図面が
平凡社「城と書院」に載っています。

台所は北東の隅にあり、料理の間、御膳所など完備して
います。
トイレ(清所 きよめところ)はその外にあります。
御殿の外にもあったでしょう。
一般用で貴人向けは御殿内の別の部屋でしょう。
北西の隅に御風呂屋がせり出しています。(一般用)
貴人向けの御湯殿は南西にある別棟の中宮御殿内に
あります。    
中宮御殿は御殿と、渡り廊下でつながっています。
中宮御殿があるので女官も同行可能です。

西側に別棟として長屋敷、長局(ながつぼね)があり、
護衛などが泊まれます。
前記台所は大きいので百人程度は問題なさそうです。

この図面通りの建物が現存しているわけではありません。

御殿内の各所に物置の部屋があるので、家具などを
収納していたと思われます。

忠臣蔵で上野介の屋敷内の物置の話もあります。

見事な家具など多くあった筈で、維新の際に持ち去られた
のでしょう。

Q二条城の勤番

二条城御門番之頭・二条城御殿預・二条城鉄砲奉行の役高が分かりましたら教えて下さい。

Aベストアンサー

二条城門番之頭 役高は特になく持高勤めですがね200~300石の旗本から選ばれ役料は現米250俵。
二条城御殿預 役高400石、役料200俵
二条城鉄砲奉行 定員2名、役高400表、合力米60石、赴任にあたって御暇金1枚、時服2領、引越拝借金60両が支給されます。

Q二条城について

戦国時代あたりを見ていると、秀吉や徳川家康が京都にいる際には二条城を拠点にしているみたいなんですが、それはどうしてなんでしょうか?

二条城にはどういった長所があるんでしょうか?

回答お待ちしています。

Aベストアンサー

>秀吉や徳川家康が京都にいる際には二条城を拠点にしているみたいなんですが

秀吉は、聚楽第を拠点にしていました。

>二条城にはどういった長所があるんでしょうか?

二条城は、家康が「御所警護・守護」「将軍家宿舎」を公的な目的として築城しました。
(当時は、城とは呼ばず「二条新御所」「二条新屋敷」と呼んでいたようです)
が、実際は「御所の喉下を抑える」目的があります。
同時に、天皇家と将軍家が同列(地位)だとの力を(庶民に)見せたのです。

家康・秀忠時代。
大阪城には「秀頼」がいましたが、御所近くに二条城があるため「大阪方は、二条城を攻撃できない」事を考えていたようですね。
(現在の二の丸周辺が、当時の二条城)

家光時代、増改築が行われました。
(本丸周辺を増改築し、現在の二条城となる)
将軍家宿舎としての意味よりも、軍事的な意味合い強まったようです。

Q妙覚寺か二条城か?

本能寺の変の時、織田信長の嫡男信忠が居たのは妙覚寺ですか?
それとも二条城(二条御所)ですか?
資料によって分かれていてどちらが正しいのかと思います

Aベストアンサー

信忠が宿所にしていたのは妙覚寺です
妙覚寺は京での宿所として信長も元亀三年(1572年)から利用しています

信忠が光秀により信長を襲撃されたことを聞き、合流しようとしたが
村井貞勝から光秀軍が大軍であることを聞いて
貞勝から単なる宿所である妙覚寺より多少なりとも防御用設備がある(二重堀、石垣)二条御所に移るよう進言を受けて移動しました
しかし防御に重要な武器である鉄砲は勿論、他の武具も殆んどありませんでした
信忠はそれにも関わらず奮戦しました

二条御所は信長が足利義昭を奉じ上洛した永禄十一年(1568年)の翌年に義昭が三好三人衆に襲われたため
ある程度防御設備を整えた【御所】として信長が義昭のため、造営したものです

あくまで【御所】ですので当然ながら通常の平城よりは防御力は劣ります

Q【中世】二条城の南側の道は三条坊門小路(現・御池通り)です。坊門は条の

【中世】二条城の南側の道は三条坊門小路(現・御池通り)です。坊門は条の真ん中だとすると、二条城のあるところは三条なのでしょうか?

今の二条城や、同じく三条坊門小路沿いの信長・秀吉の二条城は、三条ではないのでしょうか?

中世の京都の二条と三条の範囲がよくわかりません。中世の条はどういう範囲のことなのでしょうか?

Aベストアンサー

先の答えは、条里制 → 条坊制の流れと矛盾します。
大通りに囲まれた区画を「坊」、坊が横に続いて「条」
が正しいのです。

従い南北は、二条大路と三条大路に挟まれ、東西の端は
東京極大路、西京極大路である、細長い区画が「三条」
です。  以下「九条」まで同様。
ご指摘のように二条城の大部分は「三条」内です。

古語辞典の付図の「平安京条坊図」で、二条殿が「三条」
内にあります。   私はこれで錯覚しました。

「三条」内なのに二条城というわけは、
足利義満の屋敷が二条通りに面していて、二条城と呼ばれ
以降、将軍家の屋敷は二条通りに面していなくとも、
二条城と呼ばれたとあります。
信長が足利義昭のために建てた二条城も同じです。

二条殿は摂関家の二条家の邸宅なので、そう呼ばれました。
この跡が、義昭の二条城、織田信忠が明智光秀に討たれた
二条御所となります。

家康は別邸ですが将軍なので二条城と名付けました。








   

参考URL:http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian03.html

先の答えは、条里制 → 条坊制の流れと矛盾します。
大通りに囲まれた区画を「坊」、坊が横に続いて「条」
が正しいのです。

従い南北は、二条大路と三条大路に挟まれ、東西の端は
東京極大路、西京極大路である、細長い区画が「三条」
です。  以下「九条」まで同様。
ご指摘のように二条城の大部分は「三条」内です。

古語辞典の付図の「平安京条坊図」で、二条殿が「三条」
内にあります。   私はこれで錯覚しました。

「三条」内なのに二条城というわけは、
足利義満の屋敷が二条通りに面していて、...続きを読む


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