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 時代劇などでは江戸時代の夜の花街を描写する時、決まって現代の繁華街のようにそこらじゅうが明るくて歩くのにも何不自由ないような場面をよく見ます。

 しかし、実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?
 資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます(笑)
 本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?

 江戸時代に詳しい方のご教授をお願いいたします。

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A 回答 (4件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます

遊郭では、百目蝋燭をふんだんに点していましたので、遊女の顔や衣装は、けっこう明るかったので見ることができした。
大門は、基本的には、明け六ツ(午前6時)~夜四ツ(午後十時)までですが、横に木戸があり、ここから客は出入りをしていました。不夜城は吉原だけでした。


>>本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?

江戸では、夜になると「戒厳令」がしかれており、夜の外出はよほどのことがない限り、外出はできませんでした。
そして、必ず1軒には少なくとも1貼りの提灯を常備することが「義務付け」られていました。
夜の外出では、必ず提灯を持つことも「義務付け」られていました。
提灯を持たずに外出した際、夜盗と間違えられて切り殺されても文句は言えなかったのです。

また、道を歩くだけであれば、月夜の晩などは、月の明かりだけでも十分歩くことができました。
現代の我々のように街路灯に慣れてしっている人々からは考えられないくらい、夜は暗くて当たり前だったのです。

従って、提灯一つあれば十分な明かりだったのです。


>>実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?

屋内では、江戸時代中期(元禄年間)頃より行灯が大変に普及しました。
これは、受け皿に灯心を灯しただけよれも、その四方に紙を貼ることで、明かりが集中して照らしてくれるようになり本も読めるくらいの明るさになったのです。
ただし、菜種油を使用できるのは、武家や商家など裕福層に限られており、庶民は「魚油」を使っていました。
魚油は臭いもきつく、また、煤がたくさん出ましたが、庶民にとっては安い魚油で我慢しました。
「暗くなったから、寝るぺーか」
が、常識だったのでしょうね。
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この回答へのお礼

 「百目蝋燭」検索してみると、百匁(375グラム)もある蝋燭だったようですね。当時蝋燭は高かったので庶民には買えなかったとか。当時の遊郭はそれだけピンハネで大儲けしてたということでしょうね。

 庶民は暗くなったら寝る。一部の金持ちだけが夜になったら花街で遊ぶ・・・という図式だったのかな。

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/12 20:04

 夜間照明をいうのなら、暦と時刻についておさえておく必要があるでしょう。



 よく、明六つは午前6時で暮六つは午後6時。で、一刻は2時間などと説明されています。

 また、明六つは日の出の時間で暮六つは日の入りの時間などという人がいます。

 これじゃ、ダメです。

 明六つは、夜明けの時刻です。日の出の少し前、空が白々とした時。時間ではなく、時刻です。

 暮六つは、日暮れ時。日没後、宵闇になるとき。

 なので、明六つ前および暮六つ後は闇だったということです。

 おわかりと思いますが、明六つ・暮六つは、季節によって、また土地によって変わってきます。

 江戸時代、日常生活は、明六つと暮六つを基準にした昼夜それぞれの時間帯を6等分し、1日を12の時に分けた「不定時法」によりました。

 真夜中、暁九つから始まって、暁八つ・暁七つ・明六つ(ここまで夜の時間帯の後半)。
 明六つ・朝五つ・昼四つ・昼九つ・昼八つ・夕七つ・暮六つ(ここまで昼の時間帯)。
 暮六つ・夜五つ・夜四つ・暁九つ(ここまでが夜の時間帯の前半)。

 暁九つ・暁八つ・暁七つ・明六つ・朝五つ・昼四つ・昼九つ・昼八つ・夕七つ・暮六つ・夜五つ・夜四つ・暁九つは、十二支の子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の正刻になります。

 なので、「正午」は、正午刻(しょううまのとき)となり、「午前」「午後」があるのです。

 一刻(いっとき)の中心が正刻。つまり、十二支であらわす刻は正刻を中心にした時間帯なのです。

 元禄十五年十二月十五日は、グレゴリオ暦では 1703年1月31日。江戸における丑刻は、01:47~03:57です。

 怪談などでいう「草木も眠る丑三つ時」は、丑刻の時間帯を四等分した3つ目ということです。


 討入が終わって吉良屋敷の裏門を出た一行は、それぞれ手に持った灯を消して回向院まで行った。
 月が落ちて真っ暗闇のなかを行進しましたが、おそらく数名ずつのグループの先頭を歩いた人は、提灯を持っていたことでしょう。

 回向院で休憩しようとしたけれど、明六つの開門時刻前ということもあって門内には入れてもらえず、両国橋の袂で休憩していました。
 まもなく夜が明けて空が白々となった。明六つです。

 元禄十五年十二月十五日(1703年1月31日)の江戸の地の明六つ時を計算すれば、06:07(日の出は06:42)です。


 暦は、遣唐使によって伝えられ、800年使い続けられた宣明暦(せんみょうれき)に誤差が生じてきたため、貞享二年一月元旦(1685年2月4日)から国産初の貞享暦に改暦されました。

 貞享五年九月三十日(1788年10月23日)に 元禄に改元されたので、国産の暦を使い出して3年半後に元禄となったのです。

 このあと改暦はいくつかあって江戸時代最後の天保暦の計算では、ケプラーの楕円軌道の法則まで使っていました。

 旧暦と総称しているものは、すべて太陰太陽暦です。新月の日から始まって、次の月はまた新月の日から。だから十五日(性格には時間的に多少前後する)は、ほぼ満月。

 空の月を眺めればおよその日がわかって便利ですが、地球から見た月の運行はひと月が30日弱。そこで、大の月を30日まで、小の月を29日までとしましたが、季節に相関する太陽暦からすれば、1年の日数は少し少ない。

 そこで2~3年に1度、「閏月」を入れていたのです。

 それでも農作業などに対応しきれないので、太陽の運行から二十四節気を決めていあたのです。

 元禄の頃には、時刻管理に日本独特の不定時法の時刻に対応する時計が使われていました。

 大名時計と称されているものは、昼の時間帯用と夜の時間帯用の2本のテンプがあって、明六つ時と暮六つ時に自動的に切り替わるという優れもの。

 2本のテンプには櫛状の刻みがあって、この刻みにかける錘の位置で周期調整する仕組みでした。季節によって異なる昼夜の時間帯に対応するために、二十四節気毎(半月毎)にテンプの錘の位置を変えていました。
「江戸時代の夜の街の照明事情について」の回答画像4
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この回答へのお礼

江戸時代の詳細な時刻の表し方を教えていただきありがとうございます。

 現代人は「時間」というものは普遍で常に同じ物という考え方を持った人がほとんどですが、人間の生活を中心とした「不定時法」は今からみると非合理的なようですが、案外理にかなったものかもしれませんね。

お礼日時:2011/03/13 11:41

 室内照明として使われていた行灯については、実際に江戸時代に書かれた書簡や木版刷の本を使って実験してみました。


 行灯では、どんなに近付けても今の活字文字を読むのは苦痛です。
 江戸時代の大きな文字でも、行灯にくっつくくらい近付けないと、よく読めません。


 月夜でも外出時には、提灯を持っていったものです。
 提灯の底に油石を落としてふらつかないようにし、前方三尺ほどの地面を見ながら歩くのです。

 江戸時代には裸足生活者が大勢いましたが、ふだん履物を履く人でも、夜間、急ぐとき、坂の多いところを行くとき、雨降りのときなどは、裸足であることもありました。

 騎乗を許されない下級武士では、麻裃や羽織袴姿で裸足で行くこともありました。
 出典は、最近再発見された「佐藤條衛門覚書」のなかで、元禄十五年十二月十五日(1703年1月31日)の午後の泉岳寺門前の様子を書いたなかにこんなことが書かれてありました。

 歩行目付(麻裃着用)3人と小人目付(羽織袴着用)6人が、いずれも裸足で泉岳寺まで来て、山門の際で足を洗い、草履を履いた。
 冬なのに、裸足で長距離歩いてきたのです。草履を履いても足袋はなし。
 理由は、急いで泉岳寺まで行かなければならず、当時の泉岳寺は東海道から海とは反対方向の坂を上ったところにあったからだと考えられます。
 歩行目付(徒歩目付)も小人目付も、公儀小役人。目付の配下に歩行目付がいて、その下に小人目付がいました。
 騎乗の身分ではないので、どこに行くにも徒歩です。

 同史料には安部飛州公(寺社奉行安部飛騨守)の家来2人もでてきますが、彼らは騎馬の人でした。

 江戸時代には裸足生活者が多く、ふだん草履を履いている人でも、時と場合によっては裸足で歩くこともありました。
 農作業も裸足です。

 明治34年(1901) の5月29日に、ペストの予防と風俗の改善のために「裸足禁止令」が出されました。


 愛知県豊田市に昨年できた豊田市能楽堂(http://www.t-cn.gr.jp/index_n/)での、「ろうそく能」の写真を添付しておきます。

 この「ろうそく能」は、電灯照明の無い時代に座敷などで百目蝋燭を灯して演じたものを再現する趣向で、舞台の周りに燭台を巡らせ、蝋燭の灯で能・狂言を演じるものです。

 行灯の灯で夜間過していた人から見れば、百目蝋燭の灯は明るかったにちがいない。
 でも、蝋燭の灯だけでは良く見えないのです。
 で、「ろうそく能」の実際ではわずかに電灯照明を入れるのです。
 それでも普段の舞台よりははるかに暗い。目が慣れてきてやっと見えるというくらいです。
「江戸時代の夜の街の照明事情について」の回答画像3
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この回答へのお礼

色々な興味深い逸話ありがとうございます。

 やはり現代人と江戸時代の人間では感覚的にかなり異なる・・・われわれ自身の感覚でそれぞれの時代を理解しようとする態度自体が間違っているという事ですね。

 遊女の顔がぼんやりとしか見えなくてもそれはそれでよかったのでしょう。でも翌朝にびっくり仰天なんて事がよくあったのではないかと(爆)

お礼日時:2011/02/14 19:50

当然、暗かったので、遊廓の女郎などは白粉で真っ白です。



当時の人々はその暗さが当たり前だったので、平気だったのでしょう。

ランプの明るさに驚きガス燈の明るさに驚き電灯の明るさに驚いてきた、人類の歴史ですね。

学生時代に一晩、菜種油の行灯で過ごすと云う遊びをしましたが、蛍光灯の傘に一緒についている常夜灯ぐらいの明るさしかなくて、とても新聞は読めませんでした。
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この回答へのお礼

なるほど、遊女らが真っ白けな顔なのはそういう理由もあったのですね。

 江戸時代の人たちは、現代人と違って夜の暗闇に慣れていたので夜目もきいたのでしょうね。

 ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/12 15:17

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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
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Q平安時代の照明について。

平安時代室内照明に油が用いられたのは、いつ頃からですか。油のない前は何を用いていたのですか。
また、庶民が油の照明を用いたのは貴族社会より遅かったのでしょうが、どうなのでしょう。
平安前期、中期、後期といった分け方でおねがいします。小説を書いているものですから、何卒よろしくお願いします。すみません。

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「庶民が油の照明を用いたのは貴族社会よりも早かった」という思考や問題提起は、どうした認識によるものでしょうか。昔から照明用灯火に油脂が使用されていたのであれば、庶民と貴族では前後がないのでしょう。仏教文化として入ってきたのなら寺院から貴族という順でしょう。輸入品・到来物・その代用国産ということなら、「庶民が油の照明を用いたのは貴族社会よりも早かった」という思考や問題提起は起きないでしょう。
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ここは質問サイトですから、直接の回答も並記します。
このサイトのPDFをご覧ください。
https://www.city.hasuda.saitama.jp/bunkazai/kyoiku/bunkazai/tenjikan/documents/h26akari.pdf
東京都街路照明基準  地域別街路の平均照度を次のように定める。 0.3ルクス以上
http://www.aist.go.jp/science_town/standard/standard_03/standard_03_04.html
◆0.2ルクスあれば転ばない程度に歩ける。
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夜中に印刷活字を読むのでなければ、ゆっくり行動するのが普通の内部や物のだいたいの位置を知っている室内でもほとんど明かりはいらない。 コントラストが重要だが、生活上では夜間の自分が住む室内では照明そのものを使わずに済む。
http://siboono.web.fc2.com/candela.htm

江戸や明治期の農山村、漁村で、屋内に照明具があったとても、その照明器具の設置場所は限られていて、ほとんど無照明でも、歩行や寝起きはできていた。

書こうとしている小説が、平安期を取り上げるのであれば、どんな生活をベースにしているのか考えることですね。 貴族だって、寝室などに灯りはともさないでしょう。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/files/5021_11107.html

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質問文に、「庶民が油の照明を用いたのは貴族社会より遅かったのでしょうが、どうなのでしょう」とあるのが、妙です。お礼に「御年75歳の好奇心だけは旺盛な青年です」とあります。
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Q電気の照明がない時代の生活

今のように電気の照明があれば一晩中起きている人も少なくないと思いますし,就寝時刻や起床時刻はバラバラだと思いますが,例えば日本の江戸時代前のように電気の照明がない時代の人たちがどんな生活をしていたのか,そんなことを紹介しているページをご存じの方がいらっしゃいましたら教えていただけるでしょうか。一番関心があるのは就寝時刻と起床時刻が何時くらいだったのかという点です。(今ほどバラツキがなかったのではないかと思うのですが)そんな点についてご存じの方(あるいはそういう国・地方で生活をされていた方など)がおられましたら情報をお知らせいただけるとうれしいです。

Aベストアンサー

東南アジア、インドシナ半島におきまして、カレン族の村
で少しばかり生活していたことがあります。
電気、ガス、水道、トイレ、電話等一切無し。
この村において「夜のはじまり」とは、日没のことを指しておりました。午後八時頃は「深夜」となります。日没とともに就寝し、夜明け前に起きる、というパターンでした。
従って、季節によって就寝時間や起床時間は異なります。
そもそも村には時計がありませんでした。
客人が来たときには、日本で言うところのキャンプファイヤー
のようなことをしておりました。
村の子供達の健康的な笑顔が印象的でした。

Q夜着に使っていた白い着物の名称

時代劇の大奥のシーンなどで、夜寝る時に着ている白い着物は、着物なのでしょうか、長襦袢なのでしょうか、それとも夜着とした全く別ものなのでしょうか?
以前から気に入っていたのですが、その着物の名称も分からず、調べようも無いまま今まで来てしまいました。
知っている方がいらしたら、是非教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>時代劇の大奥のシーンなどで、夜寝る時に着ている白い着物は、着物なのでしょうか、長襦袢なのでしょうか、それとも夜着とした全く別ものなのでしょうか?

普通に「寝巻き」で良いのですよ。
また、「寝衣(しんい)」とも呼びます。

なお、良く菱形のような白い透けた柄がありますが、
「工事繋ぎ(こうじつなぎ)」や「紗綾形(さやがた)」多く用いられました。

紗綾形:
http://haruusagi.gozaru.jp/NewFiles/photoshop-pattern.html

Q行灯の明かりについて

江戸時代 行灯の明かりはどのくらいともしておくことができたのでしょうか? 油を継ぎ足して使用したのでしょうが、長屋の行灯で一回の油でどのくらいの時間が使用可能だったのでしょうか。
わかる方教えて下さいませんか。

Aベストアンサー

時代によって値が変わりますが江戸時代後期にナタネ油は1合が40文位したそうです。
菜種油はほぼ米の倍くらいの値段だったようで相当高くつきますから庶民は魚油を使っていました。
魚油は臭かったらしいですが値段が半値以下です。一晩に4~5勺使いましたので
魚油だったら20文/合×0.4合/晩=8文/晩。一か月で240文。
1文の価値も随分変わっていますが1文≒30円とすると一か月の照明代は7000円くらいかな。
でも元々の月収が今の貨幣価値で10万円に届かないような長屋暮しですから
出費割合でいうと結構高くつきます。

もちろん4勺/晩と言うのは就寝時間が早い庶民ですから1刻≒2時間/晩程度でのことです。
確かに早寝して早起きすれば一晩に3文くらいの得になったのかもしれないですね。
行燈の火皿は大きめの物なら沢山の油が入り長く持ちますし小さければ少量の油しか入りません。
行燈の油は燃やし切るのではなく就寝時には消しますから皿の大小はあまり影響ありません。

遊郭などでは有明行燈と言って有明つまり夜が白々と明けかける時刻まで火が燃え続ける
大きな火皿の行燈もありました。

時代によって値が変わりますが江戸時代後期にナタネ油は1合が40文位したそうです。
菜種油はほぼ米の倍くらいの値段だったようで相当高くつきますから庶民は魚油を使っていました。
魚油は臭かったらしいですが値段が半値以下です。一晩に4~5勺使いましたので
魚油だったら20文/合×0.4合/晩=8文/晩。一か月で240文。
1文の価値も随分変わっていますが1文≒30円とすると一か月の照明代は7000円くらいかな。
でも元々の月収が今の貨幣価値で10万円に届かないような長屋暮しですから
出費割...続きを読む

Q江戸時代の人はどうやって寒さをしのいだ?

今夜合気道の稽古に行きました。
寒かったです。

すると、稽古の後にある人がこう言いました。
「昔の人はどうやって寒い冬を過ごしたんだろうね」

私「ダウンとかないですよね。藁をかぶって寝てたんでしょうか」
「じゃあ戦のときはどうやって寝たんだろう」
私「うーん。野宿は無理でしょ」
「でも農繁期には戦はしないだろ」
私「いや、秀吉のころには兵農分離していたし、やったのでは?
昼間は広いところで戦っても、夜は農民の家や納屋で寝たのでは?」

「そんなに都合よく寝るところが見つかるかな。テント張ったのでは?」
私「無理です。大将は天幕張ったかもしれないけど、雑兵は無理でしょ」

「寒いけど我慢したのかな」
「我慢できるとは思えません。寒すぎますって」

すると別の人が言いました。
「江戸時代とか、かけ布団はなかったらしいよ」
私「そりゃ死にますよ。服を何枚も重ねたのですかね」

さて、実際の農民や戦場の武士はどうやって寒さをしのいで
寝ていたのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんでした。
都市部では、火鉢と炬燵(行火)がごく普通の暖房設備でした。
火鉢や炬燵のある部屋に家族全員が集まって寒さをしのぐというのがごく普通の習慣でした。
部屋ごとに部屋全体を暖房するというのは、高度成長期以降の習慣です。

炬燵や行火が使われるようになったのは室町時代以降とされています。
火鉢は奈良時代から使われていました。
火鉢に使われる木炭は縄文時代からありました。
つまり、奈良時代から昭和30年代までの都市部の暖房というのは、主役は火鉢でした。
信長が秀吉の才能を注視するようになった切っ掛けは、城中で使われる炭を大幅に節減したことだったと言われています。
江戸時代の江戸の街の様子を描いた江戸名所図絵という書籍がありますが。
その中に、部屋の障子を全て開け放って、皆で庭に積もった雪を眺めている絵があります。
部屋の真ん中に火鉢が一つ置いてあるだけです。
江戸時代は現在よりも寒冷で、江戸でもよく雪が積もりました。(小氷河期と言われています)
あちらこちらで雪見という行事をやっていました。

台所などの炊事場には七論と呼ばれる煮炊き用の移動式の炉があって夏でも火が入っていました。
湯沸かし器がありませんでしたから、常時お茶用などのお湯を沸かしていました。
この移動式というか携帯形の炉は平安時代から置き炉と呼ばれて使われていました。
日中は必ず火が入っていましたので、暖房の役目も結果的には担っていました。

農漁村地帯では囲炉裏が唯一最大の暖房設備でした。
囲炉裏の周りに集まって寒さをしのいでいました。
現在、村興しなどで古民家を使って囲炉裏端での食事を提供していますので、機会があれば訪ねてみて下さい。

明治以降ストーブが普及した後はストーブが囲炉裏の代わりをしていました。
学校も教室にストーブが一つ置いてあるでけでした。
入学試験の際には不公平になるということで、ストーブは消してありました。
つまり暖房のない教室で試験を受けていました。
もしお祖父さんやお祖母さんがおられれば聞いてみて下さい。

明治になるまではウールという動物質の繊維製品がありませんでしたから、着物は木綿が主体でした。
木綿の入手が難しかった関東以北の地では麻が主体でした。
セーターという衣料品は明治以降に着られるようになった衣料品です。
木綿も麻も現在の衣料品に比べれば保温性が劣ります。

江戸時代には、着物は夏は一重と言って浴衣のような感じの着物でしたが秋になるとあわせといって、夏の着物に裏を付けて二重にしました。
和服というのは、糸を抜いてばらばらにして洗い、また縫い直すというやり方をします。
この為に季節ごとに一枚にしたり重ねたりということを繰り返して着ていました。
冬になると、この重ねた表裏の間に綿を入れた綿入れという状態にして着ていました。
この綿入れの綿の量を増やした掻巻(かいまき)、あるいは褞袍(どてら)というものを作って掛布団代わりにしていました。丹前とも呼ばれました。
掛布団が無かったのではなく、チャントその代わりの役目を果たすものがありました。

質問者さんが、江戸時代どころか、昭和20年代の家へ行けば、おそらく寒さに文字通り震え上がるでしょう。
簡単に言えば昔の人は寒さには強かったということです。

あとは、生活習慣が違いますので、一人で部屋にこもってゲームで過ごすなどということはありませんでした。
常に火のある部屋へ家族が集まって過ごしていました。

それと、人間はある程度寒さには慣れます。
これは外国人観光客の方にも見受けられます。
南欧以外のヨーロッパから来られた方やアメリカから来られた方は日本人よりもはるかに薄着です。
永平寺などで修業をされている僧侶も特に暖房もなく一冬過ごします。
寒稽古で頑張って下さい。寒さには直ぐに順応します。

戦国時代の武士の野宿ですが、当然焚火をして寒さを凌ぎました。
移動の際には、蓑と呼ばれる稲わらを重ねた外套を着用していました。
雪のある時期はお互いに足場も悪く体の動きも鈍りますので、余り積極的には戦はしていませんでした。
この当時の常識を破ったのが佐々成政のさらさら越えです。
命懸けで冬の立山を越えています。
常識外の行動でしたので、現在まで伝えられています。

人間の体というのは血液が循環していますから、手足を温めるだけでも寒さは凌げます。
焚火が効果があるのはこのためです。
湯たんぽもこの原理を応用したものです。
寒いなと思ったら手をお湯に10分ほど浸けてみて下さい、全身が温かくなってきます。
最近温泉地で足湯というのが流行っていますが、これも相当暖かくなります。

江戸時代と農民と戦場の武士とは、時代も条件も違いますので、バラバラの回答になります
江戸時代に冬季に武士が野宿するような戦闘は行われませんでした。(念のため)

日本家屋というのは「住いは夏をもって旨とすべし」と言われていたように密閉度の低い風通しの良い構造になっていました。
部屋の仕切りも襖か障子でした。
逆に言いますと冬は現在に比べれば相当に寒い環境でした。

現在のようにエアコンや石油ストーブなどが普及しなかった昭和30年代以前は江戸時代も昭和時代も余り変わりはありませんで...続きを読む

Q江戸時代の旅の手荷物や衣類・食事などは?

お世話になります。

時代劇を見ると、江戸時代の旅装束・手荷物・衣類・食事は、かなり少ない様子です。即ち、

●笠、合羽程度を振り分け荷物で着たきりスズメ

で、手ぶらのようです。その他には、せいぜい杖くらいです。泊りは宿場なので問題なしとしても、こんな軽装で旅が続けられたのでしょうか?

よって、質問です。

Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)
Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)
Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

ご回答をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

昼飯はヌキが多かった。しかし、前述のように茶屋などで団子を食べたり饅頭を食べたり煎餅を食べたりしました。


>>特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。

やはり、「銭」が一番でした。
農村部では飢饉などで困ったことでしょうが、旅篭などでは、米の流通を銭の力で優先的に差し押さえていましたので、旅人にはあまり不自由なく往来できました。


>>また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

江戸時代書かれた「道中案内記」によると・・・

着替えの衣類(着物1着・下着2~3着)、脇差(道中差、女は懐剣)、頭巾(または笠、女は市目笠)、三尺手拭、扇子、矢立(筆記用具)、鼻紙、草履(草鞋)、財布、道中記・・・などを小物篭に入れて包み、肩から振り分けにして持参すると良いと書かれてあります。

(よもやま話)
江戸時代中期(文化・文政の頃)になると江戸も繁盛するようになり、小旅行がもてはやされました。
箱根の関所手前までなら、「通行手形」もいらなかったので、自由に往来できました。
日帰りまたは1泊2日くらいの旅としては、
箱根七湯、江ノ島詣、鎌倉見物、金沢八景、大山詣、成田山新勝寺詣、秩父三十三箇所詣、日光東照宮参り、
などが人気でした。

また、関所でも「○○講中」と書かれた白い上着を着て、それらしき旅姿であれば、通行手形は不要でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった...続きを読む

Qプロ野球の応援団って何で飯食ってるの?

毎試合球場に足を運んで応援してますけど、彼らの収入源は?
そして、いつも外野のいい席を陣取ってますけど、入場の時ちゃんと並んでるんですか?
だとしたら昼間もおちおち仕事してられないですよね?

Aベストアンサー

ある応援団の団長さんと個人的に知り合いなのですがきちんとした会社に勤めていて見識もしっかりした人です。応援団にもいろいろな人がいるわけですが、pirocchiさんが想像なさっているよりは普通の社会人や学生が多いと思います。
以下は私の知る範囲でのお答えです。

(1)仕事と資金
きちんとした定職を持っている人も少なくありません。たださすがに昼間は抜けられませんから、球場に来るのは夜からです(夜から来て場所を確保している理由は(2)で後述します)。
今は試合開始時点で一定の人数の団員が揃いますが、昔(15年以上前、特にパリーグ)は試合開始時点では人数が少なく、3回くらいからようやくラッパ応援が始まるような例も少なくありませんでした。仕事が終わってから三々五々球場に駆け付けていたためでしょう。
また「秋~春はひたすらアルバイトでお金を貯め、その資金でシーズン中の応援活動を行う」という人もいるようです。これは応援活動に限らず、放浪旅行を楽しんだり、タレントの追っ掛けをやったりする人も使う手ですね。
ビジターの試合まで全部観るとなるとさらに大変ですので、それも含めて全試合観ている人は少数でしょう。ビジターを本拠とする応援団の人がホーム球場に出向く場合も同じです。ただNo.6でyorunoaozoraさんがお答えのように、ビジターでも何らかの応援組織が存在するのが今は普通ですから「ビジターでは応援なし」というケースは少なくなりました。
遠征の場合その地区の幹部クラスの人が、金欠の若手団員向けに自宅を宿泊所として提供することもよく行われます。

(2)座席確保
「年間指定席だから」と回答しておいでの方が多いですが必ずしもそうではありません。確かに年間指定席を買っている場合もありますが、年間指定席があってもそこでの応援が禁止されている球場(横浜など)や、外野の年間指定席がそもそも存在しない球場も多くあります。指定部分の多いナゴヤドーム外野でも応援団は自由席を使って応援しています。
自由席の場合にどうするかというと、座席確保のために試合の始まる何時間も前から並んでいます(主に若手団員の役目だそうです)。

ある応援団の団長さんと個人的に知り合いなのですがきちんとした会社に勤めていて見識もしっかりした人です。応援団にもいろいろな人がいるわけですが、pirocchiさんが想像なさっているよりは普通の社会人や学生が多いと思います。
以下は私の知る範囲でのお答えです。

(1)仕事と資金
きちんとした定職を持っている人も少なくありません。たださすがに昼間は抜けられませんから、球場に来るのは夜からです(夜から来て場所を確保している理由は(2)で後述します)。
今は試合開始時点で一定の人数の団員が揃い...続きを読む

Q昔の時間の単位を教えてください

昔(明治より前)、日本で使われていた時間の単位を教えてください。

例えば、今で言うところの「10分」とか「1分」に相當する時間はなんと言っていたのでしょうか。

まさか、無かったなんてことはないでしょうね。
そしたら「あと10分で仕事を終わりにしよう」なんて言えないですよね。

時間・分・秒は、明治以降ですよね。

Aベストアンサー

現在のような、分や秒を使った記録はないようです。
九つ、の0時は子の刻、午の刻、現在の子午線、日付変更の基準にしています。
12時を正午(正午の刻)など現代生活に使われている。
明け六つ、暮れ六つ、は簡単にいうと夏時間、冬時間のようである、時代劇ではいつも朝明け、日暮れ時である、これは時代劇の効果ではなく夜明け、日暮れにあわせたそうです。
基本的には、1刻は2時間、1時(とき)は1時間、以下は、半時は30分、四半時は15分、このような値より長いと思うときは半時余り、短いときは四半時足らず、などの表現で生活に支障がなかったようです。

Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれ...続きを読む


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