プロが教えるわが家の防犯対策術!

 物語の類型の種類をすべて答えられる方お願いします。物語の類型について他にもわかる方がいたら詳しくお願いします。小説や漫画を執筆する際に役立てたいです。
 とある魔術の禁書目録のあとがきにエブリディマジックとありました。魔術というテーマでありながら、それについて一切ふれないという書き方だそうです。このあとがきをみてほかにもないか気になりました。
 拙速より巧遅でお願いします。

A 回答 (9件)

字数の関係で書けなかった、『鋼の錬金術師』の違いについて。

まず話の主要なテーマが違うことを指摘しておきましょう。最初のものは、エルリック兄弟がいかにして自分たちの願望を見つめるかに焦点が置かれているでしょう。それは母親を生き返らせたいとか、自分たちの身体を取り戻したいという欲求と摂理とどう折り合いをつけるかという内面の葛藤を描く物語です。
二番目のものは、巨悪といかにして戦うかに焦点が置かれています。「お父様」なる首謀者の思惑だとか政治騒乱の中で、魔法少年が活躍する冒険劇です。身体を取り戻したいという気持ちもあるかもしれないが、こちらでは主にエルリック兄弟が気にしているのは、むしろ巨悪の陰謀を阻止することです。主人公が気にしている問題が違うのです。

私の意見だと、文学的に良く出来ているのは、最初のものです。舞台設定がある程度わからなくても、人間に普遍の葛藤の物語として楽しめます。二番目のものは錬金術だとか、政治騒乱とか、架空の舞台設定を理解しないと楽しめません。架空の舞台設定にリアリティを感じられるためには、子供の柔らかい脳味噌が適しています。ガンガンに連載されていたように、確かに、子供向けのマンガではあるのですが。

さて、エルリック兄弟はどちらのアニメにせよ錬金術を受け入れているので、今まで述べたシェーマだと、明確に区分するのは難しいですね。しかし強いて言えば、前者がロー・ファンタジーで、後者がハイ・ファンタジーだと言えるでしょう。というのも、前者は錬金術があろうとなかろうと、エルリック兄弟は母親の死に関して苦しみ続けたはずであり、錬金術は小道具の一つに過ぎないのです。しかし後者では、錬金術がなければ、そもそも「お父様」の陰謀はないし、物語それ自体が成立しないのです。錬金術は深く物語の進行に関わっており、小道具とは呼べない位置付けです。

このアニメの演出から学ぶことがあるとすれば、最初のアニメだと思います。ここでは錬金術という、原作マンガとそれに忠実な二回目のアニメでは重要だった道具を脇役に追いやって、ロー・ファンタジー化し、なお物語を魅力的なものにしました。それは、どうして可能だったのでしょうか。
本当は考えてみてもらいたいところですが、時間も限られているので、私が答えを先に書いてしまいます。それは人間の内面の葛藤を描くことが時代や舞台に関わらず、普遍的に面白いということを上手くつかんでいたからだと思います。たとえばバルザックの『ゴリオ爺さん』などを読んでみて御覧なさい。言い回しは難しいし、舞台は二百年前のフランス、よくわからないでしょう。しかし舞台設定が少々不明でも、人間の欲望に関するドラマは、リアリティを持って感じとれるのではないでしょうか。この点を理解するためには、バルザックの他に、フロベールやスタンダールといった作家らの小説を読んでみることをお勧めします。内面の葛藤を描く演出ができるためには、ライトノベルではなく、重い文学作品を読んでおく必要があります(これも一種の国語力になりますか?)。
このようにロー・ファンタジー化すると、一般的には、年齢層が上の受け手にも理解されやすいものとなると言えます。

さて、成功例がある一方でアニメ『とある魔術の』のロー・ファンタジー化が失敗したのは、バランスが悪かったからです。ここでは不遇極まりない上条が、アンニュイから気を奮い立たせるという内面を描くことに集中しています。弱い青年が奮い立つのを描くのは、それはそれで少年漫画でよくある王道です。が、原作の読者にとっては、これはありきたりだからどうでもいいと思っていたはずです。こういう話は、週刊少年ジャンプを開けばいくらでもありますから。原作の『とある魔術の』は、蘊蓄が豊富で、複雑な舞台設定の中、様々な陰謀がうごめく渦中に上条が切りこんで行き、冒険活劇が繰り広げられる緊張感が売りだったのではないでしょうか。これ以上のロー・ファンタジー化は無理という一線だったのです。さらに私個人は、上条の葛藤は、それほど高尚な葛藤でもないから、一々描いても始まらないと思います。字数の関係で説明がやや省略的ですが、『鋼の』の場合、家族愛とか、生命倫理とは何かとか、考えると深まるテーマです。上条の場合は「不幸だ」とか「才能の平等って何だろう」という程度で、突き抜けた普遍性を持つ問いではないのです。しかも上条は無能といっていても、正体不明のチート級の能力を持っている。だから彼の不幸も説得力がないし、内面の葛藤は軽薄に思えます。ロー・ファンタジーに寄せたら、作品の悪いところが露出したのです。
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なかなか頼もしいことを仰いますね。

でも、まだまだ、苦労なさるだろうなと思います。私からアドヴァイスできることは、肩の力を抜くことです。

技巧って、そもそも何のためにあると思いますか? おお、圧巻!と相手を驚かすためでしょうか。いや、ライトノベルの場合、違うでしょう。わかりやすく書いて、相手が考える負担を減らしてあげることです。質問者さんは、この投稿の設問にせよ、そういう書き方を、最初はしてらっしゃいませんでしたね。今はかなり気を私に遣っていることがわかります。
さて、ところでライトノベルの読者って誰でしょう。十代前半の子供らが楽しめて、かつ二十代でも「へぇ」って思わせるようなものでなければなりません。なかなか読者層がつかみにくいのですよ。
蘊蓄を語り過ぎたら、飽きられてしまってダメ。複雑怪奇な構成を組むと、読んでさえもらえない。結局、オーソドックスに書くしかないのです。国語の偏差値と言っても、大したものは必要ないと思います。念のためにジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』、ジョルジュ・ペレックの『人生使用法』を開いてごらんなさい。比較すると、私の言っている意味がわかると思います。こういう複雑な構成はライトノベルには要らないでしょう。

しかし皆が一様に平易な構成を狙うとワンパターン化し、ハリウッド映画的にも似たようなものができてしまう。じゃ、どこで勝負するか。まずテーマ。そしてユーモアです。テーマについては読者層が関心ありそうなことを取り上げる。オタクだとか美少女だとか、なんだとか、いろいろあるでしょう。でもこれもある程度、出尽くしている。じゃあ何かといえば、観察する視点のユーモアです。これは例で説明した方がいいでしょう。
たとえば『鋼の錬金術師』ですが、私は客観的に考えたら、あのエドワードは、いい奴じゃないなと思います。目の前にエドワードがいたら、私は友達になれないでしょう。最年少の国家錬金術師という天才で、俺が何とかしないで誰がすると考えるくらいに自信家、周囲を引っ張り回して、鉄砲玉のように飛んでいく。でもエドワードが魅力的に見えるのは、弟のアルフォンスからみた目線が優しいからです。批判もしながら愛情にあふれています。こういう愛情ある視線って、難しいんです。
似たような例で究極的だと思ったのは『天才柳澤教授の華麗な生活』です。この柳澤なる教授は、よくよく考えると、読書だけしかしない変人で、人格破綻者です。しかし柳澤教授のモデルは、作者の父親なんですね。だから描く目線が優しい。教授の破綻ぶりが、悲惨さではなく、嘲笑ではないクスリとした笑いの対象なのです。アクセラレーターも気が狂っている戦闘狂のようですが、ラスト・オーダーの視線があると、奥深いところがあるように見えます。こういう描き方って、作者の人間性にかかっています。同じテーマで、同じプロットで書いても、全然違ったものができるでしょう。

質問者さんにそれがあるか。まだまだかな、という印象を持っています。質問者さんは真面目で、素直、自分に自信がある。でも読み手が共感できるのは、落ち込んでいたり、悲しかったりという時だったりするのです。そういう場面を辛気臭すぎず、笑いも交えつつ、描けますか。これは技巧とか蘊蓄じゃなくて、そもそも表現するイメージがあるかどうかです。若くて、まだ、ご自分の感性に自信がないのを、技巧や知識でカヴァーしようと考えていませんか。これでは裏目に出てしまいます。何かやたら難しくメンドクサイ小説になってしまうだけでしょう。必要なのは人生経験だと思います。

さて、私の話ですが、住居はパリですよ。文学研究者というのは、他人の書いたものを分析するのが仕事です。どうやってなるかといえば、できるだけいい大学に行って文学部を卒業する。その後、大学院に行けばいいのです。優秀なら、どこかの大学が教員として雇用してくれます。最終的には大学教授になるわけです。大学教授をしながら、研究をまとめて本にしたり、外国語の本を訳したりします。依頼されれば、美術品や文学作品の書評を書きます。暇な時に小説を書いたり、エッセイを書いたりする人もいます。音楽を作る人もいます。大学生を教えるほか、副業でいろいろなことをするわけです。ちなみにNo2の猪突先生は、アメリカの大学の先生だそうですよ。
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私は後一週間くらいで退会することにしようと思って、整理しているのですが、もし聞きたいことがあったら、その前にまとめておいてください。

こういう予告するのも変ですが、話が続いているところでしたので。もし何もなければ、このままスルーしてください。良い作品が書けるように祈っております。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。無事に成功したら絶対文学家さんのことを自叙伝に書き留めます。恩は忘れません!!

お礼日時:2011/04/09 02:38

中々、お考えになったようですね。

おっしゃるように、鋼の錬金術師の違いみたいなものです。しかし、まだマニュアルができたと言い難いでしょう。
あまり悩ませてもならないので、私の用意していた正解の一部を書きましょうか。とても簡単なことです。主人公の設定をいじるのです。もちろん話の筋に影響がない形でです。つまり、いじるのは性格だけです。たとえば超常識人で魔術をまったく受け入れない雰囲気の上条がいるとしたら、ある程度、魔術に理解を示し、自分から率先して魔術を学んでいく上条へと変えるのです。以下で具体的に、どのような効果が期待できるか、考えてみましょう。

アニメの上条は、劣等生なので超能力に関しては諦めていて、自分で特訓するそぶりはありません。魔術に関しては、周囲から攻め込まれるのに応対しているだけであって、受身一方、自分から魔術書を読んで深く知ろうということはありません。しかし想像してみてください。上条が、たとえば最初の頃のハリー・ポッターのように魔術だとか超能力の世界に、目を輝かして取り組んだとしたら。魔術の儀式について能書きが作中で語られた際、真面目に聞き入る形になるでしょうね。こうなると作中において魔術の占める位置が、ぐんと尊敬を払われる対象に格上げになります。
ところが今では、上条が魔術に無関心であり、仮に土御門などの仲間から説明があっても「重要なことだけ言え」という形でほとんど省略されています。いやいや、これでは……暴言を承知でいうと、意味不明なことをしているインデックスを始めとする変な集団がいるが、人道主義者である上条が、あまりにいい人なので不信感を持たずに変な連中を助けている――という形にしかならないのです。ロー・ファンタジーの極みですが、こうも醒めていては、ファンは世界に入っていくのが、阿保らしくなってしまうでしょう。

私が最初の回答にヒントがあると言ったのは、なぜか。注目して欲しかったのは物語が、あくまで主人公の「主観」を通じて描かれていると述べたくだりです。主人公の性格が重要になるのは、作品の基盤となる価値観を主人公の主観的判断が握っているからです。主人公の性格をいじるとは、すなわち、作品の基盤となる価値観を変化させることなのです。簡単にまとめると、主人公が魔術に対して持つ関心が、高ければハイ・ファンタジーに近くなるし、低ければロー・ファンタジーに近くなるのです。こうやって主人公の性格が動けば、必然的に描くべき細部も変わってくるでしょう。回答としておっしゃってくださったような、省略されていたが本当は描いた方がリアリティを増すエピソードを描きこんでも不自然ではなくなるでしょう。

しかし上記のやり方はいずれ限界が来ます。仮に上条が魔術にのめり込むというまでの設定にしてしまったら、物語のフィナーレは、上条が魔術を勉強して大魔術師になるサクセスストーリーにでもならないと収まりがつかなくなるでしょう。あまりやれば、当然、話の筋書きが動いてしまうのです。というわけで、現行の主人公の性格をいじることこと以外に、物語の基盤となる価値観を調節するにあたって、どのような戦略が考えられるでしょうか。こういう手札がたくさんあれば、微調節で面白いことができるでしょうね。もしよかったら考えてみてください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。なんだかものすごくお世話になっちゃいましたね。すいません。

物語の価値観はあくまで主人公の主観的判断が握っている、その主観が変化する事は物語の価値観の変化につながる貴重な戦略を学びました。ほかにも戦略があるかもしれない、これは最初に教えていただいた未知の存在の否定不可って奴ですね。この微調整で面白い事ができる、これが鍵ですね。念頭においておきます。

やはり文学家さんという職業に方に聞くとすごく説得力がありました。これからは自分でももっともっといろいろなことを学びたいです。

そこで質問ですが、戦略を増やすには学校での国語力が必要になるでしょうか?例えばライトノベルの文学少女では、あえて最後の顛末を省いて余韻をだすという戦略がありました。こういった戦略構成力はすなわち文章構成力=国語力である。これは正しいでしょうか?もしそうだと仮定すると国語ができない人には名作はかけないという解釈ができますがいかがでしょうか?無論書くのは人間だからごく少数の例外はそんざいするかもしれません。しかし大多数は国語力は高いのでしょうか?ならば国語力をつけることが小説家になるための近道でしょうか?

さらに毎年いろいろな作品を批評する日本の文系の大学の講師や大手出版社員、著名な作家さんは高いでしょうか?例えばMF文庫では、人気作家(例.ヤマグチノボル氏)も加えて毎回作品ごとに批評してくれます。電撃文庫では三次選考落ちの鎌池和馬氏を三木氏がサルベージして電撃で大成功させました。これは三木氏に見る眼が合ったことの証明だと思います。もしサルベージされなければ鎌池氏はほかで書いて同じように成功していたと思います。完全に余談ですがあの人は軍事マニアみたいにマニアックなことに精通していると考えます。(自衛隊にでもいてそこでまなんだのか?と推測しています。どこであんな知識憶えたんだろう……?あと執筆スピードが異常。谷川流氏は麻雀中毒で冨樫病だとネット上で揶揄されているというのに……。)もちろん国語力がなくても文章構成力はある人は少なからずいるとおもいます。しかし国語力をつけることが戦略をねるうえで有利につながるような気がしてなりません。そういえばフランスの文学家さんも執筆または批評をしますか?またはできますか?←すいません。これはプライベートなことなので無理にお答えいただかなくても結構です。

主人公の主観の変化による物語の価値観の変化、省略されたストーリーの挿入することでの物語の価値観の変化、最後の顛末の削除して余韻を出す物語の価値観の変化、こういった戦略をねるうえでなにか有効な奇策はなにがあるでしょうか?自分が思うに、大学にいけるくらいの国語力を持ってそのうえでいろいろな出版社に投稿しようとおもっているのですがどうでしょうか?愛があっても技術がなければプロとして通用しない、と竜騎士07氏が仰っていたとおり決して甘くないと思いますがどうおもわれますか?

なんだかとても長くなりましたが何卒お願いします。

ちなみに文学家にはどうやってなるんでしょうか?先生の自叙伝でもいいので拝聴したいです。いまはフランスからアクセスしてるんですか?答えたくなければ結構ですのでおねがいします。文学家さんみたいになれるほうほうがあれば戦略を練る上でとても頼もしいです。

ちなみに鋼の錬金術師と鋼の錬金術師の違いは一話以外は原作にともに概ね沿っています。ここで後者は前者を何の戦略でどう変化させたと解釈すればよいでしょうか?

お礼日時:2011/04/09 02:31

向上心に敬意を表します。

私は補足の通知は来ない設定なので、見落としていました。が、あまり日数は経っていないようで、ひと安心しています。

>ちなみに作品の区分はいつ、どこで、だれが、なぜ、どうやって行っているのでしょう か?毎年定期的に、会社(大学?出版社?)で、文学の専門家(公務員?各出版社員?)さんが、将来の作家の参考にするために(?)公務(?)で、同僚や上 司と会議して(?)行ってるんでしょうか?まさか一般人が暇つぶしにやる事とは思えませんが??

類型は文学研究者や評論家が、自分で考えたことを学会や雑誌で発表し、それが他の研究者に検討され、信用に足るとみなされると流布されるのです。だから学説同士が対立していることもあり、真実は一つ!みたいなことはないのです。
私が述べたような理論はジェラール・ジュネットをはじめとする研究者の書籍にはさも当然のこととして書いてありますが、大体は作家志望の者が役立てるハウツー本の形にはなっていません。
質問者の方は、おそらく若い方で、小説を書いて、ひと山当ててやろうということですよね。そういう方が研究書を手にとっても、役に立つのか?ということになってしまうでしょう。使いこなすなら、大学院まで出たくらいでないと難しいと思います。だから強いていえば、以下の書籍でしょうか。あまりにハウツー本にしてしまったので、私は内心呆れていますが……しかし参考文献があがっているので、入門書にはいいかもしれません。

・中条省平著、『天才教師中条省平の新人賞を獲るための12講 小説家になる!』、『芥川賞・直木賞だって狙える12講 小説家になる!2』、『小説の解剖学』

ブックオフなどで百円まで値が下がっていることもあります。私は実はパラパラめくった程度なのですが、類型に関しては詳しかったと思います。中条省平は一応、学者の出の評論家ですから、説明はお手のものでしょう。しかし仏文学者は説明できて当然なわけで、別に天才を自称するほどではないと思ってしまうのでした。魚屋に魚が置いてあっても当然というだけでしょうに。ただこういう分析方法は、いまは下火になったけれど、一世を風靡したのです。もしご関心があったらどうぞ。

>基本はロー・ファンタジーである『とある魔術の禁書目録』をハイ・ファンタジーで描くには(中略)非日常 だけを描写すればよいのでしょうか?

さて私が出した練習問題の回答ですね。確かにそれでもハイ・ファンタジーになりますが、物語の内容が変わってしまいますね。ダメダメ、これではアニメの監督にもなれないし、同人誌にもならないのではないのですか(たぶん)。それに売れた本をアレンジして、次につなげようということができません。普通の発想です。前の私の投稿にヒントを出しているので、もう一回考えてみてください。

ファンタジーの類型について、まとめてらしたことは、凡そいいと思います。あとはご自分で更に例を付け加えてみてください。
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この回答へのお礼

ご回答またまたありがとうございます。鋭い指摘に感謝至極です。紹介していただいた本も今度探してみます。

(1)演出方法を帰る→物語の内容を変えてはいない、
ということでよろしいですか?物語の一部をカットすると(1)に反してしまうから不正解。演出方法をかえるとは、例えるなら、アニメ鋼の錬金術師とアニメ鋼の錬金術師フルメタルみたいな感じでしょうか。あれは、主人公兄弟が母親を生き返らせようと人体練成する、弟が生身の体を失う、二人が旅に出る、といった肝心要の内容は変わっていませんでした。

基本はロー・ファンタジーである『とある魔術の禁書目録』をハイ・ファンタジーで描くには、例えばアニメ一期では、イギリス清教がインデックスの記憶を奪う儀式の回想シーン(アニメ一期一話~六話頃のお話)をアニメ一期一話~六話に追加するというのはどうでしょうか?ステイルは最後まで記憶を奪わないですむ方法を模索しつつも結局は見つけられずに、生命維持のために記憶削除に是とせざるを得なかった、と神崎が上条に言及するシーンが原作一巻にあります。しかしそれ以降の原作にさえ、肝心の儀式の描写がありません。要するに、生命維持のためとはいえ、大切な思い出や絆をけすことに賛同できないインデックス、ステイル、神崎等の苦悩する回想シーンがないのです。(なぜか漫画とある魔術の禁書目録にはありましたが……←これが原作担当者鎌池和馬氏の要望による補足なのか、編集部や漫画担当者の改変なのかは当事者に聞かないと確認できません。)もしわかりにくければ、原作とある魔術の禁書目録と漫画とある魔術の禁書目録を読み比べると分かると思います。明らかに原作にはないシーンが漫画にはあるからです。このシーンを追加する事で非日常性の比重が上がり、相対的に上条さんの日常シーンの比重が下がると思います。指摘されていた重厚感もあがると思います。アニメ二期では原作七巻や八巻のアニメ話数を増やすといった所でしょうか。すぐに物語が展開してしまい、七巻の当初は味方のアニェーゼ部隊、敵の草式十字凄教の構図がアニメ視聴では焼きつかず、その構図が逆転したときの驚異感、同じく八巻の結標淡希が白井黒子を負かした時の圧倒感、その後の白井黒子が結標淡希に逆襲するまでの苦悩感、一方通行の圧倒感などが不足しています。なのでそれらのシーンを増やすといいのではないのでしょうか?もちろんアニメというものは商業目的の広告媒体であるので若干調整されるのはいたしかたないでしょうが。

愚考が長々と続いてしまい申し訳ありません。以上が練習問題に対する解答です。全開よりは自信が二割り増しです。(慢心と取られるかもしれませんが。)

お礼日時:2011/03/30 01:00

#3のサイコロさん。

私はアメリカのとある町で日本人ばかり集めた日本語の講演会の主催をしている。そこでの基本方針は、普段皆さんが全く知らない世界で活動している人達に話をしてもらって、全く違った文化があることを知ってもらう、とうものだ。サイコロさんの話を聞いていると、真っ先に貴方に講演してもらいたくなるような世界ですね。

今回もまた貴方から新しいことを教わってしまった。文献学や文学学なんちゅうのは金にならないもんだと思っていたが、今回の貴方の説明で、そんなことでも役に立つことも在るんだと思った。流行り物の読み物を徹底的に分析して、そこに人間の何たるかを見付けて来てしまうんだね。だから、その何たるかが同定できたら、それを上手に使えば、皆に買ってもらえる書き物が出来るかもしれない。だから、その何たるものが何であるかを知っている者の勝ちだ。

大分前に、アメリカでポップ音楽のドキュメンタリーをテレビて見たことがある。そこでのテーマは、ビートルズの前と後だった。もしかしたら私の記憶違いかもしれないが、確かニール・セダカというビートルズ以前のスーパースターだったと思う。孰れにしてもそのスーパースターがヒット曲を出す方法が、どうもサイコロさんの分析と良く似ていた。彼はその当時世界中で流行っているポップ音楽の旋律やリズムを徹底的に分析したそうだ。そしてその本質的なキー旋律、キーリズムを同定する。そして、自分でそのリズムや旋律を創りだすと言うよりも、それを上手にコピーして混ぜ込んで作曲する。そうすると、いつも大ヒットすると言っていた。なんか、この辺りがサイコロさんの分析で金儲けが出来そうだと言う気に私はなったね。

しかし、そのスーパースター曰く「ビートルズが出て来たときに私の役割は終わった」ってなことだった。最早そんな手でヒット曲が出せなくなったそうだ。もちろん、彼だって改めてビートルズの音楽を徹底的に分析すれば同じように金儲けできたんだろうけど、彼はどうやら古い世代に属していることを自覚したようで、もう分析をしたくなくなってしまったんだと思う。

孰れにしても文献学や文学学が金になることもあると知ったことは、今回の大成果だ。有り難う。
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おや、No2の回答に敬愛する猪突先生がいらっしゃる。

というわけで、あまり回答したがらない私も投稿してみることにしました。念のために言うと、私は一応、フランス文学の専門家です。もっとも、設問がふざけてると思うので言っておきますが、とある小説家が決定的なものを書いたら、新しい類型が増えるのだから、種類をすべて網羅している人などいないのです。未知の可能性を否定したら、面白いものってないですよ。

さて、ご関心ある『とある魔術の禁書目録』の話から始めましょうか。おそらく他の回答者の方は何のことかわからないと思います。質問者は十代でしょうが、この設問欄の回答者はご高齢の方がメインだから、質問するなら、これを説明しないと何のことか話がかみ合わないでしょう。で、私が代わりに少ししますが、『とある魔術の』はいわゆるライトノベルという十代向けの小説で、アニメにもなっているものです。主人公の青年・上条の日常に、魔法使いだとか、魅力的な女の子だとかが侵入してきて、冒険活劇を繰り広げる物語であると、詳細を省けばなります。

さて、エブリデイ・マジックを考えるにあたって重要なのは書き方です。『とある魔術の』は上条青年の一人称語りで、あたかも彼の学生生活を記録するように物語が進行し、概ね日記風と言ってもよいものです。読者は、あたかも彼の日記を覗いているような仕掛けになっています。
小説の世界観は、魔術や超能力が登場するという点で、非日常の話には違いないのです。しかし上条青年の常識や感想が所々に挿入されていることによって、現実離れしないものとなるように構築されています。とりわけ、他のキャラクターの誰かが魔術について蘊蓄を傾けても、劣等生で且つ頭が悪いとされる上条青年が理解できないのなら、過剰に詳細な情報がカットされるという仕掛けは注目しておいていいでしょう。小説の枠組みは上条青年の主観を描くことで進むから、彼がわからないことを省く方が自然なのです(大体、「イマジン・ブレイカ―」と命名された能力が上条青年の力であるように、基本的に彼は幻想をブレイク=破壊するのであって、常識人の典型として設定されているわけです)。情報のセーヴがかかるような仕掛けは、読者が作品の世界観に入っていきやすいための配慮といえます。

このように物語の軸には上条少年の日常生活があり、この意味で「エブリデイ・マジック」、すなわち日常的に起きた不思議なことを軸とする物語、ということになるといえます。テーマが魔術であるのに「魔術について一切触れない」ものを「エブリデイ・マジック」というのでは、エブリデイ・マジックの理解があまり正確ではないと思います。

以上の指摘をしたのは、嫌味を言うつもりではなくて、設問で問うているジャンル分けがわからなくなるからです。まず『とある魔術の』は大きくはファンタジーになるでしょう。そしてファンタジーには二通りあります。まず、語り手がファンタジーの世界観にどっぷり浸って、その主観からファンタジーの世界を描くもの(ハイ・ファンタジー)。次に、語り手がファンタジーとは別の世界の住人であって、ファンタジーの世界を客観的に描くもの(ロー・ファンタジー)。
ハイ・ファンタジーの例は『指輪物語』とか『グイン・サーガ』です。重々しいほどに魔法の世界を描いています。ロー・ファンタジーの例は最初の頃の『ハリー・ポッター』です。気の弱い気の毒な少年ハリーの元に、思いもかけない魔法の正解が入り込んでくるのです。魔術の世界に直面したハリーは上条青年と似ていますね。エブリデイ・マジックの仕掛けは、このようにロー・ファンタジーに親和性があります。類型を理解したいというのなら、まずはファンタジーの区分に沿って、自分の知っている小説を検討してみるとよろしいでしょう。

ただエブリデイ・マジックはファンタジーに限らずとも見出せます。『ドラえもん』はファンタジーではないのですが、のび太の日常にドラえもんという闖入者が入り込んで、その顛末を日々描くという物語の仕掛けです。これはエブリデイ・マジックです。ファンタジーに限らず、マンガでは多様に類型が見られるわけです。実際、週刊少年ジャンプのマンガの大半は、この仕掛けを使っていますね(『ワンピース』は珍しく違うけれど)。

さて、練習問題。基本はロー・ファンタジーである『とある魔術の禁書目録』をハイ・ファンタジーで描くにはどうしたらいいでしょうか? 演出方法を変えたらいいのですが、その最も有効な手は? ちなみにアニメは原作の重厚な雰囲気を損なったと嘆くファンがいるようですが、ロー・ファンタジーの比重を上げすぎてしまった、とも説明できるでしょうね。

ご参考までに。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。未知の物語の類型は見落としていました。ちなみに作品の区分はいつ、どこで、だれが、なぜ、どうやって行っているのでしょうか?毎年定期的に、会社(大学?出版社?)で、文学の専門家(公務員?各出版社員?)さんが、将来の作家の参考にするために(?)公務(?)で、同僚や上司と会議して(?)行ってるんでしょうか?まさか一般人が暇つぶしにやる事とは思えませんが??

基本はロー・ファンタジーである『とある魔術の禁書目録』をハイ・ファンタジーで描くには、主人公の青年・上条の日常に、魔法使いだとか、魅力的な女の子だとかが侵入してこなければいい。いってみれば主人公の方が最初から魔術(科学?魔術と科学?)の世界の住人であればよい、のでしょうか?アニメをロー・ファンタジーではなくハイ・ファンタジーの比重をあげるにはどうすればよろしいのでしょうか?事件に巻き込まれるまでの主人公の日常をカットして、非日常だけを描写すればよいのでしょうか?

物語の類型ー(1)ハイ・ファンタジー
      (2)ロー・ファンタジーーエブリディ・マジック
物語の類型(ものがたりのるいけい)とは、類似の物語をカテゴライズしたものである。例.すべての作品(?)
(1)ハイ・ファンタジーとは、異世界(現実とは別の世界)を設定し、そこで展開する物語。ヒロイック・ファンタジーの対義語。超人的な英雄が活躍するヒロイック・ファンタジーに対し、等身大の登場人物の物語。異世界ファンタジーを「異世界だけで完結している物語」と「現実世界の登場人物が異世界を訪れる物語」に分けた時の、前者。指輪型とも呼ぶ場合がある。例.指輪物語など。
(2)ロー・ファンタジーとは、現実世界を舞台にし、そこに魔法や妖精など異質な存在(ファンタジー的な要素)が介入してくる物語。異世界ファンタジーを「異世界だけで完結している物語」と「現実世界の登場人物が異世界を訪れる物語」に分けた時の、後者。ナルニア型とも呼ぶ場合がある。エブリディ・マジックとは、、物語の類型のひとつで、日常に不思議が混じる形態の話。通常はファンタジーのジャンルの1つであるロー・ファンタジーに分類される。ただしその汎用性の高さから、そもそもファンタジーの一部に含まれるかどうかについて議論のある分類である。なお、この言葉は日用品を使ったマジックという意味で使われることもある。具体的には、ごく普通の日常世界を舞台とし、異世界から現われた人物などが不思議な現象を起こすものや、普通の人間と妖精・小人・魔女・宇宙人・動物などが共存する社会を描くものなどがある。

というものでしょうか?申し訳ありません。随所随所で不明な点が多くて(?)を挿入しています。また物語の類型ー(1)ハイ・ファンタジー
      (2)ロー・ファンタジーーエブリディ・マジック
↑の図も正しいかどうか自信がないです。正しくても、間隙が何なのかとかも不明です。自分で調べてみたのですが、もしご存知でしたらお願いします。

補足日時:2011/03/21 11:59
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物語のタイプについてエブリディマジックなどはノンフィクションに対するセンテンスのジャンルで、フェリーテール、フォークテール、ノベルなどがそれにインクルードされます。



あっミステイク、物語と対のチャイニーズキャラクターをユーズしてしまった。
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この回答へのお礼

参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2011/03/22 13:29

 物語はノンフィクションに対する文章のジャンルで,童話,民話,小説などがそれに含まれます。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。参考になりました。

お礼日時:2011/03/22 13:28

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