聖徳太子は、なぜ法隆寺を建立したのでしょうか?
一説によると、「父親のため」というくだりはどこかで
読んだことがあるのですが、何故父親のために
法隆寺を建立する気になったのか?
詳しくご存知の方がありましたら、お教えください。

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A 回答 (1件)

 法隆寺の金堂に安置されている薬師如来の光背銘によると、父親である用明天皇が自らの病気平癒を祈って薬師像と寺の建立を発願しましたが、崩御したため、その遺命を受けた推古天皇と聖徳太子が607(推古15)年に完成させたということです。



参考URL:http://www2.biglobe.ne.jp/~t-iwata/horyuzi.htm
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この回答へのお礼

御礼が遅くなってすみません。おかげさまで無事疑問も解決し、楽しく修学旅行に行ってこれました。ありがとうございました。

お礼日時:2001/05/04 06:53

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Q【聖徳太子って天皇?】聖徳太子って歴代天皇の祖先ですか? 聖徳太子って厩の皇子と呼ばれていた。

【聖徳太子って天皇?】聖徳太子って歴代天皇の祖先ですか?

聖徳太子って厩の皇子と呼ばれていた。

皇子、太子ってことは天皇の祖先ということ?

それとも聖徳太子とは別に当時に天皇はいた?

聖徳太子は厩の皇子と言われたのは聖徳太子は厩(馬小屋の前で産まれた)という意味ではなく厩の地域(馬を管理する地区)で産まれたという意味だそうで、聖徳太子は馬を管理するどちらかというと貧困層の地域で産まれたが産まれながらに天才でその噂が広がって高官になっていった。

聖徳太子が天皇の祖先なら天皇は元は馬小屋の管理人の家に産まれた人になってしまうが聖徳太子の真似を後醍醐天皇がしていたので、聖徳太子は天皇ではなく聖徳太子の太子と天皇家は全く関係がないということですかね?

天皇家でもないのに皇子とか太子とか今で言う天皇陛下の子供である天皇皇太子と同じ位の人間と同じ位を名乗れていたのはなぜ???ってなる。

聖徳太子は天皇の子供じゃないの?

Aベストアンサー

実在の人物でない説が有力です。

Q聖徳太子→厩戸皇子→聖徳太子、の変遷について

聖徳太子について、教科書への記述に関してです。
従来、聖徳太子と記述されたいましたが、最近、厩戸皇子に改められ、ついこの間、聖徳太子に戻りましたね。
なぜ、このような変遷(悪く言うと、右往左往)があったのか、経緯や理由などを教えて下さい。

Aベストアンサー

1999年に大山誠一氏が聖徳太子虚構説を出したのが大きいです。
推古天皇の子である聖徳太子の存在が虚構であって、太子の実績等も後の代に創作されたものだという説を出しました。
聖徳太子は否定したのですが厩戸皇子の存在までは否定しませんでした。
その影響で聖徳太子という記述が用いられなくなってしまいましたが、虚構説が出た直後から反論があり、
反論に対する十分な論証が出来なかった為、また元に戻ったという感じです。

↓wikiの聖徳太子のリンクページですが下の方に虚構説が少し出ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

古代史では邪馬台国は存在していなくて、邪馬壱国だったという説が昔ありましたし、
色々と調べると面白いですよ。

Q【日本史・聖徳太子が】人魚姫を見たことがあるとはどこの書物に記載されているのでしょうか? 西洋には

【日本史・聖徳太子が】人魚姫を見たことがあるとはどこの書物に記載されているのでしょうか?

西洋には人魚姫伝説がありましたけど、当時の聖徳太子はどのようにして西洋の人魚姫の存在を知っていたのでしょう。

Aベストアンサー

『日本書紀』によれば、619年に摂津国で、「子供のような姿で、魚とも人ともつかないものが網にかかった」とされています。聖徳太子の時代なので、ここから話が広がって、彼が人魚に会ったという伝説になったようですね。

> 【日本史・聖徳太子が】人魚姫を見たことがあるとはどこの書物に記載されているのでしょうか?
聖徳太子が人魚を見たという話は、『聖徳太子伝暦』(917年成立)にあります。
http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO005896/20140310-OYT8T01188.html
ただこの人魚が、女性だったかどうかはわかりません。観音正寺の伝説では、「生前は漁師だった」とされていますし、男と思われていたようです。

ちなみにリンク先では、近江国の蒲生川に人魚がいたことになっていますが、厳密に言うとこれは違います。蒲生川について『日本書紀』には、「人のような形の生き物がいた」とあるだけです。「魚とも人ともつかないもの」が捕まったのは、摂津国でのできごとです。

> 西洋には人魚姫伝説がありましたけど、当時の聖徳太子はどのようにして西洋の人魚姫の存在を知っていたのでしょう。
日本の人魚は、西洋のマーメイドとは本来関係がないようです。一種の人面魚のようなもので、人に似ているのは顔だけです。
http://www.jiten.info/dic/world/ningyo_mermaid.html
「上半身が人、下半身が魚」という姿になったのは江戸時代以降、西洋の知識が入ってきてからです。「人魚のミイラ」と言われるものがつくられ出したのもこのころです。
なお、観音正寺にあったという人魚のミイラはこんな感じです。↓
http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/graph/article.html?id=20140310-OYT9I01187

『日本書紀』によれば、619年に摂津国で、「子供のような姿で、魚とも人ともつかないものが網にかかった」とされています。聖徳太子の時代なので、ここから話が広がって、彼が人魚に会ったという伝説になったようですね。

> 【日本史・聖徳太子が】人魚姫を見たことがあるとはどこの書物に記載されているのでしょうか?
聖徳太子が人魚を見たという話は、『聖徳太子伝暦』(917年成立)にあります。
http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/feature/CO005896/20140310-OYT8T01188.html
ただこの人魚が、女性だった...続きを読む

Q聖徳太子

歴史の漫画を読んでいるとこう書かれていました。

聖徳太子の長子の山背大兄王は、蘇我馬子の娘の子で、皇位継承候補者だった。
推古天皇の死後、蘇我蝦夷は、山背大兄王をきらって、田村皇子を推し、のちに入鹿が、山背大兄の排除を企て、屋敷を襲わせた。
王は大きな戦になるのを避けて自殺した。

山背大兄王は聖徳太子の子供だったような気がするのですが、蘇我馬子の娘の子と書かれているのですが、
どういう意味かわかりません。

頭が悪いので、小学生でも理解できるように解説していただけると嬉しいです。
どなたか、教えてください。

Aベストアンサー

蘇我馬子の娘(刀自古郎女)は、聖徳太子の妻となっています。
この二人が今で言う夫婦なわけですから、山背大兄王は二人の子供ということです。
ということは「山背大兄王は蘇我の馬子の娘の子供」と言えますよね。

これでもわからなかったら、自分に当てはめてみてください。
あなたのお母さんは、おじいちゃんの娘ですよね。だからあなたは「おじいちゃんの娘の子」となるわけです。だからって、お父さんの子であることに変わりはないです。
それと同じことです。

Q法隆寺

奈良の法隆寺は聖徳太子が建ててそのままの姿で何百年も続いてきたのではないですよね?
何度くらい建て替えてるのでしょうか。
詳しい方お願いします。

Aベストアンサー

こんばんわ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA

上にあるように、法隆寺では聖徳太子が創建した当時のままであるという伝承が伝わっていました。
法隆寺のサイトではその伝承にもとづいて略縁起を書いているようです。

しかしながら法隆寺にはかねてより再建論と非再建論がありました。
再建論の根拠となったのは『日本書紀』に天智天皇9年(670年)に法隆寺焼失の記述があることでした。
これに対して非再建論の主張 は、
・法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。
・薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているが、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。
・薬師寺などに使われている基準寸法は(大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。
・日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。
というものでした。

1939年(昭和14年)、発掘調査により、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘され、現在は再建説が有力となっています。

こんばんわ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA

上にあるように、法隆寺では聖徳太子が創建した当時のままであるという伝承が伝わっていました。
法隆寺のサイトではその伝承にもとづいて略縁起を書いているようです。

しかしながら法隆寺にはかねてより再建論と非再建論がありました。
再建論の根拠となったのは『日本書紀』に天智天皇9年(670年)に法隆寺焼失の記述があることでした。
これに対して非再建論の主張 は、
・法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもの...続きを読む


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