プロが教えるわが家の防犯対策術!

カルマと言うのは善悪に影響し、盗みや殺人を犯すとカルマが下がり、人助けなどをするとカルマが上がると言う解釈もあるかと思います。


『Fallout: New Vegas』と言うゲームがその解釈を採用しているのですが、罪の無い人を多く殺した殺人鬼を殺すとカルマが上がります。


「悪人を殺す事は善である」と言う解釈の一つでしょうが、この解釈は正しいのでしょうか。間違っているのでしょうか。

A 回答 (5件)

殺すよりも隔離し、行動や思考パターンを研究し、犯罪を未然に防ぐ方が賢いのですが


昔は、そのように研究する余裕が社会にありませんでしたから死刑にしていただけです。

仏教で言う世俗諦というやつですね。
社会でみんなで何か話し合って最終的にこうしましょうと決めた真理ですね。

仏教的な正確なカルマは本来、勝義諦=宇宙の何処でも通用する真理です。

ですから、世俗諦と勝義諦に分けて考えなければならないのですが

死刑にする側として、「社会で決めたことだから死刑にする」よりも「天誅」の方が心理的に負担が少ないので「罪の無い人を多く殺した殺人鬼を殺すとカルマが上がります」というカルマの世間的な解釈が生まるわけです。

結論としては、日本の社会的には受け入れられるでしようが
ブッダ的には受け入れられないと思います。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

>仏教的な正確なカルマは本来、勝義諦=宇宙の何処でも通用する真理です。

これが知れたのは収穫です。

仏教にとってのカルマを知るには、仏教そのものを知らなければならないほど難しい事でしょうが、少しは知れた気がします。

有難うございました。

お礼日時:2011/02/25 06:39

殺人が良くないかどうかは、状況によります。


古代は、ファミリー単位で殺し合っていましたし、日本も戦国
時代まで、県単位で殺し合っていました。
織田信長は、何十万人の人を殺させたが、英雄であることに
疑いをはさむ者はいません。
「殺せば英雄/淘汰は進化」の反映の1つとして、生物は
自分の遺伝子の中に、細胞分裂回数を制限しており、
寿命を自ら制限=殺しているのです。

産業の分業化、流通の発達といった、社会の組織性の発達
において、その内では利害が共通するので、「殺すのは悪」
という価値観が生じます。
だから、その外である国際関係が悪化すれば、「殺すと英雄
になれる」戦争が発生するのです。
(産業も経済もグローバル化したが政治は遅れている)

ところが、その“助け合うために集まっている社会”において、
社会的行動を社会生命としての自覚(愛)によって導かず、
お金や地位といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって
他律的に強制(お金をもらうためにイヤイヤ働いた結果として
生かし合う)する事において、個人の意識は自己チュー化し、
他人と競い合ったり、奪い合ったり(殺したり)するのである。
(法律とは「守らないといけないもの(先入的なもの=善悪)」
ではなく、「守るか罰を受けるか(社会性の選択)」に過ぎません)
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

お礼日時:2011/02/25 06:32

時に悪人を殺すことは正しいかと問われれば、正しい、ということはできるでしょうが、善か、と言われると微妙になってきますね。


現代にあっては必要悪というべきものかもしれません。
悪人にも人権はあるわけで、何人たりともそれを侵すことはできない、というのが現代的な倫理観だろうと思います。ただ、犯罪を禁じるために、殺人者は時として法的に死刑にする、と規定されています。殺人を犯させないためのルールなのですが、それでも殺人を犯した場合、この法律は契約として履行されなければなりません。できれば、そんな契約は有名無実であってほしいわけですが、必要悪として容認される、ということになるんじゃないでしょうかね。
善とはいえないでしょうね。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

お礼日時:2011/02/25 06:31

誰にとっての価値基準かという事ですな。

それを考えましょう。
物事は多面的に考えなくてはいけません。また、価値を考える哲学も近代以降、
でてきています。カント、左右田喜一郎、西田幾多郎、牧口常三郎、三木清などの
著書に触れてみましょう。

>>「悪人を殺す事は善である」
但し、国がそれを受容すると、中国のような人治国家になります。
誰が「悪人」と定めるのか・・・。あとあとの影響まで考えると、善とは言えないでしょう。
あくまでも、ゲームレベルのハナシだと考えましょう。本当に善ならば、鳩山や石原は
既に殺されていなければいけません。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2011/02/25 06:29

我々は真理がわからないですよね。




デスノートではかなりの極悪人で、改心のかけらも無い者をライトは殺した という設定でしたよね。


でも、実際の世界ではどうでしょう?
ジェフリー・ダーマー。
ここではとても書けないことをした。

ロバート・K・レスラーは悪人で生きる価値が無いものとして処刑するに値いするタイプではなく、精神障害者とすべきだ とした。

クリミナル・マインドが今シーズン5で、<破壊者の群れ>というのが放送されたのですが、何の罪も犯していない人たちを、顔が判別すかないほど殴り殺すという犯行が続発し、犯人をプロファイルしたわけですが、最後は仲間を殺された警察官達に包囲されて、銃弾を浴びて犯人が死ぬ。

華々しいラストを迎えるというのが犯人たちの欲望で、そのために警察官たちは利用されたわけです。

仲間を殺された警官達は、犯人を現場で処刑したくってたまらないわけです。

映画セブンと同じです。

殺人をする人に対して「殺人はいけない」という人が、自らの意思で殺人することを選択し殺人を犯す。

とっさで冷静な判断がつかなくて殺してしまった のではなく殺すという意思を持って人を殺す。


警察は犯人を刑務所にぶち込むつもりない。仲間の敵討ちで現場で処刑する機会を狙っていた。
その機会を犯人側に与えられて、犯人たちと同じ行為の<殺人>を行ったわけです。

犯人の殺したい という欲望と、警察官たちの殺したいという欲望は同質。
何故殺したいという欲望にそって行動するものが、殺したいという欲望を持ち犯人たちを殺す警察官が非難できようか。



プロファイラーは状況からみて、警察官が犯人を処刑することがわかったので、立ち去った。
彼らの仕事は犯人が誰か突き止めることであって、倫理を諭すことは自分達の仕事じゃあないから、役割は終わったと去ったわけです。


ここに普通の人の中にあるありふれた狂気をみた。


正当化する理由があれば、人を殺しても法律上罪とされないことがある。
O.Jシンプソン事件もそうでした。

で、あくまで法律上は罪に問われなければ、罪じゃないのか、罪とはなにか?

私たちは真理を知らない。

従って部分的に罪 あるいは 罪じゃあない とするしかない。


オーム真理教では、人を救済するために人を殺したとしています。
彼らの中では多くの人が無意識に悪をやっていることになり、このままでは来世は現世よりもっとひどい生になってしまうので、これ以上悪を行えないように止めるために殺してあげた というものです。

親切の限りを尽くし殺してあげたのであって、その善の行為をやった人を、何故悪人呼ばわりするのか というわけです。
限定的な日本の法律上は殺人は悪だろうが、それより大きな世界では善になる という主張です。
従って低位の世界では悪だとされたとしても、上位では善のなるので全く悔いは無い というわけです。

もし自分達の世界より上位の世界があるというのなら、見せてみろ というわけです。
自分達の言う世界がもっとも上の世界である 、従って自分達は正しい と。


で、「これからの正義の話をしよう」では、いくつか殺人の例をあげて、それぞれに悪かどうか審議してもらった。
答えは出ていない。

答えが出ていないにも関わらず、法律上ではルールとして決められている。
その法律は限定領域でのみ効果がある。
治外法権など外国では通用しない限定的なルール。


アメリカの兵士が日本で殺人を行ったら、日本の法律により裁けません。
アメリカの法律でも裁けません。
アメリカの軍法会議によって審議されたものが適用されます。


というわけで、あくまでも限定をもうけて、その中で善のカルマレベルが上がる、悪のカルマレベルが上がる とするしかないわけで、そのゲームで通用することが、日本の法律では通用しない ということもあるわけです。

ゲームのルールもも日本の法律も限定的なものであって、真理を表してはいない。


はふ 疲れた。
散文調な一意見ですが、参考になれば。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。

お礼日時:2011/02/25 06:28

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