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最近大河ドラマをみてちょっと疑問に思ったのですが・・・


[1]秀吉の就いた官位について
・秀吉は関白・太政大臣に任官されていますが、それぞれの仕事の違いはなんなのでしょうか?

・位としてはどちらが上なのでしょうか?

・これらは同時に任命された(関白でもあり太政大臣でもある)ということになるのですか?それとも関白を辞めさせられて太政大臣になったと考えるべきでしょうか?

・征夷大将軍には何故ならなかったのでしょうか?(なれなかった?)


[2]秀吉の行った政策について
・惣無事令はどういう目的で出されたのでしょうか?

・朝鮮出兵は日本・朝鮮ともにマイナスとなった事件だったのでしょうか?(朝鮮出兵による日本・朝鮮それぞれのメリットはありますか?)




全部ではなく、部分的にでも解答いただけたら嬉しいです。
よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

>位としてはどちらが上なのでしょうか?


 摂政・関白には成れないが、太政大臣には成れる清華家という公家の家格が有りますから、摂政・関白の方が上と言えるのではないでしょうか…。

>それぞれの仕事の違いはなんなのでしょうか?
 関白は、天皇の代理です。(決定事項には天皇の承認を必要とする)

 天皇が臨席しない場であれば、関白以外の臣は、天皇に対するのと同じような礼遇を関白に対して行わなければ成りません。

 太政大臣は、養老令「職員令」にて中国の三師(太師、太傅、太保)と三公(司徒、司空、太尉)を1人で兼ねる職とされています。
 つまり、臣下の立場でありながら君主を導き、国家の政の全てを掌握する者と言う事になります。

 ちなみに摂政は天皇の権限の代行者(天皇が未成年・執政不能状態の時)です。
 (必ずしも天皇の承認を得る必要が無い or そもそも承認を得る事が出来ない時に立てられる。)

>これらは同時に任命された(関白でもあり太政大臣でもある)ということになるのですか?それとも関白を辞めさせられて太政大臣になったと考えるべきでしょうか?
 太政大臣は、前述の通りただの有能な政治家ではダメで天皇の師、足りえる程の人格者で無ければ成らない事から、任官にはハードルが高く、到って隠居する者の最後の花道や特別の事情(未成年だった天皇が成人する際の加冠[父代わりに成人式を執り行う])の為に任用されました。←その為、任期が短い者が多い。

 江戸時代には、将軍引退者であっても特別な者のみ(生前は家康、秀忠、家斉の3名のみ)しか与えられない役職だった為、名誉職としての立場を強くする事となります。
 (本来太政大臣の領分たる政も関白が主宰する様になる。)

>征夷大将軍には何故ならなかったのでしょうか?(なれなかった?)
 征夷大将軍って関白・太政大臣と比べると2~3階級ぐらい下の役職ですよ。
 (将軍が就任時に朝廷から与えられる階級は、内大臣です。順番は内大臣 < 右大臣 < 左大臣 < 太政大臣)

 征夷大将軍と同クラスの役職って他にもいくつか有りますし…。←所詮、外征時などの臨時の特権を与えられた軍の指揮官クラス。
 (源頼朝の将軍位は「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つから選ばれた)

 昨今の研究では、織田信長も豊臣秀吉も将軍任官を朝廷から進められるも、断っていたとの説が出ています。
 (彼等は、室町幕府の権力の無い将軍を見ていますから、おそらく魅力を感じなかったのでしょう。)

 家康が将軍になった時は、まだ建前上、主家に当たる豊臣家が居ましたから、官位のバランス上の結果では…。
 (豊臣家が滅亡した後、さほどの時間を得ずして家康は亡くなった為、以後の将軍は神君家康公を超える訳にはいかず、地位が留まってしまった…。)

 なお、将軍は源氏のみしか就任できない何て俗説有りますが、根拠は有りません。
 そもそも、鎌倉時代の将軍は最初の3代以外は、源氏とは関係の無い皇族や摂関家から迎えています。
 鎌倉時代以前だと、もはや家柄より軍人としての能力の有無が全てですし…。

 それに、単純に就任の難易度の高さでは関白の方が何倍も困難です。
 (将軍と違って摂政・関白は、聖徳太子とかの皇族を除けば、藤原氏の嫡流の北家のみ。例外は豊臣秀吉と秀次だけ。)

 わざわざ豊臣氏と言う摂関家と対等な氏を創設(歴史上最も新しい氏←つまり後年の人物は誰もこの境地まで至っていない。)してまで就任した訳ですし…。
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>・征夷大将軍には何故ならなかったのでしょうか?(なれなかった?)



15代の足利義昭が存命中で、1588年まで将軍職に就いており、そのポストが埋まっていたのも理由の1つでしょう。もちろん実力によって排除することもできたはずですが、官位のハイアラーキの最上位に立つことによって支配する手法を選択したということでしょう。摂家の内紛がその頃起きていたこともそれを選択した背景にあると思います。
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官位については#2さんが上手にまとめているので。



惣無事令は、分かりやすくいえば「もう天下は秀吉のものであるから勝手に戦さはしてはいけない」という命令だったのです。秀吉の威光が及んでいた関西では問題ありませんでしたが、まだ関東では秀吉の実力が正確には伝わっていませんでした。ですから伊達政宗は惣無事令を無視して行動し後に領地を没収されています。政治的な平和宣言ですね。

朝鮮出兵についてはいくらでも議論のテーマとなると思いますが、私は「雇用対策」という側面があったと思います。秀吉の天下を会社に例えるなら、成長戦略によって成立していたといえると思います。会社を維持する、つまり豊臣政権を保持するためには「与える領地」がないといけません。
また、当時はいわゆる臨時雇いの武士が数多くいました。これは特に特定の主人を持たず戦さのときだけ参加する武士です。分かりやすくいえば傭兵です。世間が平和になると彼らは失業します。武器を持って、戦争の経験が豊富な兵士(武士)が失業したらこれは大変ですよね。小銃持った元自衛官がそこらじゅうにうろちょろしているようなものです。だから朝鮮出兵というのは、国内で雇用がなくなった彼らに対して海外進出で「雇用」を生み出そうとしたという側面があると思います。

秀吉の「浪人対策」の失敗を見ていた家康及び徳川政権はこの問題についても慎重かつ確実に対策をしています。まず大阪の陣で大量の武士の「処分」をしました。豊臣方についた多くの武士が天下泰平で仕事を失った浪人でした。もちろん全員が殺されたわけではないですが、逃げた武士たちは敗残兵なので着の身着のままだしヘタに見つかると殺されてしまいます。もう散り散りになってそれぞれに農民になったり町人になったりして大人しく暮らすしかありません。
それでもなお多くの浪人が出ました。大阪の陣が終わったことで徳川方からも浪人が出たのでね。
彼らの多くが島原の乱に叛乱側として参加しました。島原に食い詰め浪人が集まるのを江戸幕府はあえて放置した節があります。問題を起こしそうな奴らは一箇所に集めて一網打尽にしたほうがいいというわけです。島原の乱には歴戦のベテラン武士が多く参加していたのでそのときには戦さは初体験であるのが多かった幕府軍は大苦戦します。あの宮本武蔵も幕府軍に参加して大ケガを負っています。武蔵はこの戦さで立身出世の最後の望みをかけますが、なにせ島原の乱は「江戸時代『最後』の戦争」ですからね。泰平の時代にもう武官は不要です。かくて彼は趣味人として「長い老後」を過ごす羽目となります。
島原の乱の鎮圧により国内の「不穏分子」はほぼ一掃されました。しかし、最後の不穏分子が鎮圧されるのは由井正雪の乱まで待たねばなりませんでした。

ちなみに、太平洋戦争の敗戦による復員兵の問題でも日本政府は同じ問題に直面しました。当時の日本は国家が根底から破壊されたのですが、復興の足がかりを作るためにもがいているところで各地から復員兵が大量に帰国するのは頭の痛い問題でした。当時の日本には復員兵への雇用がなかったのです。復員兵はみんな兵隊なので荒っぽくてまとまっています。一部の復員兵は愚連隊などとなって社会不安をまねいていました。そこで行われたのが「移民」でした。在日朝鮮人特に北部出身者の多くが北朝鮮に渡りました。実は当時は北朝鮮のほうがなんだか仕事がありそうだったんです。特に日本人でも失業者が多かった当時は在日朝鮮人にはロクな仕事がなかったでしたから。北朝鮮に渡った日本人妻のほとんどは在日朝鮮人の夫を持った人でした。
また、その他にブラジルなどの中米や南米への移民をした人も多くいました。特にブラジルは戦前の移民者も多くブラジルは第二次大戦に参加しなかったので戦争で疲弊しておらず豊かでした。そしてそんな政府の呼びかけに応じてドミニカに渡った人々が現地の人が見向きもしないようなどうしようもないジャングルを「農地」として与えられて塗炭の苦しみを味わったのは有名な話です。
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関白


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD
太政大臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF% …
惣無事令
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E7%84%A1% …

・それぞれの仕事の違いはなんなのでしょうか?

関白は天皇の代理・補佐として政を行う立場のものです。
類似のものでは摂政がありますが、こちらは天皇が幼少の時に天皇代理・後見としての役職ですが、関白は成人(元服)後の天皇に仕えるものです。記録では同じ者が摂政→関白と続ける事が多いようです。
太政大臣も政を行いますが、こちらは朝廷(公家)の最高位の役職としてのものです。


・位としてはどちらが上なのでしょうか?

同じ者が兼任する場合が多かったので、どちらとも言えません。
関白は太政官から天皇へ送られる文書を閲覧する「内覧」という権限を持っていました。
なので、天皇の信頼を得ている限り、関白の方が上かもしれません。
しかし、関白には政の決定権や太政官を含む官僚の指揮権もありません。
従って、天皇の信頼を失なったり対立した場合は、太政大臣が上になります。


・これらは同時に任命された(関白でもあり太政大臣でもある)ということになるのですか?

関白と太政大臣は、所属が天皇個人か朝廷の違いはありますが、職務がほぼ同じなので、天皇の成人によって、摂政→関白の後、太政大臣に任命されていたらしいです。


・征夷大将軍には何故ならなかったのでしょうか?(なれなかった?)

なりようがなかったからです。征夷大将軍は源氏か平氏の血筋の者しかなれません。他の大名は捏造でも何でも、でっち上げることはできますが秀吉は、百姓出身というのがあからさまにばれていたので無理でした。
なので、天皇のご落胤(隠し子)ということにして、地位を得ています。


・惣無事令はどういう目的で出されたのでしょうか?

1:天下人の力と関白の権威によって、大名間の戦(領土紛争)を禁止することによる平和を実現する。
2:その時点での各大名の領地を保証することで、自分への敵対行為に大義名分を与えない為。
1と2の見方がありますが、多分両方だと思います。


・朝鮮出兵は日本・朝鮮ともにマイナスとなった事件だったのでしょうか?

もともと、朝鮮は明へ進出する為の足がかりだったらしいですが、あの年齢で、そこまで野心があったのかという疑問があります。それも秀吉の死で中止になってしまいましたし。
実は、大名の力を減らす目的であったのかもしれません。だとしたら、豊臣家にはメリットがあったかもしれません。
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[1] 明確な違いはないでしょうが、関白 秀吉 と言っていた位ですから、当時は関白の方が上だったのでしょう。


  征夷大将軍は源氏か平氏の家柄でないとなれないので、農民出身の秀吉はなれないで、関白になった。

[2]惣無事令は、乱世の時代は終わって、これからは自分の子孫が治めるというはかない望みだったのでしょう。
  朝鮮出兵は、少なくとも日本にとってはマイナスだったでしょう。出兵命令に対して、遅れた(意図的?)家康に対して、秀吉は三河/駿河から関東に改易しましたが、却って家康の勢力を拡大させました。
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