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沖縄が正式に日本国の仲間入りしたのはいつでしょうか?
あと、琉球王国はどうなったのでしょう?王家の血筋の人たちは沖縄にいるんでしょうか?

征服?されてまったくトラブルも無く順応しているというのはすばらしいことだと思います。
内戦になっていてもおかしくなかったような気もします。

そこら辺のところ教えて下さい。

A 回答 (6件)

質問に対する答えではなく、tomotaroさんの回答に対する補足ということで。


(あくまで訂正補足ということで、他意はありません)

>また農耕を開始した民族アマミキヨは「海の人」「海部」といわれ九州から南下した人々です。
このことからいっても古代から日本には違いないです。
最近のミトコンドリアDNAでは南方から北方へ移動したという結果が出ています。
また「アマミキヨ」という民族はあくまで一説で、メジャーな説ではありません。

>その最初の人は源為朝(日本ですよね!)
これはあくまで作話で、事実ではありません。
薩摩下における地位向上のために創作されたものです。

>1429年本島の南部の按司(領主)であった尚巴志が中山王の武寧を倒し中山王となり北山・南山を滅ぼし統一王朝を開きました。
中山王・武寧を倒したのは1406年、
その後即位したのは尚巴志でなく父の尚思紹です。
で、北山・南山を攻略し統一を果たしたのが1429年です。

>この王朝が明治になるまで続いたわけです。
その後尚巴志の系統・第一尚氏王統は滅び、
第二尚氏王統(血縁関係はない)が誕生し、明治に至ります。

>1441年島津氏は室町幕府の将軍義教から恩賞として琉球国を与えられました。
いわゆる嘉吉附庸はまったくの虚構であることがわかっています。
事後のアリバイ工作にすぎません。
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細かい説明を省き、端的に言いますと。



日本国になったのは1879年と認識して良いです。
1609年薩摩侵入後は日中両属状態。
1872年には国号の停止で琉球藩となりますが、
「琉球藩王」という地位があり、政府の窓口は外務省。
1879年の首里城明渡しをもって沖縄県の設置、日本国へ編入でしょう。
(その後清国との問題が残りましたが、日清戦争での勝利で、琉球の領土問題は自然に収拾されました)

王家の後裔は沖縄にいます(直系は東京在)。

「トラブルなく順応」ではありません。
脱清や頑固党の抵抗、サンシー事件などがあります。
特に脱清者による救国運動は、国際問題にも発展しています。
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日本国の概念がよくわかりませんが、


歴史的にみるとはじめから日本といったほうが
良いのではないでしょうか?
いつから北海道は日本になったと同じような事になってしまいます。

琉球としての歴史は12世紀から始まります。

紀元前1千年から始まる縄文文化は、北九州→九州西海岸→奄美群島→沖縄群島の経路を経て伝わりました。また農耕を開始した民族アマミキヨは「海の人」「海部」といわれ九州から南下した人々です。
このことからいっても古代から日本には違いないです。

 アマミキヨ族が移入した農耕は、水稲栽培が中心ですが水田に適する耕地に乏しいため、肥沃な土地を求めて南下し沖縄本島の中部や南部に定住し、新生活の手段である農業で周辺の先住者を圧し、さらに沖縄全土を支配する優位的な条件を整えていきました。

 沖縄では、鉄器の渡来と普及は、日本本土にくらべて、遥かに遅れて始まりました。そのために生産力の発展も遅れて、沖縄の歴史の発展も停滞していました。
 本土では、弥生文化→古墳時代→国家の成立と発展→封建社会へと発展していく長い間沖縄では、本土の文化圏外にあって封鎖的な村落の共同体に別れたままあゆみを続けていました。

 沖縄諸島全域から須恵器が広く見つかる事から考えると、6、7世紀頃に本土との交流があったわけで、7、8世紀にかけて、南の島から大和朝廷への入貢などがあったと日本書記などに記されています。
 9世紀頃から、村落共同体の中で、階級化が進み、政治的社会の成立へ向い、11世紀末頃までには、各地に按司とよばれる支配者が誕生しました。按司たちは、いちはやく鉄器に着目して、最初は、武器として用いて、その後農具などとして利用し、社会的支配者になっていきました。

 12世紀に入ると、地方領主である按司の中から強力なものが、王となって現れてきた。その最初の人は源為朝(日本ですよね!)の子といわれる舜天で、舜天王統は、以後英祖王統にひきつがれ、沖縄本島の中部地方浦添の地を支配しました。しかし、その支配は全島に及ぶほど強力なものでなく、そのために自立して世の主を称するものが、本島の南部と北部とに現れました。こうして沖縄では、中部の英祖王統と合わせて、北山・中山・南山の三山が分立する時代が訪れました。(3人の王)ただし支配体制が弱かったため独立領主として按司が存続していました。

 1429年本島の南部の按司(領主)であった尚巴志が中山王の武寧を倒し中山王となり北山・南山を滅ぼし統一王朝を開きました。これが「琉球王朝」になります。この王朝が明治になるまで続いたわけです。

 では政治的に見てみましょう。

1441年島津氏は室町幕府の将軍義教から恩賞として琉球国を与えられました。

沖縄と島津氏の関係は天正年間(1573~92)ごろまでは友好関係が保たれていましたが、
1592年(文録元)豊臣秀吉の朝鮮出兵要請から琉球王府と島津氏の関係も悪化しさらに島津氏の財政危機という事情も加わり、ついに島津氏は1609年(慶長元)将軍家康の許しを得て、3000余りの
兵をもって琉球に侵入しました。琉球は、戦いらしい戦いもなく島津氏に降伏、この結果、島津氏は幕府から改めて琉球を領土として受けました。

 しかし島津氏は奄美諸島だけを直轄領とし、沖縄本当以南は琉球王に下付して、琉球王国は存続することになりました。島津氏が琉球を討った本心は、琉球の名を借りて中国と貿易を行なって利潤を得るためであったために、中国に対しては、あくまでも薩摩藩との関係をかくし、独立国とみせかける必要がありました。

 のち薩摩藩が徳川幕府打倒の中核となる実力を蓄えることができたのは、この沖縄からの収奪によるとさえいわれています。

 琉球王は、島津氏から王位継承の許可を受けて後、幕府に届けでたが、名目上の主権者である中国皇帝からも琉球国王に封ずるという冊(国王に封ずるという中国皇帝の詔勅)を受けなければなりませんでした。

 1868年明治維新政府が成立し沖縄は明治5年、琉球国から琉球藩となり、明治12年沖縄県となりました。廃藩置県後、明治政府は、台湾で発生した宮古島民殺害事件を契機に台湾出兵を行ない、沖縄が日本領であることを清国に認めさせました。

 明治に至るまでこのように見ていけば名目は中国の属国ですが本質的に国の成立以来、日本の一部であることはおわかりいただけます。

 では、王族の血筋の人たちはどうなったでしょうか?直接王族は新政府では華族として新政府のしくみにとりいれられましたし、新政府の県政は土地制度・租税制度・地方制度はすべて”旧慣温存”の方針が貫らぬかれました。土地制度における地割制度・租税制度も徴収法・貢租額においてほとんどそのまま残されました、地方制度においても、旧来の間切・村の諸慣行や、王朝時代の地方役人もその特権とともに採用されました。

征服されたわけではないことがおわかり頂けたと思います。



  

 

 
 
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何をもって日本国と呼ぶかはわかりませんが、政治的な意味では、1879年に明治政府が軍隊警官隊を動員して首里城明け渡しを迫り、琉球王国がこれに従い沖縄県になりました。



もっともそれ以前から実質的には薩摩藩の配下にあって、1872年に明治政府によって琉球藩に改めさせられたという経緯があります。

それ以前ですと、1609年に薩摩軍3000の兵が琉球に侵入したそうです。当時軍備を持たない琉球の人はなす術もなく、抵抗らしい抵抗もなかったそうです。
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歴史的には、琉球王国と大日本帝国とは正式な接点が無いみたいです。


江戸時代に薩摩藩などに征服されていて、明治維新の時には琉球王国は存在が無視されたのか、存在していなかったようです。
ですから、琉球王国として大日本帝国に手続きをした事は無いようです。

アメリカのハワイは、それまでのハワイの王国が正式な手続きでアメリカ合衆国の一部に編入された記録があるようですけど。

琉球の正確な資料を探したのですが、私の所ではみつかりませんでした。
他の方が正確な資料を提示してくれると思います。
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沖縄が正式に日本に復帰し沖縄県となったのは「1972年5月15日」です。

参考 URL は沖縄県のサイトの中にあるページです。

後は他の方にお任せします。

参考URL:http://www.pref.okinawa.jp/kodomo/sugata/a5_01h. …
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