宇宙というシステムの中で、なぜ人間という存在があるのかがわかりません。

たまたま、生物が生きることができる条件が揃った地球という星が生成されてしまったために、結果として人間というものが生まれただけのことでしょうか。

システムとしての宇宙を考えたら、人類の他、生き物など存在しないほうが自然なことのように思います。
なぜなら、エネルギーを消費し廃棄物を生成し、地球という星の生命を短くし宇宙を汚しているだけの存在のように思えてならないのです。

それとも、偶然発生した人類が単に宇宙のシステムに反してそんな愚かなことをしているだけなのでしょうか。
もしそうなら、人間の存在などは一時的なものに過ぎないということになります。

何もない方が宇宙のためになると思うのですが、どのように考えたらよいのかご教授ください。

与えられた人生を精一杯生きるためだ、とかいう路線(笑)の意見以外で聞きたいです。

ちなみに、システム的には人類などいない方が自然と思いますが、私の感情ではいない方がいいと悲観的に思っている訳ではありません。

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A 回答 (10件)

>なぜなら、エネルギーを消費し廃棄物を生成し、地球という星の生命を短くし宇宙を汚しているだけの存在のように思えてならないのです。



宇宙的に見えれば、それ自体が「どーでもいい次元」なんですよ。
廃棄物・汚してるっていうけど、宇宙的に見ればそんなことありません
地球で「毒」でも宇宙的に見れば「ただの1物質に過ぎないんです」


>それとも、偶然発生した人類が単に宇宙のシステムに反してそんな愚かなことをしているだけなのでしょうか。
もしそうなら、人間の存在などは一時的なものに過ぎないということになります。


宇宙のシステム?あのー宇宙のシステムとは?
何が有意義で何が反するかは「人間の判断に過ぎないんですよ」
宇宙のシステムとして考えれば、「アリが何をやって構わん」程度なのでしょう。(人としては別ですけど)


>何もない方が宇宙のためになると思うのですが、どのように考えたらよいのかご教授ください。

意味不明です。宇宙が何の為に物質を作成し、空間を広げ、何を目的とし、何が紀元なのか
そんな事は10000年かかっても解かる保証はありません。
ましては、1人間が「汚い人間など居ない方が良い」なんて考えるのはテロリストと変わらん「危険な思考です」

宇宙にとっての「有意義・無意味」は1人間が考えるような事ではありません。
ていうか、宇宙にとってとかより
1人間として「何が正しいか」判断して生きればそれで充分でしょ
で、あなたが正しい事をすれば、尚良いんじゃないですかね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

人間が宇宙の判断をすること自体が、無意味であるということでしょうか。
ヒトを基準にして考えることが、自惚れた行為であると思いました。

お礼日時:2003/09/10 21:48

科学では解き明かせない謎の一つですね。


似たように解き明かせない謎の一つとして、なぜ人間は悩むのか、というのもあるようです。

あなたはなぜ、そのことを悩んでいるのですか?
それを科学的に解き明かしていく必要があるのですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

必要がなくても本質を知りたいと思いませんか?

「へぇ~」っていう、不必要な知識が嬉しいものです。

お礼日時:2003/09/10 22:03

そういう質問そのものが、実に人間的です。


自己の存在理由を探求してしまうのが人間という生き物です。というふうに、素直に考えましょう。
宇宙のためとかいうのは、偽善とまではいわないにしても、未熟な考え方です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

特に、宇宙のために・・・とは考えているわけではないのですが。

お礼日時:2003/09/10 22:00

ここでの「宇宙というシステム」とはどのようなものでしょう。

人間も他の生物も自分の星の自転すら支配できてはいません。「エネルギーを消費し廃棄物を生成」というのも太陽とかの恒星がエネルギー的には、ほぼ100%を占めているでしょう。生命はその失われるエネルギーを細々と利用しているだけです。「廃棄物を生成」が重要なのは生命体にとってのみですし。エネルギー普遍の法則というのもありますし。
 基本的に、ここでの「宇宙というシステム」というのは仏教での「法」と同じものではないかと思います。「輪廻転生」に置き換えた方が考えがまとまるのではないでしょうか。ちょっとカルト宗教じみているように感じます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分は「エネルギーの消費=悪」と考えていたようです。

お礼日時:2003/09/10 21:57

あなたは、宇宙に関する基礎的な式知識が絶対的に不足しています。


最低限、ビッグバン宇宙論、インフレーション宇宙論、一般性相対性理論の基礎知識がなさ過ぎます。
>「宇宙というシステム・・・わかりません」
とおっしゃていますが、「宇宙というシステム」とは、「何か」を平易にこたえられますか?
人間を考える前に、自然科学の基礎はきっちり理解しておくと、良いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自然科学の知識を得た後に、人間の存在を考えると容易に回答がでてくるということですか。

ということは、宇宙物理学者=哲学者 なのですね。

お礼日時:2003/09/10 21:52

そもそも宇宙のためだとか宇宙のシステムなどど考えるのは人間の勝手で、人類がいようがいまいがそれが宇宙に対して与える影響はないと思います。



太陽などの恒星は、膨大なエネルギーを消費し,周囲に放射線を撒き散らしています。宇宙のためを考えるのなら、これは悪いことになってしまいますよね。それに比べたら,人類が活動することで消費するエネルギーや廃棄物などは微々たるものですので、星が光るよりもよほど宇宙のためになります。

それなので、宇宙のためとか宇宙のシステムといった考えを捨てた方が、より有意義な結論にたどり着けるのではないでしょうか?

>たまたま、生物が生きることができる条件が揃った地球という星が生成されてしまったために、結果として人間というものが生まれただけのことでしょうか。

ただそれだけのことだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

宇宙のために人間は必要ないと考えている訳ではないのですが。

>ただそれだけのことだと思います。
人間の存在を、哲学的に考えようとすること自体が間違っているということでしょうか。

お礼日時:2003/09/10 21:41

あなたの質問は最初から哲学においての回答を拒否してるように感じます。

 違いますか?

勿論、この宇宙で偶然有る条件が揃って、単細胞生物が生まれ、軟体動物やら、甲殻類やらの栄える時代があって、今、脊椎動物の中で一番脳味噌が発達した「人類」が栄えているだけであって、そんなことは「地球のため」になるとか、「宇宙のため」になるとか言う問題では全く無い。

これはあくまでも宇宙や地球が出来る過程での偶然の産物にしか過ぎない。

人類がいるほうが自然であるとかいないほうが自然などという、そんな問題では勿論ない。

あくまでも其処に有った物質と、ある種の条件による必然と、偶然の産物以外のナニモノデモナイ、と思いますよ。

これは哲学ではなく科学の問題ですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>哲学においての回答を拒否してるように感じます。
そんなことはないのですが、どうしてそのように思われたのか逆にお聞きしたいです。
文章のどの部分で?

科学的にみれば単なる偶然が重なっただけの事実ですが、これを哲学的に考えるとどうなのかが知りたかったのです。
(哲学的に考える必要はないというご指摘をも含めて質問しました)

よって、あえて「哲学」のカテゴリで質問させていただきました。

お礼日時:2003/09/10 21:33

質問内容が難しくて、なんと言ったらよいかわかりませんが。



<なぜなら、エネルギーを消費し廃棄物を生成し、地球という星の生命を短くし宇宙を汚しているだけの存在のように思えてならないのです。
<それとも、偶然発生した人類が単に宇宙のシステムに反してそんな愚かなことをしているだけなのでしょうか

たまたま発達して地球を支配しているのが人間であって、それが違う生き物の爬虫類だったとしても同じように地球を汚す存在になったと思います。
地球を汚す生物も宇宙の中では必要な要素だとか?
あるお芝居の台詞でこんなのがありました。
「私は正義だ、しかし悪があって正義が成り立つ。悪が無ければ正義は存在できないのだ。」
???よくわからないけど、そうだよね。と妙に納得してしまう台詞でした。

自分で書いていてよくわからなくなってきました。
(?o?)
お求めの回答になりましたでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「人間は宇宙における必要悪な存在」ということでしょうか。

お礼日時:2003/09/10 21:23

>たまたま、生物が生きることができる条件が揃った地球という星が生成されてしまったために、結果として人間というものが生まれただけのことでしょうか。



>それとも、偶然発生した人類が単に宇宙のシステムに反してそんな愚かなことをしているだけなのでしょうか。
もしそうなら、人間の存在などは一時的なものに過ぎないということになります。

 私は、全くその通りだと思います。
 生物の生きる目的は、「DNAを継承し続ける事」にあり、単にそれだけです。
 DNA継承戦略のバリエーションとして、細菌とか昆虫とか哺乳類とかが有るのでしょう。
 生きる意味なんて、後付けの理屈ですよね。何か意味が無ければ虚しいので、無理に説明しているのだと思います。
 自ずから種の寿命がある訳で、恐らく、人間と言う種の寿命はとても短いでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。
どこかのTV番組で、おっしゃる同様のことを言っていたことを思い出しました。
そうすると、単に人間はDNAを継承させるためのキャリアですね。

お礼日時:2003/09/10 21:20

私はこの世の中は「シムシティ」なんだと思います。


私たちはシムなんですよ。
んで、誰かがコントローラー握って
楽しんでるんですよー絶対。

だから、戦争や天災も無くならないのでは。

ふざけてないです。いつもそう思っています
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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございます。
そのコントローラ、最近は壊れかけていると思いませんか?

お礼日時:2003/09/10 21:16

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Qなぜ人は存在するのか?

以前の質問等も検索しましたが、当方の求める物ではありませんでしたので、改めて質問させていただきます。
タイトル通り「人は(人類はあるいは地球は)なぜ存在するのか?」人はなぜ生きているのかに関しては、人それぞれの考えや思いがあると思いますが、存在に関してはどうしても納得行きません。哲学的な答えも出てくるのかと思いますが、あくまでも「人はなぜ生きるのか?ではなく人ななぜ存在するのか?」に関してお答えをお願いいたします。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まず 地球ができたということですね。
住む環境がなければ人間は存在できません。
そして、微生物が発生し、魚類などや動物が出てきて、
やがて人間が出てきました。
という感じ?

Qなぜ何もないのではなく、何かがあるのか?

『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』私はこの問いをWikipediaで知りました、この問いの詳細はWikipediaに載っています、まずWikipediaの記述の一部をほぼそのまま引用します。


『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ、
神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される、

なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題である、

別の形では
「なぜ宇宙があるのか?」
「なぜ世界があるのか?」
「なぜ無ではないのか?」
などの形でも問われる。

もの事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて、現れる問いであることから、「究極のなぜの問い」またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる、解答することが著しく困難であることから「存在の謎」と言われる、
哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中で最も根本的な問い、第一の問いであるとしばしば言う。


物理学の領域ではビックバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明も答えにならない、
なぜなら、問いの形が「なぜ何もなかったのではなく、ビックバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。

ビックバンが真空の揺らぎから発生したといった説明もまた同様である、
「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐ真空があったのか」もしくは「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。

同じように何か超越的な存在、例えば神様を持ち出し、それが世界を作ったと説明しても話しは同じである、
「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」こう問いが置き換わるだけである。

こうした例を見てわかるように、この問いは因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしても、もっと過去へ、もっと過去へ、と無限後退が生じるだけでそから答えは得られないだろうと考えられている。

また、こうした時間の始まりの問題を避けるため永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解答はえられない、
「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。

この問いは歴史学や考古学のように過去の歴史を問う問題ではなく、あくまで「なぜ何かがあるのか」を問う問題である、
またしばしば同時に問われる関連した問いに「なぜ世界はこのようになっているのか」という、この世界の在り方の根拠を問う問題とは区別される。


Wikipediaには解答の候補などもいろいろ載っていますが、

上述のように、哲学や科学など、宇宙、世界、自然を観察、観測したり、そこから論理的に思考したりする手段でも、さらに宗教のように神様を全ての原因とする手段でも、解決できそうもないこの「究極の問い」を、一体どうすればいいのでしょうか?

つまり、それ(科学、哲学、宗教)以外に何か他にこの『究極の問い』にアプローチする手段があるのでしょうか?

それはもはや論理や言語や思考を超えて、人間の能力を超えた手段が必要なのでしょうか?

『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』私はこの問いをWikipediaで知りました、この問いの詳細はWikipediaに載っています、まずWikipediaの記述の一部をほぼそのまま引用します。


『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?』は哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ、
神学や宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される、

なぜ「無」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題である、

別の形では
「なぜ宇宙があるのか?」
「なぜ世界があ...続きを読む

Aベストアンサー

何故あるのか、て命題は、理由の存在を前提に
しています。

従って、なぜ理由があるのか、がその問いの前提
にあると思います。

何故、宇宙があるのか。
  ↓
何故、宇宙が存在することに理由があると考えるのか。

てことです。

理由が無くても存在する、てことは充分にあるでしょう。
理由が必要だ、というのなら、なぜ必要なのかを
論証しなければその命題は成り立たないと思います。

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q人間の定義とは?

人間の定義とはなんでしょう?自分なりに考えてみましたが、結局わかりませんでした。皆さんのご意見まってます。

Aベストアンサー

人間から生まれた動物、つまり人間の遺伝子を持つ動物は、遺伝情報が多少異常であっても人間ですよね。

ところで遺伝子の異常や後天的な病気や事故のためにさまざまな障害を持ってしまった人たちがいます。彼らのことをぼくらは当然、「人間」だと考えるわけですが、「人間とは~する動物である」という定義の仕方は、往々にして彼らを排除してしまいがちではないでしょうか?

脳死だったり脳死に近い人は遊べません。腕がつかえなくて火をおこせない人もいるでしょう。足が無ければ二足歩行はできません。道具が使えない人もいるはずです。考えることも、失敗することも許されない人だっているでしょう。でもその人たちも「人間」ですよね。

「人間とは~する動物である」という定義の視点は、平均的な個人の能力を判断の基準にし、しかも人間を一個体として完結した存在だとする人間観があります。それは近代的な人間観で、たとえばデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と説いた自己完結的な人間観です。

ところで日本の哲学者で和辻哲郎という人がいます。彼は、日本語の「人間」という言葉が本来は「じんかん」と読まれ、「よのなか」を意味することを指摘したうえで、その語が今では個体としての「人」をも意味するようになっていることに注目します。そして「人間」という言葉には、ふたつの側面があると考え、「人間が社会であるとともに個人である」という結論を導いています。

では次に和辻の人間は社会であるということを考えてみたいと思います。これはたとえば、事故などのために意識不明に陥り、回復が極めて困難な状況に置かれている人を想像されるとわかりやすいと思います。彼/彼女は病院に収容され、医師から治療を受け、看護士にケアされ、家族や友人に回復の望みを託され、脳死ともなれば医療関係者やマスコミにも注目されるというかたちで、本人の意思とは関係なく、社会的な関係において「人間である」と定義付けられています。彼/彼女の存在はまさに「社会」そのものです。「社会」(=関係、人と人との間)であることによって、彼/彼女は「人間」でもあるわけです。これは極端な話をすれば、僕らは生まれる前から人間だったし、死んだ後もまだ人間であることができるということにもなります。生まれる前の赤ちゃんに声を掛けたり、亡くなった人に弔辞をおくるという行為は、胎児も死者も社会的な存在として認めた上で行う行為なのですから。

次に、和辻が提示した人間のもう一方の面、人間とは個人である、ということを検討しておきましょう。それはつまり人間とは、社会を形成する集団の一般性へとはまったく解消され尽くさない、絶対的な個人であるということです。ここで近代的な人間観を思い出してください。そこでは「人間とは一般的に、こうだ」ということが述べられているのであり、それは非常に抽象的で、個性の欠片もないのっぺりとした存在であることに気付かされます。しかし現実の世界において、だれもが少しづつ欠如した存在であり、どこかしらバランスを欠いています。Aという主張をする人もいれば、反AやBという主張をする人もいるし、Cという行動ができない人もいれば、その行動が得意な人もいる。そこでは、人間を定義するとき、一般的な性質や能力をもってよしとする姿勢は、とても非現実的な営みに堕してしまいます。

さて、人間は一方でひとつの社会であると述べました。またその一方では人間は社会に解消され得ない個人であるとも述べました。ふたつの定義は矛盾しているように聞こえます。しかし社会を成立させるためには個人が社会に解消され尽くさないことが大切なのです。というのも社会とは、個人が個人であることによって成り立っているからです。前に挙げた病院の場面を思い出してください。そこに社会が成立しているとすれば、ひとりの意識不明の患者の抽象的でない個人としての現実的な付き合いがそこに展開されていると考えるべきでしょう。家族との付き合いも、医者が行う治療も、看護士のケアも、会社の同僚や古くからの友人もすべて彼/彼女という一回性の個人に対してはじめて、現在の行動を取ることができ、関係を持つことができたわけです。そこにはまぎれも無く個人を媒介に成立した社会があります。

さて、そのような和辻の所見に照らして、「人間とは~する動物である」というような近代的な人間観を見てみると、人間の包括的な定義としては十分でないどころか、まったく見当違いなことを言っているように思えます。つまり和辻に従えば、人間とは、「社会」であり、「個人」でもあり、必ずそのふたつの側面を有していなければならないということになります。しかし、「人間とは~する動物である」型の定義は、そのどちらも充たしていないように、僕には思えるのです。

人間から生まれた動物、つまり人間の遺伝子を持つ動物は、遺伝情報が多少異常であっても人間ですよね。

ところで遺伝子の異常や後天的な病気や事故のためにさまざまな障害を持ってしまった人たちがいます。彼らのことをぼくらは当然、「人間」だと考えるわけですが、「人間とは~する動物である」という定義の仕方は、往々にして彼らを排除してしまいがちではないでしょうか?

脳死だったり脳死に近い人は遊べません。腕がつかえなくて火をおこせない人もいるでしょう。足が無ければ二足歩行はできません。...続きを読む

Q人間って何のために生きてるんだと思いますか?

人間って何のために生きているんだろうとか考える
事ありますか?食べるため?お金を稼ぐため?
恋をするため、子孫を残すため、遊ぶため、
仕事をするため、より良い人間になるため?
自分磨きをするため?
それぞれ違うのだろうけど。皆さんは
こういう事意識する事ありますか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私の知る限り、その昔、この質問に明確な回答を出したひとがひとりいます。
それがお釈迦様ですね。

人間が何のために生きるのかは、そのひとの価値観によって決まります。
全ての生命にとって「行動の動機」とは「欲求の実現」です。そして、欲求というのは価値観によって産み出されるものです。つまり、何が欲求なのかはその価値観によって決まるわけですね。
我々は、そこに発生した欲求を実現するために行動の選択をします。ですから、当然、その行動選択は価値観に従ったものでなければなりません。従って、人間が何のために生きるのかは、価値観を持った時点で決定してしまうということになります。

価値観には、本能と理性のふたつがあります。
本能の価値観とは、遺伝子にプログラムされた「神経の反応基準」であり、自分の意思で変更することはできません。この価値観に従って食欲や性欲などの欲求が出現しますので、我々はその欲求を満たすための行動を選択しなければなりません。そして、このような価値観は遺伝子の中にプログラムとして組み込まれているものですから、全ての生物にとって、何のために生きるかは生まれる前から決まっていたということになります。
それに対して、理性の価値観というのは生まれる前から決まっていたものではなく、生後の生活環境の影響を受けてあとから作られるものです。こちらは変更が可能で、個人によって違いがあります。このようなものが、そのひとの体験に基づく「個人的価値観」であり、生まれた社会の慣習に従った「文化的価値観」ですね。
このような価値観によって、より豊か生活がしたいとか、有名になりたいとか、世の中の役に立ちたいなどといった、人間には様々な、また複雑な欲求が出現します。そして、我々はそのために生きることになります。
因みに、本能と理性、このふたつの価値観の食違いを、大脳を発達させてしまった人類の苦悩、即ち「悩み」と言います。

さて、ここで問題になるのは、ならば我々は、自分の意思で生きているのではなく、価値観によって生かされているだけではないかということです。
ひとたび価値観を持ったならば、それに対して欲求というものか決定されてしまいますので、我々はその欲求に対する行動しか選択できなくなります。まして、本能の方の価値観は自分の意思では決して変更できません。
もちろん、我々人間は論理的な思考によって複雑な行動の選択をすることができます。ですが、それが如何に論理的であろうとも、ひとたび価値観というものを持ってしまったならば、我々はそれに反する結果を選択するということはできませんよね。つまり、YESかNOかの内、常にYESしか選択できないというのですから、そこに自由意思はないということになります。
このように、人間は価値観に対して選択の自由を持っていません。何のために生きるのかは価値観によって決定されてしまうのですから、このメカニズムがある限り、人生に自分の意思が反映されることはありません。

では、行動選択に自由意思を反映させ、自分の意思で生きるためにはどうしたら良いかということになります。そのためには、価値観の持ち方を変えなければなりません。
我々は、価値観に対する判断をYESからNOに変更することはできません。ならば、価値観の方を自分の意思で変更すれば良いのです。本能の価値観は変更できませんが、理性の価値観は変更が可能です。自分の意思によって価値観を持てるのであれば、それに基く行動選択には自分の意思が反映されているということになります。我々が自分の意思で生きるためには、自分の意思で価値観を持ち替えなければなりません。
ということなのですが、さて、そんなことは当たり前だ、誰だってそうしている。
果たしてそうでしょうか。

個人的価値観というのは、そのひとの体験によって作られるものです。その体験とは、価値観によって選択された行動の結果の積み重ねに他なりません。そして、文化的価値観とは、自分がその社会に生まれ育つことによって、長い間に掏り込まれたものですよね。果たして、そこに自分の意思というものがあったのでしょうか。
人間が何のために生きるのかというならば、ひとつには、より高い価値観を持ち、自分を成長させるためだという考えもあるでしょう。ですが、より高い価値観、この「より高い」という判断基準はいったい何処にあるのでしょうか。それは自分にとってより高い人間なのでしょうか、それとも、その社会で認められている価値観なんでしょうか。
このように、価値観には絶対的な基準というものがありません。我々は自分の意思で価値観を選択しなければなりません。ですが、その選択にはまた基準が必要になります。それが個人的な評価や、その社会の慣習に従うものであるならば、我々は価値観を持つのではなく、持たされているということになってしまいます。
さて、何やら悲観的な話になってしまいましたが、ここで結論を申し上げますと、我々が持つべき価値観とは、より高い価値観ではなく、個人の考に捕らわれたり、周りの動きに惑わされることのない「客観的な価値観」である、ということになります。

この極めて客観的で、人間が持つべき究極の価値観とはいったい何かを論理的に追及したのがお釈迦様でした。
この世の全ての現象に拘らない客観的な価値観を「無我の境地」と言い、その絶対的な価値観を「平等の境地」と言います。このような価値観を持つことによって、初めて客観的な行動の選択というものが可能になります。これを、慈悲の動機に基く行動選択と言います。
先に申し上げましたが、欲求というのは価値観によって決定されるものであり、行動の動機とは、その欲求の実現です。そして、このような客観的な価値観によって産み出される客観的な欲求が「永遠の幸福」です。
価値観が主観的である限り、幸福という欲求はひとそれぞれで変わってしまいます。ひとによって幸福が異なるのであるならば、そこには争いが発生します。争いとは苦しみであり、苦しみがある限り永遠の幸福は実現しません。
永遠の幸福とは、この世の全ての生命にとって平等の欲求でなくてはなりません。そして我々は、その欲求を実現するために生きなければならないわけです。さもなくば、我々は自分の意思で生きているのではなく、主観的な欲求によって生かされているということになってしまいます。因みに仏教では、このような主観的欲求を煩悩と言います。

訳の分からない話を長々と済みませんでした。このようなことは誰でも考えますし、偉いひちたちも昔からたくさん考えていました。人間が何のために生きるかという問題を整理してゆくと、私は概ねこのようになるのではないかと思います。
とはいえ、我々は逆立ちしてもお釈迦様のようにはなれませんよね。価値観によって欲求が生まれ、欲求によって争いが起こるのが世の中です。ならばせめて、より多くの見識を持つことによって自分の価値観を広げ、周りの動きに無闇に惑わされることのない、おおらかな生き方をしたいものだと思います。

こんにちは。
私の知る限り、その昔、この質問に明確な回答を出したひとがひとりいます。
それがお釈迦様ですね。

人間が何のために生きるのかは、そのひとの価値観によって決まります。
全ての生命にとって「行動の動機」とは「欲求の実現」です。そして、欲求というのは価値観によって産み出されるものです。つまり、何が欲求なのかはその価値観によって決まるわけですね。
我々は、そこに発生した欲求を実現するために行動の選択をします。ですから、当然、その行動選択は価値観に従ったものでなければ...続きを読む

Q四次元というのはどんな世界ですか?

そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?
三次元の世界とは縦横高さのある空間の世界だと思います。
これに時間の概念を足せば四次元になるのでしょうか?
我々の世界にも時間があるので、四次元といってもいいのでしょうか?
それとも四次元とは時間とは無関係の世界なのでしょうか?
あるいは時間と空間を自由に行き来できるのが四次元なのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?

4次元であると考えると都合がいいというのが
現段階の結論です。

 100年ほど前、スイスのチューリッヒ工科大学
のミンコフスキー教授が物理学的な4次元の理論というのを
考えました。物理的な計算をするのに、縦、横、高さ
方向以外にもう1つ方向があるとして計算すると
うまく計算できることがあるというもので、
彼の教え子の一人が、4次元時空の理論と
して有名な相対性理論を完成させた、アルバート・
アインシュタインでした。
 彼は、リーマンという数学者が作った、
曲がった空間の幾何学(現在リーマン
幾何学と呼ばれています)を使い、4次元の
空間が歪むという状態と、重力や光の運動を
あわせて説明したんです。これが相対性理論。

>これに時間の概念を足せば四次元になるのでしょうか?

 物理学的にはそうです。

 相対性理論の話に関連付けて説明するとこんな感じです。
例えば、下敷きの板のような平面的なもの(数学的には
これを2次元空間と言ったりします)を曲げると
いう動作を考えてみて下さい。下敷きに絵が書いて
あったとして、曲げながらそれを真上から見て
いると、絵は歪んで見えます。平面的に見て
いても下敷きという2次元空間が歪んでいる
ことが感じ取れます。
 2次元的(縦と横しかない)な存在である下敷きが
歪むには、それ以外の方向(この場合だと高さ方向
ですが)が必要です。

 19世紀に、電気や磁気の研究をしていた学者たちが、
今は小学校でもやる砂鉄の実験(紙の上に砂鉄をばら撒いて
下から磁石をあてると、砂鉄が模様を描くというやつです)
を電磁石でやっていたときに、これは空間の歪みが
原因ではないかと直感したんです。
 電磁石の強さを変えると、砂鉄の模様が変化します。
これを砂鉄が動いたと考えず、砂鉄が存在して
いる空間の歪みが変化したのでは?と考えたんです。

 3次元の空間がもう1つ別な方向に曲がる。
その方向とは時間という方向だということを
証明したのが、相対性理論だったんです。


>あるいは時間と空間を自由に行き来できるのが四次元なのでしょうか?

 4つ目の方向である時間は、存在していても
その方向に、人間が自由には移動する方法は
現在ありません。時間方向を自由に動ける機械と
いうのは、タイムマシーンのことなんですが。

 日常生活を考えてみたとき、縦、横といった
方向は割りと自由に動けます。1時間ちょっと
歩けば4kmくらい楽に移動できますが、
道路の真中で、ここから高さ方向に
4km移動しろと言われたら、人力だけでは
まず無理でしょう。
 飛行機やロケットといった道具が必要と
なります。
 時間方向というのは、このように存在していても
現在のところ自由に移動できない方向なんです。

 例えば、人間がエレベーターの床のような
平面的な世界に生きているとしましょう。

 この場合、高さ方向を時間と考えて下さい。

 エレベーターは勝手に下降しているんです。
この状態が、人間の運動と関係なく、時間が
経過していく仕組みです。

 人間もほんの少し、ジャンプして高さ
方向の移動に変化をつけることができます。

 同様に時間もほんの少しなら変化をつける
ことができます。

 エレベーターの中で、ジャンプすると
ほんの少し下降を遅らせることができる
ように、時間もほんの少し遅らせることは
できるんです。




 

>そもそも我々の住んでいる世界は三次元ですか、四次元ですか?

4次元であると考えると都合がいいというのが
現段階の結論です。

 100年ほど前、スイスのチューリッヒ工科大学
のミンコフスキー教授が物理学的な4次元の理論というのを
考えました。物理的な計算をするのに、縦、横、高さ
方向以外にもう1つ方向があるとして計算すると
うまく計算できることがあるというもので、
彼の教え子の一人が、4次元時空の理論と
して有名な相対性理論を完成させた、アルバート・
アインシュタイン...続きを読む

Q地球に人間が存在する意味はなんだろう?

人間がいることによって、
他の生物がどんどん絶滅に追い込まれ、
自然もどんどん破壊されています。
地球を悪い方向にもっていっているとしか考えられません。

人間は何のために存在するのでしょうか?

Aベストアンサー

人間は地球の自然や資源を食いつぶしています。しかし人間がいなかったとしても他の生物がいつかは資源を食いつぶすでしょう。人間はそれを早めているだけだと思います。
たとえ資源が食いつぶされなかったとしても、地球(やその他の全ての星)にも寿命があります。いつかは生物が住めない状態になり消滅します。
なので地球の資源を消費することは悪いことではありません。ただ、無駄使いをして消費を早めてはもったいないのでやめるべきですが。

人類がどんなにがんばったって地球が永遠に存在するわけではないし、人がどんなにがんばっても100数十年以上生きれるわけではありません。どうせ死ぬのだからその中で快適な暮らしができる程度に自然や資源を消費しても悪いことではないと私は思います。
人間の目的を言い出すと宗教論になってしまいますが、宗教は人間が自分達を正当化するために作り出したもの とも言えると私は思います。
私は、No.1さんと同意見で、人間に目的があるわけではないと思っています。

Q人間の存在理由とは何でしょうか? 何で惑星そして生物が生まれて来たのでしょうか? 神は我々になにを求

人間の存在理由とは何でしょうか?
何で惑星そして生物が生まれて来たのでしょうか?
神は我々になにを求めているのでしょうか?

考えれば考えるほどわかりませんが、不思議たどは思いませんか?

Aベストアンサー

宇宙の存在意義、人生の意味、生きる目的などはありません。
人体の仕組みを調べれば、なんと複雑で精巧にできており、
神の行いだと信じてしまいそうですが、時間をかければなんでも
できます。なんでも起こります。

たとえば、私が富士山を食べることだってできます。
スプーン1杯の土を食べれば、腹をこわすでしょうが
Ⅰ日に耳かき1杯なら平気でしょう。これを何百億年か
続ければ食べきります。
もちろん、永遠の寿命がいりますが。

宇宙も生命も、そうやって時間をかけて作られました。

Qなぜ「どうせ死ぬのに」、頑張って生きるのですか?

20代半ば、会社員です。


最近、あらゆることに対してやる気や情熱が持てなくなってしまいました。
理由は、質問のタイトルにも書いた通り「どうせ死ぬから」というもの。


例えば・・・

自分が勉強して知識を付けても、その内のほとんどは自己満足。

仕事でその知識を使い社会に貢献できたとしても、社会全体から見たらほんの極わずか。

自分が痩せて「嬉しい!やった!」と思っても、ほとんどの他人にとってはどーでもいいこと。ましてや社会にとっては何の意味もありません。

僕本人にしか分からないレベルで小さな変化や成長を自分の中に感じても、他人にとってはどーでもいいこと。

何かの技術に習熟して、他の人ができないことができるようになったとしても、やっぱり社会全体から見たら取るに足らないこと。

僕が何かの資格を取ったりしても、やっぱりそれは地球全体で考えたら本当に些細なこと。


そしてそもそもの話。

どんな風に生きたとて、結局のところ人は死にます。
当たり前の話ですが。

じゃあなんでどうせ死ぬのに頑張って生きるのでしょうか。

しかも、上述したように、何か頑張って成し遂げたとしても、ほとんどが自己満足。
自己満足を超えて社会に幾ばくか貢献できたとしても、その影響は本当に小さい。。。


もしあなたがベートーベンやゴッホなどの世界クラスの才能をお持ちであるならば、その影響は大きいでしょう。
ですが、そんな人は本当に極一握り。

僕を含む、彼ら以外のその他大勢の"凡人"は、結局頑張ってもその努力の跡や功績は後世には伝わらないんです。

じゃあ、頑張っても無駄じゃないですか?


一生懸命、大変な思いをしながら生きるのって、必要なくないですか?


ただでさえ、あなたは日本や世界という基準で見たら、小さい存在で、正直いてもいなくてもいいんですよ。
あなたは後世に残る程の偉人にはならないだろうし、多くの人間に必要とされる人間にもならないでしょう。


その上、悪口を言われたり嫉妬されたり、潰されたり、精神的に辛い思いをさせられたり・・・と、色々な目に遭いながらも一生懸命生きたとして、残念ながら結局は死にます。


じゃあもう、どうせ死ぬなら生きなくてよくないですか?



・・・・っていうようなことを、ここ3ヶ月ぐらい前からずっと考えています。



自分は今20代半ばで、これまで色々とその場その場で頑張って来たつもりです。


高校受験の為に勉強して、部活では一生懸命走って、大学受験をして、そして就職活動をして・・・と、なんやかんや頑張って生きて来ました。


でもここまで生きて来て急に気付いたんですよね。


「俺、どうせ死ぬんじゃん」
「このまま生きてても、どうせ俺は後世に何年も残る偉大なものを作り上げることなどできない。つまり長い歴史で見ると俺の人生なんて何でもないんだ」


ってことを。


これまで本を読んだりして知識を付け、本人しか分からないレベルで成長したこと。
趣味を一生懸命やって、そのスキルを磨いて自己満足を得たこと。
ダイエットして痩せたこと。
何かに感動したこと。
新しい経験をし、新しいことを知って喜びを感じたこと。


これら全て、結局僕以外の人間にとってはどうでもいいことなんだなと。
そして、当たり前ですが、結局死んで無になるんだから全ては無意味なんだなと。


こんなことを最近強く思ってしまうようになったんです。


別に仕事で辛いことがある訳でも、プライベートで絶望的何かがあったとかでもありません。
恋愛で躓いているとか、他人が羨ましくて仕方ないとかでもありません。
特にサボリたいとか、その様な怠慢状態になっている訳でもありません。


単に、

「凡人が生き続けても何も残らないし、自分が何に感動し何に喜びを感じても他の人にはどうでもいいこと。 しかもいつか死ぬ。じゃあ生きてても意味なくね?」

という気持ちが急に湧いて来て、消えないだけです。


巷には

「人間関係を円滑にする方法!」
「コミュニケーションをスムーズにする為の〇〇ステップ!」
「資格試験取得への第一歩!」
「10年先を見据えた生き方をしよう!」


みたいな趣旨を唱う自己啓発本みたいなのが山のようにありますが、こんなのも正直無意味です。

結局あなたに、そして僕待っているのは「死」なんです。



・・・みたいな、「そもそも論」的な部分でしか物事を考えられなくなってしまっただけです。



こんな状態なため、ここ3ヶ月は本を読んで知識を付けようと思っても、

「どうせ俺がこうやって知識を付けて賢くなっても、結局は自己満足だ。 しかも俺より賢い人はゴマンといる。 じゃあやっても意味ないよな・・・」

って考えてしまったり、趣味に没頭しようと思っても、

「どうせ俺がこうやって趣味を楽しんでも、俺よりこの趣味に習熟している人なんて山程いる。。。 じゃあ意味ないんじゃないか・・・」

こんなことを思ってしまい、もう全てに対してやる気が失せ、情熱を燃やすことができないんですよ。



この気持ちが一向に消える気配がないので、思い切って仕事も辞めようかとも思い始めてます。
仕事を辞めて、一切の友人関係を絶ち、部屋に引きこもって餓死するまでずっと横になって生ける屍になろうかと。

冗談ではなく、本気で。


かなり前置きが長くなって申し訳ありませんが、以上を踏まえて質問です。


なぜあなたは「どうせ死ぬのに」生きるんですか?
あなたが幸せになろうが喜びを感じようが他の人にとってはどうでもいいのに、なぜそれらを追い求めて一生懸命生きるのですか?
それと(これはできればで結構です)、どうすれば僕はまた生きることを肯定的に捉えられるようになると思いますか?


これらのあなた自身の明確な意見をお聞きしたいと思います。

(回答する際はお手数ですが、年齢の方も最初に明記して下さい。 その方が回答者様の人生経験などを推測しやすいので)

20代半ば、会社員です。


最近、あらゆることに対してやる気や情熱が持てなくなってしまいました。
理由は、質問のタイトルにも書いた通り「どうせ死ぬから」というもの。


例えば・・・

自分が勉強して知識を付けても、その内のほとんどは自己満足。

仕事でその知識を使い社会に貢献できたとしても、社会全体から見たらほんの極わずか。

自分が痩せて「嬉しい!やった!」と思っても、ほとんどの他人にとってはどーでもいいこと。ましてや社会にとっては何の意味もありません。

僕本人にしか分からないレ...続きを読む

Aベストアンサー

19歳女性です。

生きる意味なんていうのは、私も分かりません。
でも、「なぜどうせ死ぬのに頑張って生きるのか」の答えは何となく分かる気がします。
あくまでも私の考えです。

私は、「どうせ死ぬから」こそ、頑張って生きているのではないか、と思うのです。
もし、いつか死ぬと分かっていなかったら、ここまで生きてこられなかったかもしれない。
「死」という人生のゴールがあるからこそ、そのゴールまでの道のりを全うしたい、と思えます。
さらにいえば、生きる意味が分からないのも当然のことだと思います。
「生きる意味を探す」「生きる意味をつくる」というのも、立派な「生きる原動力」です。

抽象的になってしまい、分かりにくくなってしまいました。
もう少し分かりやすく言うと、私は、いのちの期限が決まっているからこそ、可能な限り、自分に与えられた人生を全うしたいと思うのです。
「生きる意味」というのは、誰かに提示されるものではなく、自分で見つける、さらにいえば、自分でつくるものだと思うからです。
だから、簡単に見つかるものではないのは当然です。
一生をかけて、向き合っていかなければいけない問いなのです。

勉学に励むことも、恋することも、友達と過ごすことも、家族をつくることも、仕事をすることも、全て、無駄なことではないと私は思います。
それらは全て、自分の生きる意味を形成するための重要な材料になるからです。

19歳女性です。

生きる意味なんていうのは、私も分かりません。
でも、「なぜどうせ死ぬのに頑張って生きるのか」の答えは何となく分かる気がします。
あくまでも私の考えです。

私は、「どうせ死ぬから」こそ、頑張って生きているのではないか、と思うのです。
もし、いつか死ぬと分かっていなかったら、ここまで生きてこられなかったかもしれない。
「死」という人生のゴールがあるからこそ、そのゴールまでの道のりを全うしたい、と思えます。
さらにいえば、生きる意味が分からないのも当然のこと...続きを読む

Qこの世は人間が認識するまでは存在しない

《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認

したそうです。
http://oka-jp.seesaa.net/article/420222661.html
画像には複雑そうな機器が見えますが、人間、あるいは認識が、この実験にどのように関わっていたのかご存知の方おられましたら、お願いします。
どんな実験だったのか?
興味が尽きません。

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
量子力学における観測問題については、どこまでが、観測装置としての系に入るかは、物理学者の間でも、かなり議論されている内容でしょう。
実験結果としては、最後の選択(と思われる行為)が、波動関数の収束をおこしていると言う事は確かなわけですが、どこまでが、観測装置なのかと言われれば、確かに難しい問題です。
結果を見た、観測者まで含めれば、観測者が結果を見るまで、波動関数の収束は起きていないと言う事も言えなくはないです。
ただし、記録装置の記録内容自体が、観測者が見るまで不確定と言うのも、おかしいような気がしますよね?
ただし、記録内容は、観測者が見るまで、誰も見ていないわけです。
そういう意味では、それが、確定した記録と信ずる証拠も無い事になります。
もちろん、マクロの範囲ではそういう事はありませんし、一般的に記録媒体の記録が、見るまで不確定と考える人もいません。
量子力学が、「因果性」、「局在性」、「実在性」に対して、確率的な法則しか与えられない以上、理論が述べられるのは、そのような事でしか無いと言う事です。
今、仮に、観測者自身も、量子力学の範囲の観測系として、その不確定性の影響を受けるとすると、観測者自身も一定の確率で、その収束結果を見る存在として、存在すると考える事も可能になります。
そうならば、未来にAと言う結果と、Bと言う結果を見る観測者は、観測するまでに、同等の確率で存在しえた事になります。
そう考えれば、観測の直前までは、観測者自身も未来の可能性において、確率的存在だと言える事になります。
もちろん、その事によって、観測者自身が変わるわけではなく、その未来の可能性が不確定なだけです。
これが、いわゆる量子力学の「多世界解釈」という解釈の方法です。
多世界と言う言葉は、同時に複数の世界があると言う意味ではありません。
未来の分岐可能な世界が複数存在すると言う意味であり、SFなどのパラレルワールドと言う意味では無い事に注意してください。
観測者は、量子力学の実験において、波動関数が示す確率によって、違う観測結果を見る可能性を持つ存在として、観測前は存在していると言う事です。
そして、観測によって、ある観測結果を見る存在として、収束すると言う事です。
これは、ある可能性が捨て去られたと言う事ですから、ある意味、観測者自身も、その結果の影響を受けていると言えなくもないです。
ただ、これは、実験がある確率で測定結果を与える不確定性を持っていると言う事だけであり、未来は不確定と言うのは、ある意味、当たり前の事です。
表れない未来として、違う観測結果の未来は存在しえたが、観測によってそれが収束したと言う事は、観測するまで、未来が確定しない事は言えますが、人間が観測するまで、物理的存在が、存在しないと言う事まで言及しているとは言えないと思います。

お礼ありがとうございます。
量子力学における観測問題については、どこまでが、観測装置としての系に入るかは、物理学者の間でも、かなり議論されている内容でしょう。
実験結果としては、最後の選択(と思われる行為)が、波動関数の収束をおこしていると言う事は確かなわけですが、どこまでが、観測装置なのかと言われれば、確かに難しい問題です。
結果を見た、観測者まで含めれば、観測者が結果を見るまで、波動関数の収束は起きていないと言う事も言えなくはないです。
ただし、記録装置の記録内容自体が、...続きを読む


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