彼の理性批判のキーとなった物自体ですが、彼はこれを
観念論者の「思考する者だけが存在する」というテーゼへの反論として
提示しています。では、単純に、彼が物自体があると思ったのはなぜなのでしょうか。
それが超越論的な表象をみとめることによって合理論者と経験論者どちらか一方への
傾斜を避けるためならば、彼はなぜその立場をとる必要があったのでしょうか。
三大批判を読んでも結局このところが見えてきません。
いったいいかなる背景が彼をその「間」に置かせたのでしょうか。

結局最後は哲学者自身の「信」にいきつくのでしょうか。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

昔のノートを引っ張り出してきました。


これでちょっとは正確なことが言えるかも。

では、まず答えやすいところから。

>「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。

カントは合理主義と経験主義を統合した「超越論」を主張しました。だから、カントの哲学を「超越論的観念論」っていうんですね。
哲学の教授は「哲学することというのは、哲学史を学ぶことだ」と言っていました。つまり、従来の哲学的体系をふまえ、それを批判的に継承・発展させるのが哲学である、と。
カントも当然その例外ではなく、というより、従来の哲学の流れを継承し発展させることに、非常に自覚的な存在だったのだと思います。

>to believeの部分、これをもちうる背景、その立場をとる理由、というのが究極的にはなにによっているのだろう?

これね、ヒュームは途中、日和っちゃうんです。
いかなる原因が物自体の存在を信じさせるようにするか、考えれば考えるほどわからなくなるから、やめてしまおう。考えてもきりがないから、なかったことにしちゃおう、と言っている(ほんとです)。

で、そこを日和らずに、ぐぐっと考えを進めていったのがカントの『純粋理性批判』なんです。

質問者さんの問題意識は、『純粋理性批判』のキモの部分だと思うんです。
ですから、もう少し丁寧に見ていきましょう。

“序説”をあらっぽく要約すると(そのまえに、理性、悟性など用語の定義付けは押さえておいてください)

1. 認識には先天的なものと経験的なものがある。われわれはある種の先天的認識を持っている。
2. 数学は空間と時間という純粋直観にもとづいた総合的判断である。
3. 物理学は経験的な世界を対象としているが、経験によらない総合的判断が含まれている。 
4. 形而上学は完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。
5. 純粋理性はまったく経験によらない認識原理を提供する能力である。形而上学を展開するためにはこの純粋理性の源と限界を明らかにしなければならない。

要は理性という一本の線の両端をあきらかにしようとしたのが『純粋理性批判』なんです。

カントは「二律背反」ということを考えます。

・世界には空間的・時間的な限界があるのかどうか
・世界の構成要素は単純なものかどうか
・世界に自由はあるのか、必然性が支配しているのか
・世界には絶対的なもの(=神)があるのかどうか

理性は正命題、反対命題、どちらも正しいと証明できるのです。
さらに、両者とも証明不能とすることもできる。

その結果、カントがたどりついたのは、
“理性が対象とできるのは現象の世界に限られる”
“無限、自由、神の存在といった事柄は、物自体に属することであって、人間には認識できない”。

「物自体」の対象はこのように厳密に措定しています。

以上、自分のノートを非常に乱暴にまとめてみました。
質問者さんの理解の助けになれば幸いです。

あと、考え違いや理解の至らない点ありましたら、どうかご指摘ください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

二度目の回答ありがとうございます!
めちゃめちゃ分かりやすかったですよ実際。
ghostさんのような方に回答していただいて今回運がよかったですね、僕。

一番助かったのが自分の問題がはっきりしたことでした
そうかー。要するに「物自体の存在への信はなにによるか」だったんですね。ようやくはっきりしました。
さらにチャートっぽくやっていただいたことによって考えが整理できます。

あ、今またひとつ思いつきました。
カントは一見奇妙なアンチノミーの数々で理を詰めていきましたけど(世界に自由はある=正命題、必然性による=反対命題)
それはそのまま経験論(=正命題)と合理論(=反対命題)との総合を目指した
「超越論的」な立場を示しているんですね。
つまり従来ある「哲学史」を発展させるためにカントの場合アンチノミーを使った、と。

僕がカントのアンチノミーのなかで一番興味深いのはやはり「偶然か必然か」ですね。
スピノザの決定論を認める一方で「自由であれ」という「命令」をも承認する。
ここらあたりの世界の捉え方はわくわくしますね。

>無限、自由、神の存在といった事柄は、物自体に属することであって、人間には認識できない

というテーゼにいたるカントの思考を理解するにはまだまだ時間がかかりそうです。

今回は二度にわたっての回答、ありがとうございました。

お礼日時:2003/09/12 22:51

レスどうもです。

カントも最終的には神を信じていたので、
デカルトおじさんも そう遠い人には思えなかったのですが。
無学なりの答え、もっとシンプルにしてみます。
カントが物自体を、直観できないにもかかわらず、信じたわけ。
それは、
 「無の完全な証明が、まだ終わってないから(決定不可能だから)」 だと思います。
カントおじさん、「あるもんはあるちゅうねん!!」てな感じですかね――?

この質問締め切ったら、哲学の先生をたずねると良いと思います。
教授にはこういう時こそ、働いてもらいましょう。では。
    • good
    • 0

昔カント哲学を勉強したのですが、


今はあやふやですので、間違いがあればご指摘ください。

物自体の存在の是非をカントは考えていなかったのでは?。
これはバークレーの批判でもあります。
バークレーの主観的観念論に対し、カントは超越論を唱えました。
物自体が存在するかどうかより
物自体の形式が何処に存在するかを重要視する哲学です。
われわれは感性によりモノを知り、悟性により認識し、理性により理解します。
これらの性が形式となるので、時間や空間も形式の一つとなります。
因果律などもですね…。
しかし、これは当然種々の反感をかいます。
ヤコービは
「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、
しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」
とカント哲学を批判しています。
趣旨とずれたでしょうか?(^^;
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どもはじめまして。
私、初学者もいいとこなんで大変参考にさせて頂いております。

あー、カント自身にとって物自体は手段的な側面が強かったということでしょうか。
それだと私の問いの意味もかなり、というか相当薄まりますね。
ま、せっかくですんで物自体にあえて焦点を当てて雑談させていただきますと、
カントの重視した人間に備わっていると言うアプリオリな形式から浮かんでくる
物自体ってやつを(たとえ手段としてにせよ)「考え出した」のは
なぜなんでしょう。そりゃ人間の認識形式を明らかにするためだよ、となるでしょうが、
それだったら合理論も経験論もおんなじですよね。
なのに彼はあえてそれを避けて(後世主観の哲学として攻撃されるのを甘んじて受けて)
作っちゃいましたよね。
そうさせたのはなんだったのかなー、と、思いまして。

うん、たぶん誰にも分からないことなんだと思いますけど。初学者としては
哲学の答え以前に哲学史的な答えを知っとかなきゃいけないようで。
それならOKWebの趣旨にもあうでしょうし。

お礼日時:2003/09/10 22:18

学部生の頃“講読”で『判断力批判』を読んで以来、この分野への興味を漠然と持ち続けている者です。


誤った記憶、理解不足の点があればどうぞご指摘ください。

自分の記憶では、確か、カントは、物自体は人間にそなわる形式をとおしてのみ、認識の対象となるのであるから、物自体は認識不可能である、という立場を取ったんじゃなかったでしたっけ。
物自体がある、とは措定しなかったように記憶しているのですが。
で、ヘーゲルが精神がすべてのものの実体であるから、精神によってすべては認識可能である、と批判したんですよね。

この「物自体」の措定は、ヒュームからくるものだというふうに自分は理解しています。
ヒュームはこんなふうに言っています。

We may well ask, What causes induce us to believe in the existence of body? but 'tis in vain to ask, Whether there be body or not? That is a point, which we must take for granted in all our reasonings.

テキストはここから取りました。第四部、第二節です。
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hume …

ヒュームはここで物体(body)と呼んでいるものが、「物自体」だと考えてよいと思います。

この節では「物体の存在を信じさせようとする原因」について、かなり細かく考察しています。
結論だけが有名な部分です。

対象が連続的存在という考え方(the notion of the continu'd existence of their objects)は、知覚(perception)の恒常性(constancy)、整合性(coherence)、および想像力の働きによって生じる。

けれども、ごくわずかの哲学的反省によって(これ、けっこう情けない反論に思えるのは自分だけ?)誤りであることがわかる。
われわれに確かな存在は知覚である。ひとつの存在から、他の存在へ結論を導き出せるのは、原因と結果の関係によるものだけである。だが、知覚と対象の間は因果関係が観察されない。

すなわち、これが物自体を認識することができない、ということの根幹だと思います。

また第六節では自我の観念がいかなる仕方で成立しているかを考察して、デカルトのコギトに対する批判を行い、自我そのものではなくて、自我の観念の成立について述べています。

こうした点を見ていくと、17世紀の大陸合理論→イギリス観念論→カントの純粋理性批判という思想の筋道が見えてきます。
カントはヒュームのこの部分を発展させていったのであって、批判はしていないと思います。

ご質問の趣旨とずれていたら、ごめんなさい。

参考URL:http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hume …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どもはじめまして。私、大学に入って時間ができてから最近、この手の本に興味を持ったばかりの
初学者もいいとろのものなんで、ghostbusterさんのような回答をいただけると
非常に助かります。

と、いうわけで私の乏しい知識で分かった部分、分からなかった部分をかなりザックリと
話していきますのでお暇でしたらまた回答ください。もち、聞き流していただいても結構です。

あ、カントは物自体を措定してないんですか。
「物自体がなんであるかということについては、われわれは何も知らない。われわれはただ物自体の表れであるところの現象がいかなるものであるかを知るに過ぎない」ときて、「・・・それだから私とてわれわれの外に物体のあることを承認する」とカントがいうとき、それはアプリオリな感官の形式を通した現象しかわれわれが知りえないとしても、現象としての他者性(デカルトが欲しがったもの)としての「物自体」については認めた、というふうに一応私はぼんやりと考えとりました。物自体って実際には「存在する」とは言えないけども、(つまり仮象だけども)取り除けないと言う意味で承認した、と。

そうすると彼の言う総合判断はそれを支える超越論的な仮象という「哲学者の信」によって選ばれたことになり、そうなった背景はなんだろう?というのが私のふとした疑問です。ですのでghostbusterさんの回答はとても参考になりました。

ただ、まだヒュームを読んでいないのでなんともいえないのがアレですが、その
>What causes induce us to believe
の部分のwhatではなく、to believeの部分、これをもちうる背景、その立場をとる理由、というのが
究極的にはなにによっているのだろう?(たとえばカントの場合)というふうになるでしょうか、私の問いに照らすと。いや分かりませんが。

それは角度を変えて言うと
>17世紀の大陸合理論→イギリス観念論
の、「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。

こんなとこに書くより前にヒューム読めっちゅう話ですけど。でもこういう話って
体系的にやろうとすると萎えません?なので気楽に好きなように読みつつさらに考えを
進めるためにはOKWebはおいしいかなーなんて思ったもので。

お礼日時:2003/09/10 22:07

その辺は「われ思う」と同じ原理でよろしいのでは?


この自意識
「無」の証明ができていない以上、存在は「ある」のです。

その先はまぁ頑張って、あなたが哲学するのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「われ思う」と同じ原理?とは・・・。
すんません、ちょっとよく分からないです。
いや、まったく分かんないっす。「この自意識」?

要するに神という絶対的な他者性を持ち出さざるを得なかった
デカルトが世界構成をやったのと同じイメージでカントが超越論的に自分を置いた
ということですか?それならその「われ疑う」主体としてのカントはどこに「ある」のでしょうか。

当然この答えは一問一答ではないことは分かってるんですが、
このあたりの哲学史的なバックホーンは知っときたいよねー、と思ったもので。

お礼日時:2003/09/10 10:25

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q大学の哲学科では、カントという哲学者についての勉強が大部分なのですか

大学の哲学科では、イマヌエル・カントという哲学者についての勉強が大部分なのですか。
大学の4年間の大半が、カントという哲学者についての勉強なのですか。

Aベストアンサー

カントが重要な人物であることは間違いないですし、カント好きな教授もいるでしょうから、どのような講義でもいつもカント話しかでないということもありうるでしょうが。
ただ西洋哲学でカント周辺の人をあげると、デカルト、ホッブズ、ロック、ルソー、スピノザ、ヘーゲル、ショーペンハウアー、キルケゴール、ニーチェぐらいは簡単にでてきますし、古典哲学だとギリシアは外せませんし、倫理学や宗教学も範疇にはいりますし。逆にカントだけをやろうとする方が難しいかと思います。まぁゼミぐらいになれば出来るかもしれません。

Q超越論的観念論

「カントに即して・・・時間・空間の内に存在するものは、概念として存在するのみならず(1)空間の内にのみ存在するものは数学的実在として、(2)時間の内にのみ存在するものは心理的実在として、そして(3)時間・空間の内に存在するものは物理的実在として存在する。認識の対象とは、この三種類の実在物しかない。よって、その外にはいかなる意味でも実在世界は広がっていないのだが、内と外という言葉に引きずられて、外をも実在化してしまうのだ。」(『観念的生活』超越論的観念論p118 中島義道)

実は、この本を読む前から、存在に関する「この三種類」存在様式について、あれこれ考えていました、勉強不足なのでしょうが、書物にはっきり書かれているのを見るのは初めてです。

ところで、中島さんは「観念論者」ですから、問題ないのですが、私の中には、唯物論・観念論・二元論から、マルクス主義、果てはアナーキーまで、混沌と同居しています。
そうすると、3)は当面問題ないのですが、1)空間の内にのみ存在、2)時間の内にのみ存在、と言う、この二つの表現は、比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。

連休中、暇でお金のない、同志の皆さん、此処のところ額に汗、脳ミソに皺を刻んで、深刻に考えるような難問が見当たりません(酔っ払いの戯言ですから、各質問者の皆さん、さらっと流してください)。

さて、皆様、心は完全に、時間だけの中、空間には存在しないでしょうか。
酒の抓みにでもなれば、幸いです。

「カントに即して・・・時間・空間の内に存在するものは、概念として存在するのみならず(1)空間の内にのみ存在するものは数学的実在として、(2)時間の内にのみ存在するものは心理的実在として、そして(3)時間・空間の内に存在するものは物理的実在として存在する。認識の対象とは、この三種類の実在物しかない。よって、その外にはいかなる意味でも実在世界は広がっていないのだが、内と外という言葉に引きずられて、外をも実在化してしまうのだ。」(『観念的生活』超越論的観念論p118 中島義道)
...続きを読む

Aベストアンサー

fishbowl66さん、こんにちは。

>比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。

カントに則して言うと、
ここは中嶋先生のおっしゃる時間のみの存在、つまり心理的実在だけが可能となる、でしょうか。

なぜならカントはこう言っているからです。

「すべての表象は、それらが外的な諸物を対象としてもつにせよ、あるいはもたないにせよ、それ自体そのもので、心の規定として、内的状態に属するが、しかしこの内的状態は、内的直観の形式的条件、したがって時間に属するゆえ、時間は、すべての現象一般のアプリオリな条件であり、しかも内的現象(私たちの魂)の直接的条件ではあるが、まさにこのことによって間接的には外的現象の条件でもある。私が、すべての外的現象は空間のうちにあり、だから空間の諸関係にしたがってアプリオリに規定されていると、アプリオリに言いうるなら、私は内的感官の原理にもとづいてまったく一般的に、すなわち、すべての現象一般、言い換えれば、感官のすべての対象は、時間のうちにあり、だから時間の諸関係のうちに必然的に立っていると。」

つまり空間のうちにあるものは必然的に時間のうちにもある。

ところでfishbowl66さんなぜ実在ではなく存在と書かれたのでしょうか?

中島先生のお話では、「実在」というのは直観されうる対象のみということになりそうですね。

しかしカントを読むとこの「実在」について疑問が湧いてくるんです。

カントは原則の分析論の付録の最後の無の区分表のところで「実在性」についてこう述べています。
「実在性は何か或るものであり、否定性は無である。」
さらに続けて純粋空間および純粋時間について、
「これらは、なるほど直観作用の形式としては何か或るものではあるが」

ご覧になっていただければすぐ分かりますが、3番の「ens imaginarium」を篠田英雄は想像物、原佑は空想物と訳しています。
しかし天野貞祐は構想的実在と訳しているんですね。

空想物=実在なのでしょうか?


間違いがあったら何方か指摘していただければありがたいですね。

と言いつつ本日はこれにて失礼いたします。

fishbowl66さん、こんにちは。

>比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。

カントに則して言うと、
ここは中嶋先生のおっしゃる時間のみの存在、つまり心理的実在だけが可能となる、でしょうか。

なぜならカントはこう言っているからです。

「すべての表象は、それらが外的な諸物を対象としてもつにせよ、あるいはもたないにせよ、それ自体そのもので、心の規定として、内的状態に属するが、しかしこの内的状態は、内的直観の形式的条件、したがって時間に属する...続きを読む

Qカント哲学をわかりやすく教えてください

カント哲学について調べたのですが、恥ずかしながらまったく意味がわかりません。
高校生にもわかるように説明していただけると助かります。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

カントは「知る」ということはどういうことか、考えました。

たとえばひとつの曲を聴いているところを想像してみてください。音というのはそれ自体としては、ばらばらなものです。それをひとつのメロディとしてわたしたちが把握するためには、

1.音のインプットをつぎつぎとおこなう。
2.このインプットされた音にそっくりなイメージ(哲学的には「表象」といいます)を想像力のなかに持つ
3.想像力のなかにたくわえられた表象を、つなぎあわせ、フレーズとしてまとめ、全体へとつなぎあわせる
4.こうした連鎖を総体として把握する

このプロセスをすべてやりとげたときに、わたしたちはひとつの曲を聴いた、と感じるのです。それでも、わたしたちの意識にあらわれるのは、このなかで4だけです。けれども、4が可能になるためには1~3がすでに起こっていなければなりません。

音楽ばかりではありません。人の話はそれ自体としては音の連続でしかありません。文字にしても同じ。絵は絵の具の塗り重ねです。

わたしたちは外部世界から受けるさまざまな刺激を取り込み、自分の内で表象としてたくわえ、それを時間と空間というかたちでまとめ、整理し直して認識しているのです。カントはこのプロセスをおっそろしく厳密に分析していきました。

それが『純粋理性批判』です。

もうひとつカントは重要な本を書いています。
『実践理性批判』というのは、人はいかに行動すべきか、正しい行動とはどんなものか、そうして、人間の自由というのはどういうことかが書いてある本です。「真に自由に行動する」というのは、勝手気ままに行動することではなく、自分のやったことは自分に責任があると考えることである、ということが書いてあります。

ほかにも、『永久平和のために』という本があります。これは『純粋理性批判』などとはずいぶんちがうものですが、最近新訳が出て、ずいぶん読みやすくなっていると思います。何かひとつカントを読もうとお考えでしたら、この本をおすすめします。

カントは「知る」ということはどういうことか、考えました。

たとえばひとつの曲を聴いているところを想像してみてください。音というのはそれ自体としては、ばらばらなものです。それをひとつのメロディとしてわたしたちが把握するためには、

1.音のインプットをつぎつぎとおこなう。
2.このインプットされた音にそっくりなイメージ(哲学的には「表象」といいます)を想像力のなかに持つ
3.想像力のなかにたくわえられた表象を、つなぎあわせ、フレーズとしてまとめ、全体へとつなぎあわせる
4...続きを読む

Q超越論的弁証論 理想一般について

人はどのようにしてある対象が空想か理想であるかを判断するのでしょうか?

Aベストアンサー

わたしはここは質問に対して回答をする場であって、「自由」に自説を開陳する場であるとは考えていませんし、またそのような場を求めているわけではありません(現にそうしていらっしゃる方を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、わたしはそうではない、と言っているだけです)。レポートの課題なら、漠然と与えられた設問に答えることも必要でしょうが、ここでの回答に際しては、質問される方の問題意識をできるだけ正確に理解することが必要だと考えていますし、そしてまた、その問題意識を整理し、鮮明にしていく助けになればと考えています。

そこで先回のように逆に質問をさせていただいたわけです。自由に書いてくださいと言われても、逆に困ってしまいます。

ただ、補足要求をしておいて、結局何も答えないというのは、お互い、気分の悪いものですから、このご質問も「超越論的弁証論」と表題にあるように、あくまでカントの『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」における「理想」に限定して、回答します。


たとえばわたしたちがこういう場で、誰かの書いた文章を読むとする。断片的な文章であっても、やがてわたしたちはそれをまとめあげて、ひとつの組織だった書き手のイメージをいつのまにか自分の内に築いていきます。何度かそれを重ねるうちに、しだいに相手のが「どんな人か」をも理解できるようになります。そんなふうに、わたしたちはさまざまな要素を相互に関連づけ、統一するプロセスを、「こころのはたらき」としてもっています。そうしてカントはここに「判断」が働いているといいます。

木の幹の一部の拡大写真を見て、これは「木」だ、と判断するように、わたしたちのあらゆる知覚や思考や概念はこのように統合-判断を繰りかえしている。そうしてその裏には、こうした判断を下す「高等裁判官」が控えている、とカントは考えました。この高等裁判官が下す判断を「統覚による超越論的かつ先天的な統一」とカントは呼んだのです(まあほかにもいろんな呼び方をして、わたしたちの頭を混乱させるのですが)。
この統覚で重要なのは
・経験にさきだってあたえられること……だから先天的
・経験に由来するものではないこと……だから超越論的
この点です。

ではこの統覚の超越論的で先天的な統一は、いったい何によってささえられているのでしょう? 経験とは関係ないのだとしたら。
カントはそれは「わたしが考える」ということだというのです。「考えているわたし」、すなわち自我は超越論的であり、知覚に先立ってあたえられたものである、と。

わたしたちはさまざまな場面で考えます。それらは経験的なコギトであると同時に、経験を超えたものとも関係をもっている、ともいうのです。
もう少し、「経験と経験を超えたもの」について説明します。

たとえばわたしたちは目の前でわんわんと吠えている毛むくじゃらの生き物を見て「犬がいる」と思います。その判断は、現在のわたしたちの感覚や、過去の経験の記憶からつくりだされたものであり、空間と時間の形式のなかで統合され、実体として構成されます。

犬が飼いたいな、とニール・テナントが歌う。「大きな犬じゃなくて、チワワがいい」という歌詞を聴きながら、わたしたちはそれぞれに、その歌に出てくる犬のイメージをふくらませていきます。その犬は現実にはいない犬ですが、やはりわたしたちは過去の経験の記憶をもとに、空間と時間の形式のなかで統合し、実体として構成していきます。

犬と遊ぶときのわたしたちは、世界に一匹しかいない具体的な犬と関係しながら、同時にその向こうに抽象的な犬とも関わっている。犬の歌を聴きながら、そこに歌われる実際にはどこにもいない「チワワ」と関係しながら、抽象的な犬とも関わっています。その抽象的な「犬」は経験のなかには存在しません。経験したことがないから、わたしたちはその抽象的な犬を知ることができません。けれども、逆に、わたしたちの個々の犬経験が依拠している「なにものか」なのです。

このような経験することができないにもかかわらず、なおかつあらゆる経験の底にあるものをカントは「物自体」と呼びます。

わたしたちの判断は、経験そのものにたいしてのみ、なりたつものです。わたしたちは、残念ながら経験の外にある世界を知ることはできません。カントはわたしたちの経験世界を「現象界」と呼びますが、「個々の犬」と「抽象的な犬」の関係にあたるように、現象界が依拠する「なにものか」の世界がある、現象界はこれを超えたものを前提としている、というのです。けれども、その世界がなんであるかは決して知ることができません。

この「物自体」の世界は、ほんとうに存在するのでしょうか。
存在するというどのような証拠があるのでしょうか。
カントによれば、そのような証拠はなにもない、といいます。それは、わたしたちが要請することができるだけです。

わたしたちは、個々ばらばらの固体からなる世界に生きています。けれども、わたしたちはそれを感性的な空間へと分析し、空間的に構成しなおします。個々の固体を一様性のもとに分類し、原因と結果という形式に帰着させていきます。それもみなすべて、わたしたちのこころのはたらきです。
わたしたちは、ここに法則を見いだします。法則ということは、すなわち、この経験が継続することを要請し、未来へと当てはめようとしていることにほかなりません。いちどきりの出来事を「経験」と認識するのも、それが継続することを要請しているからです。

ところで、ここに非常に興味深いことがあります。
わたしたちは、出来事を「経験」ととらえ、因果関係の形式に置くとする一方で、わたしたちは自分の行為は自分に責任がある、と考えていることです。
わたしたちは自分の行為をいつも因果律に従って説明します。こういう理由でこうしたんだ、このような動機があった、と、行為を因果律の下に置く。にもかかわらず、自分に責任があることを認めます。そうして、責任をともなうということは、「それをしない自由はあったのだが、あえて自分はそれをした」というふうに、「自由」を要請しているのです。

この「自由」は現象界に属するものではありません。
現象界ではあらゆる出来事が、先行する出来事を原因とする因果律の下に置かれているからです。もし自我に責任があるものであるなら、自我は「物自体」の世界になければならない、ということになります。

わたしたちは、自分が知ることのできない「物自体」の世界が、秩序を持った知的な世界であることを前提としています。わたしたちのひとつひとつの行為はそうした前提をともなっているのです。わたしたちの行為は、先行する出来事によって決定されているかに見えますが、もしそこで「自由」に行為することができるとするならば、「物自体」に属する自我が要請されているのです。

さて、長くなりましたが、いよいよ「理想」です。
わたしたちは「脚の長い男の子がわたしの理想」というふうに、おっそろしく粗雑にこの言葉を使ったりしますが(ちなみにわたしの理想は脚の長さとは関係ありません)、カントの「理想」は、逆に、おっそろしく立派なものです。なにしろ「理想とは理念によってのみ規定せられうる、いな、それどころか規定せられているようなものである」(B.596)というのですから。

超越論的弁証論では神の存在論的証明を批判します。そうして、神は「理念」としてある。そうして、その神の理念によって規定されているのが、この理想である、と。

この理想は、わたしたちの個々の経験が「物自体」を前提としているように、人間の理性が前提としているもの、理性にとっての前提として、わたしたちを行為へと導くもの、ということになります。

空想とは、質問者さんが#2の方の補足欄でおっしゃっておられるように、何ら行為をともなわないもの、その意味で

> 現実世界へ働きかけることはなく

ということ、カントに即していうなら、現象界とは関わり合いをもたない、どこまでもいく理性のみのはたらき、と言えるかと思います。

以上、長くなりましたが。

わたしはここは質問に対して回答をする場であって、「自由」に自説を開陳する場であるとは考えていませんし、またそのような場を求めているわけではありません(現にそうしていらっしゃる方を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、わたしはそうではない、と言っているだけです)。レポートの課題なら、漠然と与えられた設問に答えることも必要でしょうが、ここでの回答に際しては、質問される方の問題意識をできるだけ正確に理解することが必要だと考えていますし、そしてまた、その問題意識を整理し、鮮明にし...続きを読む

Qカントとヘーゲルの哲学の相違点

カントとヘーゲルの哲学の相違点を詳しく解説している文献を教えていただけませんでしょうか?英語やフランス語、ドイツ語でも構いません。

Aベストアンサー

ttp://books.google.de/books/about/Die_Kant_Kritik_des_jungen_Hegel.html?id=2hFB6PXxSWAC&redir_esc=y

カント批判 - ヘーゲルの若き日々

Ingtraud Goerland

「Die Kant Kritik des jungen Hegel」

Q実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論

哲学のテストが今月にありまして、誰にしようかなと思いながら何冊か著作を読みましたがいざ書くとなると何と絡めて書けばいいのかわからず・・・(つまり理解できてない・・・)別のにしようかと思ったのですが、正直時間がありません。

実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論(マルクス・キルケゴール・マルティン・サルトル・ニーチェ・ヘーゲル・ルソー・ロック・ヒューム・スピノザ・ライプニッツ・カント・パスカルなど等)
の中の哲学者から選ぶのですが、レポートの書きやすい人はいませんか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ヒューム

Qカント哲学について教えてください

こんにちは。
大学で、カント哲学についての課題が出ました。
とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない
状況なのですが、ひとまずキーポイントである
「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。
どなたか教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」
この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。
あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。
いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。
それに関しては、後述します。

・理論理性と実践理性のちがい
理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。

理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。

カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。
たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。
で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。
ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。
年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。
なんでそういうことになってしまうか。
それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。

真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。
別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。
こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。
「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。
真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。
こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。

>「道徳補完的連続性の宗教」
ごめんなさい。これ、わかりません。
どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690

補足拝見いたしました。

答えやすいところから。

理性と悟性については
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690
で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。
とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。

>「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」

むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。...続きを読む

Q論理哲学論考は超越論的哲学でしょうか?

論理哲学論考は超越論的哲学でしょうか?

Aベストアンサー

カントの使う「超越論的」という言葉には、幅があります。

まず、人間が、理性のうちにある「経験を可能にする条件」にもとづいて、空想や夢から「客観的な実在世界」を抽出する手続きが「超越論的統覚」や「超越論的構想力」として、「超越論的」と呼ばれます。

一方で、別の使い方をされている場合もあります。
カントが『純粋理性批判』でやろうとしたことは、人間の認識の限界を設定することでした。限界を設定することにおいて、可能なことを保証しようとしたのです。

ところがその限界を設定しようと思えば、その外側に位置する「超越的なもの」に対して、認識できなくても、何らかのかたちで関与することが必要になってきます。そうして、人間は、「超越的なもの」の仮象をもつ。この仮象を通じて「超越的なもの」をとらえようとします。
これらもまた「超越論的仮象」として「超越論的弁証論」の中で批判的にとらえられています。

従って、カントのいう「超越論的」には、つねに二重の意味がこめられています。
人間の認識の限界のこちらがわで、客観的な実在世界が構成される、ということ。
認識の限界の向こうがわをとらえようとすると、仮象に陥ってしまうこと。

このことを頭においておけば、『論考』の6.4以下が超越論的哲学に踏み込んでいることがよくわかります。
ここらへんのことは、野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』で展開されていますから、ぜひご一読を(というか、読まれた上で出された質問のような気がしないではないのですが)。

『草稿1914-1916』を読むと、もっとそのことがはっきりと実感されます。この時期のウィトゲンシュタインは一貫して「幸福」ということを考えています。そうして、「幸福」の問題を解決するための論理哲学が模索されている。これを「超越論的」と呼ばずして、いったい何を「超越論的」と呼ぶことができるか、と、個人的には思います。

以上、参考まで。

カントの使う「超越論的」という言葉には、幅があります。

まず、人間が、理性のうちにある「経験を可能にする条件」にもとづいて、空想や夢から「客観的な実在世界」を抽出する手続きが「超越論的統覚」や「超越論的構想力」として、「超越論的」と呼ばれます。

一方で、別の使い方をされている場合もあります。
カントが『純粋理性批判』でやろうとしたことは、人間の認識の限界を設定することでした。限界を設定することにおいて、可能なことを保証しようとしたのです。

ところがその限界を設定しようと思え...続きを読む

Q野球界の哲学者とも言われるイチローは、まるで、野球界で言うゲーテまたはカント、若しくはウィトゲンシュ

野球界の哲学者とも言われるイチローは、まるで、野球界で言うゲーテまたはカント、若しくはウィトゲンシュタイン、いや、ソロモンみたいな人物でしょうか?

Aベストアンサー

センスもさることながら、努力家なのです。やるべきことを怠けない。やれてないのは嫁を妊娠させる事位か? ボールボーイをするイチロージュニアを観たかったな。才能の遺伝が途絶えるのは惜しい。

Q経験論と合理論

現代では、瞬時に「パッチ」を当てられて、オシマイですか

Aベストアンサー

「経験」=時間軸と、「合理」=空間軸は、相容れない
ようでいて、量子論の不確定性原理における「位置Sと
運動量St、時点TとTs質量の2対の確率性において、
一方を確定化しようとすると他方は無限不確定に発散
する」というように、相補性を成して、それらを確定せず
階層現象表面的に(いい加減に)捉える事で、仮象的
に有限な存在性を派生させているのです。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報