( a ) 《第二の死》とは 《第一の死が死ななくなった状態》を言うとします。
( b ) 第一の死を死なせて復活するのをみづからこばみ 第二の死の状態にみづからすすんで突っ込むうごき これを《アッキ(悪鬼)》と呼びます。
( c ) アクマ(悪魔)とは アッキたちを従えて 人びとを第二の死の状態へ是が非でもいざなうその作用を言います。
☆ この質問は
【Q:《第二の死》とは?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6530755.html
を承けています。また次の質問ともつながります。
【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html
趣旨説明を再び掲げて 表題つまり上の( c )の命題について問い求めるという魂胆です。
○ 〔( a ・ b ・ c )についての説明〕 ~~~~
死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。
わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。
これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。
このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的にして限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われに還るとき 死なしめられる。
つまり この《第一の死》は 死ぬことが出来る。
《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。
あやまちをなぜ《第一の死》と言うか?
それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が経験存在であるそのままに実際に区切られて来るからである。うつろいゆくわが身ながらも物ごころのつく前には広大な宇宙が広がっていたのが あやまちの瞬間にふと《とき》を見出しこの時間によってわが存在の歴史が区切られるということは 死によってその世界が限られることだからである。
あやまちは 心を失くしわれ無しとなる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。
われわれは 人生において 第一の死に時には突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。
ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?
かんたんである。われに還ることがなくなるときである。
あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。
われ有りの状態に復帰することがなくなるときである。
心にさからうわれ無しの状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。
そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。
第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。
基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。のではないか?
ほんとうにそうか?
それだけで 第二の死が起こるものか?
果たして 第二の死は あるのか?
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ さてここでの問いは
( b ):この第二の死を三度の飯よりも好きだというアッキなる心の負の作用 そして
( c ):この《第二の死》の舞踏を人びとをしてみづからの演出のもとに踊らしめるアクマという心(?)の負の作用――これらは あるか? あるとすれば いかにあるか?
であり しかも
( d ) アッキにしろアクマにしろ この《うごき》や《はたらき》を人間がみづからそっくりその身と心に修め得て ドクター・アクマとしてのごとく町を歩いているか? そう言えるか? それは果たして現実か?
です。次は たたき台としての考えです:
( d-1 ) おそらく アッキは 人間の心ないし意志によってみづからのもの(ウゴキ)とし得ると思われます。破れかぶれに成り得ますから。
( d-2 ) アクマは どうか?
( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせるというハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか?
こういう問いです。
先に掲げた質問【Q:麦と毒麦・・・】でのやり取りとも 照らし合わせてくださるとありがたいです。
( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか?
みなさんの思惟の自由なつばさを広げてご見解を述べてください。
No.21
- 回答日時:
#19のお礼を拝見する前に20を投稿していました。
以下は#19のお礼に対する返答です。
> すでにやり取りを済ませているように 生まれ育った家庭や環境 そしてその人自身の感受性だとかの交通形式などなどいろんな要因がかかわっているとは考えます。とうぜんですね。しかも 決定因は それらに非ず みづからの意志だと断じます。
:
なぜ「それらに非ず」という結論が導かれているのでしょうか。
その根拠は?
あやふやにしか思えないので、「要因がかかわっている」とおっしゃるのはおそらく口先だけではないでしょうかね。
私はむしろ、決定的要因として「有る」と思います。
最終的なボタンを押すのはむろん自らの意志でしょう。
その意味での責任は大いに、というか、それこそ決定的にあります。
責任を取るのは当然の理屈です。
しかし、その理由が、そのような悪魔であるから、という理由だけであるなら、先の展望はどう見えてきますか?
>淡い論拠としては いかなる境遇にあろうとアクマのハタラキを身につけようと思えば その人はそうするのだ。こう推し測るからです。
:
彼(彼女は)なぜ、
「アクマのハタラキを身につけよう」
と思う(思った)のでしょうか?
そのような衝動に駆り立てた要因は何だったのでしょう。
どう思われますか?
彼(彼女)が、そういった資質を持っていたからだ、ということではないですよね。
つづいてです。
★ ~~~~~~~~~~~
☆☆ 生まれ育った家庭や環境 そしてその人自身の感受性だとかの交通形式などなどいろんな要因がかかわっているとは考えます。とうぜんですね。・・・
★ 「要因がかかわっている」とおっしゃるのはおそらく口先だけではないでしょうかね。
~~~~~~~~~~~~~
☆ そうですね。《かかわっている》というのは 生まれや育ちあるいは家の周りの環境さらには学校など こういった要因を すべて自分の武器にするということになるでしょうか? その意志によるアクマ成りの瞬間をはさんで――その前にもとうぜんかかわっていたわけですが これを――そのあとには何もかもを無駄なく利用するようになるということだと見ます。
★ ~~~~~~~
☆☆ しかも 決定因は それら(環境要因)に非ず みづからの意志だと断じます。
:
なぜ「それらに非ず」という結論が導かれているのでしょうか。
その根拠は?
~~~~~~~~~~
☆ おそらく いま上でも間接的に触れ得たとも思うのですが 社会環境や世の中というもの・あるいはこの人間としての自分というもの これらをさとりの一瞬には超えたのだと考えます。
たとえば 人生八十年とします。子どものときかあるいは遅くとも二十歳前後のときでしょうか この八十年なら八十年を全部見とおしたのでしょうね。つぶさにということではなく これだけ生きてそして死ぬという見通しです。そのあと 人生において何をやるにしても その見通してしまった果ての果てにつなげて見てしまう。早い話が どうせ死ぬのだ。という見方になるのではないでしょうか?
自分自身の思想として虚無主義であると言うよりは 自分自身の内なるものごとはどうでもよくて そうではなく 人生の《果て》ということ・あるいは老いぼれ果てた骸というもの これを何事にも覆いかぶせて見る。人にもそう見るようにさせる。いえ そう見ない者はゆるさない。というキャラクターが一瞬のうちに出来上がるのではないでしょうか。
そうだとすれば 生まれ育った家や環境は それらが自分をつくる要因であるとは見ていない。自分は自分で自分をつくるのだ すでに出来上がったのだとさとった瞬間 それまでの環境要因の積み重ねをすべてその誕生した自分の行く末のために大いに活用する。何から何まで無駄なく用いる。その腕は天才肌なのだと思います。
★ 私はむしろ、決定的要因として「有る」と思います。
☆ ですからそれは アッキの場合ですね。そしてそれをアクマは超えていると見ざるを得ないと思うのですが。・・・
★ 最終的なボタンを押すのはむろん自らの意志でしょう。
☆ つまり環境要因を決定的なものとするみづからの意志決定 これを・ここまでを アッキも経験すると考えます。そしてそういう場合なら 一般にわれわれはかれらに寄り添って その過去の経歴について話を聞いてあげる。という政策はわたくしも有効だと考えます。アクマには お呼びでないと思います。
人生の終わりを瞬間的にさとった。これが強烈な事件となったのでしょう。という意味は 周りにもし人生を有意義に送ろうという話をする者がいたり 青春を勉強と恋愛のうちに謳歌しようと言う者がいたり ましてや 人間の愛は永遠であると言う者がいたりしたら 絶対的に承知しないのだと推し測られます。アクマはです。すべてこれらのバラ色発言は 妄想であるとみんなに分からせたくて仕方がなくなるのでしょう。片っ端からけちをつけ そのバラ色を消してまわるという行動に出る。
これは しかしながら きわめてアッキに近い姿として・つまりはアクマにしては極めて稚拙な姿として想い描いたものです。おそらくもっと辛辣に一刀両断のもとに それらの発言を斬って捨てるだろうと見るべきなのでしょう。
そうしてアクマは 《みづからの存在じたいの 死の増殖》または 《死の増殖を人びとがその内面に思い描いたり実際に生じさせたりすること》 これらを主食として生きて行くのだと考えます。
アッキは もしそういうアクマのことを少しでも知ったら そんなことでよいのだろうかと心のどこかに思うことがある。そういうキャラクターであり アクマとは一線を画している。こう考えます。どうでしょう?
No.20
- 回答日時:
#19です。
>人をあざむくことしか生きる意味がないと思っているのでしょう。
:
だとすれば、これすら、これこそ、その人間のキャパシティの問題ではないでしょうか。
容量が不足している、といって責めるのでしょうか。
溢れさせて制御できなくなっている者に対してそう責めたとして、何がそこから生まれるんでしょうかね・・・。
まだ溢れない余地があるのだから、その範囲で大いに攪拌し、その濁ったキャパを拡張しようじゃないか、そのために喧嘩しようじゃないか、堂々と、というならわかるのです。
そのへんを見極めようというゆとり(行き過ぎると鼻持ちならない傲慢になってはしまいますが)は必要になってくるんじゃないでしょうか。
そのキャパに留まらざるを得なかった、その人間の不幸、というか、やるせなさといったようなものを(喧嘩の言葉の中に散らばせつつ、あるいは無言のうちに)一緒に嘆いてやり、せめては一般論的な解決方法を模索する方向で推し進めることによって、悪魔は安堵の寝息を立てることができるようになるのでしょう。
(人の構成要素のひとつであることは明らかですから、つまり、自分の一部でもあるわけで)殲滅するわけにはいきませんから、この方法しかないと思われます。
この意味でも、救う者は救われる者である、あるいは同義である、ということを言ってみたいですね。
謙虚なヒドッチさんあたりからすれば不遜な物言いに感じられるかもしれませんが、そのへんはよろしくおとりなしください。
単に表現の未熟さゆえでして、ブラジュさんに対しても他意は一切ございません。
ご回答をありがとうございます。
ええっとですね。
単純に別の見方を出すのですが アクマは 救済などは求めていませんよ。さとり切っています。自分の生き方が最高であり 自分は最高のキャパシティを持っていると自負しているはずです。
その上で こちらがゆとりを持って それでもなお《すくい》の手を伸べるというのでしたら 分かるような気もしますが。
★ そのキャパに留まらざるを得なかった、その人間の不幸、というか、やるせなさといったようなものを(喧嘩の言葉の中に散らばせつつ、あるいは無言のうちに)一緒に嘆いてやり、せめては一般論的な解決方法を模索する方向で推し進めることによって、悪魔は安堵の寝息を立てることができるようになるのでしょう。
☆ この同情は アクマは一笑に付すと思います。残念ながら 根拠は わたくしの経験から言うのみですが。
転んでもただでは起きないというキャラクターです。凹むということは そう見せかけたほうがよいだろうと判断したときでなければありません。徹底しています。弱いとか自分が負けるとか そういう言葉はあり得ません。
【Q:ぱっくす・やぽにかは お気に召しますか?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6554698.html
そのNo.8は参考になりましょう。
★ (人の構成要素のひとつであることは明らかですから、つまり、自分の一部でもあるわけで)殲滅するわけにはいきませんから、この方法しかないと思われます。
☆ 殲滅しようとは考えていません。救おうとも考えていません。
その《第二の死》へといざなうハタラキが 言わば不発に終わること そういう情況をつくりあげることが 当面の具体的な目標ではないでしょうか?
ぎゃくに言えば 世界がそういう情況でしかなくなって来たら アクマは商売があがったりですから あぁおもしろくない もうこの稼業もやーめたということにならないとも限らない。そういうかたちで アクマ役の人間もすくわれるでしょう。
何度でも言います。アクマは 特殊です。はこぶるさんは アッキ対策を述べておられる わたしにはこう思えるのです。
まだなお根拠は弱いですから このように問い求めをつづけている。という状態です。
No.19
- 回答日時:
#18です。
思い切り論点を絞ります。
>アクマは ふつうの人間にはその作用を身に帯びてはたらかせることは出来ないという結論にもなります。きわめて特殊だとわたしは受け取っています。
:
全く異論はありません。
その次の段階が問題なのだろ思われます。つまり、
なぜ特殊なのか、という理由を知ろうとはなさらないのでしょうか。
あるいは、特殊であることが、
>その人の意志あるいは心の問題になります。
:
とおっしゃる場合、特殊である理由として、個々の意志なり心の問題(それのみ、あるいは、殆んどの要素として、それ)に帰結せしめるのが妥当だとおっしゃっておられるのでしょうか。
つまり、極めて妥当な生育環境(とは何か、についてはさておきます。とりあえず完璧なる極めて妥当な生育環境を想定なさってください)において育った赤子ですら、自らの意志と心の命ずるところにより悪魔になる場合があるのだ。
こうおっしゃっておられますか?
まず、イエスノーからのご回答を期待いたします。
イエスです。まったく条件を何らつけずに そのとおりです。
★ ~~~~~~~~~
極めて妥当な生育環境(とは何か、についてはさておきます。とりあえず完璧なる極めて妥当な生育環境を想定なさってください)において育った赤子ですら、自らの意志と心の命ずるところにより悪魔になる場合があるのだ。
こうおっしゃっておられますか?
~~~~~~~~~~~~
はこぶるさん ご回答をありがとうございます。
すでにやり取りを済ませているように 生まれ育った家庭や環境 そしてその人自身の感受性だとかの交通形式などなどいろんな要因がかかわっているとは考えます。とうぜんですね。しかも 決定因は それらに非ず みづからの意志だと断じます。
淡い論拠としては いかなる境遇にあろうとアクマのハタラキを身につけようと思えば その人はそうするのだ。こう推し測るからです。つまりそうするのを妨げるものは 境遇の中にはいっさいないと見るからです。
前回こう言いました。
☆☆ (No.18お礼欄) ~~~~~~~
《自分の問題》は その決心がにぶったり破られたりすることを含めて《人をあざむくためにウソをつくことはしない》という誓いの問題がまづあり これを暗黙のうちにでもおこなった人間たちにとっては もうアクマの問題はないと言うべきだと考えます。
それは ほかの人間でみづからアクマの力を身にまとおうとする場合を 言ってみればすでに弾劾しているからです。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 別の論拠を示します。
つまり 一たん《あざむきを含む偽りとしてのウソはつかない》と決めた人間は どこかで間違えてもし仮りにアクマの力を身につけようとした場合 まづ失敗すると思われるからです。無理だと思います。
なぜならその人は いろんなことを顧みるからです。自分のこと・その過去の誓いのこと 周りの人たちのこと ウソとはどういうことなのかなどなどを心に返り見るからです。
ぎゃくに言えば アクマ志願者は そんなことは一切ありません。おそらく相手に自分のいい姿を見せようとして たとえば自省する自分を示すことはあるでしょうが それはすべて《見てくれ》の問題です。すべてが 言わばかけ引きにおいてその発言も振る舞いも表わされて来るのだと見ます。自己表現の以前に すべての思惟は 相手をあざむくためにどういう自分の姿を見せようかということにかかっています。
心の内面などないのではないでしょうか? それは 人が何を思い何を考え何をしようとしているのか これを推し測り 自分のしたいように話を持って行こうとして 発言の内容を決めるだろうからです。そういう内面があるのみです。
その意味でアクマは いわゆる《政治的人間》とも言えそうです。四六時中 その場その場の相手に対して どういう仕掛けにおいてつき合おうかと考えているのだと思われます。
このような特殊なアクマ志願者は おそらく志願したときにそのハタラキを身につけるのだと推し測られます。マンガで魔法の杖を振りかざすそのとおりのように 一瞬においてではないでしょうか。三度の飯よりも 人をあざむくことが好きなのでしょう。
No.18
- 回答日時:
#17です。
> でもまづは そのハタラキの中身をしっかりと把握しなければならなかった
:
この「ハタラキ」という言葉を素直に解釈すれば、そう難しくはないと思うのですけどね。
ブラジュさんの今までの御見解を伺っていると、人間のように見える悪魔が、人間とは別個に存在している、という前提で論を進められているように見えたので、その前提自体が間違っているのではないか、としつこくお伝えしてきたつもりでした。
まあ、このへんは私の理解能力の問題だったのかもしれません。
「悪鬼などという生易しい悪ではない悪魔としての要素を身に纏ってしまう場合が人間にはある」
ということでよろしいんでしょうか。
あくまで「要素」であり「ハタラキ」ですよね。
そうすると、全くこの要素を持たない人間はいない、ということになりますから、この視点ではじめて自分の問題に引きつけて考えることができるようになると思うわけです。
>しっかりと把握
:
するためには必須の条件だろうと思いますし、その意味では、
>そりゃあ そんなアクマのハタラキからは自由でいたい という目的は初めからある
:
とおっしゃる点に、まだいささかの姿勢に対する疑念(つまり、私には全くその要素は無いという視点ではおそらく「>しっかりと把握」することはできないのではないか、という疑念です)が残りそうですが、それはそれとしましょう。
前回、「あげつらう」と述べたのは、「本質的論点を逸れる」というほどの意味です。
いずれにしても「悪魔(という要素)はどのように醸成され得るのか」ということを明らかにすることによって、一定の納得が訪れるのではないでしょうか。
その意味で、この方向性を外さないことが大事ではないかと考えます。
また、個別の事例に関しては、夫婦喧嘩は何とかも喰わないそうですし、また、すねてみたり、やっかみやら嫉妬やらが渦巻いている場合も多く、何よりも詳細不明ということもあり、私の出る幕ではないでしょうからコメントは差し控えます。
客観的見解が必ずしも解決の一助にならない場合が多いということになりそうです。
あえて、ひとことふたこと感想を述べるとすれば、適当に聞き流すということを厭う正義感が根底にあるのだろうという気がしますけどね。
その意味では揶揄の要素ゼロで申し上げますがご立派だと思います。
ただ、かのパスカルの言葉にもありますが、「力無き正義は弾劾される」ようです。
この場合の「力」とは、全く私的解釈ですが、柔軟性ではないかという気がします。
論理性という一面は重要ですが、一方、感情・感覚という面がむしろ人間の本質でもあるでしょう。
この側面に対する、なんというか、ある意味でのいい加減さ、あるいは赦し、といった要素が伴なわないと、豪剣なれども折れやすい、と見なされ、それがつまり、「力無き」という印象を与えてしまう可能性はあるような気がします。
どうも、今回は感想に終始してしまったようですが、このへんが私の限界かもしれませんね。
気が向きましたらまたいつかお邪魔します。
はこぶるさん ご回答をありがとうございます。
あたま一つ抜き出ているという特徴 これをよく噛みしめることが大事だと思います。むろんアクマというハタラキをわれわれ人間が捉える場合にです。
ぎゃくに言えば なぜそうなのか? アクマは ふつうの人間にはその作用を身に帯びてはたらかせることは出来ないという結論にもなります。きわめて特殊だとわたしは受け取っています。
アクマが人間存在そのものだという見方がしりぞけられたなら そのハタラキについてむしろ人間なら誰でも持ち得ると見るのも ひとつの見方です。
そうおっしゃっているわけですが これについては おそらく潜在性(潜在能力)としてなら同調します。ですが これについては 別の潜在性もありうると考えています。
それは 《おのれについてもほかの人についても 人をあざむくためにウソをつくことはで出来ない》という能力 これによって《わたしはアクマの要素をこのわが身には表わすことはない》と宣言する場合です。生涯のあいだにその宣言したことが どうころぶか それは分かったことではありません。その上で宣言しそうつとめるという生き方があると言えると考えます。
そうしますと 微妙に対処策を含めたアクマ論は 違って来るとも見ます。
★ 「悪鬼などという生易しい悪ではない悪魔としての要素を身に纏ってしまう場合が人間にはある」
ということでよろしいんでしょうか。
☆ 《身にまとってしまう》のではなく 《みづからすすんで 好き好んで アクマのハタラキをわが身にまとおうとして纏う人間が 時として 現われるようだ》になります。
その人の意志あるいは心の問題になります。
★ そうすると、全くこの要素を持たない人間はいない、ということになりますから、この視点ではじめて自分の問題に引きつけて考えることができるようになると思うわけです。
☆ 《自分の問題》は その決心がにぶったり破られたりすることを含めて《人をあざむくためにウソをつくことはしない》という誓いの問題がまづあり これを暗黙のうちにでもおこなった人間たちにとっては もうアクマの問題はないと言うべきだと考えます。それは ほかの人間でみづからアクマの力を身にまとおうとする場合を 言ってみればすでに弾劾しているからです。
つまりは 人間はこのようにアクマのハタラキから自由であることを自然本性において持ち得ていると見ることにもなります。影響は受けるが それによって左右されることはないのだという本性(人間の自然力)です。
ぎゃくに言えば アッキにまでは成り得るということだと思います。
そうして 特殊に幾人かは アクマの作用をすすんで身につける。――こういう構図になるかと考えます。
ですから 見方が微妙に違って来ます。
★ いずれにしても「悪魔(という要素)はどのように醸成され得るのか」ということを明らかにすることによって、一定の納得が訪れるのではないでしょうか。
☆ アッキになることへと誘うハタラキは醸成され得るのですが アクマになることへと環境が――決定的な原因として――醸成されることはない。こう見ます。自分からアクマの力を身につけるのだからです。特殊だと見ます。
★ 適当に聞き流すということを厭う正義感が根底にあるのだろうという気がしますけどね。
★ ただ、かのパスカルの言葉にもありますが、「力無き正義は弾劾される」ようです。 / この場合の「力」とは、全く私的解釈ですが、柔軟性ではないかという気がします。
★ 論理性という一面は重要ですが、一方、感情・感覚という面がむしろ人間の本質でもあるでしょう。 / この側面に対する、なんというか、ある意味でのいい加減さ、あるいは赦し、といった要素が伴なわないと、豪剣なれども折れやすい、と見なされ、それがつまり、「力無き」という印象を与えてしまう可能性はあるような気がします。
☆ ですから これらの方法は 飽くまでアッキ対策だという見方をわたしはしているわけです。アクマに対しては 効かない。もしくは効くか効かないかまったく分からない。そういう働き方をするのがアクマなのだと。特殊なのです。
★ ブラジュさんの今までの御見解を伺っていると、人間のように見える悪魔が、人間とは別個に存在している、という前提で論を進められているように見えたので、その前提自体が間違っているのではないか、としつこくお伝えしてきたつもりでした。
☆ そのように特殊ではないと分かれば 世界は違って来るものと思います。
《間違ったとき間違いましたと言わない・言えない》のは そもそもの兆しとしてですが 特殊ですよ。金輪際言わない場合があります。人をあざむくことしか生きる意味がないと思っているのでしょう。
No.17
- 回答日時:
#16です。
少し追加します。
>ただ相手が困惑しその状態をつづけていけばよい。そして自死という結果に到っても構わない。
こういうハタラキをアクマと呼ぶと言いたいです。
:
これは、端的でわかりやすい、明解ではないでしょうか。
ほとんど異論はありません。
「こういう人間」ではなく、「こういうハタラキ」ですよね。
ですから、なぜ「こういう人間」がいるのだろうかではなく、なぜ「こういうハタラキ」が人間の内面で兆すのだろうか、ということを論点にするしかないと思うのですが。
そういったスタンス、つまり、彼に起こり得るなら我にも起こり得ると考えないと手元に引き寄せることができませんから、本質を逸れるような気がします。
その「ハタラキの質」をあげつらっても解決の道が見出せるとは思えません。
この回答への補足
お礼欄のあと書いています。
☆☆(お礼欄のしめくくり) ~~~~
それは――つまり彼我の差のない・この世の中における必然性の世界から頭一つ分だけ突き抜けたアクマというハタラキを想定したいというのは―― 悪を奨励するかそれとも死へといざなうかで分かれるのではないか。ここにあります。
悪へと人をみちびく――つまり悪に手を染めさせる・その悪行を日常茶飯事とするようになる――こととは アクマは別だと見たい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ で
★★(回答No.16) 「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」
☆ そりゃあ そんなアクマのハタラキからは自由でいたい という目的は初めからあるでしょう。
でもまづは そのハタラキの中身をしっかりと把握しなければならなかった。事例としても理論としてもしっかりと把握し そこで明らかにした認識をわれわれが共有し活用すること これになると思います。
それ以上のことは 何も出来ないのではないですか?
ですから アッキはいやと言うほどテレビの報道やらドラマで出て来ますが アクマは もしアッキとは別だとしたら ちょっとやそっとでは取り上げられないと思われます。
小説や映画で たとえば悪女ものが わづかにアクマのハタラキといった主題に当たっているでしょうか。 少ないですよね。
じつは 前回例として出した《男と女》の話は わたしの経験に呼応しています。それで今回も そういう理論と絡めて捉えようとしたわけですから。
けれども この事例研究と理論認識と言っても 具体的な事例が少ないのであれば なかなか問い求めはすすみません。ということになるかも知れないですね。
取り敢えず ここまでをお応えとしたいと思います。
ご回答をありがとうございます。
こちらでお応えしてまいります。
ですから 質問を挙げた心つもりは ひとえに《悪魔は人間存在そのものでありうるか? もしくは 人間はそのハタラキとしてのアクマを言わば部分的にあたかも担うことになっているのか?》を突き詰めたい。でした。
ここのところ どうも存在がまるごと悪魔である人間は 考えられないのではないかという見方に落ち着きつつあります。
★ ~~~~~~~~~
これは、端的でわかりやすい、明解ではないでしょうか。
ほとんど異論はありません。
「こういう人間」ではなく、「こういうハタラキ」ですよね。
~~~~~~~~~~~
☆ ここまですすめていただくなら 確かにこれからどうするかになります。すなわち:
★★(回答No.16) ~~~
「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」と言い換えてもいいでしょう。
それに対して、「そうしたとすれば、こうなるから云々」という帰納的アプローチのほうが速やかにことは運ぶのではないでしょうか。
この問題に関しては。
~~~~~~~~~~~~~
☆ いえ ですからいままでは その正体を突き止めることが先だったわけです。極論としてでも一度《悪魔=人間存在》説を吟味しておきたかった。それだけの衝撃を受けていたと思っていただいてよいと思います。
そのおさらいを 面倒でもしておきます。
○ いちどそういう声のかけ方をするのなら――それは《何々であるなら 寂しいことですね》というような言い回しを繰り返すかたちでしたが そういう話しかけ方をするのなら―― もう返答する気は失せた。どうぞお引き取りくださいと応えたわけです。
○ なるほどその応答の仕方は納得できると言って――あっけないことに―― 引き取ったかたちになった。
○ 少しあって なおほかの人とのやり取りが続いていたので それに加わるかたちでまたやって来た。同じことの繰り返しとなる。
○ そのあと別の質問へ移りました。そして 《あなたは論理表現があいまいであり それは――あなたがそうであるかどうかは言いませんが――〈自己乖離〉の障害があることを疑ってみてその吟味をとおして明らかにすべきだ》と前置きして回答を寄せて来た。
○ こちらは《のっけから人に対して論理が成っていないやら精神障害が疑われるやらと言うものではない。いったいどういう料簡をしているのか》となじって答えを書いたら 別の人間(すなわち家来であるアッキなのですが)が 昔からやり取りをしているのだから《のっけから》というわけがないではないかと言って来ました。
○ それはそれだけだとして構わないとしますが 今度は意外とそしてやっと紛糾がおさまったのでした。《初めからわたしはあなたの見解に反対をしていませんよ》という締めくくりでした。
○ あと味がわるいのですが 一件落着でした。
☆ 何となく《あいまい路線》を続けているとも見られるのですが おさらいはここまでとします。
★ その「ハタラキの質」をあげつらっても解決の道が見出せるとは思えません。
☆ これははこぶるさんにしては 舌足らずではないでしょうか? 《あげつらう》部分もあるかも知れませんが まづは正体を捉えなくてはなりません。
★ ですから、なぜ「こういう人間」がいるのだろうかではなく、なぜ「こういうハタラキ」が人間の内面で兆すのだろうか、ということを論点にするしかないと思うのですが。
☆ これは ともかく《悪魔》という概念が想定されている系譜がありますので それに照らし合わせたいというところから出発しています。その概念と具体的な人間のあり方(思惟および行動)との照らし合わせです。
それで 人間としては飽くまで《ハタラキ》という見方に落ち着くのがよい。こうなりつつあるわけです。
★ そういったスタンス、つまり、彼に起こり得るなら我にも起こり得ると考えないと手元に引き寄せることができませんから、本質を逸れるような気がします。
☆ これに――しかしながらなお―― 一歩先を見据えたいとは思います。高校生番長から暴力団のボスへという事例は 《彼我の差》はおっしゃるように あまりないですよね。その先もう一歩延びる事例 それを アクマのハタラキと見たい。そういう欲望がわたしにはありますね。
それは――つまり彼我の差のない・この世の中における必然性の世界から頭一つ分だけ突き抜けたアクマというハタラキを想定したいというのは―― 悪を奨励するかそれとも死へといざなうかで分かれるのではないか。ここにあります。
悪へと人をみちびく――つまり悪に手を染めさせる・その悪行を日常茶飯事とするようになる――こととは アクマは別だと見たい。
No.16
- 回答日時:
#15です。
>No.2の回答などは ぼろくそに言って来ていますし その《回答を評価する》が 10ポイントにまでなっています。
:
いや、大笑いしましたよ。^^;
気づきませんでした。
わかりやすい回答で、且つ喧嘩腰、というのが野次馬根性を刺激するにはもってこいですから、その当たりの条件は備えていますね。
ブラジュさんの質問内容が難解すぎることが、あるいは拘りすぎる点でしょうか、それが一層拍車を掛けたような気もしますが、いかにも現実社会にありそうな、なかなか微笑ましい現象です。
さて、本題ですが、おっしゃっていることが一貫しておられることはわかります。
ただ、繰り返しになりますが、
>それを質問しているのだ、というお答えはまさかないと思いますが、であれば、どうだとおっしゃっているのでしょうか。
:
この点を伺わないと、埒が開かない、という局面にもう差し掛かっているのではないでしょうか。
悪魔の吊るし上げをして満足しようというのでなければ、です。
「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」と言い換えてもいいでしょう。
それに対して、「そうしたとすれば、こうなるから云々」という帰納的アプローチのほうが速やかにことは運ぶのではないでしょうか。
この問題に関しては。
そうしないと質問の呈をなさない、そんな気がします。
ご回答をありがとうございます。
No.17のお礼欄および補足欄のあと書きこみます。
ハタラキとしてのアクマの事例として思い浮かぶのは 多くありません。
○ 遠藤周作:『悪霊』
その女主人公ですが 題名からしてアクマが主題です。
○ アレクサンドル・デュマ・ペール:『三銃士』
に出て来る《ミレディ》という女策士
○ ヒッチコックの映画で《悪女》を扱ったもの。
たしか短いもので三十分ものだったような。
テレビ放映で見た記憶があります。
☆ いやぁ 少ないですね。いづれも女であるとは いやはやですね。
そうかんたんに取り上げあつかうというわけには行かないようでもあります。
No.15
- 回答日時:
ブラジュさんの質問をご覧になっている方の中には、私と同様に、面白そうだが、難しそうで下手に回答などしたら恥をかいてしまう、回答などとんでもない、と思っておられる方は多いことでしょう。
私などは無謀にも回答というおこがましい形態で投稿するのですが、その気があるのであれば、もう少し庶民にもわかりやすい表現をお願いしたいと、あえて要望しておきます。
英気を養いつつの片手間で結構ですが、気楽に、しかし、本質を逸らさずに且つわかりやすく、という注文を素人からあえてつけさせていただきます。
それに答えていただくだけの力を、ブラジュさんはお持ちでしょう。
そこが弱点でもある(この点に関しては機会を改めてお話しできることもあると思います)わけですが、また、(必然的に)表裏一体の長所にもなっています。
なるべく論点を絞りたいと思いますので、今回は2点について伺います。
【可能な限り平易な言葉・平易な論理】でお願いいたします。
1.
> ( d-1 ) おそらく アッキは 人間の心ないし意志によってみづからのもの(ウゴキ)とし得ると思われます。破れかぶれに成り得ますから。
( d-2 ) アクマは どうか?
( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせるというハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか?
:
この点に関してですが、つまり、悪鬼は感覚的に悪さをする、ぐれた高校生番長みたいなものだが、悪魔は用意周到に人を麻薬漬けにする暴力団の元締めみたいなものだ、という感覚での表現でしょうか。
私としては、そうした悪魔としての暴力団の若かりし頃は、悪鬼としての高校生であったはずで、なぜそれを分けようと考えるのか、そのへんがよくわかりません。
後者のほうが手に負えないことはわかりますが、(異質の)別人であるという視点で対処したところで番長は日夜生まれ続けるわけですから、ブラジュさんが何を求めているのか実際のところよくわからない、ということです。
明らかに異質の別人としての存在である、という結論になった場合の、ブラジュさんの腹案はどうなっておられますか?
全くない、ということはないと思いますのでお聞かせください。
たぶん、そのほうが早いような気がするので。
2.
> ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか?
:
それを質問しているのだ、というお答えはまさかないと思いますが、であれば、どうだとおっしゃっているのでしょうか。
これを伺ったほうが、これも早いと思います。
この回答への補足
はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
今回は 《第二の死》 この概念を加えたところがあたらしい問い求めです。
ところがこれが分かりにくいので 回答者の方々もそして どういうわけか質問者のわたくしも 難儀しております。あなたとやり取りしたときのほうが アクマとアッキの区分けやその概念の展開が 主観的には はっきりしていました。
あっ その前に
★ ブラジュさんの質問をご覧になっている方の中には、私と同様に、面白そうだが、難しそうで下手に回答などしたら恥をかいてしまう、回答などとんでもない、と思っておられる方は多いことでしょう。
☆ この《面白そうだ》と言っていただいたことで よかったと思っています。今回は やはり第二の死といったことを出したからでしょうか No.2の回答などは ぼろくそに言って来ていますし その《回答を評価する》が 10ポイントにまでなっています。
いづれにしましても この質問はかなり特殊で 《下手に回答など》はしづらいようにわたくしも思います。でも暗中模索でもよいと思っております。
問いかけの(2)は 前回とそれほど違っておりません。あるいは ちょうどあなたも回答を寄せている別の質問もありますね。
【Q:偽善という客観性】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6555870.html
そしてやはりちょうど このわたしの質問のほうで ひどっちさんが あなたの思想について次のように批評しているのと同じような内容で――とうぜんのことですが―― 答えておられる。つまり
▼ (回答No.10=ひどっちさん) ~~~
はこぶる様のご意見と致しましては、以下の傾向にあるように見受けられました。
・性善説に基づいている。
・社会的要因が主な原因
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そして今回もおおむね同じような問いかけをされています。
そうですね。ちがいは――これは ひどっちさんにもお応えしたところですが――:
1. アクマは 独り立ちしている。また 相手に対するときには 一対一である。一本釣りである。つまりその点で 次のご指摘とは微妙に違います。
★ 悪魔は用意周到に人を麻薬漬けにする暴力団の元締めみたいなものだ、という感覚での表現でしょうか。
2. それに付随して: オモテは ふつうの貌もしくは天使の顔をしている。ウラは 世の中の通説としての善悪のいろんな考え方に対処しうる能力を持ち得ながら その実は 顔無しである。のっぺらぼうである。
3. いろんな意味においてアクマは すでにさとっている。さとり切っている。
● 【Q:偽善という客観性】の趣旨説明 ~~~~
つい、うっかりというものではなく、相手を虐げているということを分かっているメタ認知があっても、悪徳を実行してしまうのはなぜでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これに合わせて捉えるなら アクマはまったくの確信犯であり そう成り切っている。と言えるし そう言える場合を質問者としては扱いたいと考えています。
4. なぜ《悪に徹する》ことができるのか? 無常観としてのさとりでしょうし 相対主義の極致なのだと思います。(極致というのは いい意味で言うそうですが いちおう使っておきます)。アッキたちの群れから一段次元の高いところにいると思われる。
5. そうしてこの事項は 模索中の模索ですが:もし悪魔は けっきょく人間存在ではなしに 人間とその経験世界を超えているとさえ見るならば それは何であるか分からないという意味で《霊》である。
6. (5)のようであれば 人間はその霊である悪魔の作用を部分的に帯びてのごとくそれをはたらかせることがある。と見られます。
☆ いまは ひどっちさんとの話し合いの結果しばらくは 休みモードであり温泉気分でもよいと思ってしまっているので ほんとうに試行錯誤で模索中ですが ひとつ考え浮かびました。
7. こういうハタラキをアクマと呼びたい:
男が女に(あるいは女が男に) おつきあいをしたのち 求愛する。結婚を申し込む。ところが 申し込まれたほうは きわめてあいまいな返事を返してくる。イエスともノーとも言わない。またはイエスともノーとも取れるような物言いで答える。
このつかず離れずが 永遠につづく。
どういうことかと言えば そのアクマのハタラキをしている女は(あるいは男は) 自分がどうなっても構わないのです。ただただ相手がまごついてどうしようもない状態になり その状態をつづけていれば満足なのです。
アクマは相手が何が何だか分からなくなって 自暴自棄になろうと 自分に向かって暴力をふるうまでになろうと あるいは精神錯乱に落ち入ろうと 自死に追いこまれようと どうなっても構わない。ただ相手が困惑しその状態をつづけていけばよい。そして自死という結果に到っても構わない。
こういうハタラキをアクマと呼ぶと言いたいです。
あるいは 完全に自信を失いその結果 そのアクマ役の人に従属し服従するようになるかも知れません。家来とする。それは アッキの誕生となります。
でもそうなったとしても アクマ役はアッキたちと組んでいるのではないのです。支配しているという実態が現われることもあるでしょうが それもけっきょくどうでもよいと思っているはずです。
アクマは したいようにする。まったくの自由を《享受》しようということのみが 生きることであり それには周りの人間たちは 家来になるようにするか 消えるようにするかなのだと考えます。
ですから 完全に《死んで》いるのだと思います。そういう意味で――そういう意味でのみですが―― さとり切っているのだと思います。
けっこうスペースが余りましたが 取り敢えずはこんなところです。どうでしょう?
* 《番長》は 悪いことをしよう・また家来たちに悪いことをさせようとしているのでしょう? それとは微妙に違って アクマは 相手が自分と同じように《死ぬ》ことを求めているのです。その点で 違うでしょう? 暴力団の元締めでさえ 微妙に違うでしょう?
No.14
- 回答日時:
おはようございます。
ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。> ともかくここは時間をかけましょう。どうでしょうか?
了解致しました。
> どうもわたしはいま休みモードに入っているようです。 思い浮かぶ主題をいくつかすでに質問に――あの一件落着のあとただちに――挙げていますが どうもからだは休みモードにあるようです。 いまごろ気づいてもいけなかったのですが ですからいまはゆっくりゆっくりの恰好ですすませていただきます。
お疲れ様でございます。愚生も確かにあの件では、疲れてしまいました。
寒さも残り少なくはなりましたが、くれぐれもご自愛くださいませ。
この回答への補足
きょうその後 つぎの聖句に出会いました。
▲ (Matthew 3:8) “・・・I tell you that out of these stones God can raise up children for Abraham.・・・”
☆ コムギから毒麦へ変わることとは別のようです。そして 毒麦からコムギへ戻ることを言うのか これも微妙に定かではありません。が 変わると言いますか 何かあたらしい人びとがあたらしい存在として湧いて出て来るかのごとくでしょうか?
地湧の菩薩?
いえ分かりません。ふと出会ったものですから。
ありがとうございます。
そうですよね。
何よりも あと味がわるい。一件落着なのにです。
質問を挙げて かたちとしてもこの場につながっている状態にあることは たぶん重要でしょうしそのほうがよいと思われますので そうし続けますが いまは温泉気分でまいります。
いづれ自由に再出発しましょう。
この質問はまづこのまま開いておいて もし別の問い求め方が考えつきましたら そのあたらしい質問に切り替えたいと思います。では よろしくどうぞ。
No.13
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiでございます。> ★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。 ☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。
仰れますように、当時の感覚からも、こちらの方が正しいかと推察されます。
> あとは 悪魔と悪霊との違いについてになると思います。
当方といたしましても、さらに考えてみたいと思っております。
> ☆ そう言えば 同じくイエスが《出て行け》と言ったあと悪霊が人から出て 豚の中に入ってその豚の群れが崖から落ちて行ってしまったとか ありましたか。
続く8章32節では、そのように描かれております。
「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。」
ただ、インフルエンザにように、感染(?)の形態をとる可能性はがあるのかもしれません(一時流行りました”豚”インフルエンザ等でございます)。 > いやぁ むつかしいですね。細かく見る必要がありましょうか? 悪魔が人をして悪鬼にならしめ その結果が悪霊がついている恰好になるということでしょうか?
愚生の方でも、「悪魔と悪霊との違い」等含めまして、福音書、パウロの書簡等を通じて、ヒントとなる箇所を徹底的に探してみたいと考えております。
> ○ 超越的存在 ☆ というときの内実ですが 《観念 あるいは 思想》というふうに捉えれば 経験的なこととしては分かりやすいのですが これはどうでしょう?
”観念的・思想的な何か”として説明しなければ、当ご質問内容をお読みの方々も納得されないかと思っております。つきましては、こちらの方向性で微力を尽くしていきたいと考えております。
> 何だか丸投げになっていますが わたくしも考えます。
何卒、よろしくお願い申し上げます。
> これまでに考えたことは やはり例の《無常観》です。その負の色彩を帯びたものと言いましょうか 《人生や世の中の はかなさ》を強調する場合の観念ないしものの考え方です。
仰られますように、価値相対主義(もしくは、さらに進んだ”虚無主義”でございます)があまりにも行き過ぎてしまった観がございます。そろそろ是正するべきときがやってきたのかもしれません。
最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
この回答への補足
覚え書きのごとくにいささかの弁明です。
どうもわたしはいま休みモードに入っているようです。
思い浮かぶ主題をいくつかすでに質問に――あの一件落着のあとただちに――挙げていますが どうもからだは休みモードにあるようです。
いまごろ気づいてもいけなかったのですが ですからいまはゆっくりゆっくりの恰好ですすませていただきます。
でもそう言うのなら ひどっちさんのほうこそ いろいろ――特に情報を集めていただいたりの下準備の作業も――たいへんだったろうと思います。ので ともかくここは時間をかけましょう。どうでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
★ ”観念的・思想的な何か”として説明しなければ、当ご質問内容をお読みの方々も納得されないかと思っております。つきましては、こちらの方向性で微力を尽くしていきたいと考えております。
★ 〔《無常観》・・・〕仰られますように、価値相対主義(もしくは、さらに進んだ”虚無主義”でございます)があまりにも行き過ぎてしまった観がございます。そろそろ是正するべきときがやってきたのかもしれません。
☆ これらの二点について 同じ方向で捉えておられて意を強くいたしました。
★ 愚生の方でも、「悪魔と悪霊との違い」等含めまして、福音書、パウロの書簡等を通じて、ヒントとなる箇所を徹底的に探してみたいと考えております。
☆ さすが 科学者でいらっしゃると思いました。こちらは けっきょくいつかヒラメキが来ないかなといったふうでした。
考えてみれば 悪魔について――あるいは天使についても―― どうもしっくり来ない感じを持ち続けていまいた。この際 その認識としても深められて行けばいいがと思います。つまり一般的に説明しうる表現ということになるかと思います。わたくしなりの観想などをとおしてさらにすすめたいと考えます。
細かいところで二点です。
★ ただ、インフルエンザにように、感染(?)の形態をとる可能性はがあるのかもしれません(一時流行りました”豚”インフルエンザ等でございます)。
☆ なるほどですね。この解釈ですね。
★ ~~~~~~~~~~
> ★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。
☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。
仰れますように、当時の感覚からも、こちらの方が正しいかと推察されます。
~~~~~~~~~~~
☆ そうして じつは心情としては 《善意のコムギから毒麦(アッキ)に変わってしまったり その逆が起こったりする》ほうが分かりやすいように思ったりします。自由意志のあり方としてです。つまりは その自由意志に対してはたらきかける・人間の自由意志を超えた意志によるめぐみのあり方としてになるとは思います。
このようにすこし考えが錯綜して来ていますので じつは むしろ抑えて――おさえつつ――考えすすんでいるところです。すみません。
こんな感じになっていますが ひとおりのアクマ学を捉えておくことができればよいがと考えます。
* ひとつ思うことですが 悪魔といえば これもけっきょく《霊》といえば霊であるかに思われます。そのように読んで来たかと思われます。いづれにしましても それでどうなのかになるとは考えます。
○ 神―→悪魔―→毒麦の種を蒔く(そうすることについて ゆるくされている)。
いまはせいぜい このあたりまでです。
No.12
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
Hidocchiでございます。> ☆ よく分かった次第です。そう言えば ヨブに対してサタンがかれを打つことを神はゆるしていました。それも その打つことは試みであると条件づけているかたちでさえあったと思います。
ご賛同いただきまして、どうもありがとうござました。確かに、以下に示しますように、神はエリファズに対して、お怒りになられています。
ヨブ記 42章7節
主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。
この正しく語らなかったというのは、以下の言葉かと思われます。つまり、神にのみ下される判断を、勝手にエリファズがしてしまったものがその理由かと推察されます。
ヨブ記 22章1から5節
テマン人エリファズは答えた。人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。あなたが正しいからといって全能者が喜び完全な道を歩むからといって神の利益になるだろうか。あなたが神を畏れ敬っているのに神があなたを責めあなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い限りもなく不正を行ったのではないか。
> そうしますと ひとつ別のなぞが出て来ます。 ☆ この恩恵を受けている人間 これは アダムとエワの神へのさからい(原罪)のあとの人間について言っているのだと思われます。 そうしてそのような良い麦たちのあいだに毒麦が蒔かれる。あるいは もしそうだとしたら ふつうの麦が毒麦に・つまり悪鬼になるとも考えられます。
実際、 当時のパレスチナの農夫は、雨の多い時にはコムギがドクムギに変わると信じていたようです。
ドクムギ:牧草に混入すると家畜が中毒を起こすことがあるというので「毒麦」といわれるが、実際にはテムレンという有毒アルカロイドを算出する菌の寄生によるもの。菌に侵されなければ“ドク”という名はついていても有毒植物ではない。
ソース:http://dorosya.web.infoseek.co.jp/097/syokubutu. …
一方、以下のような福音書の一節もございます。
ルカ 8章5から12節
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」
<中略> 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。一方、蒔かれたときには、有毒ではなかったかもしれませんが、その後菌の感染により、ドクムギ化してしまった(コムギには感染しないようです)の2通りの考え方がございますが、当初のパレスチナのひとたちが考えていたように、また上記福音書に記述しておりますように「コムギがドクムギ(アッキ)に変わる」と考える方が妥当かもしれません。
> つまり悪鬼たちがいるということは分かるのですが 悪魔は けっきょくエワたちが罪を犯す前にいたわけですから それは人間ではない何らかの存在であるということなのでしょうか?
創世記には、”悪魔”という言葉が出て来ないようなのです。そこで、その後の神学では、ルシファーの堕天使説等が生まれてきたものと考えております。
一方、福音書では、
ルカ 4章5節
更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
こうなりますと、超越的存在になろうかと推察されます。一方、”悪霊”については多く散見されます。これは、感染する類のものかと推察されます。
ルカ 4章35節
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
> ともに考えてくださるとありがたいです。
こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。
とりとめのない、内容となってしまい、心苦しいのですが、最後まで、およみいただきましたこと、厚くお礼申し上げます。
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
まづ麦と毒麦とが 種が違うのかどうかが分からなかったものですからヰキぺを見てみました。種が違うもののようです。
▲ (ヰキぺ:麦) ~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6
1.イネ科
1-1. イチゴツナギ亜科
1-1-1. Bromeae 連
1-1-1-1. スズメノチャヒキ属 - イヌムギ - 雑草
1-1-2. Poeae 連
1-1-2-1. カラスムギ属 - エンバク、カラスムギ
1-1-2-2. ドクムギ属 - ドクムギ、ホソムギ(ペレニアルライグラス)、
ネズミムギ(イタリアンライグラス)、アマドクムギ、ノゲナシドクムギ、
ボウムギ 他 - 牧草、雑草
1-1-3. Triticeae 連
1-1-3-1. エギロプス属 - タルホコムギ、クサビコムギ 他
1-1-3-2. オオムギ属 - オオムギ
1-1-3-3. コムギ属 - パンコムギ、デュラムコムギ、クラブコムギ、
スペルトコムギ、エンマコムギ 他
1-1-3-4. ライムギ属 - ライムギ
1-2. キビ亜科
1-2-1. Andropogoneae 連
1-2-1-1. ジュズダマ属 - ハトムギ
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうしますと
★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。
☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。
★ 一方、蒔かれたときには、有毒ではなかったかもしれませんが、その後菌の感染により、ドクムギ化してしまった(コムギには感染しないようです)の2通りの考え方がございますが・・・
☆ この《感染》ということ自体は 科学的なことのようにも受け取られますね。これらの説を足して二で割るというのも情けないことかも知れませんが ううーん ただし善意が悪意に変わるのは 人の自由意志によるということですから ありうると言えるとは思うのですが?・・・
あとは 一点をおそわって もう一点は課題になるかと思われます。
★ ~~~~~~~~~~~
確かに、以下に示しますように、神はエリファズに対して、お怒りになられています。
ヨブ記 42章7節 (* 省略とします)。
この正しく語らなかったというのは、以下の言葉かと思われます。つまり、神にのみ下される判断を、勝手にエリファズがしてしまったものがその理由かと推察されます。(* 省略にしたがいます)。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ たしかにこのエリファズは 神のようになってヨブをさばくように語っていますね。
あとは 悪魔と悪霊との違いについてになると思います。
★ 悪魔
1. ★ 創世記には出て来ない。
2. そこでの《へび》はどうか?
3. ★ その後の神学では、ルシファーの堕天使説等が生まれてきたものと考えております。
4. ★ 《ルカ 4章5節》――こうなりますと、超越的存在になろうかと推察されます。
★ 悪霊
5. ★ 〔聖書に〕多く散見されます。
6. たとえば ★ 《ルカ 4章35節》――これは、感染する類のものかと推察されます。
☆ そう言えば 同じくイエスが《出て行け》と言ったあと悪霊が人から出て 豚の中に入ってその豚の群れが崖から落ちて行ってしまったとか ありましたか。
いやぁ むつかしいですね。細かく見る必要がありましょうか?
悪魔が人をして悪鬼にならしめ その結果が悪霊がついている恰好になるということでしょうか?
あと
○ 超越的存在
☆ というときの内実ですが 《観念 あるいは 思想》というふうに捉えれば 経験的なこととしては分かりやすいのですが これはどうでしょう?
何だか丸投げになっていますが わたくしも考えます。
これまでに考えたことは やはり例の《無常観》です。その負の色彩を帯びたものと言いましょうか 《人生や世の中の はかなさ》を強調する場合の観念ないしものの考え方です。
【Q:麦と毒麦・・・】で考えたこととして この《はかなさ》という・しかも《さとり》が曲者なのではないかでした。この世のよきことやあるいは愛といった概念に対して もはや親の仇としてのごとく敵対するようなさとりです。負のさとりです。しかもこの観念が人の中にいだかれると ヱ゛クトルとして動き出すのではないかというものです。
よろしくどうぞお願いします。
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