彼の理性批判のキーとなった物自体ですが、彼はこれを
観念論者の「思考する者だけが存在する」というテーゼへの反論として
提示しています。では、単純に、彼が物自体があると思ったのはなぜなのでしょうか。
それが超越論的な表象をみとめることによって合理論者と経験論者どちらか一方への
傾斜を避けるためならば、彼はなぜその立場をとる必要があったのでしょうか。
三大批判を読んでも結局このところが見えてきません。
いったいいかなる背景が彼をその「間」に置かせたのでしょうか。

結局最後は哲学者自身の「信」にいきつくのでしょうか。

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A 回答 (5件)

昔のノートを引っ張り出してきました。


これでちょっとは正確なことが言えるかも。

では、まず答えやすいところから。

>「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。

カントは合理主義と経験主義を統合した「超越論」を主張しました。だから、カントの哲学を「超越論的観念論」っていうんですね。
哲学の教授は「哲学することというのは、哲学史を学ぶことだ」と言っていました。つまり、従来の哲学的体系をふまえ、それを批判的に継承・発展させるのが哲学である、と。
カントも当然その例外ではなく、というより、従来の哲学の流れを継承し発展させることに、非常に自覚的な存在だったのだと思います。

>to believeの部分、これをもちうる背景、その立場をとる理由、というのが究極的にはなにによっているのだろう?

これね、ヒュームは途中、日和っちゃうんです。
いかなる原因が物自体の存在を信じさせるようにするか、考えれば考えるほどわからなくなるから、やめてしまおう。考えてもきりがないから、なかったことにしちゃおう、と言っている(ほんとです)。

で、そこを日和らずに、ぐぐっと考えを進めていったのがカントの『純粋理性批判』なんです。

質問者さんの問題意識は、『純粋理性批判』のキモの部分だと思うんです。
ですから、もう少し丁寧に見ていきましょう。

“序説”をあらっぽく要約すると(そのまえに、理性、悟性など用語の定義付けは押さえておいてください)

1. 認識には先天的なものと経験的なものがある。われわれはある種の先天的認識を持っている。
2. 数学は空間と時間という純粋直観にもとづいた総合的判断である。
3. 物理学は経験的な世界を対象としているが、経験によらない総合的判断が含まれている。 
4. 形而上学は完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。
5. 純粋理性はまったく経験によらない認識原理を提供する能力である。形而上学を展開するためにはこの純粋理性の源と限界を明らかにしなければならない。

要は理性という一本の線の両端をあきらかにしようとしたのが『純粋理性批判』なんです。

カントは「二律背反」ということを考えます。

・世界には空間的・時間的な限界があるのかどうか
・世界の構成要素は単純なものかどうか
・世界に自由はあるのか、必然性が支配しているのか
・世界には絶対的なもの(=神)があるのかどうか

理性は正命題、反対命題、どちらも正しいと証明できるのです。
さらに、両者とも証明不能とすることもできる。

その結果、カントがたどりついたのは、
“理性が対象とできるのは現象の世界に限られる”
“無限、自由、神の存在といった事柄は、物自体に属することであって、人間には認識できない”。

「物自体」の対象はこのように厳密に措定しています。

以上、自分のノートを非常に乱暴にまとめてみました。
質問者さんの理解の助けになれば幸いです。

あと、考え違いや理解の至らない点ありましたら、どうかご指摘ください。
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この回答へのお礼

二度目の回答ありがとうございます!
めちゃめちゃ分かりやすかったですよ実際。
ghostさんのような方に回答していただいて今回運がよかったですね、僕。

一番助かったのが自分の問題がはっきりしたことでした
そうかー。要するに「物自体の存在への信はなにによるか」だったんですね。ようやくはっきりしました。
さらにチャートっぽくやっていただいたことによって考えが整理できます。

あ、今またひとつ思いつきました。
カントは一見奇妙なアンチノミーの数々で理を詰めていきましたけど(世界に自由はある=正命題、必然性による=反対命題)
それはそのまま経験論(=正命題)と合理論(=反対命題)との総合を目指した
「超越論的」な立場を示しているんですね。
つまり従来ある「哲学史」を発展させるためにカントの場合アンチノミーを使った、と。

僕がカントのアンチノミーのなかで一番興味深いのはやはり「偶然か必然か」ですね。
スピノザの決定論を認める一方で「自由であれ」という「命令」をも承認する。
ここらあたりの世界の捉え方はわくわくしますね。

>無限、自由、神の存在といった事柄は、物自体に属することであって、人間には認識できない

というテーゼにいたるカントの思考を理解するにはまだまだ時間がかかりそうです。

今回は二度にわたっての回答、ありがとうございました。

お礼日時:2003/09/12 22:51

レスどうもです。

カントも最終的には神を信じていたので、
デカルトおじさんも そう遠い人には思えなかったのですが。
無学なりの答え、もっとシンプルにしてみます。
カントが物自体を、直観できないにもかかわらず、信じたわけ。
それは、
 「無の完全な証明が、まだ終わってないから(決定不可能だから)」 だと思います。
カントおじさん、「あるもんはあるちゅうねん!!」てな感じですかね――?

この質問締め切ったら、哲学の先生をたずねると良いと思います。
教授にはこういう時こそ、働いてもらいましょう。では。
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昔カント哲学を勉強したのですが、


今はあやふやですので、間違いがあればご指摘ください。

物自体の存在の是非をカントは考えていなかったのでは?。
これはバークレーの批判でもあります。
バークレーの主観的観念論に対し、カントは超越論を唱えました。
物自体が存在するかどうかより
物自体の形式が何処に存在するかを重要視する哲学です。
われわれは感性によりモノを知り、悟性により認識し、理性により理解します。
これらの性が形式となるので、時間や空間も形式の一つとなります。
因果律などもですね…。
しかし、これは当然種々の反感をかいます。
ヤコービは
「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、
しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」
とカント哲学を批判しています。
趣旨とずれたでしょうか?(^^;
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この回答へのお礼

どもはじめまして。
私、初学者もいいとこなんで大変参考にさせて頂いております。

あー、カント自身にとって物自体は手段的な側面が強かったということでしょうか。
それだと私の問いの意味もかなり、というか相当薄まりますね。
ま、せっかくですんで物自体にあえて焦点を当てて雑談させていただきますと、
カントの重視した人間に備わっていると言うアプリオリな形式から浮かんでくる
物自体ってやつを(たとえ手段としてにせよ)「考え出した」のは
なぜなんでしょう。そりゃ人間の認識形式を明らかにするためだよ、となるでしょうが、
それだったら合理論も経験論もおんなじですよね。
なのに彼はあえてそれを避けて(後世主観の哲学として攻撃されるのを甘んじて受けて)
作っちゃいましたよね。
そうさせたのはなんだったのかなー、と、思いまして。

うん、たぶん誰にも分からないことなんだと思いますけど。初学者としては
哲学の答え以前に哲学史的な答えを知っとかなきゃいけないようで。
それならOKWebの趣旨にもあうでしょうし。

お礼日時:2003/09/10 22:18

学部生の頃“講読”で『判断力批判』を読んで以来、この分野への興味を漠然と持ち続けている者です。


誤った記憶、理解不足の点があればどうぞご指摘ください。

自分の記憶では、確か、カントは、物自体は人間にそなわる形式をとおしてのみ、認識の対象となるのであるから、物自体は認識不可能である、という立場を取ったんじゃなかったでしたっけ。
物自体がある、とは措定しなかったように記憶しているのですが。
で、ヘーゲルが精神がすべてのものの実体であるから、精神によってすべては認識可能である、と批判したんですよね。

この「物自体」の措定は、ヒュームからくるものだというふうに自分は理解しています。
ヒュームはこんなふうに言っています。

We may well ask, What causes induce us to believe in the existence of body? but 'tis in vain to ask, Whether there be body or not? That is a point, which we must take for granted in all our reasonings.

テキストはここから取りました。第四部、第二節です。
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hume …

ヒュームはここで物体(body)と呼んでいるものが、「物自体」だと考えてよいと思います。

この節では「物体の存在を信じさせようとする原因」について、かなり細かく考察しています。
結論だけが有名な部分です。

対象が連続的存在という考え方(the notion of the continu'd existence of their objects)は、知覚(perception)の恒常性(constancy)、整合性(coherence)、および想像力の働きによって生じる。

けれども、ごくわずかの哲学的反省によって(これ、けっこう情けない反論に思えるのは自分だけ?)誤りであることがわかる。
われわれに確かな存在は知覚である。ひとつの存在から、他の存在へ結論を導き出せるのは、原因と結果の関係によるものだけである。だが、知覚と対象の間は因果関係が観察されない。

すなわち、これが物自体を認識することができない、ということの根幹だと思います。

また第六節では自我の観念がいかなる仕方で成立しているかを考察して、デカルトのコギトに対する批判を行い、自我そのものではなくて、自我の観念の成立について述べています。

こうした点を見ていくと、17世紀の大陸合理論→イギリス観念論→カントの純粋理性批判という思想の筋道が見えてきます。
カントはヒュームのこの部分を発展させていったのであって、批判はしていないと思います。

ご質問の趣旨とずれていたら、ごめんなさい。

参考URL:http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hume …
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この回答へのお礼

どもはじめまして。私、大学に入って時間ができてから最近、この手の本に興味を持ったばかりの
初学者もいいとろのものなんで、ghostbusterさんのような回答をいただけると
非常に助かります。

と、いうわけで私の乏しい知識で分かった部分、分からなかった部分をかなりザックリと
話していきますのでお暇でしたらまた回答ください。もち、聞き流していただいても結構です。

あ、カントは物自体を措定してないんですか。
「物自体がなんであるかということについては、われわれは何も知らない。われわれはただ物自体の表れであるところの現象がいかなるものであるかを知るに過ぎない」ときて、「・・・それだから私とてわれわれの外に物体のあることを承認する」とカントがいうとき、それはアプリオリな感官の形式を通した現象しかわれわれが知りえないとしても、現象としての他者性(デカルトが欲しがったもの)としての「物自体」については認めた、というふうに一応私はぼんやりと考えとりました。物自体って実際には「存在する」とは言えないけども、(つまり仮象だけども)取り除けないと言う意味で承認した、と。

そうすると彼の言う総合判断はそれを支える超越論的な仮象という「哲学者の信」によって選ばれたことになり、そうなった背景はなんだろう?というのが私のふとした疑問です。ですのでghostbusterさんの回答はとても参考になりました。

ただ、まだヒュームを読んでいないのでなんともいえないのがアレですが、その
>What causes induce us to believe
の部分のwhatではなく、to believeの部分、これをもちうる背景、その立場をとる理由、というのが
究極的にはなにによっているのだろう?(たとえばカントの場合)というふうになるでしょうか、私の問いに照らすと。いや分かりませんが。

それは角度を変えて言うと
>17世紀の大陸合理論→イギリス観念論
の、「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。

こんなとこに書くより前にヒューム読めっちゅう話ですけど。でもこういう話って
体系的にやろうとすると萎えません?なので気楽に好きなように読みつつさらに考えを
進めるためにはOKWebはおいしいかなーなんて思ったもので。

お礼日時:2003/09/10 22:07

その辺は「われ思う」と同じ原理でよろしいのでは?


この自意識
「無」の証明ができていない以上、存在は「ある」のです。

その先はまぁ頑張って、あなたが哲学するのです。
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この回答へのお礼

「われ思う」と同じ原理?とは・・・。
すんません、ちょっとよく分からないです。
いや、まったく分かんないっす。「この自意識」?

要するに神という絶対的な他者性を持ち出さざるを得なかった
デカルトが世界構成をやったのと同じイメージでカントが超越論的に自分を置いた
ということですか?それならその「われ疑う」主体としてのカントはどこに「ある」のでしょうか。

当然この答えは一問一答ではないことは分かってるんですが、
このあたりの哲学史的なバックホーンは知っときたいよねー、と思ったもので。

お礼日時:2003/09/10 10:25

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>クワインはこう言っています。
「分析的な言明と総合的な言明ののあいだの境界は、まだ引かれていない。そもそもこうした区別が必要だということそのものが、経験主義者の非経験的なドグマであり、形而上学的な信条なのである。」

何か、自分より詳しい人に向かって講釈しているようなイヤな予感に襲われます(笑)。
だけどそのぶん話が通じやすいということで、物事は明るい方を見ることにしよう。かみ合わない議論を延々と続けることほど不毛なものはありませんからね。

さてこれはクワイン先生の論理実証主義に対する「二つのドグマ批判」ですね。
相手の旗印をつかまえて、いきなりドグマ呼ばわりしちゃうんですからすごい話です。わたしのように「気の弱い」∧「平和主義的な」∧「穏やかな」人間には逆立ちしてもできないことです(似たような形容詞を三つ重ねると嘘くさく聞こえるというのは、語のいかなる働きによるものでしょうか)。

さて、クワインがドグマと呼んだのは
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その2.還元主義、つまり有意味な文であるならば、どんな文でも直接的経験を指示する話をもとに論理的に構成された文と同値になるという信念
のふたつでした。

クワインの分析性批判っておもしろいんです。
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ただ、論理実証主義者にとって、分析的命題と総合的命題の区別というのは、死活的に重要なことだったんです。

「論理実証主義は、まさしく「思弁的形而上学と自然科学との間」に「境界」を引こうとしつづけてきたのであります。…のみならず、論理実証主義が「境界画定」を追求したのは、まさしく彼らが“認識の如何をも超越して決まった在り方をしている実在”を想定していたからであり、だからこそ、彼らは、“その「実在と対応」する文のみが真な文である”とする「真についての対応説」を露だに疑わなかったのであります」(大庭健『はじめての分析哲学』p.109-110)

おっと、話が先走りました。「疑わなかったのであります」ではあっても、この「分析的/総合」という区別が論理実証主義、というかカルナップのなかでも徐々に揺らいでいった、その筋道をあらっぽくたどっていこうというのが、今日のわたしのもくろみでございます。今日の典拠はそういうことで大庭さんの本です。

大庭さんは
・世界の実在と対応しているがゆえに真な「総合的」な文
・語の意味ゆえに真である「分析的」な文
というふうにまとめています。

論理実証主義者が最初にやろうとしたことは、語の意味の明確化ということです。
言葉の意味は、明示的定義によって定めることができる。つまり、意味のすでに与えられている他の言葉によって書き換えて、言葉の意味を定めることができる。この書き換えは、やがて書き換えられない、基礎概念に到達する。

基礎概念の意味を定めるには、実際の使用によって言語を習得する方法しかありえない。「青い」とか「熱い」ばかりではない。たとえばアインシュタインは「遠隔地で同時的」がなにを意味するかを定め、この同時性を決定するための実験的方法を提示したが、その言葉が「どういう状況で使われるか」を示してやればよい。

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だから、問題になるのは、命題の「検証可能性」ということです。

ここから「文Sが「経験的に有意味」であるのは、Sを言語L0の文に還元して、その真偽を「検証する可能性があるとき、そのときに限る」という、論理実証主義の旗印になったのでした。

それが前の回答でもごしゃごしゃと書いたようなおぼろげな記憶があるんですが、ともかくその明示的な定義」も「検証可能性」さまざまな批判にさらされて立ち行かなくなってしまう。

そこでカルナップがやったことは「検証可能性」を「確証可能性」にまでゆるめてやることでした。

言明が確証可能であるのは、その言明が真となる状態を述べることができる場合である、というのです。

「ある言明が他の言明に還元されるとき、その言明は他の言明に還元されるとき、その言明は他の言明を用いて、直接的あるいは間接的に、また完全あるいは不完全に、確証できる。」(クラフト『ウィーン学団』p.122)

ところがその還元文が実験・観察を重ねることによって書き換えられていくとすると、「経験的研究とともに書き換えられていく文が、語の意味のみに依存する《分析的》な文だ、という若干おかしなことになってまいります。…《分析/総合》という区別が、少なくとも思われていたほどには明瞭でないこと」(『はじめての…』p.86)があきらかになっていくわけです。

非常におぼつかない回答ではありますが、なんらかのお役に立てればこれほどうれしいことはありません。

>クワインはこう言っています。
「分析的な言明と総合的な言明ののあいだの境界は、まだ引かれていない。そもそもこうした区別が必要だということそのものが、経験主義者の非経験的なドグマであり、形而上学的な信条なのである。」

何か、自分より詳しい人に向かって講釈しているようなイヤな予感に襲われます(笑)。
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さてこれはクワイン先生の論理...続きを読む

Qカントのカテゴリについて質問です。

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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)あるカメは水棲である。
単称的:「この」SはPである。
(例)このネコは水の中に入るのを好む。

「質のカテゴリー」
肯定的:SはPで「ある」
(例)信号は青である。
否定的:SはPで「ない」
(例)信号は赤ではない。
無限的:Sは「非Pである」
(例):青信号は赤ではないほうの信号である。

「関係のカテゴリー」
定言的:SはP「である」
(例)本日は晴天である。
仮言的:「Xならば」、SはPである
(例)日が照っていれば、本日は晴天である。
選言的:Sは「PかQかのいずれかである」
(例)降水量ゼロというのは晴れているか曇っているかのどちらかだ。

「様相のカテゴリー」
蓋然的:SはP「であろう」
(例)明日の天気は晴れでしょう。
実然的:SはP「である」
(例)現在の気象状態は晴れである。
確然的:Sは「必ずPでなければならない」
(例)晴天は降水量が1ミリ未満でなければならない。

人間はまず外部からの刺激をまず感覚器官で受けとります。それは「空間と時間の形式」(ものの大きさや形状、前かあとか、など)にあてはめて受けとられるのですが、それだけでは認識にはいたりません。そこから直観として得られた対象を、悟性が上記の形式において判断する、それによって認識が成立する、とカントは考えたわけです。

簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。

カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。

「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)ある...続きを読む


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