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よく考えるといろいろわからないことがたくさんあります。

1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。
2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。
3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。
4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。
4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。
5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。
6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。

以上、いろいろ書きましたが、よろしくお願いいたします。

A 回答 (7件)

 これで3回目になります。



 忠臣蔵関係の話のなかには、松平右京大夫はほとんどでてきませんが、この二人は親子のような関係で、将軍綱吉も何度となく右京大夫の屋敷を訪問しているんです。

 松平右京大夫は、本所吉良屋敷の前主、松平登之助よりも十歳年長ですが、幼い頃からの親しい仲。
 ほとんど知られていないことですが、事件当時本所に隣り合わせの抱え屋敷がありました。拝領屋敷と違って、農民などから自前で収集した土地です。

 前述のとおり、細井廣澤は柳沢の家を辞してすぐ、播磨明石城主(六万石)の松平左兵衛(直常)の家に仕官し、留守居という重要な職についていたのです。

 さらにいうと、堀部安兵衛は大石内蔵助との往復書簡(安兵衛の書いた写しも含めて)などを細井廣澤に託したのち、切腹しているのです。

 安兵衛が細井廣澤に託した文書があったからこそ、討入にいたるまでの江戸と赤穂(京都)の経過が生々しく伝えられたのです。


>6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。

 前にも書いたとおり、本来ならば伝馬町の牢屋敷で沙汰を待つことになります。

 歴史作家さんはこう書かれています。

 「大名屋敷での騒動や取締りは大目付の支配下です。ちなみに、旗本や御家人の支配は目付です」

 評定所では、大名、大名家や旗本・御家人の犯罪、公儀に関わる重要事件の裁定も担当します。旗本・御家人が犯罪を犯すと、犯罪を犯した者の上役である頭支配が捕らえ評定所に引き渡すのです。

 あの事件は、元大名家の家来、浪人が起こした騒動です。
 いかに元大名の家来であっても、浪人が大名屋敷に押し入って金品を盗んだりしたときには、町奉行の出番です。

 大名家の騒動とするために、口上書を作りました。
 本来ならば、口上書の内容などは後で詮議されるべきもの。

 ところが、最後の決まで決まっていた事件です。

 武家諸法度の天和令にピタリあてはめるように(弓馬を除いて忠孝を追加した)、細井廣澤によって推敲された口上書はいかにもよくできています。

 前項の回答にあるに 「佐藤一敞覚書」でもわかるとおり、その日のうちに四家へのお預けや、切腹まで決まっていたのです。

>大石内蔵助らは泉岳寺に詣でたあと、「評定所」に自首しました。

 「評定所」 ではなく、大目付の仙石伯耆守の屋敷です。


 歴史作家さんはこう書かれています。

>なお、寺坂吉衛門は、赤穂藩士ではなく、赤穂藩士の吉田忠左衛門の家来でした。

 寺坂吉右衛門を吉田忠左衛門の家来で、浅野内匠頭からみると陪臣だと勘違いしている方が多いようです。

 寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門の家来でしたが、27才の時に吉田忠左衛門の推挙によって足軽になり、足軽頭だった吉田忠左衛門の組に入ったのです。

 原惣右衛門は、元禄十六年二月三日(1703年3月19日)、切腹の前日に、実弟の和田喜六(岡島八十右衛門の兄)に送った暇乞いの手紙には、こんなこと書いているんです。

「昨年の十二月十四日の(吉良屋敷表門の前に立てかけた)口上の写しも公儀に差し出している。その内に書いた寺坂吉右衛門の事も、かねて言っあるる通りである。十五日暁の討入り直前までは居たのにどういう訳で心遅れしたのか、(吉良の)屋敷に来ずに逃亡してしまった。今少しの事であったのに、残念千万だ。矢野為助めは、今はどうしていることやら、(あいつを)成敗したい」

(一旧冬十四日ノ状ニ指出し候口上書の下書も遣候、其内に寺坂吉右衛門事申通候、十五日暁ニうち入候前までハ居申候処、何と候て心おくれ申候か、かのやしきニ不参候て逐電申候、今少之事、残念千万の事候、矢野為助め、いかやうニ申候て居申候や、成敗仕度候)

 ここに原惣右衛門のホンネが、見えてきました。

「矢野為助(伊助)め は、今はどうしていることやら、(あいつを)成敗したい」

 寺坂吉衛門は、吉田忠左衛門組下の足軽。矢野伊助は自分(原惣右衛門)の組下の足軽。

 2人とも、赤穂浅野家の家来ではあったけど、他の家来からは相手にされないくらいの末席。

 寺坂は、討入が計画どおり済んでから、「行方不明」になったのです。

 討入前の計画で、寺坂だけを安全に逃がすことになったんですね。

 今度で最後
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この回答へのお礼

たいへん詳しくご説明いただき、ありがとうございます。

またよろしくお願い申し上げます。

お礼日時:2012/01/07 01:21

 これで回答は最後です。




 歴史作家さんは、大石は寺坂に密命を託し離脱させたとして、その密命を4つ揚げましたが、

 1.妻瑤泉院への報告。
 寺坂が瑤泉院のところに行った形跡はありません。かつて、寺坂が 「金銀請払帳」 を瑤泉院に届けたなどと書いた本がありましたが、 「預置候金銀請払帳」 など16点の品々は、吉良屋敷討入りの前に大石内蔵助の命によって、近松勘六の家来甚三郎が瑤泉院の用人であった落合与左衛門に届けたのです。

2.弟大学への報告。
 寺坂は広島の浅野宗家には行った形跡がありません・

3.広島の浅野本家への報告。
 同上

 なぜ、寺坂を逃がしたかというと、「身分の違い」です。
 浅野の元家来の大方は、討入には参加していない。

 討入メンバーは、親子・兄弟などのグループ、隠居した老人や居候(部屋住み)などまでひっかき集めて作った軍団でした。
 そうはいっても、いつも使い走りのようなことをやってる足軽のような下っ端まで加わっていたとなると、みっともない。大石内蔵助の見栄もあったのでしょう。

 大石内蔵助の家来、瀬尾孫左衛門とともに矢野伊助は討入の前々日に勝手に逃げてしまった、あいつはどこでどうしていることやら。
 寺坂のように最後までいれば、安全に逃げることができたのに。


 ちなみに、寺坂吉衛門(信行)は晩年、江戸麻布の曹渓寺に身を寄せたのち、土佐山内家の分家に仕えて「刀矢のこと」を担当。夫人を郷里より迎えて平穏な家庭を築いたということです。

 彼には養子がいて、子孫も代々土佐新田山内家に仕えて吉右衛門の通称を継ぎ、孫の吉右衛門(信成)は主君攝津守(豊福)の側頭(側近)にまで出世しています。

 私は、末裔の寺坂氏とは何度も会っています。
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(つづき)



>4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。

 隣の土屋家も、本多家も高張提灯を掲げています。
 この土屋家は、老中の土屋相模守の本家だし、本多家は公儀の指名による越前家の家老で御一門の越前家や加賀前田家の監視役のような家。二万石の大名格として得遇されていたので、公儀とはツーツー。
 みんな事情を知っていたのです。



>5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。

 本来ならば、ルール違反。大目付は大名家での事件やトラブルには関与しますが、浪人が起こした事件ではまず町奉行行きです。
 評定所の裁定を待つにしても、伝馬町の牢屋敷内の揚屋といいう御目見以下の御家人、大名や旗本の家来、僧侶、医師、山伏が入る牢屋に監禁されるべきものです。
 ところが、泉岳寺に向かう途中で吉田忠左衛門と富森助右衛門の2名が大目付、仙石伯耆守の屋敷へと向かい、自首手続きを行なった。
 仙石伯耆守の屋敷なんて、ふつうならどこにあるかもわからない。
 江戸の地図を頼りに行ったはずです。

 ボクは当時の江戸の地図の復刻版(遠近道印作・改選江戸大絵図)を持ってるけど、畳2枚くらいの大きさです。

 泉岳寺に引き上げる途中、大石内蔵助に突然命令されてもストレートに行けるわけがない。道順は、事前に調べてあったはず。

 2人が大目付に自首したのち、全員が大目付の屋敷に呼ばれ、そこから四つのグループに分かれてそれぞれお預け先の大名家に。
 そこまで、事件当日に決定してしまったのです。

 その後の切腹まで、決まっていた。。。


 手元に 「佐藤一敞覚書」 という史料があります。

 佐藤條衛門一敞、討入をサポートした堀部安兵衛の従兄が書いた記録です。

佐藤條衛門は事件後、米沢町の堀部弥兵衛宅に行きました。

 
「四十六人は芝泉岳寺に行ったというので、安兵衛のいってた近松勘六の召使い甚三郎を引き連れて芝高輪の泉岳寺に来てみた」

(四十六人之面々芝泉岳寺へ参候由ニて被通候と追々申来候故某儀さらは泉岳寺へ参何もへ逢可申と申近松勘六召遣甚三郎と申者安兵衛申置候故弥兵衛宿へ呼寄候を召しつれ米澤町を立出芝高縄(ママ)泉岳寺へ参候)

 佐藤條衛門は昼ごろ門前まで行き、上に行ったり下を通ったりしながら様子を知ろうとしたが、わからず。

 どうしようか困っているところに、松平左兵衛公の御留守居役広澤何某を見かけたので近寄って様子を訊いた。

 上記の「広澤何某」は、細井廣澤(ほそい・こうたく/次郎太夫知慎)。堀部安兵衛とは剣術の同門。仲のいい友人で、このときは播磨明石城主(六万石)の松平左兵衛(直常)の家に仕官し、留守居という重要な職についていたのです。

 細井廣澤は、松山陰州公の御留守居役からこんなことを聞いていた。


「四十六人は四ヶ所に御預けとなり、これを受け取るため仙石伯州殿から御渡しなさるので、引き取るようにとのご沙汰であった」

 松山陰州公といえば、十五万石の伊予松山の城主、松平隠岐守。
 大石主税・堀部安兵衛ら10名の預かりを命じられた家の当主です。
 

 七ツ(16時頃)過ぎになったけれど、佐藤條衛門は夜になっても様子を見届けたいと、茶屋に腰掛けて待っていた。

 暮六ツ(18時)頃、一同46人は、泉岳寺の門をでて仙石伯耆守屋敷に向かいますが、それ以前、早いうちに大名家のお預けは決まっていたんですね。

 一同が泉岳寺の門を出たとき、佐藤條衛門が堀部安兵衛に、

「これから何処に参られるのか、と訊いたら仙石伯耆守殿に参るというので、どうなるのかとと問うと、安兵衛は "切腹、切腹" と答えた」

(何方へ被参候哉と尋候へは仙石伯耆守殿へ参候と申候何事にやと申候へハ切腹切腹と申候)


 堀部安兵衛は、ずっと前から事件の結末までわかっていたようです。

 彼の友人の細井廣澤とは、どんな人物なのか。

 御側用人、松平美濃守吉保(柳沢出羽守保明)の元家来です。
 彼は、事件の前に柳沢家を辞して浪人生活を送っていたとされていますが。。。

 その原因は、細井廣澤が松平右京大夫とトラブルを起こし、右京大夫が吉保に執拗に責めたためとされています。
 で、吉保は浪人になった広澤に、年間十両を与えていたなんて話もあって。。。

 松平美濃守吉保は首席の御側用人で、松平右京大夫は次席御側用人。

 (さらにつづきます)
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>1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。

そういうことはなかったのでしょうか。

 歴史作家さんが書かれたとおりです。


>2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。

 大筋、歴史作家さんが書かれたとおりですが、
 「辻番には、前日に赤穂浪士の1人が「目こぼし(見て見ぬふりを)」してくれるよう頼んでいます」 ということは、どこから出たのでしょう。

 前原伊助の借店(かりだな)には、それ以前から何人もの者(浪人)が出入りしていました。
 それなのになぜ辻番はとがめないのか?
 辻番は、公儀の若年寄支配です。
 大名家の一手持辻番はその家が、旗本の組合辻番は複数の家で運営していました。
 吉良屋敷の裏門ちかく、南西角にあった辻番は、吉良家と土屋家が共同で運営していたのです。
 いずれにせよ、定期的に御徒目付が巡回して辻番の勤務状態をチェックしていたので、上層部の若年寄が見逃すはずはない。
 堀部安兵衛は、「討入は必ず成功すると」書簡にも書いています。
 そんなところから大石内蔵助は、不審に思って同志に尋ねたのでしょう。


 歴史作家さんが書かれたことに関係しますが、かつて私の書いた町木戸に関する説明のなかに重大なミスがあり、そのページで訂正させていただきました。
 その内容は、下記のとおりです。

 【誤】
 日暮時を午後6時としたとき、午後10時は八つ時になります。

 【正】
 町木戸の閉鎖時刻は、宝永五年(1708)十一月以降は夜四つ時(日暮時を午後6時としたとき、午後10時)になりましたが、元禄の頃は暁九つ(午前0時)でした。



>3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。

 火事騒ぎがあっても、野次馬に走れば付火容疑で捕まえられ、拷問にかけられることもある。
 吉良屋敷の四丁ほど東に、初代火付改の中山勘解由の屋敷がありました。
 討入事件の10年ほど前に中山勘解由は火付改の職を辞していますが、それでも「鬼」と恐れられた人が近所にいたから、自身番などから通告がなければ外に出ようとする人は少なかったと思います。
 それでも何事か見に来た人がいたので、吉良屋敷の表門前にあった牧野一学の家来などが追い払っていました。
 遅れてきた堀部弥兵衛が門の横から梯子で塀を乗り越えようとしたとき、同道の佐藤條衛門が牧野の家来に推覈されようとしました。
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(続き)



しかし、側用人であった柳沢吉保は、
「忠義だけで政(まつりごと)をしたのでは、世情の統制がきかなくなる」
と、反対しました。
そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤と柳沢お抱え学者の荻生徂徠の2人を呼び議論をさせました。
最終的には、綱吉は2人の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとし、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹をしました。

なお、寺坂吉衛門は、赤穂藩士ではなく、赤穂藩士の吉田忠左衛門の家来でした。
そこで、大石は寺坂に密命を託し離脱させました。その密命とは、
1.妻瑤泉院への報告。
2.弟大学への報告。
3.広島の浅野本家への報告。
4.今後の我らの行く末を見届けること。
などだったと言われています。
寺坂は全ての事後処理が終わると、大目付仙石伯耆守(せんごく ほうきのかみ)へ自首しましたが、かえって10両を与えられ開放されています。
その後は、他の藩に勤めたり、年老いてからは江戸に出てきて寺男などをして82歳の天寿をまっとうしています。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。

堀部安兵衛名義で借りていた本所林町五丁目の紀伊国屋店など3つの集合場所で身支度を整えたのち、本所相生町二丁目の前原伊助の借店に集まって、吉良屋敷の東の表門隊と西の裏門隊の二手に分かれて出立しています。
また、吉田忠左衛門ら数名は真夜中に米沢町の堀部弥兵衛宅を出て、本所林町五丁目の堀部安兵衛の相宅に行く途中、両国橋の向こう、川岸(河岸ではなく)にある亀田屋という茶屋に寄りましたが、この場所はのちの岡場所。

>>2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。

吉良邸の南西角には辻番があったので、前原伊助の借店から裏門に行くには必ずそこを通過します。
なお、辻番には、前日に赤穂浪士の1人が「目こぼし(見て見ぬふりを)」してくれるよう頼んでいます。そして、当日には辻番はフリーパスで通過できました。このことは、12月13日付で大石内蔵助が赤穂の僧3人に送った書簡でも明らかになっています。
また、木戸番については、夜八ツ(午後10時)になると木戸は閉まりますが、用のある時は、木戸番に頼めば横の潜り戸から出入りすることができました。この時、木戸番は拍子木を打ち、次の木戸番へ合図をしました。
さらに、木戸は町家の長屋にしかなく、武家地にはありませんでした。武家地や大通りは軍事用道路で、「いざ鎌倉!」と言う時には、武士が駆けつけるため、木戸はありませんでした。

>>3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。

吉良邸は武家地にありましたので、野次馬と言うほどの人数はいませんでした。
ただ、吉良邸に出入りを許されていた豆腐屋が上杉邸を事件が起きていることを報せています。

>>4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。

駕籠屋は当然やってはいませんでしたので、47人の同士仲間で助け合いをしました。

>>4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。

吉良邸の北側には土屋平八郎の屋敷がありましたが、大石内蔵助が、
「我ら、主君浅野内匠頭の無念を晴らすべく参上。御隣家様にはしばしの騒動となりましょうが、平にご容赦たてまつります」
と、叫ぶと、土屋邸より、
「その方らの儀、いさい承知。塀を乗り越える者があらば、どちらの家中の者であれ成敗するがゆえ、存分に働きあれ」
と返答し、ただちに高張り提灯を何本も立ててくれた・・・と言われています。もちろん赤穂びいき・・・。
武家屋敷に入る時は、たとえ武士であっても表門から入ることになっており、塀を乗り越えたりすれば成敗しても構わない。
高張提灯を立てたことを幕府が咎めても、
「我が邸に無断で入ってくる者を成敗するため」
と、言い訳がたちました。

>>5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。
>>6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。

これは、二つを同時にお答えします。
まず、大名屋敷での騒動や取締りは大目付の支配下です。ちなみに、旗本や御家人の支配は目付です。
大石内蔵助らは泉岳寺に詣でたあと、「評定所」に自首しました。
評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩邸内や藩と藩との争い、旗本や御家人への訴訟を扱うところでした。
大石内蔵助は、これは「藩と藩」との争いだと届け出たのです。そのため、町奉行所などの手出しのできない状況となったのです。
評定所には牢屋はありませんので、大石らは評定所内に留められ、大石らの作成した「討ち入り口上書」はただちに老中に届けられ、そして、時の将軍綱吉に届けられました。
時の将軍綱吉は、この「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義である」と褒め称えました。また、当時の老中安部正武や小笠原長重などが、綱吉の裁定に賛意を述べました。

(続きへ)
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1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。

そういうことはなかったのでしょうか。

=47人は両国橋西の米沢町にあった堀部弥兵衛宅に一旦集まります。そこから3隊に別れて吉良邸へ向かいます。どの様な分け方をしたか解りませんが、おそらくは47人集団で吉良邸に行けば途上で吉良側の人間と出くわさないとは限りません。そこで不測の事態に備え3隊に分けたというのが有力説です。吉良邸前で落ち合ったものと思われます。


2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。

=3隊に分けたのも、そこにヒントがあります。そうゆう不測の事態に備える為です。しかしもしも辻番等に見咎められれば、迷いなく斬っていたでしょう。吉良の首を取った一行は、この時、吉田忠左衛門・富森助右衛門の両名を、討ち入りの口上書の写しを持って大目付のもとに出頭させています。今で言う「自首」です。咎めはあったとは思いますが、討ち入りの口上書を持っていたので、そこで敢えてお縄にする事は無かったのでしょう。


3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。

=映画やドラマ等では野次馬が登場しませんが、明け方に近い時間に邸の中からワーワー聞こえてくれば、野次馬の何人かは出てきたとは思います。それが自然というものです。


4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。

=駕籠屋って、今で言えばタクシー会社ですから、やっていたと考えるのが自然なのではないでしょうか。ただ、その本についても、推測の域ですから、本当に駕籠を使ったのかどうかさえも怪しいものです。第一、主君の眠る泉岳寺に駕籠で行く武士もいないと思います。


5.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。

=現実にあったとしても証拠がありませんし、よしんばその屋敷の人間を調べても、庭が暗かったし、隣が物騒だったので、こちらに逃げ込めない様に提灯を掲げたと言えば、それまで。第一、提灯掲げなど初めから無かったという説が有力です。その他にも「橘左近の勧進帳」の逸話も、後世に付け加えられたというのが有力説です。


6.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。

=順番としては、武士を裁く時に最初に調べをするのは「大目付」です。現実、浅野内匠守が吉良に刃傷した際も、最初に調べたのは、大目付である「岡野伝八郎」でした。


7.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。

=武士が武士を裁く場合は、必ず「大目付」が調べ、100%、どこかの武士の屋敷に「お預け」になります。小伝馬町の牢屋に行くのは、武士階級よりも下の者です。
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